2014年6月12日木曜日

W 杯開幕戦 ブラジル 3 ⅹ 1 クロアチア


予定通り午後3時15分, サンパウロのコリンチャンス・アリーナでW杯第20回目のブラジル大会の開幕セレモニーが始まった。若い男女がサッカー場を舞台にブラジルの自然の紹介や民族舞踊などをそれぞれのテーマに合った衣装をまとい音楽に合わせて舞って行く。洗練されたショーだなーと思って見ていたらFIFAから派遣されたベルギーの振り付け師の指導だと言っていた。
そのあとJennifer Lopez, Pitbull とブラジルの女性歌手Claudia Leitteの三人で今回のW杯のテーマ曲 We Are One が歌われると観客は魅了されて本当に皆が一つになって楽しんだ。

やがて5時、6万人強の観衆の見守るなか日本人の主審と副審に先導されブラジルとクロアチアの選手が入場。日本人がW杯の主審を務めるなんてちょっと前までは誰も思っていなかっただろう。サッカーは今や全世界に普及し実力の差も大分縮まってきている。アフリカ、アジアの選手たちもヨーロッパで活躍している。

試合が始まって前半の最初、ブラジルの動きは鈍い、母国での開幕戦の責任感で固くなっている。逆にクロアチアの選手の動きは速く素早いカウンター攻撃でブラジルのゴールをおびやかす。ブラジルの選手が後ろ向きでパスを受け、いざ前を向いて攻撃にかかろうとするとボールを取られている。何回も攻撃をかけられるうちに焦ってオウンゴールで1点を献上してしまった。ブラジルがオウンゴールで相手に点を与えたのは20回連続出場で初めてだそうだ。しかしこれでブラジルチームの目がさめた。動きが早くなり再三チャンスを創り出しネイマールのゴールにつながった。
2点目はペナルティをネイマールが蹴り込んだ。しかし相手に1点入れられると引き分けそのあと点を入れられると負け。応援するブラジル人達もも気が気でないだろう、私もその一人だ。夜のニュースの時も女性アナウンサーがオスカールが後半のロスタイムに3点目を入れるまでは落ち着かなかったと言っていた。

開幕戦で代表の中でも一番若い22歳のネイマールとオスカールの活躍がブラジルにW杯6回目の優勝の希望の灯をともしてくれた。

2014年6月11日水曜日

W杯ブラジル大会開幕まであと18時間24分30秒

通り一キロに渡り張り巡らされた飾りつけ

ワールドカップの開幕がいよいよ明日に迫った。W杯の試合が行われるアマゾン州の州都マナウスでも市役所が通りの飾りつけコンクールを行っていると報じていた。上の写真はその一つである。しかしなぜかここ大ヴィトリア都市圏ではいつものW杯の年より盛り上がっていないのはなぜか? 明日のブラジルの試合でBig Bangが起きるのか?
テレビでは各地に散らばっている32の国の代表たちがその地の人達と交流している姿が映し出されている。皆リラックスして楽しんでいるようだ。もちろん練習試合などこなしているが。サムライジャパンもサンパウロ市に近いItu市のショッピングセンターで買い物しているところをブラジルのテレビ局がインタビューしていた。「ブラジルをどう思うかと」聞かれると「Best of the World」と答えていた。スポーツ外交気持ちがよい。
妻がサンパウロの親戚に電話をかけていたが開幕都市サンパウロでは明日は休みだそうだ。ここヴィトリアでは午後は休み。ブラジル全国同じだろう。予選リーグのブラジルの試合がある17日と24日も同じだ。
ブラジルで開催のワールドカップには悪夢が付きまとう。1950年にブラジルであったW杯の決勝でウルグアイに2対1で負けたからだ。W杯というと必ず引き合いに出される。負けた瞬間のマラカナン・スタジアムに詰めかけた約20万人の観衆の悲しい顔。今度こそは優勝してこの悪夢を払い除かなければならない。
ブラジルの「恋人の日」は6月12日。しかし明日は皆それどころではないだろうとテレビでは盛んに一日早めて今日贈り物をしましょうと商店街が呼びかけている。それでも今年は大分売上が落ちるのではないか。

