2016年3月31日木曜日

サンパウロ東洋街の歩行者信号

サンパウロの昔日本人街、今東洋街のLiberdade地区、シンボルの鳥居のほかに今日は面白いものを見つけた。私が道を渡って後を振り返ると妻はまだ向こう側。その時歩行者用のシグナルがちょっとおかしいのに気が付いた。あっ!鳥居の形をしているのか、さすが東洋街だな、市役所のしゃれたアイデアに感心した。


東洋街に行くと日本食品を買い込むので大きなビニール袋を買った。


龍眼なる果物を売っていたので買い求めた。ちょっと甘くて思っていたよりおいしかった。内の
の黒い種が龍の眼に例えられての命名らしい


ちょうちん街灯

イースターとクリチーバ

結婚式があったのはカトリックの行事の聖週間の金曜日、その翌日は娘が住むクリチーバに飛んだ。クリチーバはサンパウロ市から一番近い州都で338キロ、次はリオで357キロとなっている。私たちが住むヴィトリアまでは約900キロある。

クリチーバ空港の写真を取るのを忘れたがここは2014年のワールドカップの開催地の一つとなっていたので空港の拡張・近代化の恩恵を受けたところで開催までには間に合わなくなんでも私たちが着いた日に大統領が来て落成式があるようになっていたが何しろ大統領罷免運動の真っ最中で式は取りやめになったそうだ。この空港、最近の人気投票でブラジル一位に輝いたそうだ。

それに比べてかわいそうなのは我がエスピリトサント州ヴィトリア空港。工事はもう10年以上忘れられたままになっていたが飛行機から見るとまたかすかに工事が再開されたようだ。しかしまたいつ止まるかわからない。知り合いが来て飛行場に出迎えに行くのが恥ずかしい。いつも言い訳をしなければならない。ブラジルの州都巡りプロジェクトで回っているがここが最低に近い。政界に顔が利く政治家がいないのが原因か?

空港には娘夫婦が出迎えに来てくれていた。家に着くと電話がかかってきてエスピリトサント州に住む友達の家族が今Curitibaに着いたので娘に会いたいという。ここで会えるなんて偶然にしてもできすぎだ。早速夜の食事を一緒に取ることにした。Curitibaにはヨーロッパ移民がかなりすんでいる。イタリア料理のパスタがおいしいレストランに皆で出かけた。


クリチーバの一番のシンボルは植物園。よく手入れされていて市民の憩いの場となっている。




 パラナ州にはウクライナ移民の9割が住んでいると教会内のパネルに説明があった。

イースターは卵で祝う。卵の殻に細かい模様が描かれている。



ポーランド出身のヨハネスポール法王が訪れたポーランド公園

オスカール ニーマイヤーが設計した美術館、目の形をしているので「目」の愛称で呼ばれている

夜は娘理奈の旦那の親の家に行きイースター最後の時間を楽しく
過ごす。家の中にはイースター人形と卵の殻の絵模様が飾ってあった。




甥 Ricardo の結婚式

 3月25日は弟の3男Ricardo 正行の結婚式がサンパウロ市内の式場であったので私達も出席、甥の新しい人生の門出を祝った。花嫁は日系の高校時代からの恋人でいつも近くにいたのにお互いすれ違いが生じ今回晴れの結婚氏となったようだ。2013年サンパウロに行った時に一度会ったことがある。優しくてしかも活発な人だなーという印象をうけた。
こんな時には親戚一同と出会えるのでそれも楽しみだった。みんな大きくなって紹介してもらわないとわからない人もいる。司会は新郎のやはり高校時代の友達、延々と昔のエピソードが披露された。




弟行雄の一家、左から長男の子Artur, 次男のAndre英明、春代さん・行雄夫妻、長男Flavio誠・Elaine夫妻 二人とも再婚で、もうすぐ2歳になる女の子Saraがいる


医者だった弟道夫の奥さん真由美さん、長女エリカとEric
(エリッキ)夫妻、(ブラジルでは母音がない子音は u ではなく i を付けた短音で発音される)。
次女ユカは生後10か月の赤ちゃんが調子が悪いとのこと。三女アスカは仕事で都合がつかないので来れなかったとのこと。

我が家も私と妻だけでCuritibaに住む娘もリオに住む長男もヴィトリアに住む次男も都合がつかなくて来れなかった。

2016年3月28日月曜日

ブラジルの秋

3月になって何も書いてないが何も起こらなかったわけではない。それどころか80年代の民主主義復活以来の大騒動が今ブラジルで起こっている。一段落ついたら書こうと思っていたが待っていても毎日新しい展開があり益々事態は大きくなっていく。

政府はブラジル国民をバカにしているとしか思えない言動をとっている。現大統領は同党の前大統領を汚職取り調べから救うために大臣に任命したり、今、ブラジル国内で盛り上がってきている憲法に元ずく大統領罷免運動を暴動と言ったりしていつまでも政権にしがみつこうとしている。政府反対のデモが国中に起こり何百万という人が街路を埋め尽くす。

政府は自分の身を守るのに必死で本来の任務を果たしていない。その結果経済指数はますます悪化して町には活気がない。国民の不満が何百万というデモにまで発展している。政府は「民主主義の表れで喜ばしいことだ」とか言ってたかをくくっている。政府は国を私物化してなんでも自分の思うようになると思っているらしい。

連立与党が崩れそうな今ますます大統領罷免が現実味をおびてくる今日この頃である。




 


