2008年8月22日金曜日

リスボン  Lisboa


最後の日いよいよイタリアともお別れだなとコンピューターを整理していたらポルトガルのリスボンで書いていたのが見つかったのでここに載せることにした。

今ポルトガルのリスボン飛行場のなか、ローマ行き乗換えの待合ロビーで書いている。アナウンスがポルトガル語なので何かブラジルの飛行場にいるような錯覚を覚える。もっともブラジルのポルトガル語の発音とはちょっと違うが。空から見たリスボンはテジョ河の河口とは知っていたが湖のように広がっていた。飛行機でリオから約9時間、8000キロ弱。これを15世紀の大航海時代ポルトガルは当時の最先端の航海技術で世界の海へ飛び出していった。南米、アフリカ、アジア、そしてマゼラン(ポルトガル語でマガリャンエス)は世界一周を成し遂げた。私もブラジルに来てからはポルトガルの歴史とはなじみが深い。入国手続きをする時はポルトガル語圏国の列に入った。今また世界で話されているポルトガル語の標準化が進められている。
出来るだけ筆記上のアクセントの記号を無くしていくような傾向にある。時々変わるのでそのたび戸惑う。
次はローマで。

再びローマ   Roma_Parte 2


帰りもローマからなので再びローマに戻ってきた。初めてローマに着いた翌日サンピエトロ大聖堂を見学してエレベーターで数階昇った後、 約370段の狭い階段を上りドームの高い所まで登ったので疲れてあとは大聖堂の下の方を見るのがやっとで帰ってきて、しまった!ミケランジェロのシスチーンチャペルを見なかったと気が付いた。それで今日ヴァチカン博物館とその中にあるシスチーンチャペルを見に行った。100mほどのすごい列。ようやくたどりつき中に入る。早速日本語のAudio Guide を借りる。展示はまずエジプト館から。そのあとも彫刻が多い。ラファエルの描いた数部屋、其の他当時の画家達が腕を競っての傑作。シスチーンチャペルへ行き着くまで3時間ほどかかったか。とにかく見るものが多い。シスチーンチャペルには人が一杯。ミケランジェロが全身全霊で描いた絵の宗教的、芸術的な素晴らしさは見る人を圧倒する。博物館の装飾も当代随一の物を揃えローマ法王の権力の偉大さを感じさせる。
明日はローマ発リオへと。思ったよりも収穫の多い旅だった。

2008年8月21日木曜日

ナポリ(Napoli)    Napoles


フローレンスからナポリへ。Eurostar で約三時間40分。トスカーナ地方はまだひまわりの畑が広がっていた。ローマを過ぎナポリに近づくにつれ農地の割合が多くなってきた。そしてナポリの近郊に入ってくるとアパート郡が多くなり駅に近くなると高いビルが見えてきた。今まで見てきたローマ、ヴェニスそしてフローレンスとは様子が違う。中世がなくなってしまった。ホテルはさいわい駅に近い。リュックを背負い小さいスーツケースを引いてホテルに向かう。駅前の広場には露天商人たちが所狭しとかばん、靴、めがね、シャツ等を売っている。
ホテルに落ち着くとさっそく近辺の探検に出かけた。交通量はけっこうあるのに交差点に信号がない。車の流れは切れないしなかなか渡れない。こちらの人は慣れたもので構わず渡っている。車も適当にスピードを落としたり止まったりしている。おじいさんなどは車がすれすれで通ったりすると車をたたいて文句を言ったりしている。さすがにこれには慣れることができない。駅に戻って明日行く予定のポンペイの時間を確認した。夏なので午後7時といえどもまだ明るいし暑い。おまけにここは湿気が多いらしく今まで通ってきた所より暑く感じる。駅前の広場からは噴火により山頂が大分欠けたVesuvio を望むことが出来る。
翌朝早く起きCircumvesuviana線でポンペイに向かう。駅から2分たらずで遺跡の入り口に着く。入場料11ユーロを払う。家々のれんが作りの土台が1mほどの高さで残っている。所々屋根の部分が残っている家もある。屋根の瓦は大きく壁が厚い。昔は壁や床は色々な色の小さい石からなるモザイクで飾られていたらしく贅沢な生活振りがうかがわれた。大きな円形劇場それに中と小の半円形劇場などありけっこう今の私達より優雅な暮らしをしていたのではないかと思わせる。後でナポリの国立考古学博物館に行った時にポンペイ出土の鍋や其の他の台所用品など見たが現在とあまり変わらない生活のような気がした。陽に照らされて暑く、持ってきた1リットルの水では間に合わなくなり所々に設けられている飲料用の水飲み場の世話になった。見学が終わり歩きまわって喉が渇くわ腹はすくわで駅に行く道の脇のレストランでピッザポンペイを頼んだはいいが硬くていただけなかった。ブラジルのおいしいピッザがなつかしかった。さて駅に着いたがナポリに帰るのは止め反対方向の終点駅ソレントへ向かうことにした。日本で中学時代に習った「帰れソレントへ」のあの哀愁漂う歌は僕のよく口ずさむ歌の一つである。非常に興味がある。駅に着くとソレントのメインポイントを一回りする観光バスが待っていた。一人15ユーロ早速乗り込んだ。カメラを片手に2階の一番前の席をとった。落ち着いた町で風光明媚。多くの作家、詩人、俳優などが家を構え愛した町だと日本語のAudio Guideが説明していた。ソレントの岬に近づくとカプリ島がかなり近くに見えてくる。上り詰めたところで小休憩。水の青さが快い。ここからはナポリ湾とサレルノ湾が見渡せる。この二つの湾は二人の神が作ったと言われている。一人の神は穏やかでもう一人の神はとても激しい気質だったと地元の人々は信じているそうである。美しい自然のなかに高級ホテルなどが立ち並びプール脇でゆっくり休養している人達を見かけた。約1時間40分の旅を満喫してソレントに別れをつげた。いつかまた再び訪れる日を夢見て。「さらばソレントよ」。

