妻が友達の家に届け物があって立ち寄った時2008年11月2日のブログ「私を見殺しにしないで!」で紹介した彼女の妹で交通係の婦警さん今度は事務にまわされたよとそのいきさつを語ってくれたそうだ。
彼女いつものように駐車違反の取締りに見廻り中一台の車が歩道に乗り上げているのを発見。早速駐車違反の伝票に書きとめその車に貼り付けた。そこへあわてふためいて駆けつけた紳士、彼女に向かって「君は何をしているのかね私が誰だか知っているだろう、すぐさまこの駐車違反を取り消しなさい」と言って貼ってあった紙をくるくるっと丸めて捨てた。「私は私に課せられた仕事をしただけです市長様、その紙をお捨てになってもコピーが台帳に残っていますからこの違反は支払い後でないと消えません」「君は何をしたのか知っているのかね、私は君の大ボスで君の給料は私が払っているのだよ」「いえ、市長様それは違います、私の給料は納税者が払っていると思いますが」
2010年8月30日月曜日
Hexamesversário - 6ヶ月目の誕生祝い?
息子からイザベレの一年目の誕生日が待ちきれずちょうど半分過ぎたので内輪だけで六ヶ月目の誕生祝いをするからと電話がかかってきたのでプレゼントを持って行くことにした。それはそうだろう今までそんな話は聞いたことがない。他の人を呼んだら親ばかと笑いものになる。そこでお祝いの封筒にどう書こうかと頭をひねった。前から月の誕生日と言って息子が月を意味するMêsをとってMesversário という言葉を使っていたので(誕生日は年を意味するAnoからAniversárioという)六回目を意味するギリシャ語に由来する接頭辞のHexaというのを頭につけてHexamesversário という言葉を作って「おめでとう Hexamesversário」と封筒に書いてイザベレの手に握らせた。息子もこの言葉を気に入って早速 www.saheki.com のブログに私より先にこの言葉で写真をだしていた。このHexaという言葉はワールドカップアフリカ大会の前からブラジルではHexacampeãoという形でテレビなどでいやというほど聞かされたいた言葉であった。ワールドカップ最多の5回の優勝をほこるブラジルとしては待ち望まれていた言葉で国中をあげての応援もむなしく結果は準々決勝での敗退となった。夜ちょっと興味が湧いてきてGoogleでこの言葉を検索してみたらアクセントのつくポルトガル語のHexamesversárioは私と息子の文しかのっていなかったがアクセントのつかないスペイン語でのHexamesversarioという言葉が2007年に一件のっていた。なんでもそっちの方は恋愛6ヶ月目の熱々の様子だった。
2010年8月9日月曜日
チンゲン菜
最近たまに土曜の朝市でチンゲン菜を見かける。有機栽培の農家があけているボックスでワラビやニラそれに日本ほうれんそうも出ている時がある。チンゲン菜もいつもあるわけではないので聞いてみると「いつも持ってきているけど朝早く売り切れてしまうよ」「それじゃこんどから朝8時にこよう」「いや、それでも遅い、彼らは朝7時に私達がここを開けるときにはもう横で待っていて箱ごと買っていくよ、たしかあんたと同じ国の人だよ」それを横で聞いていた年老いた彼の父親「いや、同国人じゃない。連れと話している時には何やらわからない言葉で話していたがあんたよりもっと鋭くてエネルギッシュだよ」 私達の横にいたいつもここに野菜を買いに来るおばあちゃん「なにいってんのさ、わからない言葉はあんたたちも同じだろ、二人でよくなにかわからない言葉でやりあっているじゃないか」ここではドイツ系の農家も多い。妻は話が変な方向に行きそうなのであわてて「なに、それじゃ私はどう見えるの」「まあ怒らない怒らない、本当のことを言ったまでさ」それを聞いていたおばあさん横で「なお悪い」。妻もあきらめてひとりごと「鶏屋との11時の約束のほうが大事でそれで10時過ぎにこちらに来ているのでチンゲン菜のほうは残り物であきらめるか」
夢を追って
コロニアの日本語新聞も生き残りをかけて模索中である。今までの最大の購読者であった一世は年をおう毎に確実に減っている。そこで購読者層の拡大を図ろうと日本語の話せる二世三世層を対象にルビをふる試みにふみきった。確かに日本語を話せるほどに読めない書けないという人たちはコロニアにはかなりいる。そういう人たちはふりがながふってあれば理解できる。私の親しい若いブラジル人も日本語に興味をもって独学で学んでいるが以前から新聞にかながふってあれば辞書で意味がわかるのだがと前から言っていた。なぜ新聞かというと古い日本語の本にはかながふってあるが自分は今の生きた日本語を覚えたいそして新聞だとニュース自体にも興味があるし入りやすいとも言っていた。NHKの視聴者でもある彼は「のどじまん」の名審査員で鐘がいくつなるかは全部当てると自慢していた。日本へ出稼ぎに行って帰ってきた人たちもかなりの数に上るのではないか。購読者が増え日本語新聞が長続きすることを願う。
