2010年6月11日金曜日

南アフリカ ワールドカップ 


4年に一度のワールドカップが今日から南アフリカで始まった。決勝は7月11日、1ヶ月の熱き戦いである。常勝を義務づけられているブラジル代表カナリヤ軍団(黄色のユニフォームからこう名づけられている)、勝って当たり前で責任は重い。監督はかって日本でプレーしたことのあるDunga. 果たして6回目の優勝はなるか、この期間中ブラジル国民はテレビの前に釘付けになる。これに先立ちテレビや新聞ではテレビの販売合戦があった。ワールドカップ観戦をぜひ映像の鮮明な地デジでと言うのだ。ワールドカップの前月はいつもテレビの売り上げが伸びるのだが今年は80%の売り上げ増だったそうだ。私も宣伝文句に乗せられて液晶テレビを二台も買ってしまった。今日開幕戦の南アフリカ対メキシコの試合を見たが期待どうりの鮮明さで応援にもつい熱がはいってしまった。南アフリカの監督はブラジルのParreiraで多くのブラジル人はそうだったのではないか。さすが移民の国ブラジル、ハーフタイムには各地に住んでいるメキシコ人と南アフリカ人の応援の様子が映されていた。日本戦の時はサンパウロのLiberdade街からの中継となるのだろう。各チームが南アフリカに到着すると大型バスに乗り込む姿が映されていた。このバスの車体にそれぞれの国の希望のフレーズが書かれている。ブラジルのには「このバスは満杯です、ブラジル全部がこの中に詰まっています」というのだ。的を得た文だ。この期間中ブラジル全国民がコーチになる。また全国民がテレビでブラジル戦を観戦できる取り計らいがなされる。例えばブラジルの試合が午後3時だとすると多くの事務系社員は1時に勤務を終え家に帰ることができる。どうしても会社にいなければならないところでは試合の時間中は会社での観戦が許可される。もちろん機械を止めることができないところは別である。早引きした時間はのちに土曜出勤、あるいはすでに年初の勤務時間表に一日何分の時間外勤務とかに組み入れてある。15日のブラジルの北朝鮮との初戦は息子のマンションのプールサイドでのバーベキューで応援観戦となっていて持ち寄りで招待されている。
ブラジルの勝利またその先の優勝を願う。
上の写真は新聞のテレビの広告。現在為替レートは1ドル1.8レアルである。

2010年6月8日火曜日

雨が降っても天気いい(?)


今年は寒さが少し早い、六月の初めのCorpus Christi (聖体祭)の休日を利用してサンパウロから妻の一番下の弟夫婦が一人息子Bryanをつれてこちらに遊びに来たが四日間の滞在中あいにく天気は悪く雨が降り続きおまけに寒かった。南から来た寒冷前線が上空に停滞していたせいだ。最後の四日目わずかながら陽がのぞいた。まだ海を見たことがないもうじき六歳になるBryanの夢をかなえるべく近くの海へのりだした。私達大人には少し冷たいがさすが風の子(いや海の子?)Bryanは大はしゃぎで海から出ようとしない。二時間後帰路についたがまたもや曇ってきて少し寒くなってきた。
夕食時テレビの天気予報を見ていたら明日はサンパウロは天気でこちらは雨とでていた。すると義弟が言った。「僕たちは明日雨でも天気いい」とニヤニヤしている。私がキョトンとしていると妻もニヤリ。はっと私も気がついてあいづち。「そうだね」
天気いいをブラジル語のTem que ir (行かなければならない)と語呂あわせをしたのに気づいたからだ。 

2010年4月23日金曜日

ブラジリア遷都50年

1960年4月21日にそれまでのリオ・デ・ジャネイロから首都がブラジリアに移されてから50年になるのを記念してブラジリアでは歌手たちのShowを始め色々な催し物で一昨日は百万人の人出で賑わった。私達がブラジルに来たのが1960年11月18日。来る前にニュースでそのことを知った時とてつもない事をやらかす国だなあと驚いたことを思い出す。ブラジルの長年の夢であった内陸部の発展を目指してJuscelino Kubitschek 大統領時代に4年で出来上がった。この都市計画および建造物の設計にはLucio Costa、Oscar Niemeyer が活躍、世界にその名をはせた。Brasilia は飛行機の翼の形をして機能ごとに分けられている。1980年代まだ製鉄会社が国営企業だった頃何度かBrasilia の鉄鋼公社での会議に行ったことがあるが整然とした道の広い街だなという印象が残っている。1960年に14万人の人口が今では260万人。計画されていた以上に人口が増え数々の問題も抱えているがブラジルで一番所得の高い所となっている。最近では知事の汚職でブラジル中の非難を浴びたのも記憶に新しい。ブラジルは26州とBrasilia連邦区からなる。ブラジルの心臓としてここから飛躍するブラジルの力強い希望を全土に送ってほしい。

2010年2月23日火曜日

Primeiro e-mail da neta Isabelle - 孫娘イザベレの初メール


Queridos Tios e Tias,
Sou Isabelle que veio ao mundo às 20:58 do dia 22/2/2010, no Japão
seria 22/2/22 (do ano Heisei). Tenho 3020g de peso e 46cm de altura.
Eu prometo que obedecerei aos meus pais e vovós e permito que me
espiarem no anexo.
Até a primeira vista,
Isabelle

次男の正人のところに長女イザベレが生まれ私達も病院に付き添いで行ったので生まれてすぐの写真を何枚かとった。家にかえり早速イザベレのおじさん、おばさんに彼女の名前でメールを送っておいた。