明日の開会式には歌手やサンバのショーも予定されているようでそれも楽しみだ。
        
           飾りつけを上から見たところ

2014年6月8日日曜日

Di Cavalcanti と Padre Anchieta



今ヴィトリアのPalácio Anchieta (州知事官舎)でブラジルの画家Di Cavalcantiの描いた絵の展示会が催され一般公開されている。写真はフラッシュを使わなければOKと書いてあったので彼の特徴が出ているのを数枚撮ったうちの一つである。彼は1897年リオ生まれで生涯リオを愛し続けたカリオカっ子(カリオカとはリオ生まれの人の俗称)。リオの景色、風俗、女性、静物画などが並んでいる。彼はパリに住んだこともあるらしい。どの絵もいかにも南国のゆったりとした雰囲気が感じられる。

展示されているPalácio Anchitaはブラジルの歴史上の人物の中でも皆に親しみを持たれている宣教師Padre Anchieta ゆかりの場所でもある。彼はスペイン領カナリア諸島で1534年生まれ。19歳の時にブラジルに宣教師として渡り1554年にはサンパウロ市発祥の場所であるPateo de Colégio に立ち会っている。彼は宣教師として原住民のキリスト教への改宗や彼らの教育にも尽力を尽くしたことでも知られ原住民達が使っていたツピー語の辞書を作成し彼のあとに続く者たちにも重宝されたそうだ。その他、詩や文学作品も残している。サンパウロ市とサントス市をつなぐ旧街道に彼の名がつけられた。ちなみに新街道は移民街道と呼ばれている。

宣教師としてブラジル各地を巡り最後はエスピリトサント州に住み今Palácio  Anchieta があるところにColégio São Tiagoを建てた。その後ヴィトリアから約80キロ南の現Anchieta市に住み1597年6月9日に亡くなった。

彼はブラジル国民から慕われていて彼の死後からヴァチカンに対して聖人の称号授与の申請がなされていたが奇蹟が二つ証明されなければならないという古いしきたりの条件があり、なにしろ何百年も前のことを証明するのは難しかったが今年の4月3日法王フランシスコ一世により彼がキリスト教の布教に生涯をささげたことが認められ聖José de Anchieta  となった。


下はPalácio Anchieta内に彼の棺がシンボリックに置かれている部屋。

2014年6月6日金曜日

カウントダウンに入ったサッカー・ワールドカップ・ブラジル大会


最近テレビで録画したのを整理しておこうとDVD-Rを買いに文房具店に入った。入口にW杯の応援グッズが並べてある。商店街もほとんどの店がブラジルの国旗の色の緑と黄色で飾り付けてある。4年に一回のW杯、私もいつも何か買っている。前回の南アフリカ大会はあの騒々しいラッパ(ブブズエラ)だった。あれ今も使っている。というのはあの音、結構良く聞こえるので食事時間になっても部屋にいない、しかも何回大声で呼んでも返事をしない姑を呼ぶ時にブブズエラを鳴らす。これだと確実に聞こえているはずだと一回で済ます。すぐ帰ってきているので、どうやら聞こえているようだ。
今年はすでに青いTシャツはあるのでそれに合う青が多い帽子を買った。これだと日本の試合の時も使えるかな?
店のウインドウを見ると大きな張り紙「W杯開幕の12日の営業時間は7時半から12時半までです」と書いてあった。帰って調べると試合開始時間は17時。

ここヴィトリアにはオーストラリアとカメルーンの代表選手団がベースを構えるが、残念ながらW杯の試合はない。ブラジルではW杯過去最高の12都市で試合がある。ヴィトリアも立候補したのだがエスピリトサント州に隣接するリオ、ミナス、バイーアの大きい州の州都に持って行かれてはヴィトリアに出番はない。
今日W杯直前の最後の強化試合が行われたがブラジルはかろうじて1対0でセルビアに勝った。その1点はFredがゴール前に倒れてけり込んだものだ。あっ、これは昨年のコンフェデレーション杯のスペインとの決勝戦でやはりFredが倒れて入れたのと同じだと思っていたら夜のニュースの時にそれも流していた。

ブラジルは今おかしい。待ちに待ったワールドカップだというのにあちこちで交通機関のストが起きている。開幕試合のあるサンパウロでも地下鉄やバスのスト。去年もコンフェデ杯直前にデモが多発した。決勝があったリオのマラカナン・スタジアムに行く道は両側に警察や軍隊で蟻の通る隙間もないほどの警戒ぶりだった。
心配していたようにインフラ整備はできなかったがスタジアムだけはどうにか完成した。
後は試合を楽しむだけだ。

