昨日11日はクリチーバに住む娘理奈の誕生日なので電話を入れたところ以前彼女が小新聞「眩暈」に載せたピタンガの話(2011年11月5日のポスト)を日本語に訳したので見てほしいと言ってきた。娘が経営する東洋文化センター「トモダチ」で日本語の先生をしていて昨年まで日本で仕事をしていた日系のマヤラさんが翻訳したのに事情を知っている私が少し手を加えて下の文となった。
父とピタンガの木とその多くの実
2007年、クリチーバで日本語を教えはじめた頃、生徒達によくこの話をしていた。
私が日本語教師になったきっかけはシヴィック・センターのサイクリングロードの横、ポーランド移民記念広場のあたりに立っているピタンガの木だと言う話。私にとってとても大切なこの話も長いこと語らないでいたので、新聞「メマイ」に記録しておく事にした。
2006年、クリチーバへ移り住んで何ヶ月かした頃、両親がエスピリト・サントから様子を見に来てくれた時の事である。当時私はシヴィック・センターに住んでいて、その広場からも近かったことから、二人は毎朝広場周辺を散歩する事を習慣づけた。ある朝、散歩から帰ってきた父は真剣な顔付きで、市役所へ手紙を出すと言った。治安やインフラに関して主張するのだろうと思ったその手紙は、全く違うものだった。父は、次のように書き始めるつもりだと語り始めた:
「拝啓、
私はポーランド移民記念広場の近くの自転車専用道路の横に植えられたピタンガの木です。寒さのあまり、凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里に帰して下さい。」
細いピタンガの木を目にした父が、その植物の苦しみを説明する姿を見て、私は微笑まずにはいられなかった。「やっぱりお父さんね」の様な事しか言わなかったような気がする。私にとってこの話が面白く素敵なのは、両親の純真で思いやりを感じさせられるところにある。私も同じ道を何度も往復したが、自分の目では一度もそんな角度で見たことはなかった。それが出来るほど、私は目を(そしてそれ以外の何かをも)開けていなかったのだと思う。いつも自分の考えや問題のみに気をとられていたのかもしれない。いつも急いでいたのかもしれない。そこまで思いやりを持てる程、まだ苦労していなかったかもしれない。
「我が里...」と父は言った。昭和19年日本で生まれた父は、16歳の若さで家族と戦後の景気後退から逃げるようにブラジルへ移民して来た。昭和35年に、祖父・祖母そしてその子供4人でアフリカ丸に乗船してだ。言葉では言い表せない程辛く、苦しい時代だったと言う。何年か前、両親と兄弟達と田舎に遊びに行った時、土壁に少しのレンガを合わせて作り上げられた家を見かけた。父からブラジルでの最初の数年間は似たような家に住んでいたと聞いた。陽が沈むと、壁に開いた沢山の隙間から入ってくる風はとても冷たく、寒さを運んできたと。信じがたかった。定年退職し、いつも穏やかで物静かな私の父が、50年もしない昔にそんな暮らしをしていたなんて。
「凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里へ帰らせて下さい」。何度の寒さを乗り越えて来たのだろうか。何回日本へ帰りたいと思ったのだろうか。
自分は幸いそういう生活を知らずに育った。全ての命に対する思いやりに隠された強さや決意、それは仏教の大事な心意であって、「私はピタンガの木」のような小さな言葉に現れる。自身の肌で感じた寒さと故郷を離れる悲しみがあったうえでの思いやりが。今でも、この話に感動すると父に言うと、「バカじゃないか」と言って笑う。
これが授業と何の関係があるのかと言うと、より多くの人に、こういった話や物語を聞いた時、言葉の裏側に潜む価値観や困難を発見してもらえたらと思ってこの話をしている。自分の文化に潜む力を発見してもらいたい。家族内での小言や、いつもよりちょっと甘かったり辛かったりした食事、親からのあたたかい視線に潜む美しさを発見してほしい。
本当は、この話を聞いた事で、もっと多くの人に微笑んでほしかっただけだと思う。自分もピタンガの木であるのかもしれない、と気づいた優しい目をして。
P.S. この記事を書いた後、写真を入れても良いかを訊くために父にメールを送った。返信された答えは「リナ、写真は使っても問題無いよ。昨日、写真を何枚か探しながらアルバムを漁っていて、昔の事を思い出していたんだ。君らの小さい時の事も。ユーカリや竹、わらぶきや土で作った、夢も絶望も沢山詰まったあの家の写真ももちろん見付けた。でも、それをも優しく思い出させてくれる為に、「時」は昔の苦しみや辛さまでも懐かしさに変えてくれた」と書かれていた。
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