2013年12月31日火曜日

年の終わりに

今年も今日で終わり。無理をしなければ痛みなしで過ごせたのがありがたい。今では家でも大晦日の恒例になっているNHK の紅白歌合戦をみた。地球の裏同士で日本とブラジルとの時差は12時間、午後の1時には終わる(ブラジルは夏時間)。いつも赤組に応援しているのだがなぜか最近は白組ばかりが勝っているような気がする。今年は昨日からクリチーバに住む娘夫婦とリオに住む長男夫婦が来てくれている。一緒の帰郷は初めてのような気がする。午後には次男の家族も顔を見せた。
12月にエスピリトサント州に降った大雨で川が氾濫し道路が切断されたり、農作物が被害をうけたり、そのせいで野菜の値段が大幅に上がったりで大変だった。エスピリトサント州だけでも26人が死亡、約6000人が避難した。ここ2,3日天気が続きこれからの復興にも弾みがつく。
そのほかに12月中にこれは記しておきたいと思ったことが二つあった。
ひとつは南アフリカのネルソンマンデラ元大統領の死とその後の世界規模の葬儀。これほど大統領や各界の首脳が集まった葬儀はなかったのではないか。ブラジルからも現大統領はじめ4人の現存する元大統領が参加した。彼は人類に大きな希望を与えた、それは「為せば為る」。多くの人が志を新たにしたのではないか。
もうひとつは何気なく聞いていたニュースがちょっと耳に引っかかった。「なに、ブラジルの女子ハンドボールチームが世界選手権で金メダルを取った。」再度聞いても耳を疑った。今までこのスポーツにはブラジルはメダルに縁がない。前回までの成績も15位、とか16位。それが優勝候補のデンマーク、セルビア、オランダしかもセルビアとの決勝戦には地元の2万人以上のサポーターのまえでこの快挙。
ブラジルチームの監督はデンマーク人。彼は決勝戦まえ一つの策を練った。デンマークはハンドボールの強国で彼も以前選手だったらしい。そこで今まで獲得した金メダルや銀メダルを取り出し選手に言ったらしい。「これが金メダルで僕のだ。そしてこちらは銀メダル。相手は強いからせいぜい君たちはこちらの銀だな」そのとたん一人の選手が金メダルを持っている腕に跳びかかった。「私はこの金メダルがほしい。」よろけた監督の上に他の選手たちも「私も、私も」と重なる。
かくして念願の金メダルを全選手がそれぞれ手にすることとなった。
実はこの女子ハンドボールのニュースは聞いて知っていたが詳細は知らなくてあとでインターネットで調べて書こうと思っていた。そしてこのポストを書き始めて「歩く百科事典(長男尚人の学生時代のニックネーム)」の存在を思い出しテレビを見ていた長男を呼び出し聞き出した。
ブラジル女子、最近強い。バレーボールではオリンピック2連勝と今年のその他の世界タイトルを独占。驚くほどの安定さだ。

さて次はなんで驚かせてくれるのだろうか。

2013年12月26日木曜日

サンタはいない


久しぶりに長男の尚人(なおと)が正月に帰って来るという。リオの国立病理学研究所に勤める傍ら週末と休日には公立病院の救急センターで働いているので休みが取れないというのでここ数年家に帰ってきてない。
飛行場に迎えに行くから30日の何時に着くのか知らせるように言ってあるのだがなかなか知らせない。しびれを切らせた妻が昨日電話した。これは尚人の奥さんダニエレ と妻との会話である。
「今日朝早く主人が起きてきていきなり言ったの“サンタクロースはいないというのが分かった”と。どうしてと聞くと“昨日の夜サンタに80インチのテレビを頼んでいたのだが来なかった”と言ったの」
「子供の頃は何かほしいものはないかと聞いてそれを買って枕元においてたからね。しかしなんて冗談を言うんだろうね」
「それがあまりがっかりした様子なので昨日からクリスマスイブの夜食を一緒に過ごそうと来ていた私のおばあちゃんが“プレゼントに買ってやりたい”と私にささやいたの」
「そうだね、おばあちゃんは尚人びいきだからね」
「テーブルを片付けていてそれを聞いていた私の母がどの位するのかインターネットでしばらく調べたの。だってブラジルではまだ生産していないらしいの。“正式なサイトではないけど約40.000Reais(約17000ドル)くらいするよ”とびっくりした様子で私にそっと言ったの。どこからそんなお金が出るというのよ。わずかな年金くらしのおばあちゃんにはかわいそうだけど無理だよ。」
「へえーそんなにするの!、私はそんなのがあるなんてことも知らなかったわ。あの子この頃よくとんでもない冗談を言って人をからかうようになったわね。小さいころは家で本ばっかり読んで口数も少なく百科事典を読むのが趣味で、歩く百科辞典て呼ばれていたのよ。あなた、呪文に縛られていたあの子を解放したわね」

横で聞いていた私はそれこそ腹を抱えて大笑い。
到着時間は後でダニエレがメールすることとなった。


2013年12月22日日曜日

エスピリトサント州の水害被害


今日も雨は降り続いている。エスピリトサント州各地で川の氾濫や排水処理の不備な所で多くの家が浸水の被害を受け約25.000人が避難しているという。雨は止みそうもないからますます被害は大きくなる。先ほどテレビのニュースで流していたが大雨の数は10年単位で調べるとどんどん増えているという。地球温暖化の影響だと専門家は解説していた。一昨日ヴィトリアに住む下の息子の家に寄ってみたが前日の仕事の帰りは膝まで浸かっての帰宅だったと言っていた。海辺の街は埋め立てして造った地域もあるので満潮と大雨洪水が重なると被害が大きくなる。
私たちの家は海抜30m。近所の水はけの悪い所や低い所に水たまりはあるが浸かることはない。しかし困るのはアスファルトの層が薄いので重い車の通った後に穴があちこちにあきそれが泥水にかぶされると分からずに車がガクンと落ちてしまう。公共工事の手抜きがこんな時に暴露される。

