2017年7月20日木曜日

南米に記録的な寒波

今年の冬は例年より寒い。家の中でも長袖シャツと長ズボンを着ている。それがここ一週間続いている。昨日南部、南東部は記録的な寒波に見舞われ山岳地帯では雪が降ったとテレビのニュースで流していた。しかし積雪まではいかなかったようだ。

冬になると雪を一目見ようとその地方は観光客が訪れる。雪が見れれば大喜びで、昨日は前日の天気予報でもかなりの可能性が予想されていたので雪の降る中を観光客たちが初体験を楽しんでいた。「今年の1月の始めニューヨークに行ったが待望の雪は見れなかった。ここブラジルで見れてうれしい。」と喜びの顔で、「皆さんもいらっしゃい」と呼んでいた。
実をいうと私はまだブラジルで雪を見たことがない。その上、寒さが苦手なのでアルゼンチン、チリの観光には暑い時期を狙って行ったのでそこでも雪には会ってない。

南極からの寒冷前線はアルゼンチン、チリへと上がってきて、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルなどに向かってくる。今年はチリの首都サンチアゴではかなりの雪が降り電力供給にも支障をきたしたそうだ。今の時期チリ、アルゼンチンのアンデス地方はスキーのシーズンで北半球からもスキーヤーがやってくる。今年はアルゼンチンの冬の観光・スキー名所Barilocheを訪れたブラジルからの観光客達は寒さに耐えられず早めに引き上げたが飛行機は飛ばず空港で夜を過ごしたとニュースで出ていた。

今、娘が我が家に来ているが今日の夕方スマホでクリチーバに残った旦那と話していたが昨日は最低気温1度、今日は零下1.5度でスマホに映っている彼は雪山でも登るような服装をしていた。クリチーバはブラジルでは南から3番目の州都だが標高900メートルに位置するのでブラジルで1番寒い州都としても知られている。




クリチーバの観光スポットNo1の植物園も霜で覆われた。


池も凍ったクリチーバの冬。私たちは「寒い、寒い」と言いながら気温20度の居間でテレビのニュースを見ている。






2017年6月27日火曜日

共存共栄




以前、家で植えている果物ジャボチカバ(Jaboticaba)が鳥たちに先取りされ私達の食べる分もないのをこのブログに載せた。今度は別の木に今月またつぼみが出てきて大分収穫できそうな様子。これを全部鳥たちに取られるわけにはいかない。

ちょうど倉庫にビニールの目の小さい網を見つけたのでそれを張ることにした。木全体に張るとなると高いのでかなりいる。そこで大きな実のなる幹の周りだけに張ることにした。上の方の実はまだ小さいし梯子でも届かないので鳥用に残した。

実が熟れると皮が黒くなる。昨日妻が庭を散歩していると鳥たちが嬉しそうにさえずりながら木の上の方の実をつついて食べていたそうだ。その後、私が行って幹に付いている実をちぎりだすと上の方で飛びながら「ギギー、ギギー」と騒いでいる。文句を言っているみたいだ。

「鳥さん、そう騒ぐなよ、こちらにも半分獲る権利はあるんだよ」と諭したが、果たして納得したかどうか?

ここ一週間毎日1キロほど採れたJaboticabaの実

2017年6月25日日曜日

妊婦のわがまま







今朝ゆっくりと朝のコーヒーをとっていると外の門のブザーがやかましくなった。庭の遠くの方にいてもわかるようにオートバイのクランクションをブザーの代わりに付けている。そして今日は日曜日、家の前の通りは車も少ない。

ドアを開けると30未満と思われる青年が自転車を手に立っている。「お宅のサトウキビ売ってくれませんか?」前の通りから塀の高さを越したサトウキビが見える。今まで誰も家のサトウキビなんか買いに来たものはいない。これは自家用に植えてあるもので大きくなったら10本程取って青空市でサトウキビを機械で絞ってその汁を売っている所に持ってい
き一緒に絞ってもらっている。約10リットルのサトウキビ汁が絞れる。

