2015年7月9日木曜日

ブラジルサッカーよどこへ行く? (2)


ブラジルサッカーの歴史上最大の屈辱から1年を迎えた
そしてワールドカップでドイツからさんざんに打ちのめされた教訓は
まだ体得されていない。
(街でもらった新聞のトップ記事ー誕生日おめでとうと皮肉ったタイトルとなっている)

私がブログにブラジルサッカーについて書いた2日後テレビを見ているとスポーツニュースの時「著名な元サッカー監督や選手たちを集めて今後のブラジルサッカーについて議論が戦われます」と報じていた。さもあろう私でさえ心配しているのだから!

そして昨日のニュースの時間、キャスターが「さてみなさん、今日は何の日か知っていますか?」と聞いた。すかさず「そうです、今日は去年のワールドカップの準決勝でブラジルがドイツに1対7で負けた日です」。そうみんなの傷を逆なでするようなことを言うなよ!

もう一つ今年、ミナス州の州都Belo HorizonteのCitytourでバスで回っているときガイドが「みなさん右に見えるのは去年のワールドカップでブラジルがドイツから屈辱の1対7で負けたMineirão スタジアムです」と、忘れようとしているのにあの時の屈辱を思い出させるな!

ブラジルはワールドカップの主催地に立候補すべきではない。1950年には隣国ウルグアイと決勝戦で競り合いで負けた。その責任をゴールキーパーに課した。長い間彼はマスコミの話題の的となった。そして去年のドイツとの1対7の惨敗。これで今は故人となったゴールキーパーの名がマスコミに挙がることはあまりあるまい。これで天国で安らかに眠れるだろう。

さて前のポストの続き。
なでしこジャパン準決勝ではイングランドと試合終了間際まで1対1、それぞれペナルティキックで得たもの。私は試合開始から見ていたが実はハラハラしていた。延長戦になるかと思っていた時、劇的な終末が。イングランドのオウゴールで日本が1点を得て勝利。試合内容に少し不安が残った。さて決勝戦私はまたうっかりして、テレビをかけた時はすでにアメリカが4点を入れていた。まさか?なんでも前半の15分で入ったようでゴールキーパーが前進していたのを見計らってのロングシュートの1点も映像を試合の間に通していた。サッカーの神様と言われたかのペレーでさえ成しえなかったのに。しかしその惜しくも入らなかった彼の当時としては意表をつくロングシュートは彼のベストシュートの一つとしてよく紹介される。

後半果敢に戦ったものの力尽き、2対5で負けてしまった。しかし1優勝を含む3大会連続決勝進出は私は大偉業だと思う。準優勝、そこから得るものが次の優勝に向けての大きな指針となる。

ブラジルとなでしこジャパンがんばれ!

さてCopa America、決勝戦は開催地チリとメッシを有するアルゼンチン。0たい0のままPK戦へ。ここでまたドラマが!アルゼンチンが次々と外し4対1で地元チリが初優勝。
この頃のサッカーの試合は予想不可能。

来年のリオ・オリンピックの入場券はインターネットで開会式、閉会式、全競技種目を受け付けていて、申し込んでおくと抽選で決まるということになっていた。私は体操の男子、女子の個人決勝戦を申し込んでいたが外れたと連絡があった。あとは完売しなかった種目を受け付けているがそれも抽選である。今考え中である。

2015年6月30日火曜日

ブラジルサッカーよどこへ行く ? (1)

今チリで4年に一度の南米サッカー連盟(Conmebol)主催のアメリカカップ(Copa América) が行われている。優勝チームは南米代表として2017年ロシアで行われるコンフェデレーション杯に参加する。
南米サッカー連盟加盟国10か国とあと2カ国が招待され3グループ12チームで争われる。招待されるのはほとんど北、中米からだが1999年には日本が招待されたがこれは特例である。
さて今年のアメリカカップでのブラジルチームの調子が悪い。一次リーグは突破したもののコロンビアから1対0で負け試合内容も良くない。順々決勝ではパラグアイ代表と1対1で勝負がつかずPK戦。ブラジルはプレッシャーがかかると本領を発揮できない。ブラジルワールドカップでもドイツにつぎつぎに点を入れられなすすべを知らず7対1の屈辱の敗北となった。

