2015年3月31日火曜日

ブラジル北東部への旅


上はブラジル北東部の地図である。面積は国土の約18%だが人口は約30%。そしてここは政治的に大きな力を持つ、というは26の州と一つの連邦特別区(首都ブラジリア)からなるブラジル行政地域のうちの9の州を有する。上院議員は各行政地域に3人割り当てられているのでここが結束すると強い。
ある日何気なくこの地図を見ていて気が付いた。パライーバ州(PB)とペルナンブコ州(PE)は横に長く海岸線にある州都のジョン・ペッソーアとレシフェの間は近い。調べてみると約120キロ。更にその上の北大河州(RN)の州都ナタールとの間は約190キロ。陸路310キロの間に三つの州都があるのはここ以外にはない。8日間あったら回れるな、と見当をつけ手ごろな値段の航空券が出るのを待っていた。
ブラジルは広い、しかもエスピリトサント州は小さい州でどこに行くにもリオかサンパウロ、あるいはブラジリアで乗り換えねばならない。
ブラジリア経由の手ごろな値段の航空券が手に入った。ヴィトリア―ブラジリアーレシフェ間は約2600キロ。ブラジルの大きさを感じる時である。
ブラジリア空港内、昨年のワールドカップできれいになった

飛行機からみるレシフェは大きい。レシフェ大都市圏内では約4百万人が住む。

Praia de Boa Viagem レシフェで一番有名な海岸

レシフェとは海岸に沿う岩礁という意味で実際自然の岩礁に守られているのでそれを越さなければ問題ないのだがそれを越して‘ふか‘から襲われたと2,3年に一度はニュースで報じられる
レシフェはブラジルのベニスなどと呼ばれるほど橋が多いので有名。ゴンドラではないが川を遊覧して橋の下をくぐっていくツアーがある。カーニバルの時は‘暁の雄鶏‘と呼ばれる列が橋を通って町を練り歩く、それが2015年は250万人にも達しギネスブックにも登録されている。



 
ブラジルのカーニバルというとリオやサンパウロの豪勢な出し物ショーで踊りはサンバだがここレシフェでは街を練り歩きしかも踊りは軽装した男女が小さな色とりどりの傘を手にしてしゃがんだ姿勢で足を交互に出して踊るフレボ(Frevo)でこれはユネスコの文化遺産として登録されている。お土産用の傘を二つ買った。

 先代が瓦、れんがやタイルを焼いていた炉で今では芸術品ともいえる瀬戸物の注文を受けて焼いているFrancisco Brennand が一般に開放し焼き物の博物館のようになっている
 Franciscoの甥のRicardoは城を建てその中に絵画、ろう人形そして世界有数の鎧やかぶと、剣などのコレクションを展示している。全部私財で集めて一般にわずかな入場料で開放している金持ちがいればいるものだと感心する。

Recifeの隣は歴史的にも古い町Olinda. ガイドが色々とオリンダの街を説明して「どうしてOlindaという名前が付けられたかしっていますか?」と聞いたが誰も答えなかった。すると「ここからの景色を見て O ! Linda(オー、美しい)と叫んでこの町はOlindaという町になりました」と言った。「あまりにも簡単なのでまさかそうとは答えにくかったでしょう」
奥にレシフェの町が見える。

オリンダは坂の街、カーニバルには人が大きな人形の中に入って回しながら坂を下っていく。時の人や俳優、スポーツ選手などの人形が並ぶ。妻はサッカー選手Neimarの大ファン。

                                    Mosteiro de São Bento オリンダは祈りの町でもある


レシフェには市内から空港そしてバスターミナルまでメトロ(市内と郊外を結ぶ電車)が走っている。リオやサンパウロも空港にはつながっていない。Boa Viagemからダウンタウンに向かい途中で乗り換えてバスターミナルへ。かなりの駅の数はあったが早く着いた。大きな町はどこもこうしてほしい。Parabéns Recife ! そういえば私たちが滞在していた時にオリンダは創立479年、レシフェは477年、この次に行くジョン・ペッソーアは429年、そしてNatal は1599年のNatal(クリスマスの日)に創立されたので419年。リオが450年なのでこの北東部の町は早く開けたほうだ。
レシフェからジョン・ペッソーアまではバス。写真のような気楽な格好で乗り込んだ。



バスの窓からはサトウキビ畑が広がる。この辺が早く開けたのは当時‘白い金‘と呼ばれた砂糖の生産で栄えたからである。


パライーバ州の州都ジョン・ペッソーアの朝。明るい感じの気持ちの良い町だ。
小さな町かと思っていたが高いビルも多い。今までブラジルの北東部は貧しいというイメージがあったが実際来てみて(観て)海岸帯は豊だと思った。住んでも良いかなという感じさえする。

