2008年もあと三日。今年の終わりにこんな経済恐慌がおそってこようとは誰も想像できなかっただろう。アメリカの住宅事情の悪化が世界の金融、経済界の混乱を引き起こし果ては生産業にまで影響を与えた。各国の政府が連携してこれに対応していこうとしているが早急な巻き返しは可能なのだろうか? この世界規模の不況、今多くの人々の生活を脅かし重くのしかかっている。一日も早く回復の兆しが現れるよう祈っている。
今年はブラジルへの日本移民が始まって百年ということで記念祭が日系集団地の多いサンパウロ、パラナ州をはじめ各地で行われた。日本からも皇太子が来られ各界からも多くの参加があった。ここエスピリト・サント州でも州議会の発案で日系人のこの州への導入、援助などに貢献された人達また移住者高齢の方たちが表彰された。日系協会主催でもカルロス・ゴーメス劇場で同様の表彰式があり桜の記念植樹も行われた。これから日系社会ますます発展してブラジルの中に溶け込み活動範囲を広げてほしい。
どこにいてもこの時期は過ぎ去ったことを懐かしく感じさせる。自分も若くないということなのか。日本で約17年、ブラジルで48年。私は一月一日生まれ、あと四日で65歳の誕生日を迎える。元旦はその日自体がめでたい日なので私の誕生日は忘れられがち。妻がケーキを作ってくれるがご馳走の後なのでほとんど誰も食べない。正月は忙しいからケーキは作らなくてもいいと言ってあるのだが。「誕生日のケーキを食べないと誕生日ではない」とは隣の奥さんの口癖だが、その勘定だと私の歳は30歳前後か?
来年は丑年、忍耐を強いられる年になりそうだ。
2008年12月12日金曜日
実の父親はどこにいますか?
これは近くに住むカロルがこの前家に来た時に私達に話してくれたものです。
彼女はミナス州の出身で20年ほど前結婚、そして旦那の仕事の関係でエスピリト・サント州に引っ越してきました。エスピリト・サント州は小さな州なので何か大きなプロジェクトがあると他州から人材を募っています。私がいた会社でも多数ミナスから来た人達が働いていました。ミナス州は海に接していないので夏休み、冬休みなどはエスピリト・サント州に繰り出してきてどの海岸町もミナス州のナンバー・プレートの車で一杯になります。
さて今年の冬休み(7月)学校が終わるとカロルの叔母さんの息子のジョンが早めに一人でやってきました。ジョンは今年ミナスの大学の法科に入り初めての冬休み。両親は一週間後に来ることになっていました。着いた翌日早速カロルの次男のタデウとジョンは自転車を飛ばして海辺へと。半ズボンにTシャツ、そのまま海に飛び込みました。冬といってもこの辺昼は28度くらいあって子供たちは海に入って遊んでいます。飛び込んだジョンなかなか顔を上げない。タデウがつついてもなんの反応もない。あわてて顔をひきあげるとぐったりしている。浜辺まで引き上げるとあたりから人が寄ってきて携帯で救急車を呼んでくれた。病院で調べて見ると脊髄が押しつぶされている。どうやら海に飛び込んだときに頭を打ったらしい。下は砂の浅いところなのに彼だけがこうなったのは誰にも納得がいかなかった。上半身は型で固定された。ミナスの親の所に連絡が行き、まず母親が付き添いに来、それから3日たって父親がきた。ジョンは手術が必要と判断され輸血が必要となってきた。ジョンの血液型はまれな血液型で病院にはストックがない。家族の血液型が調べられたのち医者が病室に入ってきて家族を隅に呼んだ。「父親は?」『はい、私ですが』「いや、実の父親はどこにいますか」。父親、医者が何を言いたいのかさっぱりわからずキョトンとしていると横から母親すました顔で「この子の父親の行方は知りませんがその母親の住所は知っていますからそこへ行けばわかるでしょう」「それでは一刻もはやく呼んできてください」。
父親、子供のことで気が動転しているのか何も言わずただ奥さんから住所をもらってその日のうちにバスでミナスの小さな町に向かった。その町に降り立って住所を言うとその家はすぐにわかった。ドアをたたくと男の人がでてきた。「今あなたの息子さんが大変であなたの血がいるのです」。その人、さっぱりわけがわからずおそらく人違いだろうと思い「おれには息子はいないよ」「いやそれは私の息子なのですがとにかくあなたしか私の息子を救えないのです」それからいきさつを説明してもやはり息子なんていないと言い張る。「人ひとりの命がかかっているのです。どうか私と一緒に来て下さい」やっと熱意が通じ「どこの病院で聞いてきたのか知らないが私の血はめずらしいそうだ。そこまであなたが言うのなら行ってあげましょう」。
