2019年6月20日木曜日

パラナ松 アラウカリア

今朝、スーパーの近くの林で頭を出しているパラナ松が目に入った。「あっ、これだ!」と思わずさけんで車から降り写真を撮った。
この頃は私の周りにパラナ松の謎解きの材料があったのだがピンとこなかった。

この辺は家の前にアジサイを植えている家をあちらこちらに見かける。ここに住む前、ちょっとWikipediaでクリチーバ郊外のこの町を調べてみるとアジサイの町として知られているとあった。しかし来てみるとそれほどでもなくちょっとがっかりした。
妻がアジサイを植えたいと昨日ホドリーゴ(Rodrigo)に話すと自分はこの辺を自転車で回ってきれいなアジサイがあるところを知っているから紹介しますということになった。


さて帰って来たのだがアジサイの苗の他に大きな重い三角形の彫りこんだ木を持ってきている。花を生けるのに使えるよと言われて買ったのだがこれはどうしてもほかの理由で私に見せたいから買ったということだった。「この木の色、赤みがかっているところがあるでしょう、どこかで見かけませんでしたか?」



「あーそうか、この前買ったすごく重い椅子にこんな色があったなー」と言うと、「そうです、あの椅子です、そしてあの椅子はアラウカリアで出来てたのですよ、アラウカリアは枝が古くなるとひとりで落ちてきますが木の中に「へその緒」はおいていきます。」なるほど、面白い表現だ。


椅子の直径は36cm、花生けにどうかと言われ買ったのが長さ50cmの三角形のもの。この椅子になったアラウカリアはあまり大きくならず何かの理由で伐採され枝の部分が横切りされた部分が椅子の座るところに使われたということになる。

そして椅子の上に置いてあるのが大きなアラウカリアの一つの枝の「へその緒」、この木が生きていた時はさぞ巨大で勇壮な姿を見せていたことだろう。

今朝見たあの飛び出たアラウカリアがアラウカリアの枝は皆一緒に横に伸びる姿を見せてくれて納得した。













2019年6月17日月曜日

クリチーバ郊外 新しい住処

ほとんど出来上がっているがまだ仕上げ中なので娘夫婦が土曜日に来て日曜に帰り私達は残ったり一緒に帰ったり。

家と倉庫を結ぶ中庭。日曜日娘婿は自転車で60キロほど回ってくる。

これは太極拳の先生である娘婿の道場

家の前で妻がここで生まれた犬とたわむれている。

エスピリトサント州から持ってきた蘭、霜が降りると枯れると言われたので心配だ。

家の廊下は広く取って私がコンピューターを使えるようにしてある。一番奥に部屋が二つ。私の座る廊下の前にもう一つ。

キッチンとテーブル

夜は壁のない居間で寝転んでテレビを見ている

朝晩まきを燃やして寒さ(13-15度?)をしのぐのは何と言っても簡易暖炉のある応接間。この頃は終わりの炭の上に網をかけおやつを暖めたりしている。

2019年6月8日土曜日

クリチーバ郊外の夕暮

朝霧が晴れると向こう側にパラナ州のシンボルであるパラナ松の林が見える。正式にはAraucaria(アラウカリア)と呼ばれていて昔から建築用の材木などにに使われて乱伐され今では少なくなってしまった。州政府や市役所では厳しく保護政策をとって今では許可なく伐採するものは多額の罰金を取られるようになっている。それは自分の土地でも適用されるらしい。しかし保護していると税金から差し引かれるというプラス面もある。
 



ちょうど今はパラナ松の実(ピニョン)が落ちる時期で丸い実が熟れると中のピニョンがはじき出され落ちてくる。それが上の写真。湯だきして皮をむいて実を食べる。もうじきピニョンの時期も終わる。
今、南の方の州政府がパラナ松を植えればピニョンの収入で生計が立てれるなどと言ってパラナ松の植林を勧めている。

今日は久しぶりに見渡す限りの夕焼け。明日の朝寒くなければいいが。

パラナ松の枝は大きくなるに従い上を向いていく。下の枝は独りでに落ちていき最後には一番上のほうだけ残る。

町の中には伐採禁止のパラナ松だけが残っていく

2019年6月7日金曜日

クリチーバ郊外の霧


霧のロンドンならぬ霧のクリチーバ郊外、ここに3月末ヴィトリアから引っ越してきて毎朝見る風景だ。しかし寒い、赤道と南回帰線の間のエスピリトサント州で41年過ごした私達にはこたえる。毎日半袖と短パンで過ごしてきた私だが今やジャンパーにジーパンで肩をそばめている。

ここに来る条件として簡易暖炉を備え付けるようにと言い渡した。今では毎朝毎晩薪を拾ってきて燃やしている。近所の人が笑う「まだ冬ではないよ!」慣れるのにはまだ時間(日にち?、年月?)がかかりそうだ。クリチーバのマンションにはこういうものは禁止されて置いてないと思う。本物の暖炉なら許されているだろうが。それでもこれは火が近いから暖かいし食べ物をあたためたりすることもできるので便利だ。

