2015年4月30日木曜日

ミナス州を訪ねて

上の地図はブラジルの心臓部とも言える南東地方の4州が色で示されている。赤がミナス州、青がリオ州、灰色がサンパウロ州そして緑が私達が住んでいるエスピリトサント州。
この地方の人口は約8500万人でブラジル総人口の約42%、面積は約92万平方キロで国土の約11%を占める。

何も地理の勉強をしようとしているわけではない。下の地図は今回まわってきたミナス州の州都Belo Horizonte、そして南へ直線距離で約70キロの世界遺産に登録されている歴史地区の町 Ouro Preto や Mariana、Congonhasなどの位置付けをしてみただけだ。 


ミナス州の面積は約59万平方キロで日本の約1.6倍、ブラジルで4番目に大きな州だ。この南東地方、人口ではサンパウロ州がブラジル1位、ミナス州が2位、リオが3位でエスピリトサント州は14位となっている。

私は子供の頃から地図を見るのが好きで勝手に想像をふくらませていた。50年以上も前ブラジルに移住することになった時もよく南米やブラジルの地図を見ながら将来の夢を描いていた。しかし現実はそんなに生易しいものではなく絶望を何度味わったことか。

結婚して会社勤め、生活が安定してきた頃は定年退職後はブラジルをリュックを背に1年かけて回ってみようとまた夢を描いてみた。しかしこれも色々な事情でたやすいことではないとわかった。今は健康、気力、体力と相談し、しかも家を開けれるのが最大一週間ということで「州都巡りプロジェクト」なるものを立ち上げた。州都とその近くの有名な観光地を一つ、一週間で回ろうというもの。
別に順序はない。インターネットで手ごろな値段の航空券が目につくと買求める。計画はそれから始める。南の方に行ったかと思うと次は北へと行き当たりばったりの旅。ブラジル26州1連邦特区の内15州まわった。しかし一番近い隣の州ミナスには私は仕事で何度か行ったことはあるが妻はまだ行ったことがない。知り合いの親戚が州境の町に住んでいてそこに遊びに行った時「この川の向こう岸がミナス州です」と言われて対岸の家々は見たことがあった。

エスピリトサント州の州都ヴィトリアからミナス州の州都ベロ・オリゾンテに行くには道路、鉄路、空路と三つの方法がある。
上の地図でVitoria-Belo Horizonte 間の道路(赤い線)は国道262号線で522キロ、バスで約8時間半。鉄道はVale 社が鉄鉱石の輸出に使うミナスからヴィトリア間664キロに一日一便それぞれヴィトリアとベロオリゾンテから客車を走らせている。
www.vale.com/tremdepassageirosefvm)

ヴィトリアからは朝7時発、ベロからは朝7時半発、どちらからも約13時間かかる。2州都間の直線距離は383キロ、飛行機で約50分。鉄道は各駅停車で駅の数もかなりある。直線距離と道路、鉄道の距離が大分違うのはヴィトリアは海辺で海抜ゼロメートル、そしてベロは海抜約860m。その間には海岸山脈が連なり国道の一番高い所は1000メートルを超し、道路は曲がりくねって上がっていく。ブラジルの北から南までを海岸沿いに走る海岸山脈はミナスとエスピリトサントの州境で一番高くなりブラジルの山としては一般登山のアクセスが可能なPico da Bandeira (2892m) がある。この山は今はブラジルで3番目に高い山となっているが1960年頃までは1番高い山とされていた。その後ベネズエラとの国境地帯にPico da Neblina (2994m) とPico 31 de Março (2973m)が発見され3番目となった。広大なブラジルだが3000mを超す山はない。
Pico da Bandeira には1986年(?)頃家族で登ったことがある。

ベロオリゾンテ行の手ごろな航空券が出た時に上の3っつのオプションを調べた。どれも一人片道料金約R$90.00(約30ドル、今1ドル3ヘアイス)。 近所でミナスに親戚がある知り合いは汽車の旅を勧める。しかし13時間がどうも引っかかる。時に制限がある私たちには"時ハ金ナリ"
であるし、長旅は疲れて翌日のスケジュールにも影響する。ということで空の旅となった。