二人はその日のうちにヴィトリアに向かった。二人が病室に入ってきた時そこにいた親戚一同、あっと、驚きの声をあげた。ベッドの上のジョンと父親のあとについて入ってきた男があまりにもそっくりだったからだ。ジョンの母親であるカロルの叔母は浅黒い肌で父親は黒人。ジョンは肌の色は白で青い目。しかしブラジルではよくあることで誰も怪しまない。人種混合のブラジルでは親と違った肌色の子供が生まれても何代目か前にそういう血が入ったのだろうということで納得する。兄弟でも肌色や目の色の違うのがでる。しかしカロルは思い出した。叔母が結婚したとき1ヶ月も交際をしたかしないうちに式を挙げたことを。今の旦那が以前から彼女のことを好きでたまらないことを知っていてちょっと声をかけたら出来るだけ早く結婚したいと申し出たと自慢げに話したのを。
ジョンは7ヶ月の未熟児で生まれたと言っていた。しかし髪は長く大きい赤ちゃんだったのを覚えている。これで19年前の謎が解けたと思った。父親は後ろの男の人を献血に参加して下さったヴォランティアの人だと息子に紹介した。ジョンは弱々しげに「ありがとうございます」と言っただけ。彼は献血をした後急ぎの仕事が待っているのでと病院からバスターミナルへ直行。病室はしばらくの間誰も口をきかず静まり返った。手術は無事成功。ジョンも次第に快方に向かって行った。カロルは胸をなでおろした。あんなに父親になついているジョンが本当の父親がほかにいるなんて知ったらそれこそこの世に生きていないかもしれないと。
彼女はミナス州の出身で20年ほど前結婚、そして旦那の仕事の関係でエスピリト・サント州に引っ越してきました。エスピリト・サント州は小さな州なので何か大きなプロジェクトがあると他州から人材を募っています。私がいた会社でも多数ミナスから来た人達が働いていました。ミナス州は海に接していないので夏休み、冬休みなどはエスピリト・サント州に繰り出してきてどの海岸町もミナス州のナンバー・プレートの車で一杯になります。
さて今年の冬休み(7月)学校が終わるとカロルの叔母さんの息子のジョンが早めに一人でやってきました。ジョンは今年ミナスの大学の法科に入り初めての冬休み。両親は一週間後に来ることになっていました。着いた翌日早速カロルの次男のタデウとジョンは自転車を飛ばして海辺へと。半ズボンにTシャツ、そのまま海に飛び込みました。冬といってもこの辺昼は28度くらいあって子供たちは海に入って遊んでいます。飛び込んだジョンなかなか顔を上げない。タデウがつついてもなんの反応もない。あわてて顔をひきあげるとぐったりしている。浜辺まで引き上げるとあたりから人が寄ってきて携帯で救急車を呼んでくれた。病院で調べて見ると脊髄が押しつぶされている。どうやら海に飛び込んだときに頭を打ったらしい。下は砂の浅いところなのに彼だけがこうなったのは誰にも納得がいかなかった。上半身は型で固定された。ミナスの親の所に連絡が行き、まず母親が付き添いに来、それから3日たって父親がきた。ジョンは手術が必要と判断され輸血が必要となってきた。ジョンの血液型はまれな血液型で病院にはストックがない。家族の血液型が調べられたのち医者が病室に入ってきて家族を隅に呼んだ。「父親は?」『はい、私ですが』「いや、実の父親はどこにいますか」。父親、医者が何を言いたいのかさっぱりわからずキョトンとしていると横から母親すました顔で「この子の父親の行方は知りませんがその母親の住所は知っていますからそこへ行けばわかるでしょう」「それでは一刻もはやく呼んできてください」。
父親、子供のことで気が動転しているのか何も言わずただ奥さんから住所をもらってその日のうちにバスでミナスの小さな町に向かった。その町に降り立って住所を言うとその家はすぐにわかった。ドアをたたくと男の人がでてきた。「今あなたの息子さんが大変であなたの血がいるのです」。その人、さっぱりわけがわからずおそらく人違いだろうと思い「おれには息子はいないよ」「いやそれは私の息子なのですがとにかくあなたしか私の息子を救えないのです」それからいきさつを説明してもやはり息子なんていないと言い張る。「人ひとりの命がかかっているのです。どうか私と一緒に来て下さい」やっと熱意が通じ「どこの病院で聞いてきたのか知らないが私の血はめずらしいそうだ。そこまであなたが言うのなら行ってあげましょう」。
