ここ2週間くらい毎日雨が降っている。ヴィトリアでもあちこち浸かっている所があり、なんでも1キロメートルの道路に平均20の穴があると新聞が報じていた。その穴が泥水で隠れているので車の運転には気をつけるようにとの事だ。しかし最も被害の大きいのは南のサンタ・カタリーナ州でブルメナウ市をはじめイタジャイー川沿いの町では百人以上の犠牲者が出て、何万人という人達が避難生活を余儀なくされている。犠牲者のほとんどが地滑りによるもので家が押しつぶされる瞬間を携帯で撮った映像をテレビが流していた。自然の力の前には人間はなすすべもない。自然と共存できる開発が必要か。
大雨と言えば私達がサンパウロからヴィトリアに引っ越してきて間もない1979年エスピリト・サント州で大洪水があり300人以上の犠牲者がでた。ミナス州に始まりエスピリト・サント州を横断するリオ・ドーセ(Rio Doceドーセ川)が氾濫した。なんでも雨が1ヶ月以上降ったそうだ。「そうだ」というのはちょうどその時私達は弟の結婚式でサンパウロのビリチーバ・ミリンの両親の所へ行っていたからである。結婚式に合わせて1ヶ月の休暇をとった。ブラジルでは1年間働けば30日の休暇がとれる。労働法で決まっており必ずとらなければならない。2回に分けて取る者もいる。30日を月曜日から取るようにするので前の土、日と合わせ32日となる。子供の学校が休みの12月から2月の半ばまでそして冬休み(?)の7月が取り合いになる。私達の課では同じ担当でなければ2人まで同時期に取れるようになっていた。次の年は優先順位が変わりあまり文句の出ないようにするのがそこの長たる者の腕の見せ所となっている。
当時ヴィトリア・サンパウロ間1千キロは車で約14時間かかった。妻と交代で運転。途中工事中の所もありリオ・ニテロイ橋に入るにもニテロイの街の中からで橋に差し掛かるところは特に渋滞していた。さて結婚式も無事終わり30日の休暇ももう少し、帰路につくことにした。さあて、ビリチーバからヴィトリアまで1千キロ。まずサンパウロとリオを結ぶヅットラ街道に入る。そして最初のガソリンスタンド。「満タンにして下さい」「満タンって、あんた達ヴィトリアにいくの?」ナンバープレートをみて従業員が言った。「ヴィトリアへは行けないよ、たしかリオの先で通行止めじゃないかな。ほら昨日テレビで言ってたろう」。何も知らなかった。そう言えば忙しいのと久し振りに親,兄弟揃ったということで毎晩話にはずみがつきテレビをつけることさえ忘れていた。新聞は24キロ先のモジの組合の私書箱の中でそこにもここ10日以上寄ってない。なんでもエスピリト・サント州では30日以上雨が降り続いていてがけ崩れ等で道はあちこち切断されているとのこと。しかし、もう帰りかけているし仕事を休むわけにはいかない。あとは運を天にまかせるのみ。リオ・サンパウロ間は何も問題なく通過。リオを過ぎると道の両脇は水に浸かっている所もある。その道もアスファルトがはがれて穴だらけ。ゆっくり、ゆっくり。所々がけ崩れの箇所をトラクターが泥を取り除いてはいるが十分ではなく滑る。おまけに穴には砂利が入れてありそれが道路にはみだしている。たしかに乗用車は少なくトラックやバスだ。そのうち、ある直線コースに来た。がけ崩れで行きと帰りの2車線しかない。少し行くと前方にトラックが2台並んで見えた。どうやら直線に出たので追い越しにかかったらしい。しかし一向に追い抜かない。だんだん私達の車との距離が縮まってくる。私はライトを点滅して合図した。まだ追い抜かない。これ以上近づいたら危ない。私は車を止めライトを点滅させクラクションを鳴らし続けた。後ろには後続車がいるし、横はがけ崩れ、前に進むのは自殺行為。トラックは近づいてくる。「これまでかっ」、脳裏をかすめた。トラックの運転手二人とも抜こう抜かせまいとお互いだけを見て前を見ていない。やがて「はっ」と二人我にかえり前を見てとんでもない事態に気がついた。一人がスピードを上げ、もう一人がスピードを落とし慌ててハンドルをきるのが見えた。トラックの荷台のしっぽが私の鼻先をかすめるようして消えていった。しばしぼうぜんとしたが妻の声で慌ててエンジンをふかして車を動かした。ブラジル人がこんな時によく使う言葉がある。「まだ(天に召される)その時ではなかったのだ」。日本語ではこの状況を「危機一髪」とでも言うのだろうか。とにかく家族全員命拾いをした。ブラジルではトラックの運転手たちの交通規則違反の無謀運転がよく悲劇を起こす。もっと教育および取締りに力をいれなければならない。20年ほど前アメリカのフロリダを旅行した時私達の車の前を超小型車が走っていた。その後ろのガラスに大きなステッカーが貼られていた。曰く「OK,YOU (TRUCK) IS A BOSS, BIG IS A KING!」。アメリカでも同じような問題があるのだろうか。
その日私たちはいつもより8時間以上も遅れ、家に着いたのは午前2時を過ぎていた。水道の蛇口をひねると赤茶けた泥水。とても飲めたものではなくご飯も炊けない。いまどき店など開いているはずもない。妻が裏庭からサトイモを掘り起こし泥水で洗いそして煮た。皮をむいたサトイモが盛られた皿は瞬く間に空になった。
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