昨日、海の近くの知人から電話があって家のすぐ近くの州道ES10が通れなくなっているのでこちらの方には来ないようにと連絡があった。それが上の写真である。海のすぐ横の道で昨日の夜は雨が降っていて見通しが悪くおまけに交通止めも何の信号もなかったので車がそのまま突っ込んで破損した様子がテレビに映っていた。幸い運転手にけがはなかったようだ。


このエスピリトサント州に降る雨、もとをたどればアマゾン地方の大西洋の湿った空気がアンデス山脈に当たりそれがアンデス沿いに南下して途中でカーブを切って大西洋に向かってミナス州を通りちょうどエスピリトサント州(くらいの幅)で大西洋に出る。この現象を気象学的にZona de convergência do Atlantico sul と呼んでいる。だからここでは大雨でも他州では天気の時が多い。テレビでこの現象を説明しているとき思い出すのが以前NHKで見たヒマラヤ山脈と日本の気象との関係。インド洋の湿った空気がヒマラヤ山脈にあたりそれが東にそれて日本に行くという話。これは全くの驚きであった。

2013年12月19日木曜日

和食、ユネスコの無形文化遺産に登録される

今月アゼルバイジャンで開かれたユネスコの会議で和食(日本食)が無形文化遺産に登録された。世界中でブームともいえる現象で日本食が広まっているのとは反対に日本国内では家庭内でも日本食は減少の傾向にある。日本の若い層に好まれる三大人気メニューはハンバーグ、ライスカレー、スパゲッテだそうだ。一方こちらサンパウロ市ではブラジルの一番人気のバーベキューレストラン数は500店舗で日本食レストランはそれを上回り600店舗あるという。驚きだ。
ここ日本人が少ないエスピリトサント州でもあちこちに新しい日本食レストランが開店している。たまに入ってみるがこれが日本食かと疑うようなものまででてくる。日本食の定義はあるのだろうか? フランスの食文化も無形文化遺産に登録されているがどう取り扱われているのだろうか? 今までは日本食レストランが増えるのはうれしかったがこれからは日本食の質と量のバランスをどうとって無形文化遺産としてのレベルを保っていくのか? これからが大変だ。
日本食ブームを後押ししたのが2002年学術誌に発表された伝統的な日本食のだしに使われる昆布やかつお節に含まれるうまみ成分は味覚であると立証されたからだそうだ。それで外国のシェフたちもこれを求めて日本食を研究しいまではその土地のものからうまみ成分を引き出そうとしている。
我が家では子供たちが一緒に住んでいたころはブラジル食と日本食の割合は6対4くらいだったが今は3対7くらいで日本食の方が多くなってきている。おばあちゃんから日本食を受け継いできた妻は大豆を買ってきて味噌や豆腐を造る。醤油は今やブラジル人の家庭でも調味料として親しまれておりどこのスーパーでも売っている。最近ではブラジル産の日本米が近所のスーパーでも売っている。これは日本食ブームのおかげか。エスピリトサント州に移ってきた36年前は日本米を売っているところはなくブラジル米はポロポロしているので休暇でサンパウロに行ったときにもち米を買ってきてブラジル米に一握りのもち米を入れて少し粘りを出して食べていた。何とか工夫してこちらの食材で日本食に近くならないか妻も盛んに試していた。その中でも味も食感もよいのは今でも我が家の自慢の定番になっている。
日本をはじめ中国や韓国の食材までそろうサンパウロ市内の東洋街、値段も手ごろで誰でも手の届く所にありなんでも好きなものを選んで食べれる時代になった。ここエスピリトサント州の我々はその恩恵はまだ受けてないが少しづつオプションも増えてきている。それとこの土地の郷土料理にも慣れ舌鼓を打っては外に出て自慢している自分を発見する。

味覚は人それぞれ違う。自分で美味しいと感じながら食べることの幸せをこの頃味わっている。そして今このポストを書きながら自分に合ったエスプレッソコーヒーをいれて飲み幸せな気分に浸っている。

2013年12月8日日曜日

2014年ブラジルW杯グループ抽選会


一昨日ブラジル・バイア州のSauipe で2014年ブラジルW杯のグループの抽選が行われた。ブラジルはA組でクロアチア、メキシコおよびカメルーンと組む。まず予選突破は大丈夫だろうとはmediaと国民の総意。しかし監督は油断大敵と警報を鳴らす。
日本はC組でコートジボワール、ギリシャおよびコロンビアと組む。この組み合わせが決まった瞬間日本の一次リーグ突破は大丈夫だなと私は思った。選りすぐられたW杯の出場チーム、油断はできないし運も大きく左右する。さらに今回は大陸ともいえるブラジルの国土の広さからくる熱帯から温帯にわたる気候の変動(特に暑さに注意)それに移動の大変さ。つい昨日も日本対コートジボワールの試合も何時間か遅く始まると修正された。
スタジアム(今はアリーナと呼ぶようになっているが私はArena というとすぐローマ時代の闘技場が頭に浮かぶのでスタジアムで通している)の場所から見ると一次リーグの日本の3スタジアムは暑い地方だ(Recife, Natal, Cuiabá)。一方韓国は南の涼しい地方で2試合ある(Cuiabá, Porto Alegre, São Paulo)
日本チームには暑さ対策が重要性をおびてくる。
この会場で司会を務めたのがモデル(の時代に5か月日本に住んだこともある)で女優で番組の司会もこなすFernanda Lima. 彼女の現在担当しているテレビ番組は木曜真夜中の”Amor & Sexo”(Love and Sex)という番組。まあ時間帯からして大人の番組なのだが、彼女きわどいシーンもサラリと軽くコミカルにかわし安心してみれる。時々隣で見ている妻に「この場面日本だったら絶対に見れないな」と私がコメントする。Fernanda Lima、このW杯抽選の司会で世界中に映像が配信され人気が上がるのではと期待している。