クリチーバのマンションの方は娘がリフォームしているのでまだ入れないが今月の中頃には住めるようになるのではないかと思っている。

娘婿はクリチーバ生まれなので寒さには慣れているみたいだ。

2019年2月9日土曜日

猛暑



エスピリトサント州は今も猛暑が続いている。1月は雨が一滴も落ちず家の庭の菜園も水をかけなかった所は雑草まで枯れてしまった。しかも青空には雲も出ない。引っ越しの用意もしなければならないのだが家の中でも動けば汗がでるので横になってテレビを見てい
る。
さて、上の写真の温度計に出ている数字の73度は気温ではない。家の風呂は太陽熱を利用すべく太陽熱温水器を取り付けてある。一年365日のうちに電気シャワーを使うのは多くて15日。2日くらい太陽が照らなくても温水保温タンクなので十分2日くらいは持ちこたえる。
この猛暑では温度が高くなるから用心しないと火傷(湯傷?)する。
さてもうすぐ私達はブラジルの州都で一番気温が低いといわれているパラナ州の州都クリチーバ市に引っ越す。娘はガスを使って温める風呂にしているが様子を見て経済的に太陽熱が使えるかどうかを調べてみようと思っている。

2019年1月11日金曜日

2019年が始まった!





明けましておめでとうございます!
2019年が始まった。クリチーバから家に着いたのが12月31日の夜、お供え餅はクリチーバに行く前につくってあったので家のアセロラを乗せて何とか正月の飾りつけができた。
後ろは物置小屋でこれから整理しなければならない。

今年はいよいよパラナ州の州都クリチーバ市に引っ越すことになる。
41年以上住んだエスピリトサント州、世界的な兆候なのかここ州都ヴィトリアを囲む大ヴィトリア圏内は人口の増加が激しく私達がこちらに引っ越してきた時は州都ヴィトリアは人口が一番多かったのが今や周囲の市に越され4番目になった。家の前にもマンション群が建ち並び騒々しくなってきた。
しかし引っ越しの一番の理由は子供たちはここから飛び立ってしまいここにはもう私達二人しか住んでいないということだ。私もこの正月で75才、妻も一昨年の院内感染からは何とか抜け出すことはできたもののバクテリアはまだ身体の中でスキを窺っている。
お互い年齢を重ね何かあっても相手を看ることは出来ない。
私達を心配して呼んでくれている子供の所へ行こうと決心がついた。娘も私達との新しい経験に心を弾ませている。
ちょっと心配なのは私の物忘れのスピードがすごく速くなってきているということだ。
後は「ケセラセラ」に任せるしかない。

去年の末はクリチーバ郊外に娘が建てていた家が出来上がり住めるようになったとのことで年末に様子を見に行った。水、電気、ガスなどが入っているので4日ほど泊まってみた。台所などは今住んでいる我が家にそっくりの配置なので自然に入り込めるようになっていた。これも私達がすぐ慣れるようにとの娘の策略(?)だったようだ。



理奈の夫のRodrigo(ホドリゴ)と。




家具も少し入り私達が注文した簡易暖炉が壁に据え付けてある。


ダイニングキッチン、配置は家のとすべて同じ。テーブルは家のがはいる。

居間

廊下と奥は部屋、車いすで入れるようにとドアの広さは80cmになっていた。

2018年12月10日月曜日

初めての旅行


このブログを始めてからは写真はデジタルなので、アナログの写真はどうなっているのかと本棚からアルバムを取り出してみたら写真が赤くなったり色がぼやけたりしている。早く何とかしないと思い出が消えてしまう。めくっているうちに妻と二人で初めて旅行したアルバムが出てきた。私たちの結婚は一月、田舎では一番忙しい時なので新婚旅行はできなかった。そうこうするうちに娘が生まれそのあと息子が二人生まれ、私たちの二人だけの旅行はお預けとなった。娘が14歳になり二人の弟の監視(?)もできるようになったので留守番を頼んで1週間の旅行に出かけた。

目的地は日本にいた時からいつか行こうと思っていたアマゾン地方とブラジルの歴史地区のバイア州の州都サルバドールへの旅行となった。
アルバムに写真のほかに旅行記もあったのでそのまま使うことにした。




サルバドールでは当時ブラジルで一番大きい航空会社VARIGが経営するホテルに泊まった。





海に近いマーケット
































































当時パノラマ撮影はできなかったので3枚の写真を重ね合わせて撮った。
船から見たサルバドールの全景。左手が教会の多いCentro.Histórico (歴史地区)
中心が商業地域、右手がビルの多いBARRA。

































長い修理が終わったばかりのアマゾン劇場を見学することが出来た。まだ正式には一般に公開されてなくなんでも見学者第一号とのことだった。当時のゴム景気の富を投じた贅沢な劇場だった。










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私のすぐ横の木彫りは丸太から彫られたもので長さ112cm、幅25cm。
おそらく丸太はそれ以上の寸法があっただろう、木のくさりもどこも継ぎ目はない。。
彫るのに大変だったろうと思った。初めは何も知らずに値切ろうと思ったが
それを聞いて向こうの言い値でかった。













当時の旅行記を読み直して日本語とポルトガル語のアルファベットそして
カタカナのポルトガル語などが混じっている。まるで家の中の会話だ。
自分だけのもので絶対外に出ないものだと思っていた。こうしてブログ
に載せて親戚、友人、知人に見てもらうことがあろうとは思いもしなかった。
他のアルバムに目を通すとどうやら写真だけらしい。何とか少しでも昔の
思い出を取り戻したい。