出発は約1時間遅れた。なんでもベロ空港に霧がかかって視界が悪いそうだ。その説明は飛び立った後の機内放送であった。しかしそのあと「この遅れはできるだけ速く飛ばして取り戻します」と。オイオイ、そういうことが出来るのかい、車じゃあるまいし安全運航お願いしますよと返したかった。高地の空港、特にサンパウロの空港は冬の6-8月にかけてよく霧が出て遅れが生じニュースになる。海辺のヴィトリア空港ではそういうことはまずない。

約50分で到着、市内のバスターミナル行のバスが出ているのでそれに乗りそこからOuro Preto行の切符を買おうと列に入ったら後ろから肩をポン「私はOuro Preto から用事があってここに来て今帰るところです。バス代でよろしいですから私の車で行きませんか、ホテルまでお届けしますよ」。ブラジルではあまりこういうのを信用してはいけない。普通はタクシーでも空港のタクシーそれにホテル指定のタクシーを使う。ちょっと会話を交わし彼の車で行くことにした。この辺は車が置けないので荷物を持ってちょっと歩く途中で若い娘さんが二人一緒についてくる。彼女たちはOuro Preto の大学生で休みで家に帰っていて今戻るところだという。車で行く途中私たちがエスピリトサントからだというと「そうですか、Nossa Praia (私たちの海辺)の人でしたか、私も母がMarataizes に住んでいたので学生の頃よく行って手助けしましたよ」このNossa Praia という言葉はミナスにいる間中よく聞いた。

ミナス州は海に接していない。それで子供の夏休み、冬休みなどにはエスピリトサント州の海に繰り出す。「リオ州、バイア州というオプションはあるがなにしろCapixaba[カピシャーバ(エスピリトサント州人)]が親しく接してくれるのでまた行きたくなるのだよ」とお世辞でも嬉しくなる。というわけでほとんどのMineiro(ミネイロ=ミナス州人)達はエスピリトサント州を知っているので話が弾む。またエスピリトサント州にはミネイロ達が沢山いる。
車で行く道中、自分の身の上話や周りの景色の説明やら休む暇なく会話が進む、時には身振り手振りが入るのでハラハラする。おまけに若い娘さん達が後ろに乗っている、スピードを落として安全運転と注意する。

Ouro Pretoのバスターミナル近くで娘さんたちは挨拶をして降りていった。それから私たちのPousada (民宿)探し。インターネットで予約してあり略図をプリントして持っていたのだがなかなかわからない。Ouro Pretoは歴史の町ですごい坂の町。そして教会が多い。世界遺産にブラジルで最初に登録された所で歴史地区は景観を保つように改築はできないし電線も地下を通っている。
そういうわけでホテルは少なく多くは古い家の内装を替え民宿に変えている。
道が狭いのと保全のため車の町への出入りは乗用車とヴァンまで。ようやく民宿に着いたが天気がおかしい、狭い急な石畳の通りをのばって上の通りに着く。民宿を選ぶ時、有名な博物館や広場,教会に近い所にしたつもりだったが地図には坂は書いてなかった。まあ、Ouro Pretoはどこも坂だから明日からは車だなと思った。

Ouro Preto の歴史地区

             独立運動の英雄Tiradentesの名を冠した広場 
Ouro Pretoの大学に学ぶ学生たちの寮

Mina de Ouro かっての金鉱のあと
https://youtu.be/b876tsiiCwE

これは別の金鉱で金は鉄鉱石と石英の脈に沿って掘られていったそうだ。
        白い筋は石英         https://youtu.be/_XE3S0RZkA8
Ouro Pretoとは黒い金という意味。ここでは金は黒い鉄鉱石の中にある


昔アフリカからの奴隷によって掘り抜かれた金鉱

Ouro Pretoの険しい坂道、歩いて登れない


ここ近辺だけに産出する Topazio Imperial 指輪などになる


Ouro Pretoから約63キロのCongonhas にあるAleijadinho 作の12Profetasの石像
                                           https://youtu.be/9LLB1IF7UrY                                            

