2014年12月28日日曜日

テレビ番組 “Globo Rural”

11月のある日、クリチーバに住む娘理奈から電話が入った。「Papai, テレビのGlobo Ruralの編集長にe-mailで私の下の文を添付しておくったらお礼のメールが来たの。そっちにも送ったわ」とのことで下記の文を受け取った。

日曜朝の農家向け番組”Globo Rural”をいつも見ているという。そしてその番組を通して私たちの過去の歴史?に眼を向けこの番組が自分にもつながっていると感じているという。移住初期の苦しかったころの話は子供たちにあまり話したことがない。しかし自分たちは農業移民の子であり農業にも親しみを持っているという。視野が広くなると言うのはいいことだ。

私たちだが今はほとんどこの番組を見ていない。しかし偶然にもレタスの番組の時は見た。
エスピリトサント州に移ってきたはじめの数年は農地にも関心がありあちこち見て回った。子供たちは後ろ座席で騒いでいた。新聞にはあまり良い所は出ていなかった。一度なんか車一台しか通れない左は丘、右は断崖絶壁の山道を数キロ走ってもまだ着かない。ここで他の車と出会ったらどっちかがバックしなければならない。いままで通ってきた数キロには車を廻せるところもない。ちょっと行くと何とか車を廻せるスペースを見つけたのでそこから引き返した。暗くなってくるし怖くなった。

それからは田舎の土地探しは止めた。数か所見たが皆向こう側に都合のいい条件だった。私たちも年を取ってきて弱くなってくるしと打ち切った。そんな時会社の重役の父親が書いた本を貸してもらった。それは彼の父の田舎暮らしの話でその中にこういう箇所があった。

「田舎に住む時に2度うれしい時がある。一度目は買った時でもう一度は売った時である」と。

これは町の者が息抜きにと買う土地のことで生産者の話ではない。
今も町の中で土地の広い家に住んでいる。年を取ってくるとこれでも持て余す。
色々なことを思いだし考えさせられる機会となった。

もう一つGlobo Ruralで思い出すのは月刊誌Globo Ruralだ。私は創刊号から買っていたが農地への興味もなくなり2年くらいで止めたと思う。しかし妙なことで創刊誌の値がどんどん上がっていった。新聞の広告で買う人がいたので24冊を創刊号も含めていまの値段なら売ると電話したらあっさり承知したのでバスターミナルで待ち合わせ渡した。創刊号の表紙はインドから輸入した背にこぶのあるZebu牛だったと思う。

この文を見たとき私も気に入り後で娘に翻訳して私のブログに載せるからと言ったら娘も喜んでいた。しかしいざとりかかろうとすると意外に難しい。

西洋の言語だとほとんどが単語の訳でそのまま置き換えていけばよい。文字の並び文法がほとんど同じだ。しかし日本語の場合は違う。100人訳して100通りの違った結果が出る。

かくしてそのままほっておいたが今年も終わりになる。文章をよく見ると今年のとかいう部分がある。仕方ないとりかかることにした。私が常に言っていることだが日本語訳の場合翻訳ではなく創作だと。娘が言いたかったことはこういうことかなという訳にすると案外スムースにいった。



 Os segredos revelados pelo “Globo Rural” 

Domingo de manhã – 7H20. Ainda cansada, mas rendida pela força do hábito, acordo mais cedo do que gostaria. Vou até a sala, caio no sofá e ligo a televisão. Como já aconteceu tantas e tantas vezes, assisto a “Pequenas Empresas, Grandes Negócios”. Faz sentido: possuo uma pequena escola de línguas e cultura asiática e, ainda que não tenha seguido nenhuma orientação específica, ele sempre me inspira a olhar a realidade como um local de muitas e novas possibilidades de inovação.

Terminado o programa, começa o “Globo Rural”. Que eu sempre assisto, hipnotizada pela música de abertura e pelas lembranças que ela me traz.

Sou daquelas que sabem o preço da saca do café arábica (o tipo 6 duro - ultrapassou os R$ 400), se houve aumento do plantio da soja este ano (cerca de 6% com relação ao ano anterior) e como está a cotação do milho no mercado internacional (teve a maior alta entre os grãos: 13%). Já com relação à pecuária ou à criação de aves, confesso não assistir com o mesmo interesse.

