私たちの土地はこの道路沿いにあったのか?坂田夫妻と右は妻 |
娘夫婦とサンパウロ市で一日過ごした後その次の日は長い間行ってみたいと思っていた Botucatu に行くことにした。そもそも私たちはボツカツの土地に入るためにブラジルに来たのである。53年前、明治鉱業がボツカツに用意してくれた一家族当たり2.5アルケール(一アルケールは24200平方メートル、これはサンパウロ州で隣のミナス州は倍の48400平方メートル)の土地で桃栽培をするために入るようになっていた。
そのため当時桃つくりが盛んだったサンパウロ近郊のイタケーラで桃つくりをしていた日系農家で一年間働いて仕事を覚えその後ボツカツに入るようになっていた。明治鉱業から何家族来たのか正確には覚えていないが私たちと同じ船で6家族そしてほかの船で来た人たちもいる。全部で十数家族だったのか。家長の集まりが月に一回あり二、三回はボツカツに視察に行ったように覚えている。当時の父の話だと泊めてもらった家の洗濯物を干すために外に張ってある針金が風でヒュンヒュンとなっていたそうだ。
そして最後にボツカツを視察した時に土地の振り分けのくじ引きがあった。土地はほぼ正方形。坂の土地で下の方に川(行ってみたら水量の少ない水源林だった)そして上は道。それに横に平行に三つに分けてあり、あとは土地の広さに見合うように縦線。
三分の一の家族しか水を確保できない。父は道側のくじを引いてしまった。水が無くては農業は出来ない。この時点で私たちはボツカツを断念した。入れば自分の土地があったのにと、その後モジ・ダス・クルーゼスに行って借地農として苦しさを味わうたびにあの時ボツカツに入っていれば良かったと何度嘆いたことか。
ボツカツはサンパウロ市から約240キロ、標高は800mだからサンパウロ市とほぼ同じ。人口は約13万人、直行バスが地下鉄Barra
Funda駅に直結しているバス・ターミナルからでていることをネットで調べ切符も買った。約3時間の旅となる。
Botucatu という地名は原住民の言語ツピー語でBons ares、良い空気、それが広義に解釈して良い気候、または良い風という意味になる。なんだ、ブラジルの Buenos Aires か!
今回のサンパウロ行きには是非ボツカツに行きたいと思っていた。今までいつでも行けると思っていつも後回しにしてきた。サンパウロ州に17年、エスピリトサント州に35年、こちらに来てもまだ若い時は週末前後に祭日がある時や1年に一度の会社の一か月の長期休暇の時はエスピリトサントからサンパウロまで一千キロを妻との交互運転で幼い子供をのせてよく行ったものだ。当時は道路も今ほど整備されてなく私たちの車にはエアコンさえなかった。たまには足を延ばして妻の叔父の住むSorocaba
まで行ったりした。その頃だとボツカツには本当にいつでも行けたのだが・・・・
今は腰や足が痛み体に自信がない。「いつでも行ける」が今は「もうあとでは行けない」という状況だ。明日の約束ができない、行きたいと思っていた所には今、まだ行けるときに行っておこうと思う今日この頃である。
まず第一にボツカツに明治鉱業の人が誰か住んでおられるかどうかを知る必要がある。
インターネットでボツカツの日系人の団体がないか検索すると出てきた。そこに電話した「1962年頃にそこに桃つくりに入植した明治鉱業の人で「坂田さん」という人がおられるでしょうか」と聞くと「おられます」という事。坂田さんは日本の頃、家の近所に住んでおられた人でそこの長男の人はやはり近所に住んでいた私と同じ年のいとことは同じ高校に通っていて彼の友達とは聞いていた。坂田さん一家はボツカツに入られた数少ない家族で私たちがモジの奥のBiritiba
Mirim に自分たちの土地を買求めて農業を営んでいた時一度次男の人と一緒に家を訪ねてこられたように記憶している。
まだそこにおられるかどうかわからなかったがインターネットで検索したたった一本の電話で消息を知ることが出来た。実にラッキーだった。その人はボツカツ日本人会の関係の坂手という人で「今坂田さんのところの電話番号はないがあとで調べてこちらから連絡します」と。一時間ほどして電話がはいり今は坂田さんの三男の方がやっておられます、そこの電話番号は・・・・・・ですと教えてくれた。ありがとうございます。その晩電話をかけて佐伯ですがというと名前は聞いてました、訪ねてきてくださいバスターミナルまで迎えに行きますと快諾してもらえた。
サンパウロからボツカツまではCastelo Branco 高速道路を通っていく。何十キロ行っても町が見えてこない。制限時速は110キロ、Sorocaba や周辺の大きな町には高速道路から何キロか入るようになっている。3時間強でボツカツのバスターミナルへ。待合ベンチに日本人夫婦、「すいません、坂田さんでしょうか?佐伯です」と握手を交わす。「家はここから12キロです」その道中いろいろ町の移り変わりなどの話を聞く。横に広がった静かな町、気候がよく住みよい街だと、さすがBuenos
Aires。51年前、父も夢と不安を抱きこの道を通ったのかと思うと感慨深かった。
やがて小高い場所に車を止めると、「ここが土地を選ぶくじ引きがあった場所です」との説明。見渡すと土地は乾燥していて下の方に木が茂っている帯が見える。ああ、あそこが川か、思っていたほど大きくなく水も見えない。湧き水がありボツカツ市の水源の一つになっており環境局の見回りもあるとのこと。「佐伯さんの土地は確か道に面した土地でこの先をちょっと行った所だったと聞いてます」とさされた指の方向を見る。背の高い草が少し生えている。色々と説明を聞きながら低みにある坂田さんの家に着く。明治鉱業の家族のうち結局は4家族しかボツカツに入らなかったそうだ。坂田さんは川べりは当たらなかったが川べりが当たった人の中から入らない人が出るのではないかと待っていて一家族入らなかったのでその土地に入られたそうだ。
4家族入ったけど今は借地に出した人や、病気で町に移った人もいて結局は坂田さん一家しかこの先やっていけそうもないのではという気がした。
坂田さんのお父さんは86で亡くなられたとのこと。93歳のお母さんはまだ元気で家の手伝いを少しやっておられるようだ。「来よう来ようと思っているうちに50年経ちました」とあいさつすると笑顔で「よく来てくださいました」と返していただいた。私と同じ年の長男の人はずっとサンパウロ市で日本の商社に勤められサンパウロ市に住んでおられるとのこと。次男の方は独身で一緒に農作業の手伝いをされているそうだ。
坂田さんたちは初めは桃、それからブドウ、そして今は日本梨の栽培をしておられて成績も良いようで大きな梨の実がなっていた。色々な品種を試されこれからは土地にあっているのか成長が速い日本の梨ニッコリ種だけに絞ると話された。まだこの梨は試験中で市場には出回っていないとのこと。なんでも1個の重さが1キロ半位になるとのことで楽しみだ。ちぎりたてを頂いたがみずみずしい。さすが日本の梨だ。
お土産にやはり日本の梨、新世紀梨(ブラジルでの呼び名はYellow Super)をひと箱いただいた。この梨の収穫時期は1月だがその時出荷すると値が低いので冷蔵倉庫に入れておき品のない今出荷すると高い値で売れるそうだ。なるほど、そこまでやれば完璧だ、と感心した。
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