もう一つ、さすがブラジルと思わせたのがあのカラフルな公式サッカーボール。緑の芝生の中に溶け込んでしまうのではと心配になった。

追記:このポストを書いた翌日、何かが頭の隅に引っかかっているのに気づいた。何かをこの抽選会の日のポストに一緒に書こうと取っていたのがある。その時妻にも言っていたので何か思い出してくれないかなと聞こうとした瞬間に思い出した。
抽選会に参加するべくFIFAの役員や過去の優勝国のキャプテンそれに参加各国の関係者も数日前からブラジルに来ていた。FIFAはスタジアムの進捗状況が気にかかる。そこでブラジルの責任者であるスポーツ大臣がこう説明した「なんで皆さんが気にかかっておられるのか私にはわからない。私は何十度も結婚式に出席したが花嫁はいつも最後に出てくるそして全て素晴らしい結婚式でした。」なんと彼はスタジアムを花嫁にたとえたのである。どこの国でも同じでしょうが花嫁はみんなが教会に集まり花嫁を今か今かと待ち構えてざわめいている時に結婚行進曲(やカップルが気に入った曲)で父親に手を引かれて入ってきてクライマックスに達する。ほとんどがその時は少し時間をオーバーしている。しかし誰もそれを気にしていない(確かに)。
「ブラジルでの結婚式、いやワールドカップは最高だったなー。」そう言ってもらいたいものだ。


2013年12月7日土曜日

人魚姫は百万長者?



恵美は家に来てエネルギッシュに遊びまわり汗をかくとその後必ず風呂に入る。子供用に買った小さいプラスチックのたらいに太陽熱で温まったお湯を入れてやるとおもちゃの動物を浮かべて20分くらい遊ぶ。それから私たちを呼んで人魚(Sereia)のショーを見せてやると言ってせまいたらいの中をすばやくまわる。うまく回るもんだと感心してほめると何回でもまわる。
風呂の後はテレビを見ながら寝転んで妻がゆでた大きなとうもろこしにかぶりつく。ブラジル語でとうもろこしはmilho、そして大きなとうもろこしはmilhãoとなる。これは百万のmilhãoと同音異義語。

タイトルの"人魚姫は百万長者? "はこうして生まれた。


2013年11月25日月曜日

恵美の初飛行


息子正人が彼の姉理奈が住むクリチーバに家族旅行に出かけた。11月17日はクリチーバで国際マラソンが行われる。ちょうど有給休暇がマラソンと重なったのでまだ行ったことのないクリチーバに姉訪問、観光そしてマラソン参加と一石三鳥の旅となった。しかし旅行の二〇日前頃足をくじきマラソンは止めて10キロコースを夫婦で走ることとなった。観光スポットを結んだコースなので後であそこに行ったかあれを見たかと聞くと建物の中には入らずともブラジルで一番ヨーロッパ的で静かな町だと思ったと私たちと同じことを言っていた。
今回は恵美の初めての飛行機の旅となった。我が家は飛行場から近く、車で10分以内で着く。南からの風が吹き少し気温が下がると飛行機は家の上を通っていく。そんな時恵美が来ていると「Avião, Avião (アヴィオン、アヴィオン)」と言って上を向いて指をさす。この前なんか妻がブドウの剪定中に使っていた梯子をそのままにして食事の支度に行った時、恵美が飛行機の音を聞いて、さっとはしごを登り始めたそして手を延ばしても届かない。それに気づいた妻が走ってきて恵美をつかむ「ばあ、飛行機にはどうやって乗るの?」と聞く。「飛行機は飛行場に行って乗るのよ」。以前一緒に飛行場に行ったのだがその時はショーウインドウをのぞいてチョコレートの店に入ってねだってばかりいてぜんぜん外の様子には興味がなかった。
しかしこれは近いうちに飛行機に乗せないといけないなとは思っていた。乗ってもあまり騒がないでいたそうだ。上の写真はゲートに向かう途中に撮ったもの。
最近はブラジルのテレビでも健康番組が始まり食事や病気、運動などを説明している。それに合わせてか各地でマラソン、ハーフマラソン、10キロ、5キロなどの一般市民参加の大会が催されている。同じ日、私たちの家から2キロ弱の所にある市立公園発着で第一回エスピリトサント州主催の国際ハーフマラソンが行われた。国際とは何でだろうと思っていたらケニアの選手が出るとのこと8時発だから9時頃公園に着けばいいかなと歩いて行くことにした。夏時間とはいえ日差しが強くちょっと歩いただけで汗ばむ。1時間8分で先頭走者、みんなケニアの選手かなと思っていたらブラジル選手、2番、3番もブラジル、4番目にオートバイ2台に先導されケニアの選手が入ってきた。隣で「昨日夜更かししたんじゃないの?」とか、「ケニアの選手は2,3人で組んで走るのに彼一人ではタイミングが取れなかったのでは」との意見も。終了後のニュースでは「朝から強い日差しで暑かった」と書いてあった。
下のVideoは一番で入ってきたリオのPetropolis出身のEliezer de Jesus Santos 選手、待ち構えていた私の前をすごいスピードで走り抜けていった。 女子も1位はブラジルでケニアは2位。

夜、クリチーバに行っている息子に電話すると、クリチーバ国際マラソンではケニアの選手が男女とも優勝したと言っていた。「大会のランクと選手のランクをマッチさせているんだよ」とコメント。