ナポリの国立考古学博物館を見学した。ポンペイから出土された多くの美しいモザイクが目をひいた。特にFauno家より発掘された数々の作品には目を見はるばかりであった。其の他数多い素晴らしい彫刻の展示のなかに幼年のFaunoの全身像を見つけた。Vesuvio火山噴火のやく40年前の姿であった。
最後に世界三大美港の一つと言われるナポリ湾を訪ねた。湾内1周のツアーを探したが見つからなかった。ちょうど目の前に城があったので見学することにした。けっこう宗教画などが展示されており、その他現代の画家のもありイタリア統一に貢献のあったGaribaldiのナポリへの凱旋図もあった。彼はまたブラジルで南部が独立しようとした時のFarroupilhaの戦いでも有名である。この城の屋上からVesuvioを背にしたナポリ湾、そして昨日訪れたソレントおよびその前に位置するカプリ島。眺めは素晴らしい。
さてナポリはなんの都だろう? 今回は陽に焼かれたから太陽の都? 色々な人種が混じってきている交錯の都? 考えているのだがこれっといった決まり文句が出てこない。この次の機会までおあづけということで、、、

2008年8月18日月曜日

フローレンス(Firenze)  Florença


ヴェニスからEurostarにのってフローレンスへ。2時間40分の旅。一等車には日本からのツアーの人達も。しかし半分以上の席が空いていた。窓から見る風景、夏だというのにブラジルに比べ緑が薄い。とうもろこしの畑が広がっていた。そしてルネッサンスの舞台となったフローレンスへ着いた。今回の旅でも楽しみにしていた所である。ミケランジェロのダビデの像で有名なGalleria dell` Accademia そして「ヴィーナスの誕生」や『春』の作品で有名なBotticelli, をはじめTicianoやその他多くの絵画や彫刻を有するイタリア最大の美術館Uffizi。そのほかにも町のあちこちにルネッサンス時代の作品がちりばめられている。道や建物は当時のままではないかとも思われる。新しい息吹に満ちた魅力ある町であったに相違ない。私と妻も町を散策して当時を偲んだ。
今回は斜塔にも縁がある。ホテルを駅の近くにとったので、朝ピサへ行く汽車があるかどうか調べようと駅に行った。5分後に出るのがある。持ち合わせの硬貨を自動販売機の中に押し込んで切符を買って乗り込んだ。1時間20分程で着いた。駅には地図もない。さてどうしようかとあたりを見渡すとかなりの人があるバス停に集まっている。「さてはあれだな」早速行って聞いてみるとやはりそのとおり。ピサの斜塔はピサの大聖堂の鐘楼でその一角は建物がすばらしい。斜塔というだけあってかなり傾いている。思ったより大きい。上るには30分毎に人数が制限されており4時間後の切符しかないとのことであきらめた。ここも観光客で一杯。イタリアの観光収入かなりの額にのぼると思う。過去の栄光が現在をも支えているとも言えようか。フローレンスを中心とするこの地方はトスカーナと呼ばれている。ぶどう酒の生産でも有名でイタリアぶどう酒のファンである私もこの地方のChiantiは飲んでいるし知っている。今回食事の度にグラス一杯ほど注文し堪能した。フローレンスからピサへ向かう車中から「ひまわり」畑をよく見かけた。もう花はしおれていたがこれが真っ盛りの時はさぞ見ごたえがあるだろうなと思わせた。
旅行前知ってるひとにフローレンスに行くと話しをするとぜひSienaにも寄ってきなさいと複数の人に言われた。駅の近くのバスターミナルからSiena行きが出ていた。早速切符を買って乗り込んだ。1時間20分ほどで着いた。やはり中世の町そのもの。なんでも昔はフローレンスのライバルだったらしい。それほど栄えていたということか。いまでは静かな地方の町という感じ。ここの中央広場である区対抗の競馬は有名でなんでも昨日あったらしい。優勝した区の旗が家々の窓に掲げられていた。偶然にもブラジルの旗の色である緑と黄色模様の旗だった。ここの大聖堂も当時の栄光を思わせる大きく立派なものだ。中央広場にあるGaiaと呼ばれる泉の水は五百年以上も前に作られた地下水路により供給されているとのことだ。ベニスもそうだったがここも昔の狭い道で迷路のようになっている。大聖堂を見た後、地図なしで歩いていたので帰る方向を間違えてしまった。しかしどこを通っても古い教会や建物がありそしてとうとう町外れの農地が見えるところまできてしまった。オリーブが植えてある。シャーロックホームズではないが原点に戻ってということでまた中央広場に戻ればいいのだと気がついた。さいわい「この町ではすべての道は中央広場(Piazza Del Campo)に通じる」。そこに戻りそれからもと来た道をたどってバス停まで行き着いた。
中世の姿そのままを残すToscana. そしてその殻を打ち破って人類に新しい息吹を吹き込んだToscana. 文明の跡を今も残し世界の人を魅了するToscana. いつまでも大事に残してほしい。
永遠の都といわれるRoma, 水の都といわれるVeneziaそして文明の都ともいえるFirenze. さて明日行くNapoliはなんの都なのだろう。 
写真はUffiziの3階の窓から見たフローレンスの町並み.