教会の庭の礼拝堂にはキリストの最後の日の物語の66の像がある

Ouro Pretoの隣町Marianaはミナスで最初に市に昇格
し州都になった。

Marianaという町の名前は時のポルトガルの王妃Maria Ana de Austria
の最初の二つの名前を一つにして付けられた。


Marianaにある金鉱(Mina da Passagem)でここは奴隷制度の後、機械を使って掘られた。
ここまではトロッコで降りてくる。
ここから掘り出された金は約35トンで1960年に閉鎖され今は観光用となっている。
https://youtu.be/ksPsnBRVICQ


一番奥はきれいな池となっていて潜水士のトレーニングに使われているという。


ベロオリゾンテの空港からバスでOuro Pretoにまっすぐ行ったのにはわけがあった。日曜日にはベロでヒッピー市(昔からこう呼ばれている)がありエスピリトサントからは貸切バスで買い物ツアーが出たりする。せっかくのチャンスだから見てみたいのでベロが後になった。ミナスの州都は最初はMariana, その後当時金を産出していたVila Rica (豊かな町という意味で)、今のOuro Pretoに変わった。しかしOuro Pretoは周囲が山に囲まれた坂の町で伸びる余地がない。そこで新しい州都建設計画が立てられ1897年にBelo Horizonteが生まれた。20万人が住めるように計画されたものが今ではベロオリゾンテの人口は260万人。大ベロオリゾンテ都市圏内の人口は500万人を超すとか。サンパウロ、リオに次ぐブラジル3番目の大都市となった。

高台から州都ベロオリゾンテを望む

Oscar Niemeyer 設計のPampulhaにある教会

Pampulha 人工湖

Pampulha 湖に映るMineirãoサッカー場と室内競技場Mineirinho

Praça da Liberdade 公園とバックに州知事官邸

Oscar Niemeyer設計のビル、彼独特の曲線ですぐわかった


公園わきにある州立図書館で本のサイン会があり動物愛護協会に売上は寄付するとのことで母親を応援していた娘さんに声をかけられ共感してサイン入りの本を買った
噂のヒッピー市で革鞄を買う

ヒッピー市の前にある市立公園の池で妻は生まれて初めてのオールを握る

          Gruta Rei do Mato ベロオリゾンテから北へ約62キロの所 
                        Sete Lagoasにある最近観光客に解放された鍾乳洞
https://youtu.be/HhZdmwTOY9U



Gruta do Maquiné ベロオリゾンテから北へ約120キロのマキネー鍾乳洞昔から名前は聞いていた。大きな広間が7つあり最近テレビドラマのロケがあったそうだ。
この鍾乳洞はCordisburgoという町にあり、ラテン語とドイツ語との合成語だ。Cordisは心、Burgoは町。そして文豪Guimarães Rosaが生まれ育った所で生家は小さな博物館になっている。

彼の作品 "Grande Sertão: Veredas"にちなんだ像が並ぶ

牛の頭に似ている
https://youtu.be/okPOxS8O_5E



Gruta 巡りのツアー仲間 20人ほどいた。クリチーバ市(パラナ州)、ポルトアレグレ市(南大河州)サンパウロ市から

帰りの日、飛行機は午後6時、時間は早いけどホテルをチェックアウトしタクシーを呼んでもらった。感じの良い青年が運転している。彼と値段交渉してベロオリゾンテの隣町Sabaráまで行って観光スポットを回って帰りは空港に直接届けてもらうことにした。
Sabaráの町も小さなMuseu de Ouro(金博物館)などがあり当時のミナスの黄金時代の名残を感じさせる。荒廃した教会の入口にはまだ修復していないので当時の様子がわかりますと書いてあった。うまい言い訳だ。

