2011年11月13日日曜日

ブエノスアイレス紀行 その5


City Tour が始まり町の中を通り始めた時若い女の子が乗り込みカメラをかまえて座席に座っている私たちをとり始めて終わると降りた。そして最終コースのRicoletaに近づいたころまた乗り込んできた。皆さんがBocaでタンゴを踊っているのを撮らせていただきましたといって皆に写真を渡し始めた。見ると朝撮った私たちをタンゴの衣装の中に納めた合成写真であった。Boca  Juniorのサッカー場で観戦してる写真もある。デジカメとコンピュータで今はどんな写真でも作れる。ブエノスアイレスの思い出として少々高いが皆買っている。私たちも買った。上の写真がそれである。確かにBoca では衣装を貸してタンゴを教えて一緒に踊ったりしていた。
それと市内観光の間ガイドの娘がずーとビデオカメラで撮っていた。後でこれを売りつけるのだなとそれは分かっていたので積極的に撮られるようにした。昔アマゾン川のマナウス市に行った時やはりビデオを撮っていたがその時は分からず極力避けていたのでビデオを買わないかと言われたときはほとんど映っていないとわかっていたので買わなかった。市内ツアーの他にアルゼンチン、ブエノスアイレスの歴史、3枚目には代表的なタンゴの歌まで入っているという。もちろん買うといってホテルに届けてもらうようにした。アルゼンチンに来て、すべての支払いはアルゼンチンのペソ、ブラジルのレアル、米国のドルと3つの通貨でのオプションが出された。アルゼンチンに行く前にブラジルでレアルをペソに換えて持って行った。レアルでも通じるという話しを聞いていたので少しレアルも持って行った。ブラジルで正式に換えた時は1レアルで2ペソ。アルゼンチンではそれが1レアルで2.5ペソ。すごい損をした。今までは外国旅行の時は訪問先の通貨に換えて持って行っていたのでまさかこんなに差が出るとは思ってもいなかった。また1ドルは2レアルの計算でこれもドルのほうが有利。なんだ結局はいつもどおりドルで持っていけばよかったのだ。

2011年11月12日土曜日

ブエノス・アイレス紀行 その4


次の日はCity Tour, 朝8時に観光バスが迎えに来るようになっていたので7時半頃ロビーの横でCafé da manhã (朝食)をとった。テレビがかかっていたので見ていると昨日あった大統領選挙でCristina Kirchnerが過半数を獲得して大統領に再選されたと報じていた。それにしても昨日は選挙日とは思えないほど静かだった。これがブラジルだったらすごい喧騒のはずだ。バスは遅れて着きホテルを出たときは8時半をまわっていた。ガイドが今日のルートを紹介。そしてブラジルから来られたひとのためにゆっくりスペイン語を話しますのでそれでも分からないことがありましたら手をあげて下さいブラジル語で説明しますから、ということだったが途中誰も手を上げなかった。Buenos Airesのシンボルでもあるオベリスクは市内を回っていると何回もみる。世界一幅の広い通りと言われる7月九日通りを通ってまず大統領府のある五月広場(Plaza de Mayo)へと。大統領府はその色からCasa Rosasa(ピンク色の家)とも呼ばれている。そして大統領がここで執務中の時はアルゼンチンの旗が掲げられるとのこと、ちょうど旗が大統領府の上にはためいていた。ここからもオベリスクが見える。広場の斜め横には大聖堂、正面の12本の大きな柱はキリストの12使徒を表しているのだとか。またこの広場は軍事政権時代の弾圧の犠牲になった息子たちを返せと母親たちが立ち上がった所としても有名。町の中を通り今度はBoca に向かう。アルゼンチンにはイタリア移民が多い。ここは彼らが港湾施設などで働いてた頃の苦しい時代の面影が残されている。レストランの前では客引きにタンゴを踊っている。そしてもうひとつここにはアルゼンチンの現代の英雄とも称されるマラドナがプレーしたあの世界的にも有名なサッカーチーム「Boca Junior」のサッカー場がある。マラドナの像はBocaのいたる所にある。ブラジルでは世界一のサッカープレイヤーはペレーだがここではマラドナ。サッカーの両国のライバル意識は強い。バスはBuenos Airesのまちを横切り公園地帯を抜けRecoleta墓地へと。バスはこのまま始発点に戻るので私たちは下車。アルゼンチンの有名人たちが眠る墓地へと。ここには国民から愛されEvita の名で慕われ若くしてなくなったペロン元大統領夫人Eva Peronの墓もある。ブラジルでもこの程度の規模の墓地はあるので特に珍しいとも思わなかった。カトリックでは原則的に火葬はないのでどうしても墓は広い場所をとる。入るときに墓地の地図を買い有名人の墓を巡る。 きれいに手入れしてあるがこういう観光はあまり好きではない。軽い昼食をとり、娘から頼まれていた本を買うために少し歩いた。アルゼンチンは以前南米のヨーロッパといわれていたそうだが今までそれを感じることは出来なかった。今日は歩いてダウンタウンに向かった。有名な店やホテルに出会う。通りも広い。静かで確かにヨーロッパを思わせるところもある。しかし本はとうとう見つからなかった。
上の写真はBocaにて。