2014年5月28日水曜日

一週間遅れの集まり


私たちがサン・ルイースに行っていた間に母の日と息子の妻ビアンカの誕生日があったが私たちが帰るのを待ってやろうということになっていたらしく一週間遅れで家にみんな集まった。
この写真を撮ってすぐ印刷して家族に一枚ずつ渡したが翌日のFacebookに誰かが載せ楽しかったというコメントが出ていた。
このFacebook というのは友達の友達はわが友達とネットワークがどんどん広がっていくしくみになっている。私は苦手で息子たちが言うので入ったがほとんど見ない。たまに妻がコメントする所を見る。これは世界中につながっているので数年前に理奈のイタリアの友達が家に来て一週間ほどいたが彼女も私たちにメッセージをくれていた。
街を歩いていると若者たちがスマートフォンを上手に使いこなしている。今日のニュースで流していたが今では電話としてより音楽を聞いたりメールをチェックしたりインターネットを通していろいろななアプリを利用して使っていると言っていた。
以前は考えもできなかったものがどんどん私たちの身の回りに現れる。果たしてそれを活用し恩恵を受けている人達はどのくらいいるのだろうか。 


2014年5月18日日曜日

São Luís (サン・ルイース) do Maranhão e Lençóis


最近気を付けているとインターネットのサイトhttp://www.melhoresdestinos.com.br/ で格安航空券に出会うことがある。あまりにも安いのがあると、つい買ってしまう。あとはどうにかなるだろうと運に身をまかす。今回のマラニョン州の州都São Luís(サン・ルイース)行も3か月ほど前に買っていたものである。幸い定年退職の身で自分で日時の調節が出来るから助かる。ホテルもその時点で予約しておくので値段の割に良いのが選べる。

エスピリトサント州のヴィトリアからサン・ルイ―スまでは地図上の直線距離で2千キロちょっと、首都ブラジリア経由なので約3千キロを飛ぶこととなる。
サン・ルイースは1612年にフランス人によって開かれた町である。地名もフランス王で十字軍遠征に加わったルイ9世にちなんでつけられたもので彼は後に聖ルイース(São Luis)となってこの土地にその名を与えた。その後オランダからの侵略があり最終的にポルトガルが植民地とした。ブラジルの海辺の大きな町は16,17世紀はこの三国の利害が絡み合った歴史となっている。

この街には以前から興味があった。旧市街は植民地時代のフランス、ポルトガル様式のタイル張りの家が残っているので世界文化遺産に登録されている。しかし旧市街の建築物の保存状態が悪くこのままでは世界遺産から外される可能性があるといわれているので出来るだけ早く見ておきたいと思っていた。行ってみるとまるで幽霊街、崩壊が始まっている。手を付けようにも昔の様式でリフォームしなければならないので個人では金と時間がかかるので放棄してあるとはガイドが話していた。私たちが泊まったホテルは旧市街の世界遺産の中にあり昔は砦だったそうで確かに町に船が入ってきた時には良く見える場所だ。ホテルのすぐ横は大聖堂でリフォーム中、内には入れなかった。

サン・ルイースから船で約1時間20分で対岸の町、Alcântaraに着く。波が荒く船が揺れる。ここも昔は栄えた町で古いフランス、ポルトガル様式のタイルの家を見かける。今は柱だけが残った大きな屋敷の廃墟があちこちにある。そのうち特に大きなのが二つ。これはガイドの話。Alcântaraとはブラジルの皇帝「ドン・ペドロ2世 (Pedro de Alcântara ・・・つづく)」にちなんで付けられたもので皇帝の訪問も予定されていたそうだ。そこで土地の二人のライバル有力者が皇帝が来られた時には自分のところに泊まってもらおうと一人は部屋が36ある家、もう一人は48あり海がのぞめる家を建てだした。そしてお互いに、もし皇帝が相手の家に泊まられた時は決闘を申し込むようにしているとのうわさがたった。それを皇帝の側近が知り皇帝の耳に入れた。その話を聞いた皇帝は争いを避けるため訪問を取り消されたそうだ。どこまで本当かわからないが熱の入ったガイドの説明だった。

サン・ルイースもアルカンタラも昔グラビア雑誌で見た写真が時々思い出されていつか行ってみようと思っていた。あれから何年経ったのか知らないが「昔の光今いづこ」、すすぼけて見えた。