古い町並み。

Igreja Nossa Senhora do Ó,
小さいがミナスで最も歴史のある教会の一つで中は落ち着いた雰囲気だ




この町に古い劇場がありなんでも「Estrada Real (王の道=昔の公道でミナスだと金やダイヤをポルトガルの王様に収めるために整備された道か?)」の7つの素晴らしいものの一つに選ばれたとかでトロフィーが置いてあった。今は興業されてないが毎週土曜日には無料で子供用の催し物などに使われているとか。ひょっと壁に貼ってある番組表を見るとなんと私が働いていた会社の主催だ。こんなところで自分の会社の名前を見るなんてうれしくなった。


Minaとは鉱山という意味でミナスとはその複数。Gerais とは一般、全てという意味で確かにミナス州は鉱物資源に恵まれている。鉄鉱石, マンガンを始め様々な鉱石や装飾にも使われる多彩な鉱石、そしてかっては本物の黄金時代が花開いた。「王の道」はミナスではDiamantinaという町までつながる。ここではダイアモンドがでた。しかし植民地であった当時これらの富は本国のポルトガルの王に届けられた。今回の旅でブラジルの植民地時代の歴史の勉強になった。訪れたそれぞれの町で多くの話を聞いた。奴隷についての話には悲しくもなった。それで思い出したことがある。前、家の前に住んでいて妻と親しくしていた黒人の奥さんがある日こう言った。「いまのブラジルがあるのはみんな私たち黒人が働いたお蔭なんだよ」と。

今までは全て地上の観光だったが今回は地中の観光が入った。金鉱跡や鍾乳洞ブラジルは広い、旅をする度に、新しい知識を得、新しい発見や感動を味わう。これから先どんな出会いがあるのだろう。ミナス州を讃える歌として公式な州歌ではないが皆が知っている歌があり次のように始まる。メロディーはイタリアの歌  "Viene Sul Mar" の調子で
http://letras.mus.br/hinos-de-estados/126612

Hino de Minas Gerais

Oh! Minas Gerais
Oh! Minas Gerais
Quem te conhece
Não esquece jamais
Oh! Minas Gerais
オー!ミナス ジェライス
オー!ミナス ジェライス
おまえ知れば
忘れない
オー!ミナス ジェライス


(日本語で歌える歌詞にしたので短くなった)


最後に一つおちを、Viene sul Mar というのはイタリア語で「海においで」という意味で海のないミナス州がそれを使ったというのが面白い。


2015年3月31日火曜日

ブラジル北東部への旅


上はブラジル北東部の地図である。面積は国土の約18%だが人口は約30%。そしてここは政治的に大きな力を持つ、というは26の州と一つの連邦特別区(首都ブラジリア)からなるブラジル行政地域のうちの9の州を有する。上院議員は各行政地域に3人割り当てられているのでここが結束すると強い。
ある日何気なくこの地図を見ていて気が付いた。パライーバ州(PB)とペルナンブコ州(PE)は横に長く海岸線にある州都のジョン・ペッソーアとレシフェの間は近い。調べてみると約120キロ。更にその上の北大河州(RN)の州都ナタールとの間は約190キロ。陸路310キロの間に三つの州都があるのはここ以外にはない。8日間あったら回れるな、と見当をつけ手ごろな値段の航空券が出るのを待っていた。
ブラジルは広い、しかもエスピリトサント州は小さい州でどこに行くにもリオかサンパウロ、あるいはブラジリアで乗り換えねばならない。
ブラジリア経由の手ごろな値段の航空券が手に入った。ヴィトリア―ブラジリアーレシフェ間は約2600キロ。ブラジルの大きさを感じる時である。
ブラジリア空港内、昨年のワールドカップできれいになった

飛行機からみるレシフェは大きい。レシフェ大都市圏内では約4百万人が住む。

Praia de Boa Viagem レシフェで一番有名な海岸

レシフェとは海岸に沿う岩礁という意味で実際自然の岩礁に守られているのでそれを越さなければ問題ないのだがそれを越して‘ふか‘から襲われたと2,3年に一度はニュースで報じられる
レシフェはブラジルのベニスなどと呼ばれるほど橋が多いので有名。ゴンドラではないが川を遊覧して橋の下をくぐっていくツアーがある。カーニバルの時は‘暁の雄鶏‘と呼ばれる列が橋を通って町を練り歩く、それが2015年は250万人にも達しギネスブックにも登録されている。