「何本いるんだね?」「一本でいいんです。」そしてその次の言葉でそのわけがわかった。「妻が妊娠していてあちこち探したんですが見つからなくて・・」「わかったよ。そこで待っていな」と言って私はナタを持って2本のサトウキビを取ってきて渡した。「あのう、お値段は?」「いや、君の奥さんへのプレゼントだよ」「しかし2本もは・・・」「あと一本は明日に取っておきな」

ブラジルでは妊婦の食べ物、飲み物の願いをかなえてあげないとその食べ物、飲み物の顔をした赤ちゃんが生まれるという迷信がある。それが週日なら近くのスーパーなどで手に入るが日曜、祭日ではここエスピリトサント州では開いていない。そこで旦那衆の涙ぐましいまでの巡礼が始まる。

家には外から見える果物がまだある。ということはまだエピソードだあるということになる。これからは妻が話してくれたもの。

ある日妻が庭に出ていた時ブザーがなった。ドアを開けると若い男「お宅にGRAVIOLA(グラビオーラ(南国フルーツの一つ)がありますね?」「今は時期ではないので実は何もなっていませんよ」といってドアを閉めようとしても閉まらない、なんとその若者、ドアが閉まらないよう足を間に置いている。「じつは妻が妊娠しておりどうしてもグラビオーラが食べたいと言って聞かないので持って帰らないといけないのです。お宅のちょっと見せてもらいたいのですが」どうやらこっちを疑っているらしい。私のコメント「それで庭に入れたの?」「どうしても動かないので仕方ないでしょう。」

その若者、グラビオーラの木の周りを回ってようやく納得した。「本当になってないですね。それでも私が確かに探し回ったという証拠にグラビオーラの葉を頂けないですかお茶にして飲ませますよ。」「それなら枝を持って行けばもっと信用するんじゃない」と妻。
結果はどうなったかは知らない。

横に切ると星形になるCarambola(スターフルーツ)、これも道から見える。
ブザーが鳴ってまたしても若者。「カランボラの木が見えますが実を少し分けてもらいたいんです。実は妻がどうしても食べたいと・・」いつもの口上。この前、終わったばかりで今ないわよ。」「ちょっと見て来てください」仕方なく妻が見に行くとなんと時季外れの実が三つなっている。こういう事は今までなかったのだが妊婦の執念がそうさせたのか私達にも全然わからない。小さいレジ袋に入れて持って行ってやると眼を輝かせてお礼を何度も言って去っていった。
先週収穫したスターフルーツ
さてこれまでスターフルーツやグラビオーラの顔をした人に出会ったことがない。とすると今まで妊婦の願い事は100パーセントかなえられてきたということか。男性の涙ぐましい努力に頭が下がる。



 

2017年4月29日土曜日

院内感染

今日は4月29日。妻は快方に向かっている。院内感染がこんなに怖いものとは知らなかった。つい最近もヴィトリアの14歳の女学生がバクテリアで2週間もしないうちに亡くなったとニュースで流していた。しかし彼女の場合は院内感染ではなかった。早くそのバクテリアに効く抗生剤を投与しなければならなかったと医者がコメントしていた。
翌日の新聞にバクテリアの名前が載っていたが妻のと同じだった。今回は息子が妻の命を救った。
前のポストはMRIを取りに行ったところで終わった。

MRIの映像を整形外科医に持っていくと「これはおかしい、あなたの今の状態だとこれはあり得ない。これは死にかけている人ので、なにかの間違いだ」と言う。しかし映像分析のコメントではすでに骨髄まで侵されている。医者はそれでは血液検査をするという。その結果を持っていくが、やはりおかしいと言って信用しない。すぐさま息子の所にWhatsApp でMRIの映像とコメントを送った。息子は怒って折り返しにこちらに指示した。「すぐ、ママイを入院させて、今すぐ薬局に行って自費でこれを買って飲むように」と抗生剤のコンビネーションの処方箋を出した。

それが金曜日の夜。抗生剤は医師の処方箋がないと買えない。すぐ娘が何回か家にも来たことのある友達の医者に連絡した。真夜中の一時過ぎブザーが鳴った。なんと彼がレジ袋にかなりの量の薬を持って来てくれていた。厚く礼を言った。