2013年11月6日水曜日

ひねくれ


今週マンションのリフォームをしている下の息子正人が昨日の夜、家が埃だらけになるので週末まで見てくれと恵美を連れてきた。夜8時をまわっていたので夕食を一緒にとった。人数が増えたのでご飯だけでは足りないと妻が焼きそばを作る。息子も恵美も大好きである。焼きそばを小さい皿に盛って妻がソファーでテレビを見ていた恵美の所に持って行った。しかしそれをちょっと横眼で見て、「ばあ、ごはんはないの?」??。いつもはご飯に目もくれないくせに。焼きそばを少しけずってごはんを入れて持っていくと「なんだ、ご飯はあったの、それでは魚」なんだ大人を馬鹿にしているのか。それを見ていた息子驚いた様子で「こいつ早すぎるよ!自分の時はもっと歳がいってて何をしているか分かってやっていたのに」(つまり親を困らせていたわけだ)とちょっと心配そうな表情になり身体をぶるぶるっと震わした
そしてこんどはニヤッとして、「しかしソロカバのゼナイデおばさんにはまいったな、すべて見透かされていたから」といって話し出した。
(まだ私たちが若いころは一年に一回の一か月の休暇には車でサンパウロに行き親戚めぐりをしていた。サンパウロ市から車で約1時間のソロカバには妻清子の叔父の元軍警大佐の清さん、彼の妻ゼナイデさんの家族が住んでいる。4,5日は世話になっていた。)
ある年の正月元日のの2,3日後の夕食時、テーブルにはいろいろなごちそうが並んでいる。さっと見渡すといつもでていた子豚の丸焼き肉が見当たらない、毎日夕食にでていた時は別に気にしてなかった。そこで「おばさん、子豚の丸焼き肉が食べたい」
それを聞くと前に座っていたおばさん、僕の鼻先に指を突き刺し、にやにやしていきなり「Bingo!!!」と大きな声、「わかっていたよ、そう言うだろうと、だから冷蔵庫の中にしまっていたんだよ」と言って大きな肉のかたまりを皿に持ってきて「肉のどこの所が好きかい直ぐ温めてくるからね」と返事も聞かずにそのまま温めてきた。「いやー見事一本取られて、あまり好きでもない豚肉を食べなければならないはめになったよ」

あと、彼の「あるもの嫌いのないものねだり」ぶりを二つ三つ

サンパウロの清子の母方のおじさんの正男さんの所に寄ったときの話。私たちが行くというので魚釣りが好きな正男さん(彼はヴィトリアに二度魚釣りに来たことがある)が釣った魚が食卓に並んでいた。さっと目を通した正人いきなり「おばさん、味噌汁飲みたい」(えっ、味噌汁!、家ではいつも残しているくせに。)「そうかい、おばさん毎日作るんだけど、今日は魚のスープがあるので作らなかったんだよ。ごめんね、今すぐ作るから待っていな」

私はちょうどその日は用事があって行けなくて妻が三人の子供を連れて妻の母方の一番下のおばさんでサンパウロ市内に住むスマ子さんの所を訪ねた時の話。やはり昼食時、テーブルには手の込んだバーベキューのいろいろな種類の肉が並んでいる。正人さっと見渡し叫ぶ、「おばさん、フェイジョン(ブラジルの代表的な豆料理)はどこにあるの?」想定外の質問にとまどう妻の叔母「それはね、ちょうど5分前まではあったんだよこのテーブルに、でもね何回も温めたものをお客さんに出すのは悪いのでさっきゴミ箱に捨てたんだよ。しかしね、あんたがこのテーブルにのっているものを食べてくれるなら、デザートにアイスを好きなだけあげるよ」と駆け引きにでた。食後、近くのバールにスマ子おばさんの息子たちとアイスを買いに出かけた。しかしイチゴとココナツのアイスだけで彼の好きなチョコレートアイスは切れていた。

仕事で1年10か月ほど家族と日本に住んで、ブラジルに帰って来て1-2年後だったので1984年頃の話か。国内旅行もあまりしたことのない父母と一緒にイグアスーの滝を見に行った。ホテルはイグアスー国立公園(世界遺産に指定されている)内のホテル、滝のすぐ前なので歩いて何度も滝を見に行った。壮大な景観に圧倒された。
毎日ホテル内のレストランで昼食をとっていた。いつもデザートのテーブルにはスイカがあったが正人は一度も手を付けなかった。しかしである、最終日チェックアウトの日早めに昼食を済ませてホテルを出ようと思っていた矢先、デザートのテーブルを一目見てスイカがないことに気付いた正人が叫ぶ「スイカが食べたい!」。すばやくボーイが飛んでくる。「冷蔵庫の中に残っているのがあるかもしれない。見てきましょう」
やがて大きな一切れのスイカがトレイにのせられ運ばれてきた。正人はその大きな一切れのスイカをさぞ満足そうに抱えてホテルを出ていった。彼、当時5歳。

これもゼナイデおばさんの家で起こった話。ある日曜日の夜、遅くまで起きていたのでみんなで夜のランチでもしようという話になった。テーブルに様々な種類のパンやチーズ、ハム、Salameなどが並べられた。イタリア系のゼナイデおばさんはこういう食べ物にはうるさい。チーズの見分け方やパスタ料理のレシピなどを妻と話している。
皆がテーブルに着こうとした時、正人が叫ぶ「ソーセージが食べたい!」
妻が叔母に無視してと頼む。叔母は妻に目配りをして言った「この子が大きくなってソーセージの顔になったら困るからね。」(ブラジルでは妊娠中の女性の食べ物の願い事を聞かないとその食べ物に似た顔をした子が生まれてくるという迷信があり、この期間、妊婦は相当な無理まで聞いてもらえる。)

彼女は言った「日曜のこんな時間、店は閉まっているし近くのバールのHotdogにはきざんだソーセージしかはいっていない。しかしちょっと遠くなるけどパウロのバールは一本のソーセージがそのまま中に入っているHotgogを売っているんだよ」その話を最後まで聞くか聞かないうちに叔父が車で飛び出した。Hotdogが入った袋を手にして叔父が帰って来るや否や叔母はまだ熱いHotdog のなかからソーセージを抜き出し皿に入れ正人に言った「あのね僕、このソーセージ、しっぽまで食べないと承知しないからね」

まだまだ数えきれないほどある彼の武勇伝(??)、しかし恵美が生まれてからは人が変わり優しい責任感のある父親を演じている。

2013年10月6日日曜日

ベレンとマラジョ島


   早朝4時ごろ島々からベレンのVer-o-Peso市場に集まってくるアサイー椰子の実

ブラジルに移住する前ブラジルに関して少し調べておこうと高校の図書館から数冊の本を借りて読んでみた。なにしろ今から53年前、資料も少なく移民のことなど何も書いてない。新都ブラジリアを建設中だとか国土が広いから割と飛行機は使われているとか、

そのほかは観光名所のイグアスの滝の写真がのっていたくらいしか覚えていない。しかしとてつもない国に行くのだなという思いをした一節があった。ブラジルのアマゾン河の河口に九州くらいの面積の島があるということであった。詳しい地図もなく、見るとアマゾン河口の赤道のすぐ南に島がありその名前さえ書いてなかった。

