2014年8月31日日曜日

サンパウロの親戚巡り


先週の20日から26日まで一週間、久し振りにサンパウロに住む親戚を訪ねて一巡りしてきた。

Vitoria からGuarulhos空港までは直行便で約1時間20分。そこから妻の弟の住むジャカレイ―に近いサン・ジョゼー・ドス・カンポスまではバスが出ている。今サンパウロはヴィトリアと違って寒いから厚着してくるようにと昨日電話が入ってきた。普段は着ないジャンパーなどをトランクに詰めた。しかしヴィトリアと同じ25度くらいの気温だ。どうやら寒冷前線が去った後らしい。サンパウロは今100年来の水不足でダムの水位が下がっていく様子が毎日ニュースで流されている。節水、節電が実行されているところもある。あいにくサンパウロにいた一週間も雨どころか私たちにとってはいつも曇りの記憶しかないサンパウロが珍しく毎日雲一つない空で昼も晩もヴィトリアとあまり変わらない暑さだっ
た。


義弟夫妻が車で迎えに来てくれ彼の家へと。彼らは以前サンパウロの隣の町のマンションに住んでいたが銀行融資の支払いや維持費などが高くなってきたのでそこを売って今のところを買ったそうだ。数十軒の建売住宅からなるコンドミニアムで安全だと言っていた。土地が狭いので有効に利用しようと少し後ろの空いてる所に建て増したと洗濯やバーベキューコーナーも作っていた。サン・ジョゼーの町を案内してもらったがたくさんのアパート群が立ち並んで発展の様子がうかがえる。
彼らにはBryanという10才の息子が一人、前会った時よりずっと大きくなっていてよくコンピューター・ゲームで遊んでいる。



翌日は義弟の奥さんの叔母が働いている隣のIgaratáという小さい町へ出かけた。大きな農場で主人は週末にしか来ないという。叔母家族は主人の家の掃除やその周りの花や木々の手入れをしている。農場の方はほかの使用人がいるらしい。
そこでIgaratáの町に住む親戚が加わり昼食となった。彼らは日本に出稼ぎに行って十年で今は十日の休みを取ってブラジルに帰って来ているが31日にはまた日本に行き6年間は帰ってこないという。松並木を散歩したりミカンを取ったり楽しい時間を過ごし別れを惜しんで帰路に着いた。

                    農場主の家と見渡す限りに土地、奥はユーカリの植林

次の日はサン・ジョゼーからソロカバ行のバスに乗る。バス旅行も快適で椅子が45度は傾く。サンパウロを抜けなければならないので渋滞に巻き込まれる。それでもバス専用のがあるのかバスは割とスイスイと行く。
ソロカバのバス・ターミナルには妻の叔父が待っていた。彼は元軍警大佐で定年退職の身。しかし今は長男のLoteria (公営くじ)の店を手伝っているので年中暇なし、自分の方からは行けないのでそちらから来てくれと前から言われていた。
Loteriaの店はソロカバの街から約14キロのAparecidinha という所にありこの辺一帯は近辺の工場に勤める人たちのベッドタウンだそうだ。日本のYKK ソロカバ工場も近くにある。このあたりの所得水準は低いがソロカバの街よりこちらの方の人達の方がくじを良く買うそうだ。数回当選者がなく賞金が大きくなるときに私もたまに賭けるが当たったことがない。年末の一億レアイス(約45億円)のくじは必ず運を試すがだめ。夢は小さくか。
遠くから見ると桜の木かと見間違えた白イペーの木