早速妻はその薬を飲んで、私たちもようやく床についた。
土日は私たちの作戦会議。まずどこの病院が息子が出す薬を受け入れてくれるかだ。
近くにかなり大きな総合病院があり私たちの保険もきく。さらに息子の同級生で二人の整形外科医がいる。そして彼らを通せば息子が出した薬を使ってくれるのではないかという結論に至り彼らに連絡を取った。月曜日に来て入院手続きをすれば翌日はひざにメスを入れサンプルを取りラボに回すという手筈がきまった。抗生剤は入院する月曜日に息子が出した処方箋を見せてそれを投与してもらうということにした。前の病院では息子が出した薬を一つしか使ってくれなかった。
月曜日入院すると医師は「今回はすでに薬を飲んでいて良くなってきているのならそれを投与しましょう」ということになってほっとした。

20日間入院して日に日に良くなって来ていたがもう注射を腕にさす血管がなくなりここで抗生剤の薬を飲むことになるので一応退院して家で飲み続けて下さいということになり、そして退院後は15日毎に整形外科医と感染専門の医師に診てもらうこととなった。

今も薬を続けているが調子の良いときは家の周りをゆっくりと歩けるようになったがまだ外には出れない。抗生剤はあと二か月ほど飲み続けるが回復は確かなものになったと思えるようになった。

2017年3月8日水曜日

新しい年度

日本には年度という慣習があって4月から翌年の3月までの期間に使われているようだ。
西洋にはどうもないようだがブラジルには年の始まりのほかに国全体が本格的に動き出す時がある。
先日知り合いが来て今年のカーニバルはバイア州の州都サルバドールに恋人と一緒に行ってきたと話した。小学校の先生だがカーニバル休みの5日間は踊りまくり授業が始まるので仕方なく帰ってきたとのこと。そして最後に「カーニバルが終わるといよいよ年が始まるね。」
そう、ブラジルではクリスマスからカーニバルまでの期間はあらゆるところで100パーセント機能しているとは言えなく、本格的に仕事に取り組むのはカーニバル以降となる。それで新しい年の始まり、いや年度の始まりはカーニバルの次の週からとなる。

ブラジルでも4月からの年度のシステムを使い始めたのではないかと感じたのはブラジル最大の民間テレビ局のグローボ社、日本にも駐在員を置いていて、アジアのニュースを発信している。ここのテレビの番組の強さは連続ドラマ。毎日5,6本は通していてそれぞれ1時間。NHKの朝ドラを見ていると15分なのでブラジルのだとこれから配役が画面に流れるのだがと妻と共にうなづく。
最近どうやら大部分は3月に終わり4月に新しいドラマが始まっているような気がして、あれー、日本のように仕事の区切りを3月にしたのではと疑っている。

今年初めてのこのブログのポストが「どくろ検査官」となってちょっとまずいなーとタイトルが2017年になった時に気が付いた。実はこれ2016年の12月22日に書き出して途中で止めて下書きとしていたので載せるときはその日付になると勘違いしていた。

今年のカーニバルは週末から数えると2月25日から3月1日まででその次の週は日曜日の5日ということで今年度のブログを書き始めようと思ってブログを開けると去年のが残っていたのでそれを片付けてからと思ったら今年になった。そういういきさつで「どくろ」から
始まってしまったが今年の正月、我が家には正月の雰囲気はなかった。

去年の12月20日妻は左ひざを手術。22日ごろから経過が思わしくなく足全体が腫れだしひどい痛みを感じたので救急車を呼び痛み止め熱冷ましなどの応急手当てを受けたがますます膝が腫れてきた。家に帰ってきてソファーに座ろうとしたら手術の縫い合わせの所から膿が飛び散った。これはただ事ではない、すぐ医者に連絡、見てもらったら院内感染でバクテリアが入っているというのでそのまま入院、そして妻はその場で再び手術室に運ばれた

去年の初めに妻は右ひざを同じ医者同じ病院で手術、経過も良好だった。10月ごろ今度は左ひざが思わしくないのでMRIを取ると靭帯がきれて昔の骨のかけらなどがあると分かったので12月に手術をすることにした。その昔のかけらには覚えがありその時は少女時代で一週間昏睡状態になったそうだ。今まで何回も手術したが回復は非常に速かったので手術で治り何も危なくないというのが私たちの頭にあった。たまに院内感染という言葉を聞いたがそれがどういうものか深くどころか浅くも知ろうとしなかった。
今回妻がかかりいかに怖いものか身に染みて分かった。妻にはこれからの手術は禁止と言い渡し絶対に無理をしないようにとも言い渡した。