 
ブラジルのカーニバルというとリオやサンパウロの豪勢な出し物ショーで踊りはサンバだがここレシフェでは街を練り歩きしかも踊りは軽装した男女が小さな色とりどりの傘を手にしてしゃがんだ姿勢で足を交互に出して踊るフレボ(Frevo)でこれはユネスコの文化遺産として登録されている。お土産用の傘を二つ買った。

 先代が瓦、れんがやタイルを焼いていた炉で今では芸術品ともいえる瀬戸物の注文を受けて焼いているFrancisco Brennand が一般に開放し焼き物の博物館のようになっている
 Franciscoの甥のRicardoは城を建てその中に絵画、ろう人形そして世界有数の鎧やかぶと、剣などのコレクションを展示している。全部私財で集めて一般にわずかな入場料で開放している金持ちがいればいるものだと感心する。

Recifeの隣は歴史的にも古い町Olinda. ガイドが色々とオリンダの街を説明して「どうしてOlindaという名前が付けられたかしっていますか?」と聞いたが誰も答えなかった。すると「ここからの景色を見て O ! Linda(オー、美しい)と叫んでこの町はOlindaという町になりました」と言った。「あまりにも簡単なのでまさかそうとは答えにくかったでしょう」
奥にレシフェの町が見える。

オリンダは坂の街、カーニバルには人が大きな人形の中に入って回しながら坂を下っていく。時の人や俳優、スポーツ選手などの人形が並ぶ。妻はサッカー選手Neimarの大ファン。

                                    Mosteiro de São Bento オリンダは祈りの町でもある


レシフェには市内から空港そしてバスターミナルまでメトロ(市内と郊外を結ぶ電車)が走っている。リオやサンパウロも空港にはつながっていない。Boa Viagemからダウンタウンに向かい途中で乗り換えてバスターミナルへ。かなりの駅の数はあったが早く着いた。大きな町はどこもこうしてほしい。Parabéns Recife ! そういえば私たちが滞在していた時にオリンダは創立479年、レシフェは477年、この次に行くジョン・ペッソーアは429年、そしてNatal は1599年のNatal(クリスマスの日)に創立されたので419年。リオが450年なのでこの北東部の町は早く開けたほうだ。
レシフェからジョン・ペッソーアまではバス。写真のような気楽な格好で乗り込んだ。



バスの窓からはサトウキビ畑が広がる。この辺が早く開けたのは当時‘白い金‘と呼ばれた砂糖の生産で栄えたからである。


パライーバ州の州都ジョン・ペッソーアの朝。明るい感じの気持ちの良い町だ。
小さな町かと思っていたが高いビルも多い。今までブラジルの北東部は貧しいというイメージがあったが実際来てみて(観て)海岸帯は豊だと思った。住んでも良いかなという感じさえする。

曲がって伸びている椰子の木の下で腰を伸ばす

海辺沿いのキオスクに椰子の実を下している。冷えたココナツ水を飲むとほっとする。



  ここはブラジル最東端Ponta do Seixas, アフリカの方がブラジルの南端より近い。

サンフランシスコ教会、天井の宗教画は少しいたんできていたが多くの木彫りの聖人像が並ぶ


ブラジルの最東端にあるということは最初に陽が昇るところでありまた陽が沈む所でもある。その夕日を見ろうというツアーが組んであり何十人という観光客を乗せた船が数隻繰り出す。そしてこの地方の伝説の山賊(?)Lampião と彼の連れMaria Bonitaの衣装でForróという土地のダンスで皆を楽しませる。そうこうしているうちに陽が落ちてき夕焼け空に名残を惜しみながらホテルに戻る。何もない所によくもこんな多くの観光客が集まるショーを考えたものだと感心した。
ブラジルで一番早い夕焼け