もうひとつの試みとして「ニッケイ新聞」もインターネット版で売り出しを始めた。サンパウロから遠いここエスピリト・サント州でその日の日本語新聞が読めるのはありがたい。以前は飛行機で着きそれから配送業者の手で家まで届けられていた。三日分が一度に届くということもしばしばで新聞ではなく旧聞になっていた。インターネット版を知り早速購読の申し込みをした。紙面そのもののコピーである。購読料も半額というのが助かる。ある日その新聞を見ていたら「1960年あふりか丸」という字が目に入った。今年の11月で移住50年になるので同船者会を催すという記事で文集も編纂したいのでお寄せ下さいとあった。サンパウロにいた時から11月頃になるといつも日本語新聞に気をつけていたが私たちの船の前後の同航会はあっても私たちのは誰も発起人はいないのか見たことはなかった。そして今回の50周年私たちも移住半世紀。椎間板ヘルニアと相談してのことだが調子がよければ出席したいと思っている。
長く書けばきりがない、夢を追ってブラジルに来、それを追い続けた人生、短くまとめて下記の文を世話役の中村さんあてにしたためた。
夢を追って
佐伯尚芳 (さえき ひさよし)
1960年11月18日不安と希望を抱いてブラジルの土を踏んではや50年。今回あふりか丸50周年同航会が11月に開かれるという記事をニッケイ新聞で知り記憶の断片を拾い集めて少しここに書いてみようと思いたちました。
当時の私達の家族構成は父実(40歳)、母マツエ(38歳)、私(16歳)は高校二年、弟行雄(14歳)中学二年、弟道夫(11歳)小学五年、そして末の弟正美(9歳)小学三年生。男の子四人働き手として当てに出来るというのもブラジル移住を決意した理由の一つであったことでしょう。私は理工系大学を志望して受験勉強に励んでいました。渡伯直後は経験のない農業で失敗、落ちる所まで落ち、果ては明日の米を買う金もない程の貧しさも味わいました。最初はサンパウロ近郊のイタケーラそれからモジ・ダス・クルーゼス、ビリチーバ・ミリンと移り、渡伯後六年目私達は大きな賭けをして土地を買いました。というのは手元に四年払いの入金分しか持っていなかったのです。もう後はない、無我夢中で皆星から星まで働きました(ブラジル語のde sol a sol をもじったもの)。毎晩12時までの荷詰めも苦になりませんでした。幸い最初の作付けがうまくいき、その後蔬菜から果樹へとより安定した農業へと移行していくことが出来ました。しかし私の大学に行きたいという夢は心の底にいつも消えずに残っていました。一応生活が軌道に乗った1971年私は夢の実現の第一歩を踏み出すためにサンパウロに出て働きながら予備校に通うことにしました。学校にも行かず高卒検定試験を受けて通っただけの私はブラジル語を覚えることも大仕事でした。1972年ついにサンパウロ大学工学部に入学、76年末無事卒業することが出来ました。その後弟達三人も大学をでましたが医者の道夫は病気で、末の機械技師の正美は交通事故で亡くなりました。サンパウロ市内で歯科医を開業していた行雄は今は定年退職して郊外のバルジェン・グランデで暮らしています。父は2003年83歳で他界。母は現在88歳私達と暮らしています。
私は大学卒業後モジ出身の二世の妻と長女を連れて1977年にエスピリト・サント州に移り製鉄所勤務となりました。こちらで長男と次男が生まれ今は子供達皆それぞれクリチーバ、リオ、ヴィトリアで家庭を持っています。今年は孫も生まれました。こちらに来て33年、私達もすっかりCapixaba (エスピリト・サント州人)になりました。私も28年勤めた製鉄所を2005年に定年退職。記憶のあるうちになにか少し書き残しておこうとブログを始めました。2008年の日本移民百周年の時は神戸の移住斡旋所のこと、その後の船中生活そして日本語とブラジル語が織り成すユーモア等を書き綴っています。よろしかったらご覧ください。
ブログへのアクセスは http://tomobe.blogspot.com です。
ブラジルに来ていろいろな人との出会い。その時その時に良い人と出会い世話になり今の私達があります。夢を追い続けた人生、何事も出来ると信じていた頃をなつかしく思い出します。
私の現住所は下記の通りです。
Hisayoshi Saheki
Rua Manoel Bandeira, 649
Jardim Limoeiro
Serra - ES
CEP 29164-060
電話:27-32282134 携帯:27-88216555
e-mail: hisaheki@gmail.com