ソロカバにある日本移民百年祭(2008年)記念日本庭園


翌日は去年訪れたBotucatuの坂田さんのうちを訪ねた。Sorocabaからバスが出ているが直行ではなく各町停車、田舎の景色を見ながら4時間もかかった。自家用車だと二時間で以前行ったことがあるとはバスターミナルまで迎えに来てくれていた坂田さんの話。話題はやはり梨。今年最後の梨だと言って大きな梨を一つお土産に頂いた。消費者に新しい品種の大きな梨を知ってもらうために今年初めてサンパウロの市場に少し出してすごい反響があったそうだ。この梨に名前を付けなければならないと「メガ」とか「スマート」とか色々考えられたそうだがどれももう一つインパクトに欠ける。この梨を見て皆が最初に発する「すごい!」から名前は「SUGOI」にしたそうだ。私も梨を見たとき連発した言葉である。
昼食をごちそうになり帰りのバスに乗るべくバスターミナルまで送ってもらった。来年の梨の出荷後はヴィトリアに来てもらうよう話してまた鈍行バスに乗る。帰りも4時間。また来るときは他の手段がないか探しておこう
          坂田氏宅には20本ほどの桜の木がある。6月の末から咲き始め後ろの枝垂桜は二週間前に終わったそうだ。近辺の日系人たちが花見に集まるという。

翌日ソロカバを出てRaposo Tavares 街道を約1時間半で私の弟夫妻の住むVargem Grande Paulistaへ。ここは1981年にCotiaから独立した人口約4万8千人の新しい町である。昔私たちが百姓をしていた頃南米一と言われた「コチア産業組合」発祥の地でもある。私たちもコチアに入っており野菜や果物、特にニンジンを多く出荷していたものである。近くに日本食を売るスーパーがあるが元組合の名残だそうだ。弟はサンパウロで歯科医を開業していたが定年退職してこの町に移り住み最初は広い土地に住んでいたが手に負えなくなり2年前現在住む家と交換した。小さな町だがサンパウロ市に近いので最近は都市開発も進み近所には住宅マンションの売り出しが始まっていた。何年かしたらこの辺もすっかり変わることだろう。
昼食、そして晩とテーブル一杯に並べられた弟の奥さんの手による日本食豊かな食事をごちそうになった。前に来た時は家を交換したばかりで家はまだ仕上がっていなかったが今回は見違えるような立派な住まいになっていた。DIY(Do it yourself)の好きな弟は相変わらず新しい道具に興味があり自分でテーブルや椅子などを作っていた。
ここに来た時はいつも寒いので今回も覚悟はしていたが晴天で気温もヴィトリア並で助かった。




家から裏の作業室までには色々な花や木々が植わっている。 



翌日は義母のすぐ下の弟正男さんとRaposo Tavares街道31キロで待ち合わせしていたので弟がそこまで車で送ってくれた。やがて正男さんが車で迎えに来てくれ自分で作った3階建ての家まで連れて行ってくれた。彼は35年間に17軒の家を一人で建てたそうだ。最近亡くなった奥さんの助けもあったらしい。


彼の建てた17軒の中の2軒。幅14m
奥行50mの土地に2軒隣り合わせに建てられている

夜はサンパウロに住む義母の二人の妹と正男さんの二人の息子夫婦とその子供たち、それにひい孫が一人、おお人数での食事となった。妻はここで豆腐を作り食卓に添えた。
次の日は妻の二人のおばさんの家で豆腐を作ることになったので下(といっても妻とは3才違い)のおばさんの家で泊まることとなった。彼女は夫に先立たれ大きなマンションから他の所に移るべく荷の整理をしていたので私たちはベッドに彼女はソファで寝ることとなった。翌日は大豆その他を近くのスーパーで買求め美容院を営む他の叔母の家で豆腐作り。彼女は土地に2軒の家を建て道路に面した所が美容院そして後が住居となっている。ここに下の叔母の長男夫妻と男の子がやってきた。すぐ前の家に住んでいるという。奥さんのおなかが大きい、来月出産で男の子だそうだ。叔母の長男の名はAlexandre Hayafuji, ブラジルカラオケ大会で5回優勝、日本大会にも出場したことがあり優勝し当時の小泉首相からトロフィを受け取ったそうだ。兄弟三人で事業を営んでいたが解散、今はカラオケの先生で90人の生徒がいるという。彼としばらく歓談。日本の親戚にも自分のことを知ってもらいたいとも話していた。


ここはサンパウロのGuarulhos空港に近い。下の叔母が空港まで送ってくれた。
かくしてあわただしく私たちの一週間の親戚巡りは終った。

少し疲れた。

2014年8月15日金曜日

冬(?)は野菜が美味しい!