2016年2月29日月曜日

今年はうるう年、今日は2月29日

今日は4年に一度の2月29日。テレビで2月29日生まれで29日が出生証明書に記されている人たちの雑談会があっていた。なんでも昔(?)は役場に出生証明書を発行してもらうよう届出に行くと向こうから2月28日がいいかそれとも3月1日にするかとかオプションが出されたそうだ。理由はこどもが4年に一度しか誕生日がこないのでかわいそうだということだとか。今はどうなっているのか知らない。むしろ年を取らないからその方がいいのではないかと思うが。実際そのプログラムに参加している人が年齢を聞かれると16歳と答えたので、まさか?と思ったがそうか64歳かと納得した。その人たちも誕生会は2月28日か3月1日にすると言っていた。

一人が面白いことを言った。なんでも息子さんが28日の夜11時59分50秒過ぎに電話をかけてきて早口で「誕生日おめでとう」と2,3秒で言って時計の針が3月1日の1秒までに終わらせて、それが2月29日だと説明するそうだ。もちろん遊び心だろうがそれでも真夜中まで起きていなくてはならないのは大変だ。

そのあとテレビのコマーシャルで安売りとうたって「こんなバーゲンセールは4年に一度、あとは4年先だよ」 本当にそんなに安いのか疑ってしまう。

わたしのこのブログも調べてみた。さすがに4年に一度の機会は逃していない。

さっきの雑談会(座談会?)で「4年に一度では忘れられるので覚えてもらうために、今度はオリンピックの年だからね」、と誕生会のあとみんなに大きな声で言うそうだ。涙ぐましい努力もいる。

私はそれにもうひとつ「アメリカ大統領の選挙の年だよ」と付け加える。それだけアメリカという国は民主主義がゆるぎないものとなっている証拠だ。ブラジルも大統領の選挙は4年に一度だが最近の直接投票は1980年以降だ。政情不安定な発展途上国はクーデターがあったり、1期4年の任期を5年に延ばしたり、1期を2期に延ばしたり、あるいは3期になったり、etc. これでは自分たちの意見が政治に反映されないので国民の不満が爆発したりする。民主主義の熟成が大事だ、

政治の安定が経済の安定をもたらし国民の生活の安定をもたらす、と私は思う。
えっ、当たり前のことだろう!って、その当たり前が難しい。



2016年2月28日日曜日

NHKのど自慢 in 飯塚市


今日何気なくNHKのテレビ番組を調べていると福岡県飯塚市でのど自慢があるとでている。昨年の日本訪問、特に飯塚市、嘉麻市での懐かしい思い出が次から次へと浮かんでくる。

番組が始まると飯塚市の紹介があった。福岡県のほぼ中央に位置し、かっては筑豊の石炭産業の中心として栄えたところだと。そして今は緑に覆われたボタ山や名物ひよこ饅頭それに嘉穂劇場が映しだされる。「あれ、ちょっと待てよ。これ全部カメラに収められているな」と思い出し上に載せてみた。

のど自慢の出場者の人たちの元気のいいこと!なんと100歳の男性の方(おじいさんでは失礼)、肌のつやもよく声もかすれていない。すごい。おまけに百人一首を暗記しているといい一首会場で披露。ボケ防止にやっているとすらりと言ってのけられた。"とてもじゃないけどかなわない!" "わかっちゃいるけど始めれない!"  つい植木等のスーダラ節のリズムが出てこちらの歳が丸出し。私も何かしなければとあせってしまう。88歳の男性は炭鉱の坑内での作業着で出場。「ヘッドライトから出ているあの黒い線は腰のバッテリーにつながっていて翌日は充電してもらいに持って行ったんだ」と横でみている妻に説明する。あの頃の様子がなつかしく思い出される。

そして今は昨年日本で会った人達をなつかしく思い出している。

2016年2月27日土曜日

Não pode ! Não podre!  ノン ポーデ! ノン ポードレ!

この話も妻のボケの副産物。

小学校の新しい学期が始まり昼食はそれぞれ自分で持ってくるようにと先生から言い渡された。
私は家に帰っておばあちゃんにそのことを告げた。
翌朝おばあちゃんは朝早く起き、ご飯を炊きながら 「なんといっても日本人はおにぎりだね」と言って、おにぎりを二つ弁当箱に詰めてくれた。

さて午前中の授業が終わるとみんなそれぞれ家から持ってきたものを机の上に広げて食べ始めた。見るとみんなはパン食で目玉焼きを挟んだものやバターに砂糖をまぶしたものやよくて細長いパンにソーセージが入ったものを食べている。私は弁当箱を取り出してふたを開けおにぎりを取ろうとすると生徒がどんなものを食べているか見回っていた先生が私の所に来て弁当箱の中を見て言った。

「Não pode comer, está podre, não pode !」 えっ、腐っているから食べちゃいけないって。今朝おばあちゃんが作ってくれたのに先生何言ってるのよ。腐ってなんかいないしおなかすいてるし、私食べる。 そして大きな声で言った「Não podre」 腐っていないと。それからは「Não pode!」と 「Não podre」の応酬になった。先生根負けして私の弁当箱を取ってみんなに見せながら聞いた、「おいみんな、この黒いカビと黄色いカビの生えた食べ物を知っているかい?」。 するとあちこちから 「あっ、ゴマにぎりと、きなこにぎりだ、おいしそうだな」と生徒たちから日本語で答えが返ってきた。

その小学校は日本人の田舎の集団地の中にあったので生徒のほとんどが日系人でそのころの日系人はみんな日本語を話していた。先生はもう一度ブラジル語で聞いた。「これは食べれるんだな?」 すると「Pode, pode!」の合唱。先生首をかしげて私に弁当箱を返した。