敬愛するおじさま、おばさま、
私は2010年2月22日20時58分にこの世に生を受けたイザベレです。日本式にいえば平成22年2月22日となります。体重は3020グラム身長は46センチです。
両親と祖父母の言うことを良く聞くことを約束し、そして添付の私の写真を覗き見することを許可します。
初めてお目にかかる日まで。
イザベレ

P.S.: As demais fotos estão no site www.saheki.com
その他の写真はwww.saheki.com に載っています。 

2010年2月21日日曜日

地球の悲鳴

昨日で夏時間が終わったので今朝は家中の時計、腕時計から壁掛け時計、DVD レコーダーに至るまで10個ほどの時計や機器の時間を一時間遅らせた。去年の10月18日から始まったこの夏時間の期間中ブラジルいやこの地球は異常天候にみまわれた。北半球は大雪が降りその後ヨーロッパでは豪雨、南半球では何十年に一度という豪雨。サンパウロでは46日連続して雨が降りチエテ川の増水で多くの家屋が浸水で被害を蒙った。
ブラジルの場合は天災半分人災半分というところか。急な斜面や川の側の低い所に市役所の許可なく家を建てたりしている。また街の中ではごみが収集されてなくそれらが下水の口をふさいでしまう。毎日のようにテレビから流れてくるブラジル南部、南東部の洪水の被害のニュースを見ながらエスピリト・サント州に住む私達は猛暑と日照りにみまわれた。天候の異変、これからはどうなるのだろうか。予想もしないことが起こるような気がする。つづく・・・(環境汚染、地球温暖化、、、)

2010年1月31日日曜日

ハイチの大地震

今月12日、中米カリブ海の島国ハイチでマグニチュード7の大地震があった。死者は20万人以上と報じられている。ハイチは島国といっても同じイスパニョーラ島をドミニカと分け合っている。面積は約四国位とか。被災者は100万人を越えるともいわれている。各国から救援隊が派遣されガレキの下から一人助かる毎に大々的に報道されている。今国連主導で救済治安維持部隊派遣の増員が決定されたようで日本からもPKO部隊の参加があるらしい。
ラテンアメリカ最初の独立国であり最貧国でもあるハイチは近年内乱が続きその治安維持に国連が平和維持部隊を派遣し地震当時ブラジルは最多の1600人以上が駐屯していて20人以上の兵士が犠牲になった。今アメリカも部隊を派遣し国連部隊の主導権をどちらが取るか話題になっている。この地震でブラジルの民間人の犠牲者もでた。Pastoral da Criança 創設者のZilda Arns 女史。小児科医で公共衛生の専門家でもある彼女は教会からの依頼でPastoral da Criança を創設その後献身的な努力でブラジルの乳幼児の死亡の減少に尽くしハイチではその活動を貧しい国々に広げるため教会で講演を終えた直後のことだったという。最近ではその活動を老人救護にも手を広げブラジルで最も尊敬されている人の一人でもあった。本来は政府のやるべき仕事を博愛精神(今はやりの民主党の鳩山総理の方は友愛ですが)でやり遂げたことは人々の感動・感嘆を呼んだ。彼女がテレビに出て話すのを聞いているだけで穏やかな気分になれるのは不思議だった。
ブラジルには地震がない。北伯の小さな町で時々壁にひびが入るほどの地震があったとニュースになるが地震と呼べるのかどうか。ブラジル人と政治の腐敗とか国の発展とかの話になると自嘲的なジョークで終わることがよくある。「神様がこの世をお造りになり、まず色々な土地に分けられた。その後そこにどんな人達をおくかをお決めになっていた。さあいよいよブラジルの番になって神様は頭をひねられた。ここには天然資源を豊富にくばり地震、台風もない、まあ人間はこの位でいいか」しかし今ブラジル人に自信が起きてきた。永遠の明日の大国から永遠の字が消えつつある。
ちなみに私はハイチと南太平洋の島国タヒチとをよく取り違える。偶然両国ともフランスに関係のある国である。今回の地震の時もまたインドネシアの近くかと勘違いしていた。地震が起きたときハイチの大臣級の人だったと思うがこんなコメントをしていた。「これでハイチが全世界に知られるようになった」その後この大臣どうなったかは知らない。

2009年12月31日木曜日

2009年の大晦日

今年もあと二時間程で終わろうとしている。もう気の早いのがあちこちで花火をあげている。日本はこちらより12時間早いので午前中にNHKの紅白歌合戦を観た。そのあと初詣の様子を「ゆく年,くる年」でやっていたがなんだか厳かな雰囲気が伝わってくる。こちらでは特に海辺の町では花火大会が催されそのあと野外ショーと大勢の人で賑わう。リオでは二百万人の人出と予想されている。元気であればリオに行くつもりだったがまたもやひどい椎間板ヘルニアに悩まされて動きがとれなくなった。今年は椎間板ヘルニアに始まり椎間板ヘルニアで終わった年だった。11月の初めリオから帰ってきた直後今度は左足に鋭い痛みが走りそれが今も続いている。去年まではマンゴーの木に登って実を採っていたのだが今年は落ちるがままにまかせているのであまりいい実がとれずにみな潰れてしまっている。
ことしは「トモベ」も随分と休んでしまった。体力が衰えると気力も衰えてしまう。早く良くなってまた一週間に一本の調子を取り戻したいと願っている。