 Quando o assunto é a horticultura, a atenção é total!
Minha seção preferida é a de perguntas e respostas, para a qual mandam fotos ou vídeos contando os problemas enfrentados e os especialistas respondem. Acho incrível! A surpresa do programa de hoje foi o “caso do caju rachado”, que se descobriu estar com fungos que podem ser facilmente combatidos por uma boa pulverização na época da florescência. Que nome bonito – florescência!

Já a novidade do dia foi na área das saladas. A USP de São Carlos desenvolveu quatro novos tipos de alface mais crocantes - a romanela, a brunela, a crocantela e a rubinela. E até mostraram um chef apresentando receitas com as novas alfaces. Acho que vou ligar para minha mãe, para que ela fique de olho nessas novas alfaces que já estão sendo distribuídas em feiras e mercados.  Talvez ela já até conheça alguma...
Esta semana, conversando com o meu marido, descendente de alemães e italianos, chegamos ao tema “domingos pela manhã”. Ele me disse que ele e as irmãs, quando crianças, invadiam o quarto dos pais e ficavam deitados até a hora do “ritual de sair da cama”, para o qual tinham uma coreografia esdrúxula (“um, dois, três, já!”).

E lembrei que nós também tínhamos. Nos domingos de manhã, eu e meus dois irmãos também invadíamos o quarto dos meus pais que, invariavelmente, estavam assistindo ao “Globo Rural”. Como haviam trabalhado por muitos anos na roça, eles mantinham aquela poderosa alma imigrante mesmo depois de muitos anos na cidade grande.

Eu, que só conhecia a versão “engenheiro civil” do meu pai e a versão “multitarefas supersônico” da minha mãe (com a sua pequena plantação doméstica de hortaliças e morangos), estranhava vê-los tão entretidos assistindo ao programa, discutindo, por exemplo, o preço do caqui e os efeitos da estiagem naquele ano.

Até que, pouco a pouco, fui descobrindo, nessas nossas peregrinações dominicais à cama dos meus pais, que eles haviam tido toda uma vida anterior muito diferente daquela que eu conhecia. Uma vida marcada pelas alegrias e dificuldades da agricultura, da vida do pequeno produtor, das cicatrizes do tempo, das intempéries e das dificuldades enfrentadas pelos imigrantes.

Descobri, por exemplo, que meu avô por parte de mãe (que não cheguei a conhecer) tinha espírito de liderança e havia sido representante do bairro da associação agrícola de Cotia. E que, inclusive, meu pai o ouvira discursar em uma cerimônia.  E que minha mãe, além de cultivar as hortaliças, aos 16 anos já dirigia, transportando a pequena produção de um lado a outro.
  
Que, quando a família do meu pai  chegou ao Brasil, não conheciam a banana, e que, quando meu pai a provou pela primeira vez, ficou surpreso por haver fruta tão perfeita – macia, doce, cheirosa e, ainda por cima, fácil de descascar!  Descobri também que, antes de comprar sua propriedade, eles haviam sido arrendatários de terras por alguns  anos.

E acho que assim, pouco a pouco, as histórias do “Globo Rural” deixaram de ser as histórias dos outros. Passei a nelas identificar um pedaço da minha própria história, e isso fez com que o programa se tornasse obrigatório em meus domingos.

Meus alunos e amigos, seguramente, mal suspeitam de que a professora de japonês, a amiga que nunca conheceu a vida no campo, é fonte de informações sobre o preço dos grãos no mercado nacional e internacional, e uma curiosa sobre as pragas da agricultura e as variedades de sementes. Ou talvez suspeitem e, quem sabe, como filhos, netos, bisnetos de imigrantes, entabulemos longas conversas sobre a melhor forma de fazer florescerem nossas plantações imaginárias.  