ジョン・ペッソーアからナタールに向かうべくタクシーを呼んでバスターミナルに行く途中運転手が私たちに「これからどこへ行かれますか?」と聞いてきた。「ナタールです」というと「今私の兄貴がナタールにお客さんを迎えに行くと出かけたばかりなんですよ。よかったら彼を呼び戻しますからバスでなくて車で行きませんか安くしておきますから」願ってもない話、早速飛びついた。彼はケータイで連絡して待ち合う場所を決めた。街道脇ののガソリンポストでほとんど同時に着いた。「私の料金は35へアイス、彼には100払って下さい」「OK」バス代だけで一人40、それに向こうに着いたらホテルまでのタクシー代がかかる。彼は直接ホテルに届けてくれるという。それにバスだと3時間はかかる。
車窓から見えるのはやはりサトウキビ畑。色々この辺の事情を教えてもらったり、そして話題は去年のワールドカップへと。「ナタールで日本の試合があったのですが日本のサポーター達にはマナーを教えてもらいましたよ。プラスチックの袋を持っていくので応援に使うのだと思っていたらなんと試合後にその袋にゴミをいれてスタジアムをきれいにして帰ったのですよ。立派ですね。」当時はメディアにも取り上げられたが今でも語り草になっている。しかし残念ながらそれを見習うということはない。

ホテルの部屋から見たNatalのまち



この写真はネットから拝借。手前の要塞はオランダ、フランスなど外敵からのの侵略から守るために作られたもの(Forte de Reis Magos)。ブラジルの北東部は特にオランダからねらわれレシフェは彼らに支配されていた時期があり、彼らとの戦いは有名(Batalha dos Guararapes 1648-9年)



州の名前(北大河州)の由来となったPotenji川にかかる橋。Potenjiとは原住民の言葉で「エビの水」という意味。このあたりはエビがよくとれるらしい。そしてここの州民
を意味する「Potiguar」とはエビを食べる人という意味。ずっと前からこの言葉は知っていたがその意味を調べたことはなかった。それで要塞見学の時、面白おかしく説明していたガイドがそう言った時思わず「本当?!」といってしまった。若い女性のガイドさん、「なに!私がうそを言っていると思うのかあ」とふざけた調子で皆を笑わせた。


そういうわけで、どうしても昼食はエビの料理を食べてみたかった。大きな皿に盛られた料理、エビも大きくて美味しい。食べきれないので包んでもらって夕飯となった。値段もヴィトリアよりはるかに安い。これだったら私たちもPotiguar になりたいなと妻とため息をつく。

世界一大きなカシューナッツの木としてブラジルのテレビでも何回か紹介されギネスブックにも登録されている。一本の木で枝が土の中に入っても腐らず伸びていき一区域の土地を占領してしまった。ここ北東部はカシューナッツの生産地で自家用とお土産に2キロほど買った。


上の写真はジョン・ペッソーアの軽食広場で夜は観光客でいっぱい、土地の名物料理タピオカの店が並ぶ。夜はざわめきの中で気が付かなかったが何か書いてある「Trate bem o Turista(観光客に親切にしよう)」。ここ北東部は最近観光に力をいれている。今回行った三つの州に隣接しているセアラーの州都Fortaleza は特に注目されている。ヨーロッパへの直行便もここからでている。ナタールの市内観光のVanでガイドが説明していたが、今までは町の収入の一番は石油関係だったが去年は観光収入がトップになったと。ここらは常夏、7月の(冬?)休みはブラジルの南の方からの観光客でにぎあう。スローガンどおり皆親切だ。

帰りはナタールの新空港から。去年ここはワールドカップで新しい空港が作られた。出発ボードを見るとポルトガルのリスボンと出ているから国際空港だ。それに比べて情けないのはわがヴィトリア空港。拡張工事に取り掛かったがすぐに中断。なんでも工事に汚職があったそうだ。それから数年ほってあるので再開するにもまた一から始めなければならない。なんという税金の無駄使いだ。帰りは飛行機でNatal-Recife-Rio-Vitoria と乗り継ぐ。

