2008年11月30日日曜日

まだ(天に召される)その時ではなかったのだ!

ここ2週間くらい毎日雨が降っている。ヴィトリアでもあちこち浸かっている所があり、なんでも1キロメートルの道路に平均20の穴があると新聞が報じていた。その穴が泥水で隠れているので車の運転には気をつけるようにとの事だ。しかし最も被害の大きいのは南のサンタ・カタリーナ州でブルメナウ市をはじめイタジャイー川沿いの町では百人以上の犠牲者が出て、何万人という人達が避難生活を余儀なくされている。犠牲者のほとんどが地滑りによるもので家が押しつぶされる瞬間を携帯で撮った映像をテレビが流していた。自然の力の前には人間はなすすべもない。自然と共存できる開発が必要か。
大雨と言えば私達がサンパウロからヴィトリアに引っ越してきて間もない1979年エスピリト・サント州で大洪水があり300人以上の犠牲者がでた。ミナス州に始まりエスピリト・サント州を横断するリオ・ドーセ(Rio Doceドーセ川)が氾濫した。なんでも雨が1ヶ月以上降ったそうだ。「そうだ」というのはちょうどその時私達は弟の結婚式でサンパウロのビリチーバ・ミリンの両親の所へ行っていたからである。結婚式に合わせて1ヶ月の休暇をとった。ブラジルでは1年間働けば30日の休暇がとれる。労働法で決まっており必ずとらなければならない。2回に分けて取る者もいる。30日を月曜日から取るようにするので前の土、日と合わせ32日となる。子供の学校が休みの12月から2月の半ばまでそして冬休み(?)の7月が取り合いになる。私達の課では同じ担当でなければ2人まで同時期に取れるようになっていた。次の年は優先順位が変わりあまり文句の出ないようにするのがそこの長たる者の腕の見せ所となっている。
当時ヴィトリア・サンパウロ間1千キロは車で約14時間かかった。妻と交代で運転。途中工事中の所もありリオ・ニテロイ橋に入るにもニテロイの街の中からで橋に差し掛かるところは特に渋滞していた。さて結婚式も無事終わり30日の休暇ももう少し、帰路につくことにした。さあて、ビリチーバからヴィトリアまで1千キロ。まずサンパウロとリオを結ぶヅットラ街道に入る。そして最初のガソリンスタンド。「満タンにして下さい」「満タンって、あんた達ヴィトリアにいくの?」ナンバープレートをみて従業員が言った。「ヴィトリアへは行けないよ、たしかリオの先で通行止めじゃないかな。ほら昨日テレビで言ってたろう」。何も知らなかった。そう言えば忙しいのと久し振りに親,兄弟揃ったということで毎晩話にはずみがつきテレビをつけることさえ忘れていた。新聞は24キロ先のモジの組合の私書箱の中でそこにもここ10日以上寄ってない。なんでもエスピリト・サント州では30日以上雨が降り続いていてがけ崩れ等で道はあちこち切断されているとのこと。しかし、もう帰りかけているし仕事を休むわけにはいかない。あとは運を天にまかせるのみ。リオ・サンパウロ間は何も問題なく通過。リオを過ぎると道の両脇は水に浸かっている所もある。その道もアスファルトがはがれて穴だらけ。ゆっくり、ゆっくり。所々がけ崩れの箇所をトラクターが泥を取り除いてはいるが十分ではなく滑る。おまけに穴には砂利が入れてありそれが道路にはみだしている。たしかに乗用車は少なくトラックやバスだ。そのうち、ある直線コースに来た。がけ崩れで行きと帰りの2車線しかない。少し行くと前方にトラックが2台並んで見えた。どうやら直線に出たので追い越しにかかったらしい。しかし一向に追い抜かない。だんだん私達の車との距離が縮まってくる。私はライトを点滅して合図した。まだ追い抜かない。これ以上近づいたら危ない。私は車を止めライトを点滅させクラクションを鳴らし続けた。後ろには後続車がいるし、横はがけ崩れ、前に進むのは自殺行為。トラックは近づいてくる。「これまでかっ」、脳裏をかすめた。トラックの運転手二人とも抜こう抜かせまいとお互いだけを見て前を見ていない。やがて「はっ」と二人我にかえり前を見てとんでもない事態に気がついた。一人がスピードを上げ、もう一人がスピードを落とし慌ててハンドルをきるのが見えた。トラックの荷台のしっぽが私の鼻先をかすめるようして消えていった。しばしぼうぜんとしたが妻の声で慌ててエンジンをふかして車を動かした。ブラジル人がこんな時によく使う言葉がある。「まだ(天に召される)その時ではなかったのだ」。日本語ではこの状況を「危機一髪」とでも言うのだろうか。とにかく家族全員命拾いをした。ブラジルではトラックの運転手たちの交通規則違反の無謀運転がよく悲劇を起こす。もっと教育および取締りに力をいれなければならない。20年ほど前アメリカのフロリダを旅行した時私達の車の前を超小型車が走っていた。その後ろのガラスに大きなステッカーが貼られていた。曰く「OK,YOU (TRUCK) IS A BOSS, BIG IS A KING!」。アメリカでも同じような問題があるのだろうか。
その日私たちはいつもより8時間以上も遅れ、家に着いたのは午前2時を過ぎていた。水道の蛇口をひねると赤茶けた泥水。とても飲めたものではなくご飯も炊けない。いまどき店など開いているはずもない。妻が裏庭からサトイモを掘り起こし泥水で洗いそして煮た。皮をむいたサトイモが盛られた皿は瞬く間に空になった。