2008年8月15日金曜日

ヴェニス(Venezia)   Veneza


ローマから空路ヴェニスへと。空港からバスでヴェニスの町に入る。早速降りてタクシーの運転手にホテルの住所を書いた紙を見せる。「いや、行かない」と首を横に振る。そしてサンマルコなら次の角を左にまがると乗り場があると言う。幸い今回の旅行は夏なので軽装。しかもこれから先の旅は汽車の切符をとってあるので運びやすいようにリュックと小さいケースに分けてある。すばやくかかえて乗り場に行ってみた。なんと船着場だった。そうだ、ヴェニスは水の都、船が交通機関なんだと気がついた。なにしろタクシーに断られたのは初めてだったのでショックだった。San Marco行きの切符を買って乗り込んだ。Grande Canalがヴェニスの大通りとなっている。水位が高い、波が立つと建物の戸口に水が入っている所もある。地球温暖化で南洋の島がなくなると言って騒いでいるがヴェニスは大丈夫なのだろうか? 心配になってくる。古い建物がGrande Canalにそって隙間なく建っている。船はみな波を立てないようゆっくり進んでいる。おそらく規制があるのだろう。San Marcoのターミナル(?)で降りホテルを訪ねるとすぐ近くだった。夜の8時位だったがまだ明るい。着るもの等の整理をして散歩がてら食事をしようとホテルをでた。San Marco広場はすぐだった。夜の10時なのにかなり賑わっている。広場の周りのレストランが4軒ほどそれぞれ舞台をもうけて5,6人からなる楽団で客引きの競争をやっている。ブラジルの曲が耳に入ったので私たちはそこに決め、まずビールとミネラルウォーターを頼んだ。ロシヤ民謡からNew York, New Yorkなどレパートリーも広い。スタイルのいい娘二人(ロシア系か?)がヴァイオリンの演奏。曲が終わる度拍手がわく。領収書には高い飲み物、食べ物のほかにミュージック代としてひとりあたり6ユーロつけてあった。まあ、いい気分になった代金か。
ヴェニスには世界中から観光客が集まりそのかず年間千四百万人とか。翌朝San Marco広場に行ってびっくりした。San Marco Basílica, 横のDucal Palace そして鐘楼、どれもものすごい列。待つのは時間の無駄と私たちはガラス細工で有名なMurano島へと向かった。島では実際に製法の実演を見せたり大中小色とりどりのガラス細工を売る店などありあちこち覗いているうちに気がついた時はもう5時をまわっていた。島ではスパゲッテイ とシーフッドの揚げ物で昼食。イタリアの味である。また夜San Marco 広場に出た。
翌日は少し陸を歩いて見物しようと出かけた。ヴェニスの路地は狭く迷路のよう。。Ponte Rialtoまでようやくたどり着いたがあまりにも人が多い。あきらめてSan Marco に引き返しまた船に乗って今度は1時間強かかるBurano島へと向かった。「ヴェニスの全ての道はSan Marcoに通じる」幸い私達のホテルはSan Marcoに近いので助かる。Burano島はレース編みで知られている。船が島に近づいてくると何か高いものが見える。「あっ、しゃとーだ!」私の声に妻が「えっ、どこ?」「ほら、あそこ」「なんだ、傾いている塔じゃない。私はてっきりきれいなお城かと思ったわ」。斜塔とシャトー違いでした。ここの島の教会の塔は傾いているので知られているそうだ。斜塔と言えば小さい時からPisaの斜塔しか知らなかったので大発見だった。島の家々はカラフルに塗ってありきれいに手入れされていた。行き帰り時間をかけての色々な島を眺めるゆっくりした時間だった。
帰ってホテル近くのレストランで食事をとった後、店を眺めながら歩いているとゴンドラの駐船場(?)で若い男に声をかけられた。「お客さん、今日は満月だしゴンドラで散歩でもいかがですか?」えっ、満月。そういえば旧婚旅行(?)とかけて 「フルムーン」という言葉が日本にあったなあ。「よっしゃ乗ろう」。昼は多くのゴンドラで渋滞気味の水路もすいている。狭い水路をたくみに操って長いゴンドラが進む。私はブラジルに来て田舎で百姓をやっていた若い頃ブラジルのラジオから流れてくるイタリアの歌を聞くのが苦しい生活の中の唯一の楽しみだった。1960から70年代イタリアの歌がブラジルのヒットパレードのトップになったことも数度あったと覚えている。当時16歳でデビューしたGigliola Cinquettiにイタリア語でファンレターを書いたこともあった。返事がサイン入りのブロマイドで来た。そういうわけで当時ヒットした歌を数曲まだイタリア語で覚えている。ゴンドラ漕ぎの若いのにどうだこういう昔の歌を知っているかと私が歌いだすと彼も歌いだし二人の声がヴェニスの月で照らされた薄明かい運河に響いた。「オーソレミオ」を彼が歌い始めると、それは 「オー私の太陽よ」という意味だから今日は「オールナミア(オー私の月よ)に変えないかと私が提案すると彼はにやりと笑い二人で「オールナミア」となった。
妻は隣で拍手。良き「フルムーン」となった。
さて次はフローレンス。なにが待ち受けているやら。