曲がって伸びている椰子の木の下で腰を伸ばす

海辺沿いのキオスクに椰子の実を下している。冷えたココナツ水を飲むとほっとする。



  ここはブラジル最東端Ponta do Seixas, アフリカの方がブラジルの南端より近い。

サンフランシスコ教会、天井の宗教画は少しいたんできていたが多くの木彫りの聖人像が並ぶ


ブラジルの最東端にあるということは最初に陽が昇るところでありまた陽が沈む所でもある。その夕日を見ろうというツアーが組んであり何十人という観光客を乗せた船が数隻繰り出す。そしてこの地方の伝説の山賊(?)Lampião と彼の連れMaria Bonitaの衣装でForróという土地のダンスで皆を楽しませる。そうこうしているうちに陽が落ちてき夕焼け空に名残を惜しみながらホテルに戻る。何もない所によくもこんな多くの観光客が集まるショーを考えたものだと感心した。
ブラジルで一番早い夕焼け

ジョン・ペッソーアからナタールに向かうべくタクシーを呼んでバスターミナルに行く途中運転手が私たちに「これからどこへ行かれますか?」と聞いてきた。「ナタールです」というと「今私の兄貴がナタールにお客さんを迎えに行くと出かけたばかりなんですよ。よかったら彼を呼び戻しますからバスでなくて車で行きませんか安くしておきますから」願ってもない話、早速飛びついた。彼はケータイで連絡して待ち合う場所を決めた。街道脇ののガソリンポストでほとんど同時に着いた。「私の料金は35へアイス、彼には100払って下さい」「OK」バス代だけで一人40、それに向こうに着いたらホテルまでのタクシー代がかかる。彼は直接ホテルに届けてくれるという。それにバスだと3時間はかかる。
車窓から見えるのはやはりサトウキビ畑。色々この辺の事情を教えてもらったり、そして話題は去年のワールドカップへと。「ナタールで日本の試合があったのですが日本のサポーター達にはマナーを教えてもらいましたよ。プラスチックの袋を持っていくので応援に使うのだと思っていたらなんと試合後にその袋にゴミをいれてスタジアムをきれいにして帰ったのですよ。立派ですね。」当時はメディアにも取り上げられたが今でも語り草になっている。しかし残念ながらそれを見習うということはない。

ホテルの部屋から見たNatalのまち



この写真はネットから拝借。手前の要塞はオランダ、フランスなど外敵からのの侵略から守るために作られたもの(Forte de Reis Magos)。ブラジルの北東部は特にオランダからねらわれレシフェは彼らに支配されていた時期があり、彼らとの戦いは有名(Batalha dos Guararapes 1648-9年)



州の名前(北大河州)の由来となったPotenji川にかかる橋。Potenjiとは原住民の言葉で「エビの水」という意味。このあたりはエビがよくとれるらしい。そしてここの州民
を意味する「Potiguar」とはエビを食べる人という意味。ずっと前からこの言葉は知っていたがその意味を調べたことはなかった。それで要塞見学の時、面白おかしく説明していたガイドがそう言った時思わず「本当?!」といってしまった。若い女性のガイドさん、「なに!私がうそを言っていると思うのかあ」とふざけた調子で皆を笑わせた。


そういうわけで、どうしても昼食はエビの料理を食べてみたかった。大きな皿に盛られた料理、エビも大きくて美味しい。食べきれないので包んでもらって夕飯となった。値段もヴィトリアよりはるかに安い。これだったら私たちもPotiguar になりたいなと妻とため息をつく。

世界一大きなカシューナッツの木としてブラジルのテレビでも何回か紹介されギネスブックにも登録されている。一本の木で枝が土の中に入っても腐らず伸びていき一区域の土地を占領してしまった。ここ北東部はカシューナッツの生産地で自家用とお土産に2キロほど買った。


上の写真はジョン・ペッソーアの軽食広場で夜は観光客でいっぱい、土地の名物料理タピオカの店が並ぶ。夜はざわめきの中で気が付かなかったが何か書いてある「Trate bem o Turista(観光客に親切にしよう)」。ここ北東部は最近観光に力をいれている。今回行った三つの州に隣接しているセアラーの州都Fortaleza は特に注目されている。ヨーロッパへの直行便もここからでている。ナタールの市内観光のVanでガイドが説明していたが、今までは町の収入の一番は石油関係だったが去年は観光収入がトップになったと。ここらは常夏、7月の(冬?)休みはブラジルの南の方からの観光客でにぎあう。スローガンどおり皆親切だ。