2008年11月23日日曜日

ブリジッテ ママのりんごケーキ Bolo de Maçã da Mama Brigite

ブラジルの南の3州(パラナ州、サンタ・カタリナ州 およびリオ・グランデ・ド・スール州)にはヨーロッパ系の移民がたくさん住んでいます。特にドイツ系とイタリア系。ぶどう栽培も盛んでおいしいワインも生産されています。サンタ・カタリナ州のブルメナウ市では10月にドイツのミュンヘンについで賑わうと言われている「Oktoberfest」が催されます。80万人の観光客が18日間で約37万リットルのビールを消費します。
さて今日紹介するブリジッテさんはパラナ州の州都クリチーバに住んでいる私の娘の姑。ドイツの血が4分の3で イタリアの血が4分の1、ご主人のカルロス氏はドイツとイタリアの血がそれぞれ50%。仲睦ましい夫婦です。このりんごケーキのレシピは去年、妻がクリチーバに行った時にブリジッテさんから教わったものです。彼女曰く『段々歳をとってくると面倒なのと金のかかるものは切ってきて気がついたら金のかからなくておいしくて簡単にできてしかも、いかにも手がかかったように見えるものだけがのこっている』とのことでこのりんごケーキはその代表的なもの。おいしくて簡単に出来るので私も何回も作っているがいまだに失敗がない。私も退職してからは少しは料理に興味を持ち時々台所で好きな卵焼きや味噌汁などを作っている。先生は妻でもっとレパートリーを増やさなければと思っているがなかなかその暇(?)がない。


小さめのりんご六個(皮をむき四つに切り種を取る。約5mmの厚さに切る)
砂糖コップ3杯
小麦粉コップ5杯
種無し乾しぶどうコップ2杯
きざみナッツ コップ1杯(好みにより無くてもよし)
シナモン粉大さじ5杯
ベ-キング・パウダー 大さじ3杯
卵5個
バター大さじ5杯

大きめのボウルに全部いれ、しゃもじで混ぜる
ケーキ用型を準備する(バターを塗り小麦粉をまぶす)
ケーキ用型の中にうつし均す
オーブンで全体がこんがり色づくまで焼く