それでは皆さんとお会いできる日を楽しみにしています。
もうひとつの試みとして「ニッケイ新聞」もインターネット版で売り出しを始めた。サンパウロから遠いここエスピリト・サント州でその日の日本語新聞が読めるのはありがたい。以前は飛行機で着きそれから配送業者の手で家まで届けられていた。三日分が一度に届くということもしばしばで新聞ではなく旧聞になっていた。インターネット版を知り早速購読の申し込みをした。紙面そのもののコピーである。購読料も半額というのが助かる。ある日その新聞を見ていたら「1960年あふりか丸」という字が目に入った。今年の11月で移住50年になるので同船者会を催すという記事で文集も編纂したいのでお寄せ下さいとあった。サンパウロにいた時から11月頃になるといつも日本語新聞に気をつけていたが私たちの船の前後の同航会はあっても私たちのは誰も発起人はいないのか見たことはなかった。そして今回の50周年私たちも移住半世紀。椎間板ヘルニアと相談してのことだが調子がよければ出席したいと思っている。
長く書けばきりがない、夢を追ってブラジルに来、それを追い続けた人生、短くまとめて下記の文を世話役の中村さんあてにしたためた。
夢を追って
佐伯尚芳 (さえき ひさよし)
1960年11月18日不安と希望を抱いてブラジルの土を踏んではや50年。今回あふりか丸50周年同航会が11月に開かれるという記事をニッケイ新聞で知り記憶の断片を拾い集めて少しここに書いてみようと思いたちました。
当時の私達の家族構成は父実(40歳)、母マツエ(38歳)、私(16歳)は高校二年、弟行雄(14歳)中学二年、弟道夫(11歳)小学五年、そして末の弟正美(9歳)小学三年生。男の子四人働き手として当てに出来るというのもブラジル移住を決意した理由の一つであったことでしょう。私は理工系大学を志望して受験勉強に励んでいました。渡伯直後は経験のない農業で失敗、落ちる所まで落ち、果ては明日の米を買う金もない程の貧しさも味わいました。最初はサンパウロ近郊のイタケーラそれからモジ・ダス・クルーゼス、ビリチーバ・ミリンと移り、渡伯後六年目私達は大きな賭けをして土地を買いました。というのは手元に四年払いの入金分しか持っていなかったのです。もう後はない、無我夢中で皆星から星まで働きました(ブラジル語のde sol a sol をもじったもの)。毎晩12時までの荷詰めも苦になりませんでした。幸い最初の作付けがうまくいき、その後蔬菜から果樹へとより安定した農業へと移行していくことが出来ました。しかし私の大学に行きたいという夢は心の底にいつも消えずに残っていました。一応生活が軌道に乗った1971年私は夢の実現の第一歩を踏み出すためにサンパウロに出て働きながら予備校に通うことにしました。学校にも行かず高卒検定試験を受けて通っただけの私はブラジル語を覚えることも大仕事でした。1972年ついにサンパウロ大学工学部に入学、76年末無事卒業することが出来ました。その後弟達三人も大学をでましたが医者の道夫は病気で、末の機械技師の正美は交通事故で亡くなりました。サンパウロ市内で歯科医を開業していた行雄は今は定年退職して郊外のバルジェン・グランデで暮らしています。父は2003年83歳で他界。母は現在88歳私達と暮らしています。
私は大学卒業後モジ出身の二世の妻と長女を連れて1977年にエスピリト・サント州に移り製鉄所勤務となりました。こちらで長男と次男が生まれ今は子供達皆それぞれクリチーバ、リオ、ヴィトリアで家庭を持っています。今年は孫も生まれました。こちらに来て33年、私達もすっかりCapixaba (エスピリト・サント州人)になりました。私も28年勤めた製鉄所を2005年に定年退職。記憶のあるうちになにか少し書き残しておこうとブログを始めました。2008年の日本移民百周年の時は神戸の移住斡旋所のこと、その後の船中生活そして日本語とブラジル語が織り成すユーモア等を書き綴っています。よろしかったらご覧ください。
ブログへのアクセスは http://tomobe.blogspot.com です。
ブラジルに来ていろいろな人との出会い。その時その時に良い人と出会い世話になり今の私達があります。夢を追い続けた人生、何事も出来ると信じていた頃をなつかしく思い出します。
私の現住所は下記の通りです。
Hisayoshi Saheki
Rua Manoel Bandeira, 649
Jardim Limoeiro
Serra - ES
CEP 29164-060
電話:27-32282134 携帯:27-88216555
e-mail: hisaheki@gmail.com
それでは皆さんとお会いできる日を楽しみにしています。
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