今回そのマラジョ島(Ilha de Marajó)に行く機会を得た。ブラジルのアマゾン河の上流はアマゾン州そしてその州都はマナウス、下流はパラー州で州都はベレン。そのベレンに20年前まで家の前に住んでいた家族が移り住んで妻が時々連絡を取り合っていた。定年退職をしたから遊びに来ないかという誘いも受けていたので今回の旅行となった。

ヴィトリアからベレンまで直線距離で約2300キロ、ブラジルの遠距離飛行は大抵サンパウロとリオからでるのでヴィトリアからは逆方向になるが行きはサンパウロ経由帰りはリオ経由となった。行きはブラジリアにもよるので所要時間は乗り継ぎも含め約8時間、帰りは約7時間。行きに首都ブラジリアを空から垣間見たがよく何もない所に建てたものだと思った。仕事で2,3回ミナス州の州都ベロオリゾンテ経由で行った時はそんなことを思ったことはなかったのにどうしてだろうと何か変な気持ちになった。

ベレンではダウンタウンでフランス人が経営する小さなホテルに泊まった。ヨーロッパの人がブラジルの女性と結婚して経営するこういうホテルがけっこうあるのだとは後で知り合いから得た情報である。ベレンの街の街路樹はマンゴーの木。道の両側に大きな木が茂り、実がなるときは車に傷をつけるのだとタクシーの運ちゃんがこぼしていた。また国内では10月の第2日曜日にある宗教祭とも言える聖母マリアの像に崇拝と信愛を込めて2百万人の信者がベレンの街を練り歩く「Círio de Nazaré」が有名だ。川でも舟の行進がある。その日は蟻の通る隙間もないそうだ。

アマゾン地方で唯一農業移民で定着したのは日本人だと言われている。その代表的なのがトメアスー植民地だろう。胡椒栽培で成功したことで知られている。ベレンでタクシーの運転手と仲良くなり貸し切りでトメアスーまで足を延ばすこととした。土曜日の朝市に間に合うように5時半出発となった。トメアスーに着いたのは8時半。道路は良く整備されている。しかし昔トメアスーに入植した人たちは農作物をベレンまで舟で運んだそうだが大変だったろうなと察した。途中小さなフェリーボートで川をわたる。時々、油をとるデンデー椰子栽培の大規模農場を見かける。

私が中学2年だったと思うがクラスに宮崎君と言ってアマゾンに移住した友達がいた。インターネットなどで調べたがわからない、なにしろ宮崎というだけで名前は覚えていない。ひょっとしたらトメアスーで何か手がかりはないだろうかというかすかな希望は持っていたのだがだめだった。日系の農業組合や文化協会などを訪ねて名簿など快く出してもらって名前調べにも協力してもらってたが宮崎という70歳前後の人は見つからなかった。どうもありがとうございました。昼食は日本人が経営するレストランでとった。

マラジョ島は先住民が残した陶器が出土することでも知られる。小さいものから大きなものは死人を葬ったと言われる瓶までいわゆるマラジョ紋様で描かれている。
島で正当な伝統工芸を受け継いでいるインカの最後の職人だという人から小さい陶器を買ったがすごく軽いのに驚いた。偶然に一緒にツアーで回っていたヴィトリアの隣町Vila Velhaから来た人は食べ物をいれてチンしてもいいという皿を買っていた。

ベレンからマラジョ島までは定期船で約3時間半。島はは水牛の飼育でも有名でツアーの一環として水牛牧場を訪問して水牛に乗ったりまた水牛のミルクから取れるバターやチーズをお土産にと買求めた。道路の整備が悪く小さな町の中の舗装道路は穴だらけ。もっと州政府が力を入れたら観光地として伸びる可能性を秘めているのに残念。



6歳の水牛「Gurilo」、体重1トン、EXPO Marajó ではパレードの先頭を切るそうだ。


今回はwww.saheki.com  で写真を通しての思い出話としよう。

2013年9月29日日曜日

今月の書き残し 2題


敬老会
ここヴィトリア日系協会で9月15日敬老会が催された。サンパウロやパラナでは日系人は農業に従事することでブラジル社会に参加してきた。しかしここヴィトリアではサラリーマンや自営業で移ってきた人が多く日系協会の歴史も浅い。初めは敬老会にはその人達の両親が参加していたが今では世代が変わり35年前頃ここに移ってきた人たちが新しく敬老会に参加するようになった。最近まで段々減ってきていた参加者がこれからは増えていく傾向にある。



東京が2020年のオリンピック開催地に決まる

これには2016年のリオのオリンピックが影響を与えたのだと思う。来年のW杯開催に当たっても視察団が来て工事遅れやインフラの整備に注文を付けていく。オリンピック競技場やインフラ視察団も満足はしてない様子。競技場は何とか完成するだろうが問題は受け入れ態勢や交通の便。ブラジルで2007年に行われた汎米オリンピックがリオで開催された時、私も3日間体操競技を見に行った。その時のコメントにリオがオリンピック開催地候補に立つときはリオ市内から競技場まで地下鉄で行けるようになってからにしてほしいと書いたと思う。その計画書も提出したと思うがどうやら実現不可能な状態で代案がでているようだ。

今回の2020年のオリンピック開催地選び「ヨーロッパとアジアをつなぐイスラム圏の都市イスタンブール」とか「競技場や交通網はほとんど出来上がっているマドリッド」とかの振れ込みより「もう頭の痛いのはいやだ日本にまかしておけば立派なオリンピックをやってくれるだろう」との安心感から、もし私がオリンピックの委員だったら東京を選ぶけどなと以前から妻に語っていた。

2013年9月14日土曜日

我が家の犬猫物語(1)