何か嫌な予感がした。今回のアメリカカップではブラジルのエースNeimar もおかしかった。彼はブラジルがコロンビアに負けた時、試合後相手チームの選手を蹴り4試合出場停止となった。
更に彼はブラジルチームのキャプテンでもある。チームをまとめる役のキャプテンがチームにプレッシャーをかけてしまった。

PK戦。ブラジルは二つ外し、結局は4対3で負けた。

試合中Twitterでテレビで観戦しているコーチ(ブラジル国民は全てコーチ)のコメントが画面下に流れる。「ブラジルチームには試合の状況を見てボールを配分する選手に欠けている」というのが出た。まったくその通りだ。今までブラジルがワールドカップで優勝した時は必ずそういう選手がいた。一番印象深く残っているのはブラジルの田舎の我が家で初めてテレビで観戦した1970年メキシコで行われたワールドカップ、ブラジルは三回目の優勝を果たし優勝カップを自国に持ち帰る偉業を果たした。その時チームの要として活躍し彼自身もゴールを入れたのがGerson. 彼は所属チームを転々としたがそれらのチームに州のチャンピオンシップをもたらした。

アメリカカップのブラジル対パラグアイ戦、実はその時私はブラジルの他のテレビチャンネルで今カナダで行われている女子のワールドカップ日本対オーストラリア戦を見ていた。前回のワールドカップでは日本は華麗なパスワークで優勝したが、今回はロングパスからのカウンターアタックが多くなって攻撃力で相手のゴールを脅かしている。

日本が1点入れた時私は思わず手を叩いた。すると外で「パン,パーン」と爆竹の音。ブラジルでは自分のひいきチームがゴールを入れるとあちこちで爆竹がなり点が入ったのがわかる。
横にいた妻に「あれ?おかしいなこの辺に誰か日本人いたっけ?いや待てよ、そうだ Copa América だ、ブラジルが点を入れたぞ」とあわててチャンネルを切り替えた。

今回のCopa América の決勝は開催地のチリと準決勝でパラグアイを6対1で倒したアルゼンチンの間で戦われる。アルゼンチンが勝てば22年ぶりチリが勝てば28年ぶりの優勝となる。

サッカー女子ワールドカップ、日本はイングランドと準決勝。勝てばアメリカと決勝戦で前回と同じ相手となる。がんばれ!なでしこジャパン!



2015年6月11日木曜日

サーカスよどこへ行く ?


先週末、家に恵美が遊びに来ていて何か退屈そうな様子。私達が忙しそうにしていると一人でハンモックにのってテレビの子供番組を見たり人形と遊んでいたりしている。夕方になって一段落、外のテーブルでコーヒを飲んでいると妻が「朝、このあたりを宣伝カーが回っていて今日の4時からサーカスが近くの広場であるとか言っていたわ」サーカスか、何年?いや何十年ぶりに聞く言葉だ。子供たちが小学生の頃何回か連れていったことがある。「そうだな、久しぶりに行ってみるか、恵美も喜ぶだろう」彼女に聞いてみるとまだ見たことがないと言う。

「4時、6時、8時と言っていたわ、子供が見るのだから4時のにしましょう」ということになり4時まえに着いたがあまり人はいない。子供を連れて帰っていくものもいる。妻が話を聞きに行く。「まだ準備ができてないので、今日は6時と8時だけだそうだわ」仕方がない、また出直すとしよう。

今時期、ここエスピリトサント州は6時になると暗くなる。何か小さい夜店がたっている。綿菓子、ポンポン菓子、Churro、サンドイッチ等々。そしてテントに入る前に人形が並べてある。恵美が素早くそれに気付き走り寄る。「この人形をお買いの子供さんは後でステージに上がって一緒に写真が撮れます」と言う。見ると赤のドレスの人形と薄青色のドレスを着た人形がいる。恵美は「私は「エルサ」がいいわ」といって薄青いドレスのほうをとる。中に入るとかなり広い、900以上の座席があると書いてあった。段々人が集まってきて200人は入ったろうか。
初めに青年が紹介され数個のボールを高く上にあげてはそれを落とさないように廻していた。その次は火のついた短い棒をやはり数個廻したりして喝采を浴びた。それからは親子ピエロのドタバタ劇で第一部が終了して休憩となった。その休憩の間私たちが入ってきた時に写真を撮っていた女の子がそれをキーホルダーにして持ってきた。仕方ない、思い出にと買った。そして初め外で売っていた人たちが中で持って回って売り出した。ひょっとすると、このサイドビジネスのほうが売り上げが多いのではと思った。ステージの方は「FROZEN」と書いた幕がはられ色々な器具が持ち込まれている。発泡スチロールの雪をとばすのもある。なんでも映画で大人気の「アナ雪の女王」があるようだ。