クリスマスイブとクリスマスは西洋のしきたりでは大事な日だ、ましてブラジルはカトリック大国、家族皆一緒に過ごす。長男夫婦と娘夫婦の場合、嫁、婿はそれぞれの家族とクリスマスを過ごし、年末年始を我が家で過ごすのが我が家のしきたりとなり12月26日彼らは来た。
しかしその時すでに妻は入院していたので会えなかった。始めの2週間は集中治療室なので面会は家族でも一日2回それも30分と制限されている。
私と長女が面会、しかし妻は手術室で膿の洗浄をしたり、痛みが激しいときはモルヒネをうたれたりしていたので面会と言っても初めの頃はただ顔を見るだけに終わった。抗生物質を使っているのだろうがなかなか容態は良くならない。長男はリオの国立伝染病の医師なので係の医者と相談し薬を変えた。それから少しづつ良くなっていくのがわかった。病人との面会で私達が手続きをして時間がくるまで待っている間も彼が医師証明書を窓口で見せるとフリーパスなので私達より先に行って係の医者と話たりしていた。

病院のすぐ横に私立の総合大学がありクリチーバに引っ越す前、娘はそこの法学部で教えていた。そのころの友達にメールで誰かここの病院の医者、看護婦を知らないかと聞くと医者一人、看護婦二人知っていると返事があったので友達を通じ娘の所に妻の容態についての知らせが入ってきていた。始めは重体で骨の奥まで達しているとのことだったが息子が薬を変えてからはだんだん明るい知らせとなってきた。

集中治療室の後は病室になったが一日24時間の付き添いとなっているので娘と24時間交代でやることにした。病院は膝の手術をした医者がベースにしている病院なのでそれまで使っていた病院と違い我が家からは車で約40分かかる。午後2時に病院で車のバトンタッチをする。病院ではブラジル食なのでなかなかのどに通らない妻に日本食を持って行っても薬のせいかあまり食がすすまない。40日の入院期間中12キロやせてしまった。

リオに住む息子は仕事の都合でどうしても長くはおれないので妻の入院中3回のリオ―ヴィトリア往復となり抗生物質の効き目をフォローした。
娘夫婦は1月6日に帰るようにしていたが自分が経営している学校は夏休み、教えている大学の授業も休みなので帰りを29日まで延ばした。

ヴィトリアでIT関係の会社に勤めていた次男は去年の4月に娘が住んでいるパラナ州の先のサンタカタリナ州に移りやはりIT関係の会社に勤めていてまだ1年にならないので休暇が取れず6歳の孫娘恵美が一人で来た(航空会社で料金を払ってのエスコートサービスがある。)彼女がこちらに着いた当時、妻は入院していて私たちも世話できなかったのでここで一緒に通った幼稚園の友達の家で2週間ほど世話になった。その後入院中の妻に会うことができ、おじさんおばさんからはスーツケースに入らないほどのお土産をもらいよろこんで帰っていった。帰りは娘(おばさん)がサンタカタリナ州まで同行。娘はそこに迎えに来ていた旦那の車で帰路についた。他州までなのでおまけにバカンスの終わりときて道路はすごく混雑していて普通は5時間弱でいけるのに8時間くらいかかったそうだ。

今回の経験で家族の大切さを身に染みて感じた。献身的なサポートなんて家族でないとできないしこちらも安心して身をまかせられないと思った。私達年寄り二人が家族が一人もいない所で暮らすのは彼らに大きな負担をかけるのではないかとも。
元気で世話にならない老後の生活、それは幻想に過ぎないと知った。
これからの生活を模索して結論を出そうとしている今日この頃である。