今ブラジルは冬。一昨日のクリチーバの最低気温は3度とテレビで言っていた。ここヴィトリアは16度位か。この時期は美味しい葉野菜が八百屋やスーパーなどに並ぶ。

朝、妻が角の八百屋から大きなレタスとブロッコリーを買ってきた。一緒に黄色い丸いものが二つ。「ほらこれ、去年ベレンに行った時「黄金のココナツ」といって甘い水が入っていたでしょう、それに八百屋の主人があまりにも宣伝するので買ってきたわ」早速穴をあけ水を目盛りのある容器に注いだ。600ミリリットルあった。この辺で取れたのだろうか?少しは甘いがベレンのにはかなわない。

以前バナナはよくナニカ種のバナナを買っていたが最近はバナナ・マッサン(Maçã とはリンゴを意味する)を買っている。バナナ!という香りが薄くてリンゴのような酸味があり、さわやかな味がする。面白いことに角の八百屋の果物は場所のせいか腐らずに乾燥していく。一週間に一度の仕入れで古いバナナが残ると捨ててしまうのでもったいないといって妻がもらってくるが表面は黒くなっていても内は真っ白なので彼はBanana preta de alma branca (黒くても潔白なバナナ)といって渡してくれる。それを妻がバナナ飴にしてお返しをするので「日本人って不思議な人種だな、また帰って来るんだったら何のために持っていくのだ」と首をかしげている。

2014年8月2日土曜日

うちの宗五郎


私たちがブラジルに来て始めの十何年間はサンパウロ市から東へ約60キロほどのモジ地方で野菜や果樹の栽培などをしていた。当時この地方は多くの日系人が農業に従事していてサンパウロ市に農産物を供給するCinturão verde (緑のベルト)の一翼を担っていた。この時代は日本人会があちこちで活動していて、婦人会や青年会などもいろいろな催しで活躍していた。二世の青年たちも日本語をよく話すので日本の田舎にいるような錯覚さえ覚えた。町に買い物に出ても日系人がいろいろな店をやっていたり、また働いていたりで日本語ですべて用が足りた。私たちには苦しかった時代だが懐かしい時代でもある。

この話はそのころ,トモベ時代の話である。
私たちが借地して野菜を作っていたとこらから3,4キロ先に、日本人が入ってきた。奥さんは二世の人で子供が一人。時々用事で行っていたがいつも宗五郎さんの話が出る。「これはこの前、うちの宗五郎が持ってきてくれた果物で熟れて美味しいから食べていきなさい」とミカンをだされる。そういえば時々うちの前をいい車が通り恰幅の良い人が運転している、あの人が宗五郎さんだなと見当をつける。ある日、家を訪ねた、また宗五郎さんの話がでる「そういえば3日前に宗五郎さんの車を見かけましたよ」{うん、そうなんだよ、やっぱりおじいちゃんだね、孫にこのおもちゃの車を持ってきたんだよ}と言って見るからに高そうな大きなスポーツカーのおもちゃをとなりの部屋からもってきた。

その時はっと気が付いた。なに!おじいちゃん?!、孫?!、するとあの人はこの人のお舅さん、ブラジル語で言えば SOGRO。. えっ、今まで私が宗五郎という名前だと思っていたのは舅というブラジル語のことだったのかと理解した。しかし日本語の会話の中にあまりにも日本語的な発音で流れる会話の中に入っていたのでまさかそれがブラジル語だとは夢にも思わなかった


妻と久しぶりにそのころの話をしていて思い出したのでこのポストとなった。