帰りはナタールの新空港から。去年ここはワールドカップで新しい空港が作られた。出発ボードを見るとポルトガルのリスボンと出ているから国際空港だ。それに比べて情けないのはわがヴィトリア空港。拡張工事に取り掛かったがすぐに中断。なんでも工事に汚職があったそうだ。それから数年ほってあるので再開するにもまた一から始めなければならない。なんという税金の無駄使いだ。帰りは飛行機でNatal-Recife-Rio-Vitoria と乗り継ぐ。

この空港で面白いのを見つけた。時間があったので上の空港内の写真の奥の方に行ってみた。小さく仕切ってある高さ2mほどの箱型の作りがある。Siesta Box と書いてあって写真の料金表が貼ってある。シエスタというとラテン系の国々で今でも習慣になっている昼(寝)休み。
中を見せてもらうと一人寝のベッドとノートブックが使える机そしてカバンなど置けるスペース、それが数室。「長時間空港で待つ場合ここで9時間まで休めますよ」と女の子が説明してくれた。「始めたばかりですから友人、知人に広めてください」と、しかし中の写真はフラッシュがきかず暗いのでここに出せなかった。隣にもう一人聞いていた人が「その一人寝のベッド、私と妻だったら二人で寝れるけどOKですか」「いいでしょう」。

2015年3月25日水曜日

リオ2016 オリンピック まで500日を切る


昨日は来年のリオ・オリンピックまであと500日とミディアで現在の工事の進捗状況が報じられていた。上の写真はオリンピック・パークと呼ばれていて様々な競技が行われる所である。

一年前までは今までのオリンピックで一番遅れていると委員会からコメントされ心配されていたが今はスケジュール通りだとのことでみんな胸をなでおろしている。
それは競技場に限ったことで地下鉄は間に合わないらしい。私個人としては2007年リオで行われたパンアメリカン競技大会の時の経験から会場までのアクセスを優先して欲しかった。
3月には売り出されることになっていた入場券はまだ売り出されていない。



2015年3月1日日曜日

リオ創立450周年

4,5、0の3つの数字で書かれたログマーク

今日はリオ・デ・ジャネイロ市の450回目の誕生日。ブラジルは歴史が浅いので全ての町で創立記念日がありそれとその町の守り神(Padroeiro)の日があり大抵の町がその日を町の休日にしている。リオの場合は1月20日がPadroeiro、サン・セバスチャンの日で休日である。リオの創立記念日はあまり祝われてなかったようだが今年は450年目とあってミディアでも大きく取り上げられている。特にリオでは去年のワールドカップの決勝戦が行われ、さらに来年のオリンピック開催地でもあり、そして世界遺産にも登録されたとあって最近は画期的な出来事が続く。 

リオの治安の悪さはよく取沙汰されるがそれは麻薬関係の犯罪が絡んでおり、危ない所に行かないように気を付けておれば大丈夫だ。これは自分の経験から割り出された結論である。長男がリオの伝染病を専門とした国立病院の医者なのでここ10年間で彼の所へ約20回ほど行ったが一般庶民の生活はどこでも同じで私たちが住んでいるヴィトリアとたいした変わりはなかった。リオ州とエスピリトサント州は隣り合わせ、気候も似ていて親しみやすい。州都リオとヴィトリアは海岸の町なのでどちらでも半袖シャツと短パンで過ごしている。サンパウロなんかは銀行にそんな姿では入りにくいがリオとヴィトリアはそれが一年中の制服(?)なので同じ感覚で過ごせる。

今年は雨が降らないのでいつ雨が降るかと天気予報は欠かさず見ているが何故かリオがブラジル全国で一番気温が高い。なんでも風があまり吹かないので実際より常に5度くらい高く感じられるのだそうだ。時々息子の所に電話を入れるがいつだったか気温は41度だが感じる温度は55度だと言っていた。

ブラジルの歴史の教科書にリオの創立者Estácio de Sá がでてくる。ブラジルは1500年ポルトガルのPedro Álvares Cabralにより発見されポルトガル領としたがその後リオにはフランスが入り込んでいた。これを追い払うべく当時のブラジルの三代目の総督Mem de Sáが甥のEstácio de Sá にその任務を課した。彼は1565年の3月1日にリオを創立、そして約2年の戦いの後、そこに10年ほど前からいたフランス人達を追い払うことに成功した。しかしその1か月後、1567年の2月20、戦いの時に頬に受けた毒矢の傷が原因でこの世を去った。47歳だった。

今日のニュースでは450メートルのケーキが作られ市長が最初の一切れ州知事が2切れ目を取って後は集まっていた市民たちに配られたそうだ。