ブラジルに来てから今まで53年間我が家ではほとんどいつも犬を飼ってきた。たいていは近所で生まれたのを貰って育ててきたので血統書はなく雑種とでもいうのだろうか。そして2001年から現在に至っているのが秋田犬。これは血統書が付いていた。それでも日本秋田ではなくアメリカ秋田だそうだ。第2次世界大戦で日本の秋田犬はほとんどいなくなり戦前にアメリカに渡っていた秋田犬がからだつきが大きくなりそれがブラジルに広まったようだ。たまに小柄の秋田犬を近所で見かける、あれが日本秋田だなと妻とうなずく。
サンパウロのモジで飼っていた犬で思い出すのはシロとチロとコロ。家では動物の名は大抵2文字で番犬として飼っていた。シロは黒と白のまだらの犬で人を横目使いで見て判断し「お手」を教えるといやいやながら差し出す。新しく家に入ってきた妻には、えさを貰っていてもいつもそっぽを向いていたそうだ。ある日、畑で仕事をしていたら白が盛んにほえる。いつまでたっても止まないので家のほうに向かって白のほえている所まで行ってシロがほえている方向を見ると犬小屋の中に今までみたこともない蛇が頭をあげシロとにらみ合っている、本で見たインドのコブラみたいだ。ちょうど持ってきていたEnxada(ブラジルくわ)でたたこうと思ったが、もしたたきそこねてかまれたら危ない、すごい毒蛇にちがいない。大声で助けを求めて父と弟を呼び3人で用心して退治した。

コロは家で生まれた犬で、だんだん大きくなるにつれ、けんか好きになっていった。どうやら一度けんかで勝ったらしい。カルモ植民地では川向こうやうちの土地の端のほうは林になっていてたまに猟師が狩をしにくる。家の窓から一度、鹿が畑の中にいるのを見た。その日も3人の猟師が3匹の犬を連れてうちの前を通っていく。コロがすさまじい勢いで家から下の道に向かってほえながら走って行った。相手は3匹の犬なのに無茶なけんかを仕掛けていくが大丈夫かなと心配になった。家の窓から見ているとコロは勢いよく3匹の犬の中に突っ込んだ。激しいけんかが始まるかと思ったが3匹の犬たちはきょとんとしてお互いを見ている。猟師たちが立ち去った後にコロが横になっているのが見えた。どうしたのだろうと私も家から飛び出した。コロはじっとして動かない。心臓麻痺なのだろうか?心臓マッサージをまだ温かい胸の上から何回もやってみたがとうとう息を吹き返さなかった。私がコロなどと名前をつけたのが悪かったと反省した。

私たちが自分の土地を買おうと話を進めていたとき父と私と弟の3人でその土地を見に行くことにした。借地をしていた所からカルモまでは約16キロ。もちろん車は持っていない。3人で自転車で行くことにした。田舎道を7キロ、アスファルトの街道を約6キロ更に田舎道を約3キロ。私たちが自転車で行きだすとチロが後から付いて来る。何度怒ってもついて来る。街道の途中のビリチーバの町を過ぎるとチエテ川に架かっている橋までは緩やかな下り坂。自転車でかなりスピードが出せる。ふと後ろを振りかえると今までついて来ていたチロがあえいでとうとう止まってしまった。自転車には乗せれないので私たちはそのままスピードをあげていった。土地を見た後の帰り道、チロは、はぐれたところにいない。どこに行ったんだろう? そのまま少しあがっていくと道がカーブし大きな木が数本ある。なんとチロはその木陰に涼しげに座っていてこちらを見ると立ち上がりなにもなかったかのように私たちの後からついてきた。

2013年9月7日土曜日

もっと医者を! Mais médicos !

今ブラジルでは国民の要望にこたえようと政府がMais Médicos(もっと医者を)というプログラムを始めている。大都市近郊や辺地で医者が足りない、またはいない所に外国から医者をよんで働いてもらおうというもので既に第一陣700人が3週間の研修中でその後各地に配置されるようになっている。今年中には4千人を雇う計画だとか。これには外国の医科大をでたブラジル人も含まれている。外国人からは言葉の障害がないかほとんどないポルトガル、スペイン、南米諸国から、そして政府間協定を結んだキューバからも多数参加している。もちろん医師会からはブラジルの医師の資格のないものが医師 として働くことは憲法違反だと反対している。しかし政府はこれは3年間に限定したもので彼らに検定試験を行いそれにパスしたものがその後もここに留まり医者として働くことは望んでいないと何か分けのわからない言い訳をしている。するとこれはその場しのぎの人気政策なのか。または3年ごとに同じことを繰り返すのか。しかしその後の事は現プログラムの成否にかかっている。
これはほとんど言葉の壁のないポルトガル語スペイン語圏内で成り立つことで、つい比較してしまうのは日本の外国人看護師養成プログラムである。フィリピンやインドネシアから募集しているが日本人看護師が受ける試験に通ることがその条件ではなかなかどころかとても難しい。会話程度ならいいが専門用語の読み書きをマスターするのは困難だ。合格率も低いと聞く。これがポルトガル語、スペイン語の兄弟語の間柄それに最も近いイタリア語、おなじラテン語の流れを組むフランス語。そして英語や同じアルファベットを使う諸外国でも学術専門用語はほとんどラテン語から来ている(と思う)ので言葉の壁の問題は日本の場合より容易に解決できる。それとはまったく事情が違う日本での看護師資格試験、日本もこれからは(既にか)高齢者社会、もう少し柔軟な対応が必要ではないかと思う。せっかくその意思(漢字変換で医師とでた)があり仕事に優秀な人材を言葉の壁だけで失うのはもったいない。

ブラジルの人口はついに2億を超えた。そして2040年ごろから人口は減少するという予測、つまり高齢者社会になるということである。政府は現在の問題にさえ対応できていないのに近い将来必ず起きる現象にどう対処するのか、明日、明日と延ばされては不安だ。

2013年9月6日金曜日

パパイ、だめじゃない!