2011年11月11日金曜日

Buenos Aires 紀行 その3

着いた日の夜、8時前10分ロビーに下りた。母娘らしい二人がロビーのソファーに座っている。「ひょっとしたらタンゴショーに一緒に行く人たちじゃないかな」と言うと妻が早速行って何か話しているかと思ったら爆笑が起こった。やがて妻が戻ってきて「いっしょに行く人たちよ。チリから観光に来ているのだって」「でも何であんなに笑い出したの?」「チリに行ったことがあるかと聞かれたので行った事があると言ったら、どこが一番気に入ったかと聞かれたのでノーベル文学賞を受けた詩人パブロ・ネルーダの家だと言ったの、そしたらあのチャスコ-ナの所かと言ったのでそうだと答えて私の髪をひっぱってみせて、それ以来私のあだ名はチャスコーナになったのよと言ったら二人がお腹を抱えて笑い出したの」。スペイン語とポルトガル語(ブラジル語)、ゆっくり話せば会話レベルなら大体分かり合える。
たいていブラジルからチリへの短期観光は首都サンチャゴを見て海岸のまちValparaisoに降りその途中ワイナリーを見学。Valparaisoから避暑地ヴィニャデルマールを見てサンチアゴに戻るコースとなる。その中でパブロ・ネルーダが住んだサンチアゴとバルパライゾの家が博物館となっている。サンチアゴの家は船のキャビンのような部屋で波に揺られているのを表すかのように床がわずかに傾いている。ノーベル賞のメダルも飾ってあった。この家に一緒に住んでいた愛人マチルデ・ウルティアの愛称がチャスコ-ナ(乱れ髪)でその家もLa Chascona とよばれている。妻は生まれつきのボサボサ髪, パーマをかけたようになっている。スーパーに入ってそれぞれ別れて買い物をして、さて妻がどこにいるのかとあたりを見回しまず特徴のある髪を探す。チリから帰っていっとき妻を呼ぶときその「チャスコ-ナ」を使わせてもらった。
そういうわけでその母娘とその後ホテルで出会う時は挨拶を交わすようになった。
迎えのバスは8時過ぎに来た。私達4人が乗り込むといっぱいになり夜のブエノス・アイレスをバスはタンゴショーへと。バスの中の会話は英語とスペイン語とブラジル語が飛び交っている。やがてバスは止まりレストランと舞台が一緒になったところへそして夫婦はそれぞれ向かい合ってすわるように導かれる。メニューが渡される。メインにステーキを頼む。肉の厚さは3センチ以上。柔らかくてナイフがさっと入る。ブラジルで食べる肉より柔らかい。アルゼンチンワインと良くあう。隣は70を過ぎたリオからきた夫婦。なんでも今年はこれで三回目だそうだ。また年末には来るかも知れないと。割引航空券が手に入ればブラジル国内を旅行するより安くタンゴショーが見れおいしい肉が食べれるからだとか。
やがてタンゴショーが始まる。足が俊敏に動く情熱的なダンスだ。独特なリズムで次から次へと繰り広がれるタンゴショー。いつの間にか時計は12時をまわっていた。

