2014年8月2日土曜日

うちの宗五郎


私たちがブラジルに来て始めの十何年間はサンパウロ市から東へ約60キロほどのモジ地方で野菜や果樹の栽培などをしていた。当時この地方は多くの日系人が農業に従事していてサンパウロ市に農産物を供給するCinturão verde (緑のベルト)の一翼を担っていた。この時代は日本人会があちこちで活動していて、婦人会や青年会などもいろいろな催しで活躍していた。二世の青年たちも日本語をよく話すので日本の田舎にいるような錯覚さえ覚えた。町に買い物に出ても日系人がいろいろな店をやっていたり、また働いていたりで日本語ですべて用が足りた。私たちには苦しかった時代だが懐かしい時代でもある。

この話はそのころ,トモベ時代の話である。
私たちが借地して野菜を作っていたとこらから3,4キロ先に、日本人が入ってきた。奥さんは二世の人で子供が一人。時々用事で行っていたがいつも宗五郎さんの話が出る。「これはこの前、うちの宗五郎が持ってきてくれた果物で熟れて美味しいから食べていきなさい」とミカンをだされる。そういえば時々うちの前をいい車が通り恰幅の良い人が運転している、あの人が宗五郎さんだなと見当をつける。ある日、家を訪ねた、また宗五郎さんの話がでる「そういえば3日前に宗五郎さんの車を見かけましたよ」{うん、そうなんだよ、やっぱりおじいちゃんだね、孫にこのおもちゃの車を持ってきたんだよ}と言って見るからに高そうな大きなスポーツカーのおもちゃをとなりの部屋からもってきた。

その時はっと気が付いた。なに!おじいちゃん?!、孫?!、するとあの人はこの人のお舅さん、ブラジル語で言えば SOGRO。. えっ、今まで私が宗五郎という名前だと思っていたのは舅というブラジル語のことだったのかと理解した。しかし日本語の会話の中にあまりにも日本語的な発音で流れる会話の中に入っていたのでまさかそれがブラジル語だとは夢にも思わなかった


妻と久しぶりにそのころの話をしていて思い出したのでこのポストとなった。

0 件のコメント: