2013年10月6日日曜日

ベレンとマラジョ島


   早朝4時ごろ島々からベレンのVer-o-Peso市場に集まってくるアサイー椰子の実

ブラジルに移住する前ブラジルに関して少し調べておこうと高校の図書館から数冊の本を借りて読んでみた。なにしろ今から53年前、資料も少なく移民のことなど何も書いてない。新都ブラジリアを建設中だとか国土が広いから割と飛行機は使われているとか、

そのほかは観光名所のイグアスの滝の写真がのっていたくらいしか覚えていない。しかしとてつもない国に行くのだなという思いをした一節があった。ブラジルのアマゾン河の河口に九州くらいの面積の島があるということであった。詳しい地図もなく、見るとアマゾン河口の赤道のすぐ南に島がありその名前さえ書いてなかった。

今回そのマラジョ島(Ilha de Marajó)に行く機会を得た。ブラジルのアマゾン河の上流はアマゾン州そしてその州都はマナウス、下流はパラー州で州都はベレン。そのベレンに20年前まで家の前に住んでいた家族が移り住んで妻が時々連絡を取り合っていた。定年退職をしたから遊びに来ないかという誘いも受けていたので今回の旅行となった。

ヴィトリアからベレンまで直線距離で約2300キロ、ブラジルの遠距離飛行は大抵サンパウロとリオからでるのでヴィトリアからは逆方向になるが行きはサンパウロ経由帰りはリオ経由となった。行きはブラジリアにもよるので所要時間は乗り継ぎも含め約8時間、帰りは約7時間。行きに首都ブラジリアを空から垣間見たがよく何もない所に建てたものだと思った。仕事で2,3回ミナス州の州都ベロオリゾンテ経由で行った時はそんなことを思ったことはなかったのにどうしてだろうと何か変な気持ちになった。

ベレンではダウンタウンでフランス人が経営する小さなホテルに泊まった。ヨーロッパの人がブラジルの女性と結婚して経営するこういうホテルがけっこうあるのだとは後で知り合いから得た情報である。ベレンの街の街路樹はマンゴーの木。道の両側に大きな木が茂り、実がなるときは車に傷をつけるのだとタクシーの運ちゃんがこぼしていた。また国内では10月の第2日曜日にある宗教祭とも言える聖母マリアの像に崇拝と信愛を込めて2百万人の信者がベレンの街を練り歩く「Círio de Nazaré」が有名だ。川でも舟の行進がある。その日は蟻の通る隙間もないそうだ。

アマゾン地方で唯一農業移民で定着したのは日本人だと言われている。その代表的なのがトメアスー植民地だろう。胡椒栽培で成功したことで知られている。ベレンでタクシーの運転手と仲良くなり貸し切りでトメアスーまで足を延ばすこととした。土曜日の朝市に間に合うように5時半出発となった。トメアスーに着いたのは8時半。道路は良く整備されている。しかし昔トメアスーに入植した人たちは農作物をベレンまで舟で運んだそうだが大変だったろうなと察した。途中小さなフェリーボートで川をわたる。時々、油をとるデンデー椰子栽培の大規模農場を見かける。

私が中学2年だったと思うがクラスに宮崎君と言ってアマゾンに移住した友達がいた。インターネットなどで調べたがわからない、なにしろ宮崎というだけで名前は覚えていない。ひょっとしたらトメアスーで何か手がかりはないだろうかというかすかな希望は持っていたのだがだめだった。日系の農業組合や文化協会などを訪ねて名簿など快く出してもらって名前調べにも協力してもらってたが宮崎という70歳前後の人は見つからなかった。どうもありがとうございました。昼食は日本人が経営するレストランでとった。

マラジョ島は先住民が残した陶器が出土することでも知られる。小さいものから大きなものは死人を葬ったと言われる瓶までいわゆるマラジョ紋様で描かれている。
島で正当な伝統工芸を受け継いでいるインカの最後の職人だという人から小さい陶器を買ったがすごく軽いのに驚いた。偶然に一緒にツアーで回っていたヴィトリアの隣町Vila Velhaから来た人は食べ物をいれてチンしてもいいという皿を買っていた。

ベレンからマラジョ島までは定期船で約3時間半。島はは水牛の飼育でも有名でツアーの一環として水牛牧場を訪問して水牛に乗ったりまた水牛のミルクから取れるバターやチーズをお土産にと買求めた。道路の整備が悪く小さな町の中の舗装道路は穴だらけ。もっと州政府が力を入れたら観光地として伸びる可能性を秘めているのに残念。



6歳の水牛「Gurilo」、体重1トン、EXPO Marajó ではパレードの先頭を切るそうだ。


今回はwww.saheki.com  で写真を通しての思い出話としよう。

2013年9月29日日曜日

今月の書き残し 2題


敬老会
ここヴィトリア日系協会で9月15日敬老会が催された。サンパウロやパラナでは日系人は農業に従事することでブラジル社会に参加してきた。しかしここヴィトリアではサラリーマンや自営業で移ってきた人が多く日系協会の歴史も浅い。初めは敬老会にはその人達の両親が参加していたが今では世代が変わり35年前頃ここに移ってきた人たちが新しく敬老会に参加するようになった。最近まで段々減ってきていた参加者がこれからは増えていく傾向にある。



東京が2020年のオリンピック開催地に決まる

これには2016年のリオのオリンピックが影響を与えたのだと思う。来年のW杯開催に当たっても視察団が来て工事遅れやインフラの整備に注文を付けていく。オリンピック競技場やインフラ視察団も満足はしてない様子。競技場は何とか完成するだろうが問題は受け入れ態勢や交通の便。ブラジルで2007年に行われた汎米オリンピックがリオで開催された時、私も3日間体操競技を見に行った。その時のコメントにリオがオリンピック開催地候補に立つときはリオ市内から競技場まで地下鉄で行けるようになってからにしてほしいと書いたと思う。その計画書も提出したと思うがどうやら実現不可能な状態で代案がでているようだ。

今回の2020年のオリンピック開催地選び「ヨーロッパとアジアをつなぐイスラム圏の都市イスタンブール」とか「競技場や交通網はほとんど出来上がっているマドリッド」とかの振れ込みより「もう頭の痛いのはいやだ日本にまかしておけば立派なオリンピックをやってくれるだろう」との安心感から、もし私がオリンピックの委員だったら東京を選ぶけどなと以前から妻に語っていた。

2013年9月14日土曜日

我が家の犬猫物語(1)


ブラジルに来てから今まで53年間我が家ではほとんどいつも犬を飼ってきた。たいていは近所で生まれたのを貰って育ててきたので血統書はなく雑種とでもいうのだろうか。そして2001年から現在に至っているのが秋田犬。これは血統書が付いていた。それでも日本秋田ではなくアメリカ秋田だそうだ。第2次世界大戦で日本の秋田犬はほとんどいなくなり戦前にアメリカに渡っていた秋田犬がからだつきが大きくなりそれがブラジルに広まったようだ。たまに小柄の秋田犬を近所で見かける、あれが日本秋田だなと妻とうなずく。
サンパウロのモジで飼っていた犬で思い出すのはシロとチロとコロ。家では動物の名は大抵2文字で番犬として飼っていた。シロは黒と白のまだらの犬で人を横目使いで見て判断し「お手」を教えるといやいやながら差し出す。新しく家に入ってきた妻には、えさを貰っていてもいつもそっぽを向いていたそうだ。ある日、畑で仕事をしていたら白が盛んにほえる。いつまでたっても止まないので家のほうに向かって白のほえている所まで行ってシロがほえている方向を見ると犬小屋の中に今までみたこともない蛇が頭をあげシロとにらみ合っている、本で見たインドのコブラみたいだ。ちょうど持ってきていたEnxada(ブラジルくわ)でたたこうと思ったが、もしたたきそこねてかまれたら危ない、すごい毒蛇にちがいない。大声で助けを求めて父と弟を呼び3人で用心して退治した。

コロは家で生まれた犬で、だんだん大きくなるにつれ、けんか好きになっていった。どうやら一度けんかで勝ったらしい。カルモ植民地では川向こうやうちの土地の端のほうは林になっていてたまに猟師が狩をしにくる。家の窓から一度、鹿が畑の中にいるのを見た。その日も3人の猟師が3匹の犬を連れてうちの前を通っていく。コロがすさまじい勢いで家から下の道に向かってほえながら走って行った。相手は3匹の犬なのに無茶なけんかを仕掛けていくが大丈夫かなと心配になった。家の窓から見ているとコロは勢いよく3匹の犬の中に突っ込んだ。激しいけんかが始まるかと思ったが3匹の犬たちはきょとんとしてお互いを見ている。猟師たちが立ち去った後にコロが横になっているのが見えた。どうしたのだろうと私も家から飛び出した。コロはじっとして動かない。心臓麻痺なのだろうか?心臓マッサージをまだ温かい胸の上から何回もやってみたがとうとう息を吹き返さなかった。私がコロなどと名前をつけたのが悪かったと反省した。

私たちが自分の土地を買おうと話を進めていたとき父と私と弟の3人でその土地を見に行くことにした。借地をしていた所からカルモまでは約16キロ。もちろん車は持っていない。3人で自転車で行くことにした。田舎道を7キロ、アスファルトの街道を約6キロ更に田舎道を約3キロ。私たちが自転車で行きだすとチロが後から付いて来る。何度怒ってもついて来る。街道の途中のビリチーバの町を過ぎるとチエテ川に架かっている橋までは緩やかな下り坂。自転車でかなりスピードが出せる。ふと後ろを振りかえると今までついて来ていたチロがあえいでとうとう止まってしまった。自転車には乗せれないので私たちはそのままスピードをあげていった。土地を見た後の帰り道、チロは、はぐれたところにいない。どこに行ったんだろう? そのまま少しあがっていくと道がカーブし大きな木が数本ある。なんとチロはその木陰に涼しげに座っていてこちらを見ると立ち上がりなにもなかったかのように私たちの後からついてきた。

2013年9月7日土曜日

もっと医者を! Mais médicos !

今ブラジルでは国民の要望にこたえようと政府がMais Médicos(もっと医者を)というプログラムを始めている。大都市近郊や辺地で医者が足りない、またはいない所に外国から医者をよんで働いてもらおうというもので既に第一陣700人が3週間の研修中でその後各地に配置されるようになっている。今年中には4千人を雇う計画だとか。これには外国の医科大をでたブラジル人も含まれている。外国人からは言葉の障害がないかほとんどないポルトガル、スペイン、南米諸国から、そして政府間協定を結んだキューバからも多数参加している。もちろん医師会からはブラジルの医師の資格のないものが医師 として働くことは憲法違反だと反対している。しかし政府はこれは3年間に限定したもので彼らに検定試験を行いそれにパスしたものがその後もここに留まり医者として働くことは望んでいないと何か分けのわからない言い訳をしている。するとこれはその場しのぎの人気政策なのか。または3年ごとに同じことを繰り返すのか。しかしその後の事は現プログラムの成否にかかっている。
これはほとんど言葉の壁のないポルトガル語スペイン語圏内で成り立つことで、つい比較してしまうのは日本の外国人看護師養成プログラムである。フィリピンやインドネシアから募集しているが日本人看護師が受ける試験に通ることがその条件ではなかなかどころかとても難しい。会話程度ならいいが専門用語の読み書きをマスターするのは困難だ。合格率も低いと聞く。これがポルトガル語、スペイン語の兄弟語の間柄それに最も近いイタリア語、おなじラテン語の流れを組むフランス語。そして英語や同じアルファベットを使う諸外国でも学術専門用語はほとんどラテン語から来ている(と思う)ので言葉の壁の問題は日本の場合より容易に解決できる。それとはまったく事情が違う日本での看護師資格試験、日本もこれからは(既にか)高齢者社会、もう少し柔軟な対応が必要ではないかと思う。せっかくその意思(漢字変換で医師とでた)があり仕事に優秀な人材を言葉の壁だけで失うのはもったいない。

ブラジルの人口はついに2億を超えた。そして2040年ごろから人口は減少するという予測、つまり高齢者社会になるということである。政府は現在の問題にさえ対応できていないのに近い将来必ず起きる現象にどう対処するのか、明日、明日と延ばされては不安だ。

2013年9月6日金曜日

パパイ、だめじゃない!


今日Walmartで買い物をしていて面白い女の子に出会った。
私が魚のコーナーで冷凍サケを見ていたら横から4,5歳の女の子が私の横に寄ってきて、いきなり「おじさん、私のパパイとママイはどこにいるの?」。「えっ!」と良く顔を見る。知っている女の子ではない。「知らないけどどうしたの?」と聞くと「いなくなったの」という返事。どうやら迷子になったらしい、手には学用品のノートを持っている。どうやら文房具コーナーにいたのだなと推測。「それを買った所にいるんじゃないのかな」と店を突き抜ける中央通路にでて「ここをまっすぐいって右の4番目の通路をみてごらん、そこにいると思うよと」と言って私はまた魚のコーナーにもどろうと歩き出した。何か後ろで音がする。なんとまだ私についてきているではないか。私を見上げている、名前を聞いてアナウンスしてもらおうかと考えていると子供用品の所にいた妻がカートを押してきた。事情を話す。妻が周りを見渡して中央通路でこちらを見ている背の高い若い男の人と目が合った。そして女の子を指さすと彼はうなずいた。「あの人パパイじゃない?」彼女振り向くや否や走って向かっていった。そしてこちらまで聞こえるように「パパイ、だめじゃない、私を見失うなんて!」それからいっとき彼女の父親を叱る声が聞こえてきた。彼はうなだれて頭をかいている。やがて父親は彼女の手を取ってちょっとこちらを見て手を振り頭をかきかき向こうへ行った。「うちの孫娘の恵美も気が強いからこういうシーンがあるかもね」と妻。

昔の親は権威があったものだが今は親がしかられるのか。時代も変わったものだ。

2013年7月31日水曜日

ヴィトリア日系協会30周年

今月20日にヴィトリア日系協会30周年の記念式典が会館で行われた。元会員の私にもメールで招待状が来ていたので出席の返事を出していた。会館が一杯になった、約300人の参加があったらしい。リオの総領事館からも総領事代理の出席があり見事なブラジル語で挨拶された。日系協会が日ごろから世話になっているヴィトリア市役所の関係者たちも表彰された。そのあと日本語学校の生徒たちの訪日の劇があったが、よく見ると非日系人が多い。彼らが日本に興味を持ち親日、知日家が出てきてくれるのは頼もしい。次にあった太鼓演奏でも非日系の娘さんや青年たちが参加して力強くバチで太鼓をたたいている。これから日系社会はどう変わっていくのだろう・・
最後にみんなに寿司やストロガノフがふるまわれ、おいしくいただく。私も久しぶりで行ったのであちらこちらで友人や知人と挨拶を交わした。

下の写真は同じテーブルを囲んだ、前列右から私、西村さん、後列右から伊藤さん、妻清子、橋爪さん夫妻

2013年7月29日月曜日

Jornada Mundial da Juventude


先週の22日から昨日の28日までリオでJornada Mundial da Juventude(世界カトリック青年の日)が開催された。世界170国から35万人以上の参加の申し込みがありローマ法王フランシスコ一世も來伯、カトリック教徒の絆が一層強められたイベントだったという印象をあたえた。ブラジルは世界最大のカトリック信者数を誇る。以前は国民総カトリック信者の自負があり小学校から宗教の授業がありカトリックの教えが説かれていた。下の弟二人が小学校に行っていた頃は畑の仕事もあるし宗教授業を免除してもらうため学校に我が家の宗教は仏教ですので授業は免除してくださいという手紙を書いて学校に持たせた記憶がある。
年々カトリック信者の数が減ってきている。1994年に75%だったのが今では約57%らしい。逆にミディアなどを通して増えてきているのが新教の福音教会(Evangélicos)
。次々と新しい大きな教会が建っていく。カトリック教会も聖職者を増やしComunicationを紙や機械ではなく実際の人と人とのつながりで行うべきだと法王も述べられていた。減少に歯止めがかかり巻き返しにいけるのか見守りたいというより応援したい。
初めてのラテンアメリカから、しかも隣国アルゼンチン出身、スペイン語とポルトガル語の類似性でスペイン語で話されても分かるしポルトガル語で親しく語られるとこのイベントに参加している人ばかりではなく、一般市民からも大歓声があがる。専用の車(Papamovel)も横は取り外してあり座席も低く街頭に集まった市民にも握手したり止まって声をかけられたり出来るようになっている。テレビを見ている私たちも何事も無ければよいがとはらはらする。警護に当たっていた人達も大変だっただろう。しかし彼は宗教とは人と人との間にぬくもりを感じさせるものであると説き、宗教に関係なくブラジル国民の心に親しみと安らぎを与えた。時にはユーモアも混じる。最後の記者とのインタビューの中で今回はローマ法王がブラジルから選ばれるのではとも期待していたのですがという問いに「法王はアルゼンチン出身ですが、神はブラジル人だと言いますね。そんなに欲張らないでください」と軽くかわされた。
一昨日と昨日行われたコパカバナ海岸通りに集まった信者は150万人とも300万人ともいわれている。ちょっとオーバーに見積もってあるような気もする。とにかく疲れを知らない若者たちが浜辺で夜を明かした。スーパースターフランシスコを一目見ようと。

今回の訪問でブラジルの若者たちの間でカトリックへの関心も高まるのではないかと思った。若者が理想に向かって進み、それを外に向かって表す、良いことではないかとも言われた。ブラジルに感動を与えそして希望を残していった法王、いつまでもお元気で。

次回のJornada Mundial da Juventude は2016年, 2005年に亡くなられた法王ヨハネ・パウロ二世の生地近いポーランドの(Kraków(Cracóvia))で開催される。