Lina Saheki - 02/11/2014



   テレビ番組 “Globo Rural”  が明かす秘密


日曜の朝―7時20分。私はまだ疲れている、それでも習慣の力に負けてまだ起きたくないのに早く起きてしまう。応接間に行きソファに倒れ込みテレビをつける。もう、いままで何度も何度も繰り返したように小さい会社、大きな取引の番組を見る。これは当然です。私はアジアの言語と文化を教える小さな学校を経営しています。まだこの番組で見た指導に従ったことはありませんがこの番組は常に私に改新の多くの新しい可能性や現実を示唆してくれます。

この番組が終わると農家向けの”Globo Rural”が始まります。私はいつもオープニングテーマとそれが私にもたらす思い出にあたかも麻酔にかけられたように番組をみます。
私は今アラビカ種のコーヒーの出荷一俵の値段(硬タイプ6は400R$を超した)とか、今年は大豆の植え付けが増加した(去年よりやく6%)とかトウモロコシの国際取引価格(穀物の中でも最高の13%アップ)とかを知っているうちの一人です。畜産とか養鶏にはそれほどの興味はありません。

しかし話題が野菜栽培となると最大の注意を払って見ています。私が好きなセクションはQAで視聴者が今抱えている問題について写真や映像を送り説明し、その分野の専門家が答えます。とても素晴らしい。今日の番組の驚きはカシューナッツのひび割れでこれは開花の時期にちゃんと薬を噴霧すれば簡単に解決することが出来るということでした。開花”,なんと素晴らしい言葉なんでしょう!

今日の新しい話題はサラダについてでした。USP(サンサンパウロ大学)のサンカルロス校で新しい四種(Romanela, Brunela, Crocantela それに Rubinela の歯ざわりの良いレタスの開発に成功したという話。これらの新しいレタスがすでに露天市やマーケットに出回っているとのことだから母に電話して注意しておくよう言っておこう。いや、ひょっとしたらもう知っているかも...

今週ドイツ/イタリア系の主人と話していて日曜の朝というテーマにたどり着きました。彼は子供の頃は姉さんたちと親の部屋に侵入しベッドから出る儀式までそこに寝そべっていたそうです。その儀式とは三人で一斉におかしなジェスチャー付きの「1,2,3、それっ!」だったそうです。
そういえば私たちにもありました。日曜の朝二人の弟たちと親の部屋に侵入し“Globo Rural” を見ていました。長い間田舎で暮らしていたので両親は大都市に移った後もあの強い移民の精神を持っていたのです。

私はといえば “土木建築エンジニア”の父そして“超音速マルチワーカー”の(家庭菜園に野菜やイチゴを植えていた)母しか知りませんでしたので、楽しそうに番組を見,柿の値段やその年の干ばつなどを議論しているのを不思議に思って見ていました。
そして少しずつこの日曜日の朝の両親のベッドへの巡礼から私が今知っているのとは大きく違った以前の生活があったことを発見していきました。
時、災害そして移民が対面した困難が残した傷跡を持ち農業の喜びや困難さに刻まれた小農家の生活。

母方の祖父はリーダーシップを持っておりコチア産業組合の地方の地区代表を務めたことがあり私の父が組合のあるセレモニーで彼が話すのを聞いたことも発見しました。
私の母は16歳で父を亡くし野菜栽培のかたわら自分のところで生産したものを移動させるのに車を運転していました。

私の父の家族がブラジルに着いた時バナナを知りませんでした。そして父が初めて食べた時こんなに完璧な果物があるのかと驚いたそうです、柔らかくて、甘くて、いい匂いがして、おまけに簡単にむける
そしてまた自分たちの土地を買うまでは数年間借地農をしていたことも発見しました。
このように少しずつ“Globo Rural”の歴史は他人の歴史ではなくなりました。その中に私自身の歴史を認識するようになったのです。
ということでこの番組は私の日曜日に不可欠なものとなりました。

私の生徒や友達は日本語の先生、農業のことなど全然しらない友が国内、国際の穀物の値段の情報源であることそして農業の害虫や種の種類などに興味を持っているなんて誰も気が付きもしないでしょう。
あるいは少しは気が付くかな、移民の子供、孫、ひい孫として私たちの想像の植物に花を咲かせる最良の方法についてテーブルを囲みじっくり話し合いたいということを。


