忠四郎氏には二人の息子がいます。上の息子は日本を出た時は七歳。東京に住んでいて近くに男爵の親戚がありその家は子供がいないので忠四郎氏の息子を自分の子のように可愛がっていつも自分の家へ連れて行っていました。外国暮らしが長かった男爵は当時としてはめずらしいパンやミルクを近所の「ベーカリー」なる所から取り寄せ身体が弱い子供のために「牛乳がゆ」などを作ってやっていました。そのおかげでか身体も大きくなり後に大人になった時には1メートル八十を越す背丈となりました。
ブラジルへ来てからはサンパウロの奥地の植民地を親とともに移動するうちに段々大きくなり家では日本語を両親から仕込まれ植民地内の日本語学校では日本語を学び毎日が日本語での生活でした。ほとんどの戦前の移民の家がそのようではなかったかと思います。一旗あげて日本に帰る気でいたので子供たちはブラジル語は必要ないと学校には入れず、それに家計の苦しい当時の移民の家では子供達は貴重な労働力で学校どころではなかったという事情もありました。私達もブラジルに来て10年くらいはそんな生活でした。何度ブラジルに来なければよかったと思ったことか。5月22日のブログのあの故郷(ふるさと)の歌の「志を果たしていつの日にか帰らん・・・」と聴く度に故郷がいかに遠く感じられたことか!5月17日のブログにあるように戦前は85%の移民がやがては日本に帰ることを夢見ていました。
忠四郎氏一家がブラジルにきて八年目に二番目の男子が誕生。戦時中、当時日本は敵対国ということで日本移民の家へは警察が家捜しをしてめぼしいものを没収という形でもっていってしまいました。そして戦後。ほとんどの移民がこの地に居着くことを決心しました。そのうちに少しずつ経済的にも余裕がでてきて忠四郎氏のところは小型トラックを買い求め自分で市場に荷をもっていくようになりました。。上の息子は農作業で日雇い労働者を使ったりトラックを運転して町へ出かけて用をたしたりでもっとブラジル語をうまくしゃべれるようになりたいと思っていました。そこで思いついたのが近くの集落にあるバール(注:2007年1月20日のブログ喧嘩を止めた一言)。仕事を終えた近所の労働者たちが集まって話がはずんでいる。知っている顔もある。アルコール類は一切飲めないのでミルクを注文する、それを手にして話の輪の中に入っていく。努力の甲斐あって(?)何ヶ月か通ううち彼のブラジル語はめきめきと上達していきました。
話ははずれますが彼のアルコールアレルギーの逸話のなかのトップ。これはずっと後の話ですが親戚の家で昼食をごちそうになり皆がいざ帰ろうとしても彼は酔ったのか顔が真っ赤になりそのうち気分が悪いと横になってしまった。席には何も酒は出ていなかったし誰も心当たりがない。料理を作った奥さんさかんに首をひねっていたが「はっ」と思いついた。フルーツサラダの中に味付けにほんのちょっとぶどう酒をたらしたのを。原因がわかって皆一安心。3時間くらい休んで彼の運転で帰りの途につきました。当時田舎のバールに入ってアルコールを一滴も飲まなかったのはブラジル広しと言えども彼くらいのものでしょう。こうして彼は日伯両語に通じるようになりました。
さて下の息子はというと親がブラジルに住むにはブラジルの教育を受けさせなくてはならないと決心しその町でも一番の上流社会の子供たちが通う学校の寄宿舎に入れさせられました。小学校の時から一日中ブラジル語づけ。週末に家に帰って来た時だけ両親と短い日本語での会話。その学校には日系人は彼一人。そんなブラジル人ばかりのところで、なおさら自分は日系人だということを強く意識しだし時間があれば兄が昔習っていた日本語の本や漫画などをとりだしてはむさぼり読んでいました。彼は日本語をだれに習うでもなく独学で覚え今でも私と話すときは流暢な日本語です。
さていよいよ大学受験。苦労した親にあまり負担をかけないようにと軍警の士官学校に入学しました。彼が少佐の時、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下がブラジルを訪問された際その護衛の任に当たり、殿下が『ご両親は息災でおられますか』とお声をかけられた時、「はい、ありがとうございます。元気にしております」と答え敬礼とともに靴のかかとがカチッとなった時は一瞬日本の近衛兵になったような錯覚を覚えたと語ってくれました。
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