2011年11月9日水曜日

Buenos Aires 紀行 その2


昨日のブログを見ていた妻が「これちょっとおかしいよ」といった。「どこが?」「これ海外旅行じゃなくて外国旅行でしょう。」あっ、そうか。いつもNHKのニュースを見ていて「ゴールデン・ウイークでは海外へ・・・万人の人が・・・」とか言っている。そこでつい海外=外国という方程式(?)が頭の中に出来上がっていた。しかしブラジルは南米大陸の中で国境を接していないのはチリとエクアドルだけ。それでもそれらの国にも陸伝いにいける。ちょっと待てよ、北米にも陸伝いにいける。いつだったかオートバイきちのゴルフ仲間が数人でチリの南端から南アメリカ大陸を縦断、アメリカのカルフォルニアに行きそれから有名なルート何とかを完走するという壮大な計画を立てていたことを思い出す。結局は途中で挫折してしまったが。するとアメリカでも海外とは言えないのか???
Argentina という国名はラテン語で銀の地という意味(化学記号の銀Agはここからきている)。ラプラタ川(Rio de la Plata)とはスペイン語で銀の川という意味。スペインがペルーやボリビア等で掘り出した銀をこの川を使い自国に運び出すのに利用したことから由来したらしい。
ブエノス・アイレス (Buenos Aires)とは良い空気の複数形で良い気候を意味するとずっと思っていたのだが今回のCity tourのガイドの説明では宗教的なエピソードによるものだった。
さて空港からヴァンでブエノス・アイレスの中心街にあるホテルに到着。チェックインをしていると私に電話がかかってきているとフロントから渡された。ブラジルの旅行会社と提携しているこちらの会社の人で私達をサポートしてくれるという。12時ホテルのロビーで待ち合わせの約束。やがて彼女がかばんを抱えてきた。明日は朝8時にミニ・バスが迎えにきて午前中はCity tour。そして帰りの日は市内の空港ではなくて国際線の空港で遠いので午後1時半に迎えにきます。全部ブラジル語で話が進む。今回の旅行全部ブラジル語でスペイン語ゼロ。こんなことは初めて。
なるほどこれで向こうの責任の空港から(へ)の送迎そしてCity Tourは終わりか。後はどうされますか今度はオプションを出してくる。その日の夜のディナー付きタンゴショーと明後日のウルグアイの世界遺産Colonia de Sacramentoへの船での往きかえり・昼食・Citytour付きを頼む。早速彼女は携帯でいろんなところへ連絡して全てを手配してくれた。短期間の旅行ではこうしてサポートしてもらえると短期間だが有効に使えるのでありがたい。
今日は日曜日なので店はしまっています。午後には骨董市がここの広場であるし、お墓のこの辺では花市がありますとか地図を指差して説明。そして今日は大統領選挙日なのでこの辺には近寄らないほうが良いでしょうとの注意も。
早速、骨董市へ。すごい人ごみ。そして行き交うたびに聞くのはブラジル語。売るほうもブラジル語でくる。なるほど観光客相手の商売ではブラジル語を話せないと死活問題か。人ごみの半数以上はブラジル人だとみた。広場だけではなくまわりの路地でも色々なものを広げて売っている。果物や食べ物を売っているマーケットがある。みかん等はブラジルからだと言っている。そこでサンドイッチを買い求め歩きながらかじる。なにも欲しいものがなかったので早めに引き上げホテルまでタクシーで。タクシーにはおつりなどに注意しろと旅行社の人も言っていたが皆良い人で問題はなかった。

ホテルの近くを探索しようと一つ下の通りに来るとそこは歩行者天国、長い通りに沿って色々な小物を広げて売っている。アルゼンチンに南米の他の国から出稼ぎに来ている人達だと見当をつけた。通りの両側の店も開けている。路地で物を売ることが許されているのは日曜日だけとブラジル人が通りすがり話しているのを耳にした。この通りFloridaという名前。てっきりアメリカのフロリダ州から来たのだと思っていたのだが聞いているとアクセントの位置が違う、Florida でi にアクセントがある。なんだ花が咲いているという意味ではないか。なんでも以前は花屋さんが多かったらしい。そういえばアルゼンチンに渡った日本移民の多くも前は花屋さんとクリーニング屋さんが多かったという話を聞いていた。