2008年8月12日火曜日

ローマ Roma


長年の夢だったイタリア旅行。今回妻とローマ、ヴェニス、フローレンス そしてナポリを廻る旅で今ローマのホテルでこれを書いている。イタリアはブラジルより5時間針を進める。今は8月、夏なので夜は8時半でもまだちょっと明るい。旅行者には時間がとれてありがたい。その分疲れるが。飛行場からタクシーでローマの町に入ってくると何だかどこかで見たような風景。ああ、そうだ。映画の「ローマの休日」だ。ローマ市内は高いビルがない。法令で定められているのかも知れない。古い町並みでけっこう緑も多い。観光名所と指定されているところ以外でもあちこちに由緒ある遺跡らしきものがある。
朝起きてホテルで朝食をとるとホテルに近いバス停に行き、まずStazione Terminiへと向かう。昔ヨーロッパ、アフリカ北部を治めていたローマ帝国時代には 「全ての道はローマに通じる」と言われていた。今は 「全てのローマ市内の道はStazione Termini (中央ターミナル)に通じる」と言ってもいい。そこからヴァチカン市国やコロッセウムへと向かう。どこも観光客で一杯。他のところを歩いていてもローマ市民よりも観光客のほうが多いのではないかと思うほど。観光客相手にローマパスというものが発行されておりこれを買うと三日間どの市内バス、メトロにも何回でも乗ることができ博物館の入館料も免除或いは割引と便利にできている。ローマには日本人観光客も多く時々売り子が私たちにも日本語で数字を言ってきたりする。ローマ法王庁のサンピエトロ大聖堂は贅を凝らした造りで圧倒された。色々な観光名所で日本語のAudio Guideもありコロッセウムではそれを借りて廻ったが歴史的な説明がすばらしく妻はすっかり気に入って2回も聞きコロッセウムのとりこになってしまった。家に帰ってどのくらい覚えているかテストをしてみようと思っている。
昨日は娘のリナのイタリアの友達でうちにも遊びに来たこともあるGabriellaのところに行ってみた。ローマからバスで約2時間San Felice Ciceroという人口8千人程の小さな町。そこでこじんまりとしたセンスのいい婦人靴店を開いていた。海の色が真っ青で夏は町の人口は3倍以上にふくれあがるそうだ。しかし冬は町には猫一匹道を通らないそうで冬は店を閉めて旅行をするのだと言っていた。風光明媚な小さな町、いつまでもこの景色を保ってほしいと願った。なんでも最近はロシア人が土地を買っているそうだ。帰りは汽車でStazione Terminiまで1時間強、途中に高いところに町が見えるが不思議と駅の周辺には何もない。日本では考えられない現象か?
これからヴェニス、フローレンスそしてナポリの後ブラジルへ帰る前にまたこのホテルへ戻ってくる。