佐伯理奈 (Lina Saheki

孫娘 Isabelle 恵美 六つの小話

孫娘のイザベレ、どんどん成長し大人との会話も成り立つようになった。これは最近の彼女のエピソード集である(全部ブラジル語での会話)。

1- ベベレからイザへ変身? 
「ばあ、これからは私のことをBebelle(ベベレ)と呼ばないでIsa(イザ)と呼んで。ベベレは赤ちゃんに言う時に使うんでしょう。私、もう娘だからイザの方がいいわ。」と4歳の保育園に行ってる孫が生意気にも妻に頼んだがまだ私たちにはその願いを聞いてやれそうもない。

ブラジルでは愛称で呼ぶときに名前の語尾を縮小形(inho, inha, zinho, zinha,等)にして呼んだりする( 例 Paulinho, Mariazinha, 等)。あるいは一つのSilableを反復して呼んだりもする。父、母のPai, Mãe も Papai, Mamãe となる。

娘の病気でスペインのマドリッドでアパートを借りていた時Almudenaの友達でイサという娘さんが訪ねてきた。私はてっきりイサという名前だと思っていたが後でIsabelの略称でスペイン語の場合"s"が母音に挟まれても濁らないのだと分かった。

2- Number Two
毎週土日、恵美は我が家で過ごす。この前、家に来た時、トイレに行く途中妻に「ヌーメロドイス(ナンバーツー)をするの」と言う。初めて使う言葉だ。「それなに?」「うんちだよ」。後でこのことを嫁に話すと「あーそれは、この前夕方レストランに行って皆で食事をしていた時にベベレが大きな声で「ママイ、うんちしたい」と大きな声で言ったの、レストランにいた皆がこちらを向いて恥ずかしかったわ。それでこれからは「ナンバーツーがしたいと言いなさい」と教えたの。早速使っているのね」との話だった。
わたしの記憶に間違いがなければ英語も同じだと後で辞書で確認した。 

3- Papai Noel (サンタ)
クリスマスイブの夕方、息子夫婦が恵美を連れ戻しに来た。帰ろうと言っても一向にいうことを聞かないそれで「今夜はPapai Noelが来てプレゼントを置いていくんだよ。ほらベベレも頼んでいたろ帰らないともらえないよ」と両親がこれなら帰るだろうと奥の手を出すがまだ渋って妻の所に来て耳にそっと「わたしPapai Noel好きじゃないの」「ほらベベレが欲しかった馬の人形でほんとに走るんだよ」と妻が言ってもダメ。そこで「今日Danilo叔父さんが来るんだよ」と言ったらすぐ立ち上がって帰る用意を始めた。なにっ、サンタが好きでない!?, プレゼントがいらない!?  それで叔父さんが来るのなら帰る。
こんな子見たことない。

4-Bebelle と Almu
スペインからMarioとAlmu(Almudenaの略称)が来て家にいたとき息子夫婦がベベレを連れて入ってきた。Almuを見るやいなやベベレは彼女の首に飛びつき離れない。Almuがいかに「ベベレ、私はまだあんたの顔をよく見ていないから見せておくれ」と離そうとしてもダメ。ベベレは大きな息を3分ほど繰り返ししているうちに落ち着いてようやくAlmuが離して「ベベレ、初めまして」と声をかけた。4年前はベベレは10か月しかも滞在期間が短かったので会っていなかった。
しかしベベレはその時以来Almuが置いていった彼女が歌ったガリシア地方の民話に基づいた童謡集のDVDを毎日見て歌を聞いていたので彼女を良く知っている。今でもお気に入りのDVDだ。だからベベレにしてはAlmuはアイドル的存在、それでこのシーンの説明がついた。



5-Convento com vento 風の吹く修道院
今回観光名所のConvento da Penha (岩の上の修道院)に行こうと車を走らせていた時、Mario とAlmuに上方に見える修道院を指さし「あれがConvento だ」と説明した。その時ベベレが言った「Convento」の発音がどうも二つに分けて言ったような気がした。そうすると「風が吹くんだね(Com vento)」と言ったことになる。もう一回言っても同じだ。そうか、まだ彼女の語彙の中には修道院のConventoはないんだ。そして発音が全く同じで自分が知っていて状況にも当てはまるCom vento と解釈したのだと分かり、私たちも「そうだよ、あそこはCom ventoだよ」ということになった。