妻はまだ一人では歩けない。近くのスーパーには車で行きあとは車いすで私が押して回っている。普通の生活への復帰が遅いのでまた膝のMRIをとった。明日医者と話し合う。

2017年3月6日月曜日

髑髏(どくろ)検査官

実はこの話は運転免許の話が出るたびに妻から今まで何回も聞いた話で、いつかブログに書いておこうと思いながら長い年月が過ぎとうとう今日になってしまった。

妻は17歳の時に父親をなくしそれからは近所に用がある場合などは祖父や祖母を車に乗せて連れて行っていた。田舎道でそのころは車もあまり通っていなかった。

18歳で成人になり真っ先に必要なのは運転免許証、家で採れた野菜や育てた鶏などを約15キロ先のモジ(Mogi das Cruzes)の町の市営市場まで運ばなければならない。そのうち田舎道は約3キロ、そこから町までの12キロは舗装されていて途中に小学校、中学校があるので警察が毎日見張っている。免許証なしでは通れない。

運転免許証を取るにはAuto Escola (自動車教習所)で規則と運転を学び試験を受けるようになっている。運転練習の最低時間数は決まっているので、いくらハンドルに慣れて運転がうまくてもそれをクリアーしなければならない。

筆記試験を無事通り、いよいよ今日は技能検査。
今日は野菜の出荷日で忙しい日だ。早く来たつもりだが前にもう20人ほどいる。車に乗り込む検査官たちが集まっているがまだ始まらない、やがて古い型のスポーツ車をバリバリーと音をたてて来て検査官たちの中に入った人が来たと思ったら皆こちらに向ってきた。

そして最後に来た検査官らしい人が言った「誰か俺と一緒に回らないか?」誰もウンともスンとも言わない。早く家に帰って荷造りをしないと間に合わない、私は手を上!げて聞いた「誰でもいいのですか?」「ああ誰でもいいよ」「私行きます」その時教習所の教官が頭を抱えて座り込むのを見た。

慣れた町の中をハンドルを切って進む。モジの町でも名の知れたけわしい坂の道をのぼる途中で「ストップ!!」検査官がどなった。いつも練習してきた時と同じようにクラッチとアクセルだけをコントロールしてエンジンが切れないように車を止めた。「ちょっとここで待っておれ、下の店でたばこを買ってくる。」検査官はそう言って車を降りゆっくりと坂の下の店に向った。私は車をアクセルとクラッチだけでコントロールしていた。いつまでたっても検査官は帰ってこない足がくたびれてきた。ふっと、バックミラーを見た。なんと検査官は煙草をふかしながらこちらを見ている。あっ、クラッチのコントロールがおかしくなりエンジンが止まりそうだ、とっさにブレーキを踏んでしまった。

「あっ、後ろのブレーキの灯がついたな。何か手がないかなあ」私はゆっくりと車を下に転がし検査官の横に付けて言った。さも迎えに来たように「検査官、遅れますよ。」彼は黙って車に乗り込んだ。駐車試験や右、左と角を曲ったりした後、出発点に戻ってくると周りにいた人たちがドッと車を囲んだ。そして誰かが聞いた「彼女は通りましたか?」「ああ、こいつは通ったよ」周りで「おおー!!!」というどよめきがあがった。

教習所の教官が飛んで来て言った。「馬鹿だなー、なんでCaveira(髑髏)を選んだんだよ」
「えっ、何ですかそれ?」「彼は検査官たちのチーフであだ名は髑髏、彼の手にかかっていまだに合格者は出たことがないんだよ。技能検査がある日に来て一人だけ検査し、そしてあの古いスポーツカーを吹かせて事務所に帰るんだ。」「だって、誰も私に教えてくれなかったもの」「今日はお前が20番くらいのところにいたので安心していたんだよ。そこでお前が手を上げただろう、もう終わりだと思ったんだ。しかし何も知らないということは恐ろしいものだな。おそらくお前が最初で最後になるかもしれないなー」

2016年12月2日金曜日

ブラジルサッカー最大の悲劇



11月29日の午前1時ブラジルのサッカーチームChapecoenseを乗せた飛行機がコロンビ
アのMedellínの飛行場近くの森に墜落、71人の犠牲者を出した。生存者は6人(選手3人、乗組員2人、新聞記者一人)
Chapecoense の選手19人、コーチ・サポート陣14人、チーム運営及び招待陣11人、ジャーナリスト20人、乗組員7人が亡くなった。