二人はその日のうちにヴィトリアに向かった。二人が病室に入ってきた時そこにいた親戚一同、あっと、驚きの声をあげた。ベッドの上のジョンと父親のあとについて入ってきた男があまりにもそっくりだったからだ。ジョンの母親であるカロルの叔母は浅黒い肌で父親は黒人。ジョンは肌の色は白で青い目。しかしブラジルではよくあることで誰も怪しまない。人種混合のブラジルでは親と違った肌色の子供が生まれても何代目か前にそういう血が入ったのだろうということで納得する。兄弟でも肌色や目の色の違うのがでる。しかしカロルは思い出した。叔母が結婚したとき1ヶ月も交際をしたかしないうちに式を挙げたことを。今の旦那が以前から彼女のことを好きでたまらないことを知っていてちょっと声をかけたら出来るだけ早く結婚したいと申し出たと自慢げに話したのを。
ジョンは7ヶ月の未熟児で生まれたと言っていた。しかし髪は長く大きい赤ちゃんだったのを覚えている。これで19年前の謎が解けたと思った。父親は後ろの男の人を献血に参加して下さったヴォランティアの人だと息子に紹介した。ジョンは弱々しげに「ありがとうございます」と言っただけ。彼は献血をした後急ぎの仕事が待っているのでと病院からバスターミナルへ直行。病室はしばらくの間誰も口をきかず静まり返った。手術は無事成功。ジョンも次第に快方に向かって行った。カロルは胸をなでおろした。あんなに父親になついているジョンが本当の父親がほかにいるなんて知ったらそれこそこの世に生きていないかもしれないと。
2008年12月10日水曜日
山羊の足
山羊の足
ブラジルの私達が住んでいる州では誰も耳にしたくない言葉に「山羊の足」というのがあります、というのは運が悪いことを意味するからです。例えばどの店でもお客さんが一杯入っている中に一つの店だけ誰も入っていない。すると人々は言います「ここには山羊の足が埋められている」。家の庭、春になると沢山の花が咲きます。しかしある小さい一角だけ花も咲かないし草も育ちません。ひょっとしてここには本当に山羊の足が埋められているのかも知れません。
Goat´s foot
In our state in Brazil, nobody wants to hear the word “goat’s foot”, because it means bad luck. For example, among many stores full of clients, there is one store where nobody is seen. Then, people say “Here, goat’s foot is buried” . In my garden, when the spring comes, we can see many flowers. But, there is one small space where neither flower nor grass grows. I don’t know if really there is goat’s foot buried.
ブラジルの私達が住んでいる州では誰も耳にしたくない言葉に「山羊の足」というのがあります、というのは運が悪いことを意味するからです。例えばどの店でもお客さんが一杯入っている中に一つの店だけ誰も入っていない。すると人々は言います「ここには山羊の足が埋められている」。家の庭、春になると沢山の花が咲きます。しかしある小さい一角だけ花も咲かないし草も育ちません。ひょっとしてここには本当に山羊の足が埋められているのかも知れません。
Goat´s foot
In our state in Brazil, nobody wants to hear the word “goat’s foot”, because it means bad luck. For example, among many stores full of clients, there is one store where nobody is seen. Then, people say “Here, goat’s foot is buried” . In my garden, when the spring comes, we can see many flowers. But, there is one small space where neither flower nor grass grows. I don’t know if really there is goat’s foot buried.