やがて音楽が流れセリフが始まる。するとエルサとアナの衣装をまとった女の子を中心に話に出てくる他の人達もそれぞれの衣装でステージに上がり偽ミュージカルが始まった。というのは皆スピーカーから流れてくる歌やセリフに合わせて口をパクパクしているだけだからだ。それでも子供たちは熱心に見ていた。

その間、私は上を向いてこの後、私が見に来た本当のサーカスがあるのかなと思って観察した。しかし空中ブランコはない、綱渡りのロープもない、何もない。えっ、これがサーカス、何かだまされたような気がした。あのハラハラするスリルに満ちたサーカスはどこに行ったのか。物足りないなーと思っているうちに「FROZEN」は終わった。恵美は買ったエルサの人形をもって嬉しそうにステージに上がりこの写真を撮った。


2015年5月30日土曜日

Dobrando Alegrias 喜びを折って倍に

タイトルの Dobrando Alegrias  喜びを折って倍に とはパラナ州のクリチーバ市で東洋文化の普及のためにと設立した「アジアセンター」を経営している娘のリナが立ち上げたボランティア活動の名前で折り紙で入院患者の気持ちを少しでも癒すことができたらと始めたもので、やっているうちに教えられ癒されているのは自分たちだと気が付いたと私にもらした。それでこそ「喜びを折って倍に」だ。アジアセンターの数人で始めたものが今は一般の参加もあり数十人で活動している。

クリチーバ市の不動産会社が年に一度、女性により提唱されたボランティア活動の中からいくつかのONGを選択しインターネットで一般投票してもらい最高得票数を得たONGに2000ドルほどの援助をしようというもので今年は Dobrando Alegrias 一位になった。ミディアからのインタビューも受けたようでサンパウロの知人もテレビで見たと電話があったそうだ。
今この活動は各地に広がっているので、この資金を役立てもっと広めるよう努力すると言っていた。

下の記事はインタビューした記者がDobrando Alegrias の活動を紹介したものである。 

Voluntariado com origami ganha Prêmio em Curitiba

O projeto de voluntariado Dobrando Alegrias, fundado e coordenado por Lina Saheki foi o vencedor de 2015 do Prêmio Elas Fazem, do Grupo Gonzaga (www.grupogonzaga.com.br/elasfazem) em Curitiba/PR. 

Os cerca de sessenta voluntários do Dobrando Alegrias levam conforto, distração e gentileza a pacientes internados em seis hospitais de Curitiba através dos origamis - dobraduras em papel típicas da cultura japonesa. Os pacientes ganham flores, pássaros e corações de papel, e são ainda convidados a aprender a arte e a compartilhar suas produções com as outras pessoas. 

O projeto possui também uma segunda linha de ação: em datas específicas, como o Dia da Gentileza ou o Dia da Felicidade, os voluntários vão às ruas com a missão singela de distribuir sorrisos através da doação de origamis.
Até a metade deste ano, o Dobrando Alegrias terá núcleos de voluntariado em Itajaí e São Paulo. O site oficial do grupo é o http://www.dobrandoalegrias.org.br

Maiores informações também na matéria:
折紙でのボランティア活動がクリチーバ市で賞を得る

Lina Saheki により設立されその指導のもとで活動しているボランティア・プロジェクト"Dobrando Alegrias"
(喜びを折って倍にしようという意味でDobrando とは紙などを折るという意味と倍にするという二つの意味がある)がクリチーバのGonzaga グループ  (www.grupogonzaga.com.br/elasfazemの主催でクリチーバにおいて女性により設立され活動しているボランティア・プロジェクトのコンクール"Elas Fazem ( 彼女たちは為す)で優勝した。

"Dobrando Alegrias" の約60人のボランティアたちは紙を折る日本の典型的な文化を通してクリチーバの六つの病院の入院患者たちに心地よさ、気晴らし、そしてやさしさを運ぶ。入院患者たちは紙の花、鳥やハートなどを受け取りそして折紙を学びみんなと一緒に折紙を作ることに参加する。