彼らはメデリンで行われるCopa Sul-Americana (南米カップ)の決勝戦に参加すべくボリビアのLaMia社95人乗りの飛行機をチャーターしてボリビアのSanta Cruz de la SierraからMedellínに向かった、その距離約3千キロ。墜落の原因は燃料不足と言われている。パイロットと管制塔との最後のやり取りで燃料が枯渇し電気系統も動かなくなったという声が残されている。そして当時は4機が飛行場に接近しており他の飛行機も燃料不足で緊急着陸を要請していて先に許可されたという。燃料がなかったので爆発,燃焼は起こらず機体はバラバラになった。

この惨事が世界中のニュースとなりサッカーの試合開始前に1分間の黙とうが捧げられ、エッフェル塔など世界各地の有名建造物がチームの色である緑のライトアップに照らし出された。暗い中の緑、何とも言えないさみしさだ。

なんとこの飛行機の飛行可能距離は約3千キロだという。よくもこんな危険な冒険をしたものだ。この会社は燃料をいつもぎりぎりで飛行するので以前注意を受けたことがあるとか。乗り物の中でも燃料がなければ即墜落,運が良くて緊急着陸しかない飛行機、大きな危険、犠牲を伴う。

この事故を知ったコロンビア側は山の上の墜落現場に着き早急、適切な処置、救助活動でブラジル側からも感謝の表意がなされた。コロンビアの対戦相手だったAtlético Nacionalチーム(南米最高のLibertadores杯の覇者)のスタジアムは白衣の サポーター達が埋め尽くしで点灯したスマホを振りながら相手チームChapecoenseの名を叫びチャンピオン、チャンピオンと讃えていた。見ていて涙が止まらなかった。ブラジルからは外務大臣がスペイン語で世話になったお礼を述べた。

Chapecoenseというチームの名前はブラジル南部のサンタカタリナ州のChapecó市からきている。サンタカタリナ州の西の方に位置し標高約700m、養豚、養鶏や七面鳥を養いこの方面ではブラジル最高の生産を誇る。この辺はイタリア、ドイツなどのヨーロッパ移民によって開拓された。
現在の市の人口は約21万人、近くの経済圏を入れれば40万人に達する。

サンタカタリナ州はサッカーが強い。人口はブラジルで11番目の約681万人でトップのセリエAに2チームが参加そしてセリエBで3チームが戦っている。エスピリトサント州はといえば人口約393万人で15番目だがAにもBにも1チームも入ってない。なんと情けない。だからこの州ではほとんどが隣の州のリオのチームとかミナスのチームを応援している。これも情けない。
エスピリトサントもっとがんばれ!!

Chapecoenseの名を耳にし始めたのは2,3年前頃から。おそらくスーパーでもよく買うハムや鶏の肉の生産地であるサンタカタリナ州の西の町のチームだなと見当をつけた。時々スポーツニュースを見ていると大都市の有名チームを負かしている。小さいチームだと思うがすごいなーと感心した。

創立1973年でセリエA20チームの中では一番若いチームだ。ブラジルでは創立100年を超すチームがいくつかある。特に2009年からのChape(愛称)の躍進はすさまじい。
2009年 セリエDで3位となり
2010年 セリエCに昇格
2012年 セリエBに昇格
2014年 セリエAに昇格 15位
2015年 セリエA 14位
2016年 現在 セリエA 9位 
この間1回も降格なし。
大都市の強豪揃いのセリエAで引けを取らずに上って行くのは素晴らしい。そしてこの中にブラジル代表の選手はいない。

明日ブラジルの空軍機3機がアマゾン川流域のマナウス市からコロンビアに飛び遺体をChapecóに運びChapecoenseのスタジアムで共同ミサが執り行われる。その後それぞれの家族が引き取り埋葬される。サポーター達、市民は観客席からと周囲に配置される4つの巨大スクリーンで選手たちを見送ることとなる。ブラジル国民もテレビを通して別れを惜しむだろう。

ブラジルサッカー界に旋風を巻き起こした君たちの栄光は永遠に残るだろう。安らかな眠りを。