2008年11月19日水曜日

神罰が下った

私達、会社を定年退職しても会社の健康保険に入っている。去年から退職者も年に一度定期健診を受けるようになり今年からは奥さん方も加わった。今日は色々な検査の結果を医者から説明を受けにいったがどこも大した異常はなし、すこし血圧とコレステロールが高いという事で薬を処方され後は一日30分程のウオーキングをするようにとのことだった。ブラジルもこれからシニア層が膨らんでくる。ただでさえ医療体制は十分でなく老人医療に関してはまだよちよち歩き。これから国をあげて準備をしなければ将来手に負えなくなってくるだろう。
さて今日会社の診療所が入っているビルの前の会社専用の駐車場に車をとめようとしたら周りの塀際の駐車用のラインのある所はいっぱいだが中は大分スペースがある。妻が残ってどこか空いたら車を入れてその後診療所に行くといって残ったがいっこうに来ない。用が済んで駐車場に帰ってみるとなんと家の車だけ。妻はそこの主人と話している。これは色々話した中の一話だそうだ。
ある日私が仕事から帰って家のガレージに車を入れようとしたら誰かの車が前に止まっていて入れない。仕方なく隣の家の前に止める事にした。決してガレージの前ではない。家の玄関を入ろうとした時『ガチャン』と音がした。外に出てみると隣の家の車が私の車の鼻先にぶつかっている。あわてて近寄ると隣の家の主人がすごいけんまくで怒鳴ってきた。『あんたが家の前に車を止めるからこういう事になったのだ。この始末どうつけてくれるのだ』「どうするってここは公道ですよ、別に駐車違反の場所ではないし、あなたがバックする時に不注意にぶつけたんでしょう」「早速警察を呼んで証拠写真をとってもらわなければ、これは誰が見ても止めていた俺の車にあんたが後ろからぶつけたと言う事で裁判までいっても俺が勝つのはわかっている」「そんな馬鹿な」「俺の言い分が通るかあんたの言い分が通るか誰も証人はいないし誰もあんたの言うことなど信用すまい」私はなぜ彼がこんな事を言っているのか全く見当がつかなかった。私の家族と彼の家族とは親戚以上の付き合いをしていると思っていたからである。お互いの娘たちは一緒に宿題をしてレンタルビデオを見たりして、遅くなるとそのまま泊まっていくこともある。奥さんどうしは連れ添って買い物に出かけたりする。なぜ隣の主人がこうも因縁をつけるのかわからない。私の車は大分へこんでいるのに彼の車はたいして傷んでない。おまけにたったこれだけに警察だの裁判だのとわめいている。 そういうことまではやりたくない。「私がどうすれば事がおさまるのですか?」すると彼はすかさず 「500レアイス(約3万円)俺にくれればいい」どうやら彼は車に保険をかけてなくて自分の車はともかく私の車を修繕するのにかなり金がかかると判断し無理難題をふっかけてそれが通れば儲け物だと目踏みして自分が悪いと謝るどころか攻撃に出てきたのだと解ったが私もこれ以上面倒になるのはいやだ。金でかたがつくのなら妻や娘のこともあるし、しゃくだがむこうの条件を飲むか。親戚以上と思い彼からの頼みならなんでも聞いて力になってやろうと今まで決めていたがこの男とは金輪際絶交だ。「私としては不本意だがそれでかたがつくのなら500レアイスあなたにあげましょう。しかしこれで私の心はあなたに閉ざされました。あなたはこれで得をしたと思っているかもしれませんが実際は大きな損をするのはあなたですよ」と私は500レアイスの小切手を書き彼にさしだした。彼は私の手から小切手をもぎとった。私はこのことを妻にも娘にも話さなかったので彼女らは以前と変わりなく行き来していた。それから15日くらい経っただろうか、彼が自分の車を私が止めた場所と同じところに止めていたところ大きなトレーラーが通ったらしく頭の部分は削りとられほとんど大破の状態になっていた。一瞬の出来事でプレートのナンバーさえわからない。タイヤはどうにかこうにか動いたので近所の人の加勢で車はやっとガレージにおさまった。
それから2,3日して妻が隣から帰ってきた。『あなた隣の車に呪いをかけたそうね。大きな損をするって』こうも因縁をつけられては黙っていられない。隣の玄関先までいって怒鳴った。「私は信心深いキリスト教徒です。だからマクンバ(アフリカ宗教のおまじない)をかけに行ったこともありません。いうなればこれはもっと上に居られる方のお裁きでしょう』中からは何の返事もなかった。それからは私が不思議な力を持っているという噂が立ち、私に因縁をつける人もいなくなった。私は肯定もしないし否定もしない。この状態満更でもないと思っている。隣の車、修繕に出されることもなく1年ほどガレージに醜態をさらしていたが私たちがバカンスから帰ってきた時にはなくなっていた。

2008年11月15日土曜日

またマンゴーの季節がやってきました


またマンゴーの季節がやってきました。前の作は今年の正月から収穫したのに今回は11月15日から。いつもより早く、この調子では正月には収穫し終わっているかも知れません。昨日かなり強い雨が降りました。テレビのニュースではヴィトリアでは30センチほど浸かったところもあったようです。最近強い雨の度に必ず浸かっています。ヴィトリア(Vitória)は島の上に発展していった町で人が多く住んでいるところは標高も低く埋立地の上に建てられたものもあり少しの雨でも満潮時すでに浸かっている道路もあります。今後地球温暖化で潮位があがるとどうなるのだろうかと心配です。大ヴィトリア圏内の私たちが住んでいるセーハ(Serra) は高台になっているのでその心配はないのですが。
いまエスピリト・サント州は産業活動が盛んで2006年のGDP(PIB)の伸び率は7,7パーセントで、ブラジル平均では4パーセントでした。なんでも来年の末までにエスピリト・サント州の沖合いでペトロブラス(石油公社)が30本の試験掘削を行うと発表しており、ヴィトリア、セーハともに多くのマンションの建設ラッシュが続いています。ブラジルの国旗には「秩序と進歩」とかいてありまたエスピリト・サント州の州旗には「労働と信頼」とかいてあります。「労働と信頼による秩序ある進歩」、ブラジルのとるべき道はこれですね。

えっ、私が父兄会の会長?