このプロジェクトはその活動の延長線として共鳴する Dia da Gentileza (親切の日)、Dia da Felicidade (幸せの日)などにボランティアたちが街角でただ笑顔を届けるために折紙を配る。

今年の中頃までにはDobrando Alegrias はサンタカタリーナ州のItajaí市それにサンパウロ市にボランティア・サークルを持つ。

Dobrando Alegrias の公式サイトは  http://www.dobrandoalegrias.org.br 

上記についての詳細は http://cacadores.parana-online.com.br/agua-verde/sorrisos-dobrados/


ボランティア活動で折り紙を折っているうちに才能を発揮する人も現れた。下iの折り紙はDobrando Alegrias が賞を受けたのを記念してと最近アジアセンターで折り紙の手伝いをしているブラジル人の年配の女性がリナにプレゼントしてくれたもので、あまりにもきれいにできているのに驚いた。

五月の初め、リフォーム中のアジアセンターを見にクリチーバに行ってきた。折り紙を見ていたら、母の日もまじかということで妻は赤と白の折り紙のバラの花束をプレゼントされた。







2015年5月1日金曜日

2か月以上続く火事


エスピリトサント州に雨は降らない。テレビのニュースの間に流れる天気予報でもなぜかここだけは黄色で他は緑か青か赤(50mm以上の雨)、神様に見放されたのかと思ったりする。
いや、それはないだろう。エスピリトサントとは聖霊という意味でキリスト教の三位一体の一つである。キリスト教を信仰する国に住んでいると信者ではなくとも色々な関わり合いがある。特にブラジルはカトリック教徒数世界一の国である。まず年の初めにチェックするカレンダーの休祭日の赤マークはほとんどがキリスト教に基づいている。日系を含めブラジル人の友人の家での結婚式は教会で行われるので中に入り神父さんの話を聞く。自然と生活の一部となっている。
また話がそれてきた。とにかくエスピリトサント州民は今試練の真っただ中にいるということだ。

朝、窓を開ければ大ヴィトリア都市圏ではどこからでも見える海抜800m強の山Mestre Álvaroが近くにある。この山のふもとには木の葉などの有機物が長い年月つもって泥炭地となっている。もともとは湿地帯なのだが何か月も雨が降らないと乾燥しそれに火がつくと地の中を伝わって燃えていく。それが2か月以上続いていて最初は消防署もお手上げ。

こちらを消したかと思うと違うとこらから煙が出てくる。一度消したと思っていた所からも煙が出たりする。目に見えない地の中で広がっているので厄介だ。最近は溝を掘ってその中に水を流し込んでそこから先に火が行かないようにしているとのこと。しかし広い範囲に渡って広がっているので大変だ。なにしろ煙で周りがくすぶって視界を妨げ交通事故につながったり呼吸器に問題のある人や子供たちを煙のない親戚の家にあずけているなどとニュースにでる。

昨日のニュースでは今ほとんど消して残りは約2%程度だと言っていた。そして久しぶりに昨日の夜雨らしい雨が降った。これで問題解決か? 神様ありがとう !?!?



2015年4月30日木曜日

ミナス州を訪ねて

上の地図はブラジルの心臓部とも言える南東地方の4州が色で示されている。赤がミナス州、青がリオ州、灰色がサンパウロ州そして緑が私達が住んでいるエスピリトサント州。
この地方の人口は約8500万人でブラジル総人口の約42%、面積は約92万平方キロで国土の約11%を占める。

何も地理の勉強をしようとしているわけではない。下の地図は今回まわってきたミナス州の州都Belo Horizonte、そして南へ直線距離で約70キロの世界遺産に登録されている歴史地区の町 Ouro Preto や Mariana、Congonhasなどの位置付けをしてみただけだ。 


ミナス州の面積は約59万平方キロで日本の約1.6倍、ブラジルで4番目に大きな州だ。この南東地方、人口ではサンパウロ州がブラジル1位、ミナス州が2位、リオが3位でエスピリトサント州は14位となっている。

私は子供の頃から地図を見るのが好きで勝手に想像をふくらませていた。50年以上も前ブラジルに移住することになった時もよく南米やブラジルの地図を見ながら将来の夢を描いていた。しかし現実はそんなに生易しいものではなく絶望を何度味わったことか。