6-閉じて、開いて、閉じて
今回のAlmuの訪問、恵美はAlmuに引っ付いて離れない。後ろの座席で3人座るときは横にAlmuを指定する。AlmuとMarioがOuro Pretoにバスで行くときなんか自分も一緒に行くと言う。妻が「ばあはここに残るんだよ」と言うと「構わない、帰ってきたときにまた会えるでしょう」これには妻もぎゃふん。それでも何とか説き伏せた。
Beija-flor(花の蜜を吸う鳥)で有名なSanta Teresaに行くときやConvento da Penhaに行くときなどAlmuが恵美に歌を教えた。その一つがこれだ。


A janelinha fecha 
Quando está chovendo 
A janelinha abre 
Se o sol está aparecendo 

Fechou, abriu 
Fechou, abriu, fechou 

Abriu, fechou 
Abriu, fechou, abriu

窓はとじる
雨が降るとき
窓はひらく
陽がでてくると

閉じる、開く
閉じる、開く、閉じる

開く、閉じる
開く、閉じる、ひらく

上の窓をかさ(Guarda-chuva)に置き換えると逆になる。

かさは開く
雨が降るとき
傘はとじる
陽がでてくると

開く、閉じる
開く、閉じる、ひらく

閉じる、開く
閉じる、開く、閉じる

花(Florzinha) は閉じるから始まる

この歌の思い出にとAlmuとMarioはベベレにおみやげを置いて行った。



2014年12月25日木曜日

スペインからのお客さん

家の庭で Mario, Amudena と 妻


昔の面影を残す世界遺産Ouro Pretoの街

今日は12月25日、クリスマスの日である。昨日のクリスマスイブで皆遅くまで祝っていたのか通りには人影がない。今我が家には2011年の1月にスペインから訪ねてきた娘の友達のAlmudenaが新婚旅行で来ており一昨日からミナス州のOuro Pretoに行っている。今晩の夜行バスに乗り明日の朝Vitoriaに着き再びクリチーバに戻り27日からは娘夫婦とイグアスの滝に車で行くようになっている。

彼らはスマートフォンで写真をとりそれをWhatsappでブラジル、スペインの親戚や友達に送っている。リアルタイムで彼らの様子がわかる。ブラジルに着いてからは既に800枚ほどの写真が載っている。彼らの写真のほかにWhatsapp のグループに入っている皆も写真やコメントを彼らに送る。今日のOuro Pretoの写真にはTiradentes広場にも町にも誰も写っていない。今まであまり気にかけなかったがまさかここまでクリスマスの日に人通りが無いとは意外だった。

Almudena  と Mario
マリオは16歳までブラジルで育ちその後スペイン人の父親とスペインに帰った。パスポートはもちろん身分証明書やその他の書類も全部ブラジル正式のものだ。建築士で構造物の計算もする大学の先生だそうだ。上の写真はヴィトリアを訪問する人の必見の観光スポットのConvento da Penhaからヴィトリア湾にかかる「第三の橋」を望む。

マリオはスケッチブックを離さず持って気に行った景色があると素早く描いている。
下は Convento da Penha 岩の上に立っていて聖母マリアが祀ってある。





Ouro Preto

ミナス州のOuro Pretoは世界遺産に登録されており教会が坂道に立ち並ぶ歴史の町である。ブラジルの独立運動が芽生えたところでもありそれに加わり処刑された通称 Tiradentes はブラジルの英雄として処刑された日4月21日は国の休日となっている。



リオのGuanabara湾周遊ヨットから遥かCorcovadoのキリスト像を望む


 リオで世話になった息子夫婦にお礼に渡してくれと頼まれた






2014年12月3日水曜日

Acerola アセロラ


これは昨日の朝一番に採ったアセロラでバケツに2杯半あった。アセロラは熟れると落ちるので木の下をきれいにしておき拾い集める。ジュースにするにもミキサーにかけると中の種が壊れて甘味が出ないのでざるに入れ手でもんで果汁をとりビニール袋に小分けし冷凍保存する。
後は暑い日などそれを取り出しジャーに水を入れアセロラを冷凍庫から取出して入れると氷を入れなくてもすむ。一年中新鮮なアセロラジュースが楽しめる。