これは私の息子二人がブラジルではロビニョ(lobinho 直訳で「狼のこども」)と呼ばれているボーイスカウト(escoteiro エスコテイロ)のジュニア版に入っていた頃の話です。子供たちが通っていた学校の体育の先生がボーイスカウトの指導員の資格を持ち、それに3人の近所のロビニョの指導員の資格を持っている女性の方たちが助手となり地域の子供たちを集めて毎週土曜日近くの広場で訓練(遊び?)が行われていました。その助手たちはキップリングの「ジャングル・ブック」に出てくる動物の名前で呼ばれていました。 あたかも「ジャングル・ブック」にでてくる狼に育てられた狼少年モーグルを守る動物たちというところでしょうか。狼の長たる『アケラー』、黒豹の「バギラ」、クマの「バル」,三人の子供好きの彼女たち。ロビニョは6歳から10歳までの少年、少女達。隊員は約30名ほど。年に三度くらいほかの町の隊との交流やピクニック等も催されていました。
そんなある日、今度の日曜日に2年に一度の父兄会がありそこで新しい役員の選挙も行われるのでご出席下さいとの通知が回ってきた。久し振りのゆっくりした日曜のはずだったが普段から子供たちが世話になっている「アケラー」のたっての頼みということもあって出席することにした。場所は近くの学校の教室。ここ2年間の活動および会計報告。そして休憩のあと新役員の選出が始まった。まずは書記、会計係などから始まり、段々と表の下のほうから埋まっていった。私の隣には会社の顔見知りが座っていてボーナスの話などを時たまかわした。副会長の選出が終わりいよいよ会長。皆なんらかの役員に選ばれていてまだ選ばれてないのはどうやら私と隣の彼らしいと気がついた。「さて会長ですが・・・」その時、隣の彼が私の腕を取り、上に! 「あっ、それでは会長は佐伯さんということで」「えっ、私が父兄会の会長?」すると隣の彼「いや、あまり仕事しなくていいんだ、大丈夫だよ」「何を言ってるおまえ」などとやりとりしている間に選挙は終わってしまった。「隣の彼にしてやられたけど仕方ない、やるか」ということでそれから会の招集がかかるたびに行かなければならないはめになった。隊の倉庫には旗とか棒とかはあったがまだテントはなかった。あるときキャンピング用品の店で安い小型テントを見つけこれは隊の皆が活用できそうだなと私の小切手で買った。倉庫係に手渡して毎月の会費のなかから差し引くということにした。しかしその後ボーイスカウトの指導員が結婚して学校も変わったりでボーイスカウトおよびロビニョの活動は立ち消えた。テント代、全額払い戻してもらったかどうかはよく覚えていない。
私の二人の息子たちは無事ロビニョを終えてボーイスカウトとなりそれまでのロビニョの青い制服から新しいカーキ色の制服で第一回目の訓練を受けたところで隊が解散となった。ロビニョの終業式の時二人の息子は最高の章でなかなかとれない「南十字星章」をもらった。ここの隊ではうちの息子たちともう一人で全部で三人。なにか嬉しいような申し訳ないような気がしたことをおぼえている。
上の写真は当時使っていたロビニョの制服。二枚目の制服で毎週洗濯したのでかなり色はあせてしまっているが息子たちの宝として大事にしまってある。左肩には「南十字星章」が縫い付けてある(写真をクリックして頂くと大きくなるのでよくわかります)。