結婚して会社勤め、生活が安定してきた頃は定年退職後はブラジルをリュックを背に1年かけて回ってみようとまた夢を描いてみた。しかしこれも色々な事情でたやすいことではないとわかった。今は健康、気力、体力と相談し、しかも家を開けれるのが最大一週間ということで「州都巡りプロジェクト」なるものを立ち上げた。州都とその近くの有名な観光地を一つ、一週間で回ろうというもの。
別に順序はない。インターネットで手ごろな値段の航空券が目につくと買求める。計画はそれから始める。南の方に行ったかと思うと次は北へと行き当たりばったりの旅。ブラジル26州1連邦特区の内15州まわった。しかし一番近い隣の州ミナスには私は仕事で何度か行ったことはあるが妻はまだ行ったことがない。知り合いの親戚が州境の町に住んでいてそこに遊びに行った時「この川の向こう岸がミナス州です」と言われて対岸の家々は見たことがあった。

エスピリトサント州の州都ヴィトリアからミナス州の州都ベロ・オリゾンテに行くには道路、鉄路、空路と三つの方法がある。
上の地図でVitoria-Belo Horizonte 間の道路(赤い線)は国道262号線で522キロ、バスで約8時間半。鉄道はVale 社が鉄鉱石の輸出に使うミナスからヴィトリア間664キロに一日一便それぞれヴィトリアとベロオリゾンテから客車を走らせている。
www.vale.com/tremdepassageirosefvm)

ヴィトリアからは朝7時発、ベロからは朝7時半発、どちらからも約13時間かかる。2州都間の直線距離は383キロ、飛行機で約50分。鉄道は各駅停車で駅の数もかなりある。直線距離と道路、鉄道の距離が大分違うのはヴィトリアは海辺で海抜ゼロメートル、そしてベロは海抜約860m。その間には海岸山脈が連なり国道の一番高い所は1000メートルを超し、道路は曲がりくねって上がっていく。ブラジルの北から南までを海岸沿いに走る海岸山脈はミナスとエスピリトサントの州境で一番高くなりブラジルの山としては一般登山のアクセスが可能なPico da Bandeira (2892m) がある。この山は今はブラジルで3番目に高い山となっているが1960年頃までは1番高い山とされていた。その後ベネズエラとの国境地帯にPico da Neblina (2994m) とPico 31 de Março (2973m)が発見され3番目となった。広大なブラジルだが3000mを超す山はない。
Pico da Bandeira には1986年(?)頃家族で登ったことがある。

ベロオリゾンテ行の手ごろな航空券が出た時に上の3っつのオプションを調べた。どれも一人片道料金約R$90.00(約30ドル、今1ドル3ヘアイス)。 近所でミナスに親戚がある知り合いは汽車の旅を勧める。しかし13時間がどうも引っかかる。時に制限がある私たちには"時ハ金ナリ"
であるし、長旅は疲れて翌日のスケジュールにも影響する。ということで空の旅となった。

出発は約1時間遅れた。なんでもベロ空港に霧がかかって視界が悪いそうだ。その説明は飛び立った後の機内放送であった。しかしそのあと「この遅れはできるだけ速く飛ばして取り戻します」と。オイオイ、そういうことが出来るのかい、車じゃあるまいし安全運航お願いしますよと返したかった。高地の空港、特にサンパウロの空港は冬の6-8月にかけてよく霧が出て遅れが生じニュースになる。海辺のヴィトリア空港ではそういうことはまずない。

約50分で到着、市内のバスターミナル行のバスが出ているのでそれに乗りそこからOuro Preto行の切符を買おうと列に入ったら後ろから肩をポン「私はOuro Preto から用事があってここに来て今帰るところです。バス代でよろしいですから私の車で行きませんか、ホテルまでお届けしますよ」。ブラジルではあまりこういうのを信用してはいけない。普通はタクシーでも空港のタクシーそれにホテル指定のタクシーを使う。ちょっと会話を交わし彼の車で行くことにした。この辺は車が置けないので荷物を持ってちょっと歩く途中で若い娘さんが二人一緒についてくる。彼女たちはOuro Preto の大学生で休みで家に帰っていて今戻るところだという。車で行く途中私たちがエスピリトサントからだというと「そうですか、Nossa Praia (私たちの海辺)の人でしたか、私も母がMarataizes に住んでいたので学生の頃よく行って手助けしましたよ」このNossa Praia という言葉はミナスにいる間中よく聞いた。