ホテルでノートブックを使おうとしたが電気の取り入れ口がブラジルと違いななめになっている。万能アダプターを買い求めた。さてホテルに帰って大失敗したことに気がついた。万能アダプターをつけさてノートブックをつなごうとしたがつながらない。よく見ると電気のコードとノートブックのメーカーの名が違う。家から出る直前、ノートブックを小型に変えたが充電コードを取り替えるのを忘れたらしい。これでは充電出来ない。ということで今回は旅行中ブログを書くのは止めメールをチェックするだけにした。
上の写真はブエノスアイレスのシンボル「オベリスク」を横の通りから撮ったもの。

Buenos Aires 紀行 その1

今までの海外旅行はクレジットカードなどで貯めたマイレージを使っての旅行で航空券の手配、ホテルの予約、行った先の乗り物の予約などを自分でやらなければならなかった。それでついついものすごく柔軟なスケジュールを組むこととなるがそれなりに当地でのとっさの変更、気変わりにも対応できた。それで思い出すのがイタリア旅行でポンペイアの遺跡を見た後、駅にいくと予定はローマに戻っての観光だったのだが反対方向を見ると終点は「ソレント」と書いてある。ああ、あの「帰れソレント」の「ソレント」かと、すかさずそちらのプラットホームに移った。今から思えば価値あるとっさの判断。おかげでいい思い出ができた。
この頃よく、集団購入で50%以上割引のクーポンを買わないかというメールが入る。最近はよくアルゼンチンのBuenos Aires行きの2泊3日または3泊4日で、航空券、宿泊費、飛行場―ホテルの送迎、City tourまで入っているのがある。Buenos Aires は海外旅行としては近くでいつでも行けると思って後回しにしてきた。しかし価格的に魅力的なので思い切って買うことにした。それを企画した旅行会社に電話するとアルゼンチン航空だと行きは朝早くの便で帰りは夕方なので丸4日使えますよとのことそれに決めたがあまり良い判断ではなかった。
サンパウロ発が朝早いので前日の午後にヴィトリアからサンパウロに行き一泊するようにした。インターネットで空港近くのホテルを探しているうちに空港内にあるホテルを見つけた。部屋が狭そうだがどうせ寝るだけでタクシーを使わなくてすむから値段的にも有利かなと考え予約した。到着出口のすぐ横だがとにかく狭い。トイレは付いてないがドアを開けるとすぐ前にあるし、シャワー室はかなり広いのが六つある。食事をとろうとホテルを出る。空港内のレストランがずらりと並んでいる。特大のジャガイモをアルミホイールで巻いて焼いたのや飲み物をたのむ。それから空港内を散歩し翌日のチェックインのカウンターを確認。ホテルからは一番遠いウィングだ。あるレストランで聞くとそこは24時間営業だと言う。さすがサンパウロ。ノートブックを使おうとホテルのWifiのパスワードを使うのに部屋の番号を聞かれたので思わず「カプセル23号です」と言ってしまった。フロントの女の子笑って「それを言うならキャビン23号でしょう」。妻と日本のカプセルホテルとはこういうものかなと話していたのでつい口から出てしまった。さすがにルームとは言わなかったなとホッとした。
翌朝5時ごろ起きシャワーを浴びコーヒーを飲みチェックインに歩いていくともうかなりの人達がいる。この人達今日は朝何時に起きて来たのだろうかと勝手に推測する。
アルゼンチン航空の飛行機に乗るとその小ささにびっくり。ヴィトリアから乗ってきたのより小さい。国際線にこんな小さいのを使っていいのだろうかと少し心配になってきた。
飛行機は小刻みに揺れるので入国カードに記入するのに手間取る。約3時間でブエノス・アイレスの国内線用の市内の空港に着陸。ホットする。到着出口で私の名前が書かれている紙を見つけ合図。ホテルまでは近い。海のように対岸が見えないラプラタ川沿いに行く。対岸のウルグアイまでは70キロ、海まで200キロとのこと。日本で地理の時間にラプラタ川のことを聞き一度見てみたいと思ったことや、ブラジルにきてすぐにサンパウロ市郊外のビリチーバ・ミリンに住んでいた時、チエテ川の源流に魚を取りに行ったあの雨水がはるばる何千キロの旅をしてここまで来ているのかと思うと感無量でずっと眺めていた。なるほど川だと思わせるのが薄茶色の水の色。しかしあまりにも大きいので川という言葉が私には出ず、いつも「ここをまっすぐ下ると海に出る」などと市内を歩いていて妻に説明すると、いつも「川ですよ」と直されたが最後までとうとう私は「川」とは言えずじまいになってしまった。

2011年11月8日火曜日

Sem cabeça ?

