2013年7月7日日曜日

ブラジル流れ者 完結編

以前「東京流れ者」の替え歌「ブラジル流れ者」のことを書いたが、これは移住して間もない私が20代前半に作ったもので、それも2番までで終わっている。最近これを口ずさむと何か物悲しい。やはりこれは三番を付け加えて終わらせた方が良さそうだと思い下の歌詞となった。

ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルを 今日はパラナかサンパウロ
黄色いイペーの花が咲く 道は遥かにまだ遠い
ああ、ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルの 空を見上げりゃ十字星
遠いふるさと思い出し 広い大地に夢はせる
ああ、ブラジル流れ


流れ流れてブラジルが 今は懐かしふるさとと
離れて住んでる子や孫よ 夢に向かって羽ばたけよ
ああ、ブラジル流れ

2013年7月3日水曜日

コンフェデ杯決勝戦 ブラジル 3x0 スペイン

6月30日、リオのマラカナン・スタジアムでコンフェデ杯の決勝戦が行われた。
入場券は今年の一月に買っていたのだがリオまでは遠いし足の調子もよくないので行こうかどうしょうか迷っていた。ところがブラジルが段々調子をあげてきてA組のリーグ戦では3戦全勝、準決勝でウルグアイを破り決勝戦へと。B組ではスペインがやはりリーグで3勝し準決勝ではイタリアとのペナルティキック決戦を制し決勝戦へと。これは初めコンフェデ杯の組み合わせが決まったときにブラジルが望んでいたものだ。
こうなると私もリオに行かないわけにはいかない(?)航空券さえ買えば息子のマンションに転がり込める。息子の住むBotafogo からマラカナンまでは地下鉄で乗り換えなしで行ける。
1時から3位決定戦で決勝戦は7時から。しかし5時半から歌手のショーがある。3位決定戦をテレビでみて出かけよう、どうせ3時までには終わるだろう。イタリアとウルグアイの試合も面白く2対2の引き分け、これから延長戦それからペナルティキック決戦となると1時間はかかる。混雑する前に着きたいので予定通りの3時に家を出た。あとでイタリアがまたも延長戦の末、ペナルティキック決戦を制し3位になったことを知った。
地下鉄の電車の中は黄色いシャツでいっぱい。私も前日買った黄色のシャツで。国旗で身を包んでいる人もいる。マラカナン駅は地下ではなく路上だ。そこからスタジアムまでは陸橋でつながっている。今各地でデモが起きているので軍まで出動してスタジアムまでの道の警戒に当たっている。W杯そしてこのコンフェデ杯のために新装なったマラカナン・スタジアム、以前とは違ったモダンな装いとなった。ショーが始まると観客も盛り上がってきた。
やがて出場選手の名前と顔が場内の四つのスクリーンに映し出される。ブラジルの選手の時はすごい拍手。しかしスペインの選手の時はブーイング。国際試合でもライバルチームとやるときと何の変りもない。やがて試合が始まる。ブラジルの選手がちょっといいプレーをすると拍手、相手がへまをやるとヤジが飛ぶ。確かにこれは観客ではなく応援団だ。これではブラジルの選手たちも勢いずくだろうと思った。ブラジルの選手がドリブルでゴール近くまで攻めてくると前の席の人たちが皆立ち上がる。こちらも立ち上がらないと見えない、ちょっと遅れるとゴール近辺の攻防を見損なう。周りがすごく叫んで応援しているので年寄りの弾力のない耳はたまらない。
ネイマール選手もゴールを決めブラジルが3対0で勝った。スペインはペナルティを決めれず、すでにゴールに入ろうとしていた球をブラジルの選手が滑り込んできてはじき出した。得意のパスワークもいつものように華麗とは言えず今日は確かにスペインの日ではないなと感じた。
ブラジルのこの選手と7万人以上の観衆が一体となって試合を盛り上げる。すごいエネルギーが選手に伝わりそしてこのエネルギーは相手選手をしぼませる。開幕戦のブラジル対日本の時もこんな風ではなかったのではないかという気がした。
コンフェデ杯の16試合の観客動員数は一試合平均5万人強だったとか。FIFAも満足したようだ。