ミナス州は海に接していない。それで子供の夏休み、冬休みなどにはエスピリトサント州の海に繰り出す。「リオ州、バイア州というオプションはあるがなにしろCapixaba[カピシャーバ(エスピリトサント州人)]が親しく接してくれるのでまた行きたくなるのだよ」とお世辞でも嬉しくなる。というわけでほとんどのMineiro(ミネイロ=ミナス州人)達はエスピリトサント州を知っているので話が弾む。またエスピリトサント州にはミネイロ達が沢山いる。
車で行く道中、自分の身の上話や周りの景色の説明やら休む暇なく会話が進む、時には身振り手振りが入るのでハラハラする。おまけに若い娘さん達が後ろに乗っている、スピードを落として安全運転と注意する。

Ouro Pretoのバスターミナル近くで娘さんたちは挨拶をして降りていった。それから私たちのPousada (民宿)探し。インターネットで予約してあり略図をプリントして持っていたのだがなかなかわからない。Ouro Pretoは歴史の町ですごい坂の町。そして教会が多い。世界遺産にブラジルで最初に登録された所で歴史地区は景観を保つように改築はできないし電線も地下を通っている。
そういうわけでホテルは少なく多くは古い家の内装を替え民宿に変えている。
道が狭いのと保全のため車の町への出入りは乗用車とヴァンまで。ようやく民宿に着いたが天気がおかしい、狭い急な石畳の通りをのばって上の通りに着く。民宿を選ぶ時、有名な博物館や広場,教会に近い所にしたつもりだったが地図には坂は書いてなかった。まあ、Ouro Pretoはどこも坂だから明日からは車だなと思った。

Ouro Preto の歴史地区

             独立運動の英雄Tiradentesの名を冠した広場 
Ouro Pretoの大学に学ぶ学生たちの寮

Mina de Ouro かっての金鉱のあと
https://youtu.be/b876tsiiCwE

これは別の金鉱で金は鉄鉱石と石英の脈に沿って掘られていったそうだ。
        白い筋は石英         https://youtu.be/_XE3S0RZkA8
Ouro Pretoとは黒い金という意味。ここでは金は黒い鉄鉱石の中にある


昔アフリカからの奴隷によって掘り抜かれた金鉱

Ouro Pretoの険しい坂道、歩いて登れない


ここ近辺だけに産出する Topazio Imperial 指輪などになる


Ouro Pretoから約63キロのCongonhas にあるAleijadinho 作の12Profetasの石像
                                           https://youtu.be/9LLB1IF7UrY                                            

教会の庭の礼拝堂にはキリストの最後の日の物語の66の像がある

Ouro Pretoの隣町Marianaはミナスで最初に市に昇格
し州都になった。

Marianaという町の名前は時のポルトガルの王妃Maria Ana de Austria
の最初の二つの名前を一つにして付けられた。


Marianaにある金鉱(Mina da Passagem)でここは奴隷制度の後、機械を使って掘られた。
ここまではトロッコで降りてくる。
ここから掘り出された金は約35トンで1960年に閉鎖され今は観光用となっている。
https://youtu.be/ksPsnBRVICQ


一番奥はきれいな池となっていて潜水士のトレーニングに使われているという。


ベロオリゾンテの空港からバスでOuro Pretoにまっすぐ行ったのにはわけがあった。日曜日にはベロでヒッピー市(昔からこう呼ばれている)がありエスピリトサントからは貸切バスで買い物ツアーが出たりする。せっかくのチャンスだから見てみたいのでベロが後になった。ミナスの州都は最初はMariana, その後当時金を産出していたVila Rica (豊かな町という意味で)、今のOuro Pretoに変わった。しかしOuro Pretoは周囲が山に囲まれた坂の町で伸びる余地がない。そこで新しい州都建設計画が立てられ1897年にBelo Horizonteが生まれた。20万人が住めるように計画されたものが今ではベロオリゾンテの人口は260万人。大ベロオリゾンテ都市圏内の人口は500万人を超すとか。サンパウロ、リオに次ぐブラジル3番目の大都市となった。