2008年12月8日月曜日
漢検
去年母が家に来た時にサンパウロで購読していた日本語新聞をこちらに住所変更したのでそれから日本語新聞を読むようになった。10ページほどで日本、世界、ブラジルのニュース等が載っている。その新聞でブラジルでも年に一度漢字能力検定試験(漢検)なるものがある事を知った。2級は高卒程度で常用漢字および人名漢字の約2千の漢字が対象と書いてあった。常用漢字は大体知っていると思ったので2級を受けることにした。試験場はリオとサンパウロ。リオの場所を調べてみると息子のアパートから近い。参考書も買わずに二十数年前日本で買い求めた本で一ヶ月程勉強してさて試験場に。読みはまず問題なかった。しかしいざ書くとなると知っているようでなかなか確信を持てない。結果は合格には2点足りなかった。2点とは書きの問題では一問である。ほとんど答えたので自分では通ったと思っていた。しかし後でどこを間違えていたかチェックして自分の書き癖に気がついた。「はね」てない、下の棒が長い、そして自分では楷書で書いていると思っていたのが実は行書で書いていた、などなど。そう言えば私の日本語は最近はネットの普及で読売や朝日新聞のニュースを読んでいるが書くことは全くない。会社で働いていた頃は日本語とはゼロ。私と同じように日本生まれの人が一人下の階の経理で働いていたのでたまに会うと日本で話すだけそれも挨拶程度。
今書いているこのブログはパソコンがひらがなを漢字に変換してくれる。もちろん色々な選択肢から正しいものを選ばなければならないが。まず手で書くことはない。家では妻と日本語。妻はこちらの日本人植民地内の日本語学校で子供の頃3年ほど日本語を習ったそうだ。その頃は有志が近所の子供たちを集めて自分の倉庫で授業料も取らずに忙しい仕事の合間に日本語を教えていたところも多々あった。いなかの日本語学校ではまだコロニアが貧しい時代で先生の給料も安かった。一人の先生が学力の違う子供たち全部の面倒をみていた。ささやかな情操教育をと自作の楽器で日本の童謡を教えていた先生もいた。今のコロニアの日本語はそういう人達の奉仕に支えられてきた。敬意を表したい。当時私にも小さな日本人の集落の倉庫を使っての夜の子供たちの日本語の勉強を手伝ってくれないかと話があったがまだ移住歴も浅く苦しい時代で毎晩12時過ぎまでの荷詰めでそんな余裕なんかなかった。今年の日本移民百年祭、表で活躍した人達は表彰されただろうが裏で陽の目を見ることのなかった人達、いつまでも懐かしく思い出し感謝している人達がいることを忘れないでほしい。
さて妻の話に戻ろう。彼女の日本語はほとんど独学。いなかでの家の中ではおじいちゃん、おばあちゃんと日本語での会話。大人の言葉使いをすると近所の子供たちからいじめられたそうだ。それが基礎となって後は漫画、雑誌で日本語の語彙を増やしたそうだ。思えば私たちも日本で小さい時そうだった。ブラジルでは小学校に入る頃から外ではブラジル語での会話となる。小学校は家の近くにあるが中学校になるとバスで通ったりする。家での生活の時間が短くなり、段々とブラジル語の割合が多くなり日本語との接触が少なくなってくる。日本語離れが懸念されていたころそれまで思いもかけなかった現象が起きた。ブラジルから日本への出稼ぎだ。新しい形での日伯交流が始まりこれでブラジルでの日本語が勢いを盛り返してくれるといいが。私のこの日本語のブログの最終チェックは妻に頼む。以前日本から来られた人に言われたことがあった「あんたより奥さんのほうが日本語うまいね」。
今年も10月の末に漢検があった。イタリア旅行の帰りリオに寄ったときに申し込んだ。今年は日本からネット販売の「アマゾン」を通して問題集などを取り寄せた。便利な時代になった。去年失敗した字の癖などに注意して今年は2級の200点満点の198点でパスし昨日合格証明書が届いた。
登録:
投稿 (Atom)