さて来年のW杯、コンフェデ杯を制したものは翌年のW杯を制したことがないというジンクスを破ることができるか。

2013年6月21日金曜日

イタリア 4x3 日本

ブラジルの北東地方最大の都市レシフェで19日行われたコンフェデ杯A組のイタリアx日本戦、4対3でイタリアが勝ったが互角の試合でどちらが勝ってもおかしくない試合。コンフェデ杯の今までの試合で一番見ごたえがあったとのコメントがあちこちで聞かれた。 対ブラジル戦では動きがぎこちなかった日本も滑らかな動きでまるで別のチームのようだった。逆にイタリアのほうがとまどっていたようだ。ゴールキーパーブフォンが日本の香川選手のゴールで2点目が入ったときの「ひょっとしたら負けるんじゃなうかな」との思いが出ていた心配そうな表情。イタリア選手誰もが一瞬思ったのではないかなという気がした。試合後のインタビューでもイタリアの監督が「日本のほうが上だった」とコメント、日本代表のザック監督も気が晴れたのではないか。日本は2連敗でリーグ戦で敗退だが残すメキシコ戦が楽しみだ。

さてブラジルだが対メキシコ戦で2対0で勝ったが引き分けてもおかしくない内容。1点目はゴールで2点目はアシスト、ネイマール選手が怪我でもしたらどうなるのだろうと逆に心配になってきた。

2013年6月15日土曜日

コンフェデレーション杯ブラジルでーCopa das Confederações

来年のブラジルサッカーW杯の前哨戦ともいうべきコンフェデレーション杯 (Copa das Confederações)の開幕戦が今日ブラジルの首都ブラジリアでブラジルと日本との間で行われ3対0でブラジルが初戦を飾った。今午後9時半、ブラジリアではいまだに歌手たちのショーでにぎわっている様子がニュースで映し出されている。
ブラジルの3点はそれぞれ前半と後半の開始3分以内に1点ずつそして後半のロスタイムに1点。ブラジル代表の今までの成績に不満を抱いていたブラジル国民もほっと胸をなでおろしたことだろう。そして一気に優勝への機運が高まった。ブラジルのサポーターは厳しい。勝って当然、負けていたり試合運びがまずいと試合中でも味方にブーイングが飛ぶことがある。代表の試合でも例外ではない。ブラジル代表監督も点が取れない場合のサポーターの反応を心配していた。試合後彼は和やかな顔でテレビのアナウンサーと談笑していた。
最近サントスからスペインのバルセロナに移籍したばかりの21歳のブラジルの若きエース、ネイマールが最初のゴールを入れた。彼はブラジル代表の2試合を含めここ10試合ゴールから遠ざかっていた。これから優勝を目指してのブラジルの応援も盛り上がってくる。

今回はゴールの判定にボールが完全にクロスバーの幅を完全に通過したかどうかは数台のカメラとコンピュータで判断され通過1秒後に正式タイムとして発表されるそうだ。

2013年6月6日木曜日

水菜


毎週火曜日の有機野菜の夕市に時々日本の野菜の水菜が顔を見せる。聞いてみると日本人が植えてくれと種を持ってきて出来たものは買い取るという約束だそうだ。それでも良くできた時は全部引き取らないので台の上に並んでいる。見かけない野菜なのでブラジル人の主婦たちも珍しがって名前を聞くと「日本の野菜でMizunaといいます」と真面目に答えている。私たちも見たことがないので買ってきてトマトなどと一緒に野菜サラダにしている。そのことを隣で見ていたブラジル人の主婦の人に言うと「私も持っていこう」と二束とって買い物袋に入れていた。帰りに寄ってみると結構売れて少ししか残っていなかった。ネットで調べると日本中に広まったのは比較的最近のようだ。

チンゲン菜とにらはいくつかの屋台でいつも売っている。白菜や大根などは今では珍しくなく普通の野菜の仲間入りをしている。日本食が食事の半分以上の割合を占める我が家としては日本の野菜が容易に手に入るのはありがたい。しかしこれらの野菜日系人が作っているわけではない。ここエスピリトサント州では野菜や花はドイツ系の農家が栽培している。

2013年5月15日水曜日

ブラジルのブエノスアイレス

私たちの土地はこの道路沿いにあったのか?坂田夫妻と右は妻

娘夫婦とサンパウロ市で一日過ごした後その次の日は長い間行ってみたいと思っていた Botucatu に行くことにした。そもそも私たちはボツカツの土地に入るためにブラジルに来たのである。53年前、明治鉱業がボツカツに用意してくれた一家族当たり2.5アルケール(一アルケールは24200平方メートル、これはサンパウロ州で隣のミナス州は倍の48400平方メートル)の土地で桃栽培をするために入るようになっていた。

そのため当時桃つくりが盛んだったサンパウロ近郊のイタケーラで桃つくりをしていた日系農家で一年間働いて仕事を覚えその後ボツカツに入るようになっていた。明治鉱業から何家族来たのか正確には覚えていないが私たちと同じ船で6家族そしてほかの船で来た人たちもいる。全部で十数家族だったのか。家長の集まりが月に一回あり二、三回はボツカツに視察に行ったように覚えている。当時の父の話だと泊めてもらった家の洗濯物を干すために外に張ってある針金が風でヒュンヒュンとなっていたそうだ。