Alcântara は最新技術の新しい面もある。それはここ(とは言っても歴史地区からは18キロほど離れたところ)に人工衛星発射基地が設置されていることである。しかし数年前の最後の打ち上げに失敗し発射基地まで焼け尽してからはあまりニュースも聞かない。どこの国も人工衛星発射基地は赤道に近い所で設置条件の良い所に作られる, Alcântara は南緯2度強。ここら辺はヴィトリアより大分熱い。外に出るときは日焼け止めは必ず塗らなければならない。


アルカンタラからの帰りの船は右側に座った。遠くで大きな船になにか積んでいる。ガイドにあれが鉄鉱石輸出のItaqui (イタキ)港かと聞くと「そうだよ」との答え。Vale do Rio Doce 社のCarajás 鉱山から鉄道でここまで運ばれてきた鉄鉱石は世界に向けて輸出される
このあたりは潮の満ち引きの差が大きいのでも有名だ。調べてみたら今年の7月の満月の満潮の日には6.6m差となっていて、ヴィトリア港は1,6m差。Alcântara行きの船は翌日の朝、埠頭に行ってみたら水のない岸の泥の上に座り込んでいた。乗船時間も潮の満ち引き時間に応じて毎日変わっている。


サン・ルイースに発つ朝ヴィトリアの飛行場で現役時代の会社の同僚たちとであった。サン・ルイースに行くのだと言ったら「ああ、Lençóis (レンソイス)を見に行くのか」と聞かれた。「もちろん!」。

Lençóisとは砂丘と湖が繰り返す景色を指し、ここは国立公園になっている。サン・ルイース市内からマイクロバスで約4時間。私たちが泊まっているホテルからは10人ほど乗った。着く頃にはお尻が痛くなってくる。「こんなに人が行くのだからヘリコプターか何かないのかな」と妻にぼやいていると後ろに座っている人が「今年中にここに新しい飛行場が出来るそうだよ」と情報をくれた。便利になれば観光客も増えるだろう。

Barreirinhas というLençóis観光の玄関口ともいえる町でそれぞれ予約してある宿に届けられる。午後からは早速レンソイスへ。4輪駆動のジープの荷台に四列に板が通してあり一列3人ずつ乗り込む。妻の横に若い日本からの新婚夫婦。車は砂地の深いわだちのついた道を行く。木立の中を行くときは車は小枝の中を縦横に揺れて行く。しっかり前の座席の鉄の棒を握っていないと外に放り出される危険がある。こんな道を走るのは生まれて初めての経験だ。これではもっと歳をとったり体の調子が悪い時などは来れないなと思って妻に「ここをもっと整備しないと観光客から文句がでるぞ」とコメントすると妻「あら、これがスリルがあって面白いのよ、これがすぐに目的地についてごらん味気ないから。」なるほど、そういう見方もあるのか。そして私も皆に「こんな遊びがデズニーランドにあったら高い金払って乗らなければならないよ。」と言って皆を笑わせた。

あとは https://www.flickr.com/photos/123933064@N03/  の写真で。



2014年5月4日日曜日

長男の結婚式



4月30日は長男Mauricio尚人(なおと)がリオの自分たちが住んでいるマンションの近くの登記所で結婚届けを出していたのが無事に受理され結婚証明書を受け取る簡単な儀式があった。届けを出してそれが一ヶ月の間に誰もそれに抗議しないで(二重結婚などの)問題がなければ無事民事的な結婚が認められる。その後ブラジルの一般的な習慣として教会で宗教的な儀式がとり行われ、夜は親戚、友人、知人を招待してのパーティーとなる。
息子尚人と嫁Danielleはすでに5年くらい一緒に住んでいるので簡単な昼食会を日本食レストランでCartório(登記所)に出席していた親戚たちと共にテーブルを囲んだ。夜は住んでいるマンションのSalão de Festa (大広間)で昼のメンバーと友人やマンションで親しくしている人たちを招待しての少人数のささやかなパーティーとなった。
彼女もサエキの姓を名乗り、サンパウロに住む弟の所と亡くなった弟の家族などでブラジルでサエキの姓がわずかながら増えていく。
上の写真はCartórioで判事から指輪を手渡してもらうところ。向こう側で写真を撮っているのが私で実は私が載っている写真はこれ一枚っきり。
下は近くの日本食レストランでの昼食会。