今日Walmartで買い物をしていて面白い女の子に出会った。
私が魚のコーナーで冷凍サケを見ていたら横から4,5歳の女の子が私の横に寄ってきて、いきなり「おじさん、私のパパイとママイはどこにいるの?」。「えっ!」と良く顔を見る。知っている女の子ではない。「知らないけどどうしたの?」と聞くと「いなくなったの」という返事。どうやら迷子になったらしい、手には学用品のノートを持っている。どうやら文房具コーナーにいたのだなと推測。「それを買った所にいるんじゃないのかな」と店を突き抜ける中央通路にでて「ここをまっすぐいって右の4番目の通路をみてごらん、そこにいると思うよと」と言って私はまた魚のコーナーにもどろうと歩き出した。何か後ろで音がする。なんとまだ私についてきているではないか。私を見上げている、名前を聞いてアナウンスしてもらおうかと考えていると子供用品の所にいた妻がカートを押してきた。事情を話す。妻が周りを見渡して中央通路でこちらを見ている背の高い若い男の人と目が合った。そして女の子を指さすと彼はうなずいた。「あの人パパイじゃない?」彼女振り向くや否や走って向かっていった。そしてこちらまで聞こえるように「パパイ、だめじゃない、私を見失うなんて!」それからいっとき彼女の父親を叱る声が聞こえてきた。彼はうなだれて頭をかいている。やがて父親は彼女の手を取ってちょっとこちらを見て手を振り頭をかきかき向こうへ行った。「うちの孫娘の恵美も気が強いからこういうシーンがあるかもね」と妻。

昔の親は権威があったものだが今は親がしかられるのか。時代も変わったものだ。

2013年7月31日水曜日

ヴィトリア日系協会30周年

今月20日にヴィトリア日系協会30周年の記念式典が会館で行われた。元会員の私にもメールで招待状が来ていたので出席の返事を出していた。会館が一杯になった、約300人の参加があったらしい。リオの総領事館からも総領事代理の出席があり見事なブラジル語で挨拶された。日系協会が日ごろから世話になっているヴィトリア市役所の関係者たちも表彰された。そのあと日本語学校の生徒たちの訪日の劇があったが、よく見ると非日系人が多い。彼らが日本に興味を持ち親日、知日家が出てきてくれるのは頼もしい。次にあった太鼓演奏でも非日系の娘さんや青年たちが参加して力強くバチで太鼓をたたいている。これから日系社会はどう変わっていくのだろう・・
最後にみんなに寿司やストロガノフがふるまわれ、おいしくいただく。私も久しぶりで行ったのであちらこちらで友人や知人と挨拶を交わした。

下の写真は同じテーブルを囲んだ、前列右から私、西村さん、後列右から伊藤さん、妻清子、橋爪さん夫妻

2013年7月29日月曜日

Jornada Mundial da Juventude


先週の22日から昨日の28日までリオでJornada Mundial da Juventude(世界カトリック青年の日)が開催された。世界170国から35万人以上の参加の申し込みがありローマ法王フランシスコ一世も來伯、カトリック教徒の絆が一層強められたイベントだったという印象をあたえた。ブラジルは世界最大のカトリック信者数を誇る。以前は国民総カトリック信者の自負があり小学校から宗教の授業がありカトリックの教えが説かれていた。下の弟二人が小学校に行っていた頃は畑の仕事もあるし宗教授業を免除してもらうため学校に我が家の宗教は仏教ですので授業は免除してくださいという手紙を書いて学校に持たせた記憶がある。
年々カトリック信者の数が減ってきている。1994年に75%だったのが今では約57%らしい。逆にミディアなどを通して増えてきているのが新教の福音教会(Evangélicos)
。次々と新しい大きな教会が建っていく。カトリック教会も聖職者を増やしComunicationを紙や機械ではなく実際の人と人とのつながりで行うべきだと法王も述べられていた。減少に歯止めがかかり巻き返しにいけるのか見守りたいというより応援したい。
初めてのラテンアメリカから、しかも隣国アルゼンチン出身、スペイン語とポルトガル語の類似性でスペイン語で話されても分かるしポルトガル語で親しく語られるとこのイベントに参加している人ばかりではなく、一般市民からも大歓声があがる。専用の車(Papamovel)も横は取り外してあり座席も低く街頭に集まった市民にも握手したり止まって声をかけられたり出来るようになっている。テレビを見ている私たちも何事も無ければよいがとはらはらする。警護に当たっていた人達も大変だっただろう。しかし彼は宗教とは人と人との間にぬくもりを感じさせるものであると説き、宗教に関係なくブラジル国民の心に親しみと安らぎを与えた。時にはユーモアも混じる。最後の記者とのインタビューの中で今回はローマ法王がブラジルから選ばれるのではとも期待していたのですがという問いに「法王はアルゼンチン出身ですが、神はブラジル人だと言いますね。そんなに欲張らないでください」と軽くかわされた。
一昨日と昨日行われたコパカバナ海岸通りに集まった信者は150万人とも300万人ともいわれている。ちょっとオーバーに見積もってあるような気もする。とにかく疲れを知らない若者たちが浜辺で夜を明かした。スーパースターフランシスコを一目見ようと。

今回の訪問でブラジルの若者たちの間でカトリックへの関心も高まるのではないかと思った。若者が理想に向かって進み、それを外に向かって表す、良いことではないかとも言われた。ブラジルに感動を与えそして希望を残していった法王、いつまでもお元気で。

次回のJornada Mundial da Juventude は2016年, 2005年に亡くなられた法王ヨハネ・パウロ二世の生地近いポーランドの(Kraków(Cracóvia))で開催される。

2013年7月24日水曜日

ブラジルのあまちゃんたち??