そして最後にボツカツを視察した時に土地の振り分けのくじ引きがあった。土地はほぼ正方形。坂の土地で下の方に川(行ってみたら水量の少ない水源林だった)そして上は道。それに横に平行に三つに分けてあり、あとは土地の広さに見合うように縦線。
三分の一の家族しか水を確保できない。父は道側のくじを引いてしまった。水が無くては農業は出来ない。この時点で私たちはボツカツを断念した。入れば自分の土地があったのにと、その後モジ・ダス・クルーゼスに行って借地農として苦しさを味わうたびにあの時ボツカツに入っていれば良かったと何度嘆いたことか。

ボツカツはサンパウロ市から約240キロ、標高は800mだからサンパウロ市とほぼ同じ。人口は約13万人、直行バスが地下鉄Barra Funda駅に直結しているバス・ターミナルからでていることをネットで調べ切符も買った。約3時間の旅となる。
Botucatu という地名は原住民の言語ツピー語でBons ares、良い空気、それが広義に解釈して良い気候、または良い風という意味になる。なんだ、ブラジルの Buenos Aires か!

今回のサンパウロ行きには是非ボツカツに行きたいと思っていた。今までいつでも行けると思っていつも後回しにしてきた。サンパウロ州に17年、エスピリトサント州に35年、こちらに来てもまだ若い時は週末前後に祭日がある時や1年に一度の会社の一か月の長期休暇の時はエスピリトサントからサンパウロまで一千キロを妻との交互運転で幼い子供をのせてよく行ったものだ。当時は道路も今ほど整備されてなく私たちの車にはエアコンさえなかった。たまには足を延ばして妻の叔父の住むSorocaba まで行ったりした。その頃だとボツカツには本当にいつでも行けたのだが・・・・
今は腰や足が痛み体に自信がない。「いつでも行ける」が今は「もうあとでは行けない」という状況だ。明日の約束ができない、行きたいと思っていた所には今、まだ行けるときに行っておこうと思う今日この頃である。

まず第一にボツカツに明治鉱業の人が誰か住んでおられるかどうかを知る必要がある。

インターネットでボツカツの日系人の団体がないか検索すると出てきた。そこに電話した「1962年頃にそこに桃つくりに入植した明治鉱業の人で「坂田さん」という人がおられるでしょうか」と聞くと「おられます」という事。坂田さんは日本の頃、家の近所に住んでおられた人でそこの長男の人はやはり近所に住んでいた私と同じ年のいとことは同じ高校に通っていて彼の友達とは聞いていた。坂田さん一家はボツカツに入られた数少ない家族で私たちがモジの奥のBiritiba Mirim に自分たちの土地を買求めて農業を営んでいた時一度次男の人と一緒に家を訪ねてこられたように記憶している。

まだそこにおられるかどうかわからなかったがインターネットで検索したたった一本の電話で消息を知ることが出来た。実にラッキーだった。その人はボツカツ日本人会の関係の坂手という人で「今坂田さんのところの電話番号はないがあとで調べてこちらから連絡します」と。一時間ほどして電話がはいり今は坂田さんの三男の方がやっておられます、そこの電話番号は・・・・・・ですと教えてくれた。ありがとうございます。その晩電話をかけて佐伯ですがというと名前は聞いてました、訪ねてきてくださいバスターミナルまで迎えに行きますと快諾してもらえた。

サンパウロからボツカツまではCastelo Branco 高速道路を通っていく。何十キロ行っても町が見えてこない。制限時速は110キロ、Sorocaba や周辺の大きな町には高速道路から何キロか入るようになっている。3時間強でボツカツのバスターミナルへ。待合ベンチに日本人夫婦、「すいません、坂田さんでしょうか?佐伯です」と握手を交わす。「家はここから12キロです」その道中いろいろ町の移り変わりなどの話を聞く。横に広がった静かな町、気候がよく住みよい街だと、さすがBuenos Aires。51年前、父も夢と不安を抱きこの道を通ったのかと思うと感慨深かった。