この空港で面白いのを見つけた。時間があったので上の空港内の写真の奥の方に行ってみた。小さく仕切ってある高さ2mほどの箱型の作りがある。Siesta Box と書いてあって写真の料金表が貼ってある。シエスタというとラテン系の国々で今でも習慣になっている昼(寝)休み。
中を見せてもらうと一人寝のベッドとノートブックが使える机そしてカバンなど置けるスペース、それが数室。「長時間空港で待つ場合ここで9時間まで休めますよ」と女の子が説明してくれた。「始めたばかりですから友人、知人に広めてください」と、しかし中の写真はフラッシュがきかず暗いのでここに出せなかった。隣にもう一人聞いていた人が「その一人寝のベッド、私と妻だったら二人で寝れるけどOKですか」「いいでしょう」。

2015年3月25日水曜日

リオ2016 オリンピック まで500日を切る


昨日は来年のリオ・オリンピックまであと500日とミディアで現在の工事の進捗状況が報じられていた。上の写真はオリンピック・パークと呼ばれていて様々な競技が行われる所である。

一年前までは今までのオリンピックで一番遅れていると委員会からコメントされ心配されていたが今はスケジュール通りだとのことでみんな胸をなでおろしている。
それは競技場に限ったことで地下鉄は間に合わないらしい。私個人としては2007年リオで行われたパンアメリカン競技大会の時の経験から会場までのアクセスを優先して欲しかった。
3月には売り出されることになっていた入場券はまだ売り出されていない。



2015年3月1日日曜日

リオ創立450周年

4,5、0の3つの数字で書かれたログマーク

今日はリオ・デ・ジャネイロ市の450回目の誕生日。ブラジルは歴史が浅いので全ての町で創立記念日がありそれとその町の守り神(Padroeiro)の日があり大抵の町がその日を町の休日にしている。リオの場合は1月20日がPadroeiro、サン・セバスチャンの日で休日である。リオの創立記念日はあまり祝われてなかったようだが今年は450年目とあってミディアでも大きく取り上げられている。特にリオでは去年のワールドカップの決勝戦が行われ、さらに来年のオリンピック開催地でもあり、そして世界遺産にも登録されたとあって最近は画期的な出来事が続く。 

リオの治安の悪さはよく取沙汰されるがそれは麻薬関係の犯罪が絡んでおり、危ない所に行かないように気を付けておれば大丈夫だ。これは自分の経験から割り出された結論である。長男がリオの伝染病を専門とした国立病院の医者なのでここ10年間で彼の所へ約20回ほど行ったが一般庶民の生活はどこでも同じで私たちが住んでいるヴィトリアとたいした変わりはなかった。リオ州とエスピリトサント州は隣り合わせ、気候も似ていて親しみやすい。州都リオとヴィトリアは海岸の町なのでどちらでも半袖シャツと短パンで過ごしている。サンパウロなんかは銀行にそんな姿では入りにくいがリオとヴィトリアはそれが一年中の制服(?)なので同じ感覚で過ごせる。

今年は雨が降らないのでいつ雨が降るかと天気予報は欠かさず見ているが何故かリオがブラジル全国で一番気温が高い。なんでも風があまり吹かないので実際より常に5度くらい高く感じられるのだそうだ。時々息子の所に電話を入れるがいつだったか気温は41度だが感じる温度は55度だと言っていた。

ブラジルの歴史の教科書にリオの創立者Estácio de Sá がでてくる。ブラジルは1500年ポルトガルのPedro Álvares Cabralにより発見されポルトガル領としたがその後リオにはフランスが入り込んでいた。これを追い払うべく当時のブラジルの三代目の総督Mem de Sáが甥のEstácio de Sá にその任務を課した。彼は1565年の3月1日にリオを創立、そして約2年の戦いの後、そこに10年ほど前からいたフランス人達を追い払うことに成功した。しかしその1か月後、1567年の2月20、戦いの時に頬に受けた毒矢の傷が原因でこの世を去った。47歳だった。

今日のニュースでは450メートルのケーキが作られ市長が最初の一切れ州知事が2切れ目を取って後は集まっていた市民たちに配られたそうだ。