2008年11月7日金曜日

アメリカンドリーム X ブラジリアンドリーム

今週アメリカの大統領選挙で民主党のBarack Obama上院議員が第44代目の大統領に選ばれた。彼の父親はアフリカのケニア生まれ。今も祖母や一族はケニアに住んでいる。父親はハワイでアメリカ人女性と結婚、彼が生まれた。彼の生い立ちはマスコミを通して世界中に知れ渡った。彼はその後ハーバード大学を卒業、弁護士となり政界に身を投じ上院議員、そして今回圧倒的な勝利で大統領に。まさしくアメリカンドリームを身をもって演じた。さすがアメリカは民主主義の鑑とも言える国、自分たちの国に今誰が必要か民衆の判断の結果である。4年毎に必ず選挙が行われるというこの確固たる民主主義の体制がこれを可能にする。もし自分たちの判断が間違っていれば4年後にその修正をすればいい。今回の選挙戦の終盤に起きたアメリカ発の世界大恐慌の再来ともみなされている金融経済界の大混乱。将来への不安が渦巻いている。新大統領の舵取りの腕前に世界の命運がかかっているといっても過言ではない。
ここブラジルでもブラジリアンドリームとも言うべき現象が起こった。6年前の大統領選挙の時である。数名の大統領候補が一次選では誰も過半数の票を獲得することが出来ず上位二者の決選投票。ブラジル社会民主党のアウキミン候補と労働者党のルラ候補との戦いはルラ候補が制した。その就任式の時の演説で「自分は証書(大学卒業)を今まで貰うことが出来ず人生で初めての証書がこの大統領の証書となった」と声を詰まらせた。彼は自動車工場で工員として働き軍政から民政へ移行した1980年代前半組合活動に身を投じ労働者党を結成それ以来党首を務め三度目の正直の六年前の大統領選で当選した。下層階級に厚い政策で高い人気をほこり一昨年は再選を果たした。今でもまだ高い支持率を保っている。今年の日本移民百周年祭にも出席その時彼が最初に働いた所は日本人の洗濯屋でそこでよくしてもらったと若い日の日本人との出会いのエピソードを披露した。一下級労働者から大統領へと上り詰めた彼の経歴はまさにブラジリアンドリーム。彼はアメリカのマネーゲームが引き起こした今回の世界的な混乱についてお金は生産を向上させるためにのみ使うべきだとアメリカに対し労働者出身の彼らしい苦言を呈した。

2008年11月2日日曜日

私を見殺しにしないで!

先週妻の友人の誕生日のパーテイに招かれた。パーテイといっても簡単な内輪だけのもので親戚以外は私達だけ。行ってみると夫婦そろって同じ誕生日だということで、そういうカップルに出会ったのは初めての経験? 私達のあとで仕事用のブーツを履いた女の人が入ってきた。服装もなにやら制服らしい、だが見当がつかない。妻は顔見知りらしく挨拶していた。彼女はここの奥さんの妹で市警さん。今日は仕事からまっすぐ来たので服を着替える暇がなかったと言っていたと妻があとで説明してくれた。ブラジルも数年前から市でも自分の警察を持つようになり主に交通整理および違反の取締りをしていたようだったが最近は拳銃の所持も許されているので活動範囲も広くなっているのではないかと思われる。この話はその市警さんが話してくれたものだ。
ヴィトリアに本格的なショッピング・センターができたのは1993年。地下および屋外に2200台を収容できる駐車場がある。駐車場に入れるには2ドル程の料金を払わなければならないので料金をケチって駐車違反区域にとめる人もいる。そこを見回っていた市警さん早速違反車を見つけ手持ちの伝票に書き付けた。赤ら顔の30代の男の人があわただしく駆け寄ってきた。『中で働いている人に用があってほんのちょっとの間ここに置いていたんだ。その駐車違反の罰金を取り消してくれ』「違反は違反ですからもう取り消せません」『何、取り消せないだと、もう殺してやる』。興奮してズボンのポケットからナイフを取り出した。市警さんも面子がある。「殺せるものなら殺してみな』と走り出した。男もナイフをかざして後を追う。この市警さん、足には自信がありいつもマラソン大会に出場している超ベテラン。男も追いつけそうでなかなか追いつかない。市警さんそのうち携帯を取り出して本部に連絡。『今ショッピング・センターの周りで、ナイフを持った男から追いかけられている至急救援たのむ』「了解」。そのうち男が迫ってくる。もうちょっとピッチを上げないと。いつもはすぐ来る救援が今日に限ってなかなか来ない。もうショッピングの周りを2周してしまった。あまりピッチを上げて男にあきらめさせては救援が来たときに『何だお前、うそを言って俺たちをかついだのか』と笑いものにされる。しかしピッチを落としては自分の身が危ない。うしろをみながら男にあきらめさせない程度の距離を保って3周目。やがて仲間たちの車が見えてきた。サイレンも鳴らさずのろのろと来て道の脇に車を止めにやにやしながらこちらを見ている。『普段はてきぱきとやるのに、本当に腹の立つ連中だわ』。彼ら、男が近づくと現行犯として取り押さえ警察の車におしこんだ。「いやあ大変だったな、それじゃあ」と帰りはサイレンを鳴らして疾風のごとく去って行った。それを見た彼女「ちくしょう、私を殺すつもりだったの!」。