やがて小高い場所に車を止めると、「ここが土地を選ぶくじ引きがあった場所です」との説明。見渡すと土地は乾燥していて下の方に木が茂っている帯が見える。ああ、あそこが川か、思っていたほど大きくなく水も見えない。湧き水がありボツカツ市の水源の一つになっており環境局の見回りもあるとのこと。「佐伯さんの土地は確か道に面した土地でこの先をちょっと行った所だったと聞いてます」とさされた指の方向を見る。背の高い草が少し生えている。色々と説明を聞きながら低みにある坂田さんの家に着く。明治鉱業の家族のうち結局は4家族しかボツカツに入らなかったそうだ。坂田さんは川べりは当たらなかったが川べりが当たった人の中から入らない人が出るのではないかと待っていて一家族入らなかったのでその土地に入られたそうだ。
4家族入ったけど今は借地に出した人や、病気で町に移った人もいて結局は坂田さん一家しかこの先やっていけそうもないのではという気がした。

坂田さんのお父さんは86で亡くなられたとのこと。93歳のお母さんはまだ元気で家の手伝いを少しやっておられるようだ。「来よう来ようと思っているうちに50年経ちました」とあいさつすると笑顔で「よく来てくださいました」と返していただいた。私と同じ年の長男の人はずっとサンパウロ市で日本の商社に勤められサンパウロ市に住んでおられるとのこと。次男の方は独身で一緒に農作業の手伝いをされているそうだ。

坂田さんたちは初めは桃、それからブドウ、そして今は日本梨の栽培をしておられて成績も良いようで大きな梨の実がなっていた。色々な品種を試されこれからは土地にあっているのか成長が速い日本の梨ニッコリ種だけに絞ると話された。まだこの梨は試験中で市場には出回っていないとのこと。なんでも1個の重さが1キロ半位になるとのことで楽しみだ。ちぎりたてを頂いたがみずみずしい。さすが日本の梨だ。

お土産にやはり日本の梨、新世紀梨(ブラジルでの呼び名はYellow Super)をひと箱いただいた。この梨の収穫時期は1月だがその時出荷すると値が低いので冷蔵倉庫に入れておき品のない今出荷すると高い値で売れるそうだ。なるほど、そこまでやれば完璧だ、と感心した。

我が家の住所、電話などを置き、遊びに来てくださいと別れの挨拶。帰りもバスターミナルまで送ってもらった。思い出に残る一日で昔からの願いをようやくかなえることが出来た。

新しい品種の大きな梨









2013年5月13日月曜日

サンパウロの地下鉄



4月の末、サンパウロの西本願寺で母の四十九日忌の法要を済ませた。久しぶりに親戚と会いお互いの最近の情報を交換する。甥や姪たちもすっかり大人になっているので何十年ぶりかなと首をかしげる。今回はホテルを予約していたのだが我が家の自称「金髪の長男」Aender  がフィンランド、バルト三国、ロシアと世界遺産めぐり( www.aender.com.br )をしていて彼のマンションが空いているので使っていいよと鍵をもらっていたので遠慮なく好意に甘えた。サンパウロは坂が多い。彼の所は地下鉄の駅にも近く近所もにぎやかだが夜の騒音はまったくない。というのは土地の起伏がかなりあるところはそのままにして車は行き止まりだが人だけは階段で下に降りれるようになっている。マンションまで送ってくれた弟も「こんなところは珍しい」と言っていた。

娘の理奈も夫婦で来ていたので一緒に東洋人街の「Liberdade」まで地下鉄で行った。ラッシュ時ではなかったので混雑とまではいかないが利用者はかなり多い。切符を買おうと窓口に行く。横に何か張り紙がある「高齢者には何か割引があるのかな?」と生年月日の入ったID カードを差し出すと「65歳以上の人は無料です」と言ってIDカードを返しながら「これをあの左端の改札口の人に見せれば開けてくれます」との返事。券を買おうと用意していた3Reais (約1.5ドル)を引っ込めて改札口へ。本当にIDカードを見せるだけで通してくれた。他州から来た私たちも恩恵が受けられる。さすがサンパウロと感心した。ブラジルはリオでもサンパウロでも地下鉄はどこまで乗ろうと料金は均一。乗り換えをしてでもである。ブラジルでは市内バスは60歳以上は無料だが地下鉄にまで(65歳以上だが)導入されているとは知らなかった。

サンパウロの地下鉄はきれいに管理されている。私も外国の地下鉄には何度か乗ったがどこの地下鉄と比較しても引けをとらない。上の写真のPaulista 駅などはプラットフォームは全部アクリル板ではってあり電車が来た時だけドアの部分が連動して開く。
これだと小さい子供でも安全だ。
サンパウロの地下鉄は私が大学在学中に最初の青の車両の南北線が開通した。工事中の不便さ、道を覆っている鉄板の上をずいぶん歩いたように覚えている。しかし初めて乗った時の感動、これは"新しいブラジル"のシンボルだとその時思った。