Quando eu estava entrando na oficina de um mecânico conhecido, um carro saiu disparado. E o mecânico estava furioso chutando o chão. E quando me viu ele veio receber com um sorriso falando que chegou a recompensa. “Ainda bem que tem gente como você”. E começou a desabafar:
Esse cara que saiu agora trouxe carro para fazer um orçamento e ele saiu dizendo que ia ver o melhor preço. Depois ele voltou e me perguntou “qual é o melhor preço de vocês”. Ai eu respondi. “Estou cobrando a mão de obra que é x, e o resto são as peças” . O cara disse “Eu vou trazer as peças e você faz o serviço”. E ele trouxe as peças com a cara de ter saído do ferro velho. Eu avisei que podia estar perdendo o serviço instalando essas peças. E ele respondeu “ Cala boca e instala“. Fiz os testes e instalei. Nem fez um mês ele voltou furioso que o carro deu o mesmo problema e ordenou que consertasse sem custo. Eu falei “Bem, a garantia não é o serviço, são as peças. Se você tiver as notas fiscais a garantia cobre”. E aí ele ficou furioso e quase queria me degolar. Mas quem saiu daqui sem cabeça foi ele.

2011年11月6日日曜日

35年目の同窓会


                        前列左端の青と白のしまシャツが私

九月の末、卒35周年の同窓会を10月28日サンパウロ市内のホテルで開催するとの通知を受け取った。早速妻と出席するとの確認の返事をメールで送った。前回は半年遅れの30周年同窓会だったのであれから4年半ぶりとなる(2007年5月20日のブログ)。
最近ブラジルでもインターネットの割引クーポン共同購入サイトが増え、私は大手のグルーポン (Groupon)とPeixe Urbano に登録しているが、それぞれ50%以上の割引クーポンを出している。電子機器からレストランでの食事、ホテル、それを含めた国内・海外旅行など広い範囲にわたっている。ある日Groupon からのメールにアルゼンチンのBuenos Airesへの三泊四日の旅行の来年3月まで有効のクーポン購入が出ていたのでそれを買っていた。外国旅行と言えばブラジルではほとんどがサンパウロとリオの国際空港から出る。同窓会とこの旅行をセットにしようと旅行会社とスケジュールの調整をしてアルゼンチン旅行後サンパウロで同窓会に出席するように組むことができた。
サンパウロでは同窓会の会場に近くて歩いていけるホテルにした。いよいよ28日、8時ということなので10分前にホテルを出た。夏時間なのでまだ明るい。会場の入り口で名前を告げると胸に留める名札をくれる。40人程談笑している。前回で覚えている顔もある。しかし確実に前回よりは皆ふけて見える。今回初めての参加という遠い州から来た日系の人とも話を交わした。なんでも今は牧場を経営しているとか。
上の写真には写っていないがスペインから帰ってきている日系の女の人もいたそうだ。残念ながら私は見かけなかった。前回親しくなりその後もたびたびメールを交わしてきた日系の夫妻と話しこんでいるうちにいつの間にか皆が消えている。誰かが「写真を取っているぞー」と叫んだ。私と彼が走ってロビーの角を曲がるとまさにシャッターが切られようとしていた。私は左に彼は右へと分かれて滑り込んだ瞬間シャッターが切られた。というわけで今年は私も彼も最前列。後ろのほうは頭だけしか見えない人もいる。間一髪、運が良かったと言うべきなのか。それからディナー。それぞれのテーブルで話が弾んでいる。学生時代一番成績の良かったのは恰幅もよくずっと母校サンパウロ大学工学部の正教授だそうだ。帰りに写真と出席者80名の電話・メール入りのリストが渡された。サンパウロ州外からの参加は私を含め4人。写真を撮るときにカメラマンの後ろにいた同伴の奥さん達が「この中で女はたったの三人!、今はあの頃とは違って女のエンジニアも多いのよ家の娘もそうだしね」とのコメントもあったとか。
ディナーが終わってそれぞれ再会を約し帰り始めたのはもう12時をまわっていた。
初めて参加した前回のような胸の高ぶりはなかったがいい気分で妻と帰路についた。