高台から州都ベロオリゾンテを望む

Oscar Niemeyer 設計のPampulhaにある教会

Pampulha 人工湖

Pampulha 湖に映るMineirãoサッカー場と室内競技場Mineirinho

Praça da Liberdade 公園とバックに州知事官邸

Oscar Niemeyer設計のビル、彼独特の曲線ですぐわかった


公園わきにある州立図書館で本のサイン会があり動物愛護協会に売上は寄付するとのことで母親を応援していた娘さんに声をかけられ共感してサイン入りの本を買った
噂のヒッピー市で革鞄を買う

ヒッピー市の前にある市立公園の池で妻は生まれて初めてのオールを握る

          Gruta Rei do Mato ベロオリゾンテから北へ約62キロの所 
                        Sete Lagoasにある最近観光客に解放された鍾乳洞
https://youtu.be/HhZdmwTOY9U



Gruta do Maquiné ベロオリゾンテから北へ約120キロのマキネー鍾乳洞昔から名前は聞いていた。大きな広間が7つあり最近テレビドラマのロケがあったそうだ。
この鍾乳洞はCordisburgoという町にあり、ラテン語とドイツ語との合成語だ。Cordisは心、Burgoは町。そして文豪Guimarães Rosaが生まれ育った所で生家は小さな博物館になっている。

彼の作品 "Grande Sertão: Veredas"にちなんだ像が並ぶ

牛の頭に似ている
https://youtu.be/okPOxS8O_5E



Gruta 巡りのツアー仲間 20人ほどいた。クリチーバ市(パラナ州)、ポルトアレグレ市(南大河州)サンパウロ市から

帰りの日、飛行機は午後6時、時間は早いけどホテルをチェックアウトしタクシーを呼んでもらった。感じの良い青年が運転している。彼と値段交渉してベロオリゾンテの隣町Sabaráまで行って観光スポットを回って帰りは空港に直接届けてもらうことにした。
Sabaráの町も小さなMuseu de Ouro(金博物館)などがあり当時のミナスの黄金時代の名残を感じさせる。荒廃した教会の入口にはまだ修復していないので当時の様子がわかりますと書いてあった。うまい言い訳だ。

古い町並み。

Igreja Nossa Senhora do Ó,
小さいがミナスで最も歴史のある教会の一つで中は落ち着いた雰囲気だ




この町に古い劇場がありなんでも「Estrada Real (王の道=昔の公道でミナスだと金やダイヤをポルトガルの王様に収めるために整備された道か?)」の7つの素晴らしいものの一つに選ばれたとかでトロフィーが置いてあった。今は興業されてないが毎週土曜日には無料で子供用の催し物などに使われているとか。ひょっと壁に貼ってある番組表を見るとなんと私が働いていた会社の主催だ。こんなところで自分の会社の名前を見るなんてうれしくなった。


Minaとは鉱山という意味でミナスとはその複数。Gerais とは一般、全てという意味で確かにミナス州は鉱物資源に恵まれている。鉄鉱石, マンガンを始め様々な鉱石や装飾にも使われる多彩な鉱石、そしてかっては本物の黄金時代が花開いた。「王の道」はミナスではDiamantinaという町までつながる。ここではダイアモンドがでた。しかし植民地であった当時これらの富は本国のポルトガルの王に届けられた。今回の旅でブラジルの植民地時代の歴史の勉強になった。訪れたそれぞれの町で多くの話を聞いた。奴隷についての話には悲しくもなった。それで思い出したことがある。前、家の前に住んでいて妻と親しくしていた黒人の奥さんがある日こう言った。「いまのブラジルがあるのはみんな私たち黒人が働いたお蔭なんだよ」と。

今までは全て地上の観光だったが今回は地中の観光が入った。金鉱跡や鍾乳洞ブラジルは広い、旅をする度に、新しい知識を得、新しい発見や感動を味わう。これから先どんな出会いがあるのだろう。ミナス州を讃える歌として公式な州歌ではないが皆が知っている歌があり次のように始まる。メロディーはイタリアの歌  "Viene Sul Mar" の調子で
http://letras.mus.br/hinos-de-estados/126612

Hino de Minas Gerais

Oh! Minas Gerais
Oh! Minas Gerais
Quem te conhece
Não esquece jamais
Oh! Minas Gerais
オー!ミナス ジェライス
オー!ミナス ジェライス
おまえ知れば
忘れない
オー!ミナス ジェライス


(日本語で歌える歌詞にしたので短くなった)


最後に一つおちを、Viene sul Mar というのはイタリア語で「海においで」という意味で海のないミナス州がそれを使ったというのが面白い。