ブラジルのあまちゃんたち、右から妻、伊藤さん、妻の母
今日は朝早くから天気が良い、しかも昨日調べたところ潮も引いて1年に何回かの大潮。近くの海へ久しぶりに海藻とうにを取りに出かけた。私たちがエスピリトサント州に来た35年程前は海藻は潮が引くとじゅうたんを敷き詰めたように現れ、またうにも方々で取れていた。しかし段々と取れなくなってきた。この辺が開けてきたせいかあるいは乱獲されてきたのか又は海流が変わってきたのか詳しいことは知らないがとにかくものすごく少なくなってきている。
しかし最近、海のすぐそばに住んでいる知人から新しい情報を得た。今までわずかに残っていたところの先の浜辺のすぐそばの岩にうにがいるという。
家からその浜辺までは約20分。海辺に小さなサッカー場があり近くの若者たちがボールを蹴っている。その横の日蔭に車を止めた。ボールを蹴りあう音がすさまじい、なかなか上手い、しばらく見入る。浜辺を2百メートルほど歩いた所に小さい岩が数十個ある。近づくとその岩々に穴を掘ってうにが入っている。うにのアパートだ。しかしうにの数がアパートの数より多いので岩の下の方に張り付いているのやら岩の外にあふれているのもいる。小さいうにが多いのでそれらは採らずに大きいのだけをとる。ここのように浜辺の岩についてるなんて初めてだ。今までは大潮の時、潮が沖の方まで引き、岩が現れるのを待ち手前の岩の間をたどって一番先の岩の近くのそれも取りにくい所に潜んでいるうにを取っていた。今心配なのはこの数十個の岩にいつまでうにが住んでくれるかだ。うにの食べ物は海藻だからそれもあまりとってはいけない。この状態が来年も続くという保証は何もない。ただ祈るだけだ。
帰り道、漁師が自分たちが小舟で取った魚を直売しているところがあるので寄ってみた。台の上には前の舟の魚が少し残っているだけだ、と思っていたら、台の下から新しい魚を並べ始めだした。大きな鯛が一匹載った。すかさずそれをつかむ。あとは刺身になるような魚はいなかったのでその鯛を計ってもらったら3キロあった。キロ15Reais (約7ドル)、それにえびの小さいのを3キロやはりキロ15Reais。さっそく昼食はタイの刺身。やはり新鮮な魚はおいしい。

食べている時にクリチーバに住む娘から電話がかかってきた。「パパイ、今日ここクリチーバに38年ぶりに雪がふったのよ」「えっ、雪!そちら寒いんだなー、パパイたちはいま海から帰ってきたばかりだ、こちらは冬でも暑いよ。日焼け止めのクリームを塗って出かけたよ」
「私たち同じ国に住んでるのかしら?」

下の写真は娘のFacebookに載っていたものでこの形の建物には見覚えがある早速確認のため電話を入れた「これクリチーバにあるUcrania 公園内の教会につもった雪?」「違うわ、クリチーバでは15分降っただけなの、この写真はParana州より南のSanta Catarina州のUcrania系移民が建てた教会に降った雪じゃないかな」という返事。とにかくこの日ブラジル南部3州の高地の100の町に雪が降ったと夜のニュースで伝えていた。


2013年7月22日月曜日

ばら色の人生



ばら色の人生, それを実感しているのは孫娘恵美ではないだろうか。彼女はばら色に身を包まれ周りはばら色に満ちている。
えっ、何のことを言ってるのだって? 実は彼女の好みの色はピンク。写真のドレス(?)はWalmart の子供服の横を通りかかったとき彼女がすかさず見つけおばあちゃん(妻)におねだりどころかわしづかみ「あっ、お姫様のドレス!これは私のものよ」値段を見て妻が「これは8歳用で、あなたには大きいからまた来たときに買ってあげるね」といっても恵美は聞かない、仕方なく妻がカートに入れる。買い物が終わりレジに並ぶ前にカートに入っているものを妻が取り出し抱えて行こうとすると恵美がカートに向かって小走りに近づき中からドレスを取り出し妻に渡した。これにはまいった、買ってやらないとしょうがない。
家に帰るとすぐ着ていたものを脱ぎ、買ってきたピンクのドレスを着せてくれという。着せてみるとそんなに大きくなく似合っている。それを着たままネットブックでアニメを見ている。妻がジュースを持っていくと「ジュースはいらない、ドレスが汚れるから、水を持ってきて」と言う。えっ、たかが3歳の子供が? とうとうその日はパジャマにも着替えずドレスを着たまま寝てしまった。まあ、そんなに気に入って汚さないように気を使っているのだから大切にするだろう買ってやったかいはあったか。
彼女が身につけるものは帽子から靴まで全てピンク(ばら色)。朝市に一緒に連れて行きキャンデー売りが通ると、呼び止め「ピンクをちょうだい」「ピンクか、さてとイチゴかアセロラか、どちらにする」「いちご!」
全て目につくピンク色のものを手にいれないと気がすまない。

さて、下の木馬は私の作品。知り合いの誕生日に招かれたとき裏のバーベキューコーナーにそこの男の子が小さいときに遊んでいたという木馬があった。恵美はすっかり気に入り自分も欲しいという。帰ったら作ってやるからと約束(?)し彼女をなだめて降ろさせた。モデルにするからと帰りにその木馬を借りて家路に。
翌日、早速寸法を取り作製にとりかかる、日曜大工の腕の見せどころ。出来上がった後、妻がめす馬の輪郭を描く。 私が乗って強度をテストしたため後ろ足が太くなった。
さて馬を何色に塗ろうかという時になって意見が別れた。私は「白がかっこいいし、恵美の友達の男の子の誰かがそれに乗って将来の白馬の騎士になる可能性だってある」と無理なこじつけをする。「何言ってるのあなた、恵美を幸せにしようと思ったら断然ピンクに決まっているでしょう」

作製後一ヶ月、いまだに色は決まっていない。


2013年7月7日日曜日

ブラジル流れ者 完結編

以前「東京流れ者」の替え歌「ブラジル流れ者」のことを書いたが、これは移住して間もない私が20代前半に作ったもので、それも2番までで終わっている。最近これを口ずさむと何か物悲しい。やはりこれは三番を付け加えて終わらせた方が良さそうだと思い下の歌詞となった。

ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルを 今日はパラナかサンパウロ
黄色いイペーの花が咲く 道は遥かにまだ遠い
ああ、ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルの 空を見上げりゃ十字星
遠いふるさと思い出し 広い大地に夢はせる
ああ、ブラジル流れ


流れ流れてブラジルが 今は懐かしふるさとと
離れて住んでる子や孫よ 夢に向かって羽ばたけよ
ああ、ブラジル流れ

2013年7月3日水曜日

コンフェデ杯決勝戦 ブラジル 3x0 スペイン

6月30日、リオのマラカナン・スタジアムでコンフェデ杯の決勝戦が行われた。
入場券は今年の一月に買っていたのだがリオまでは遠いし足の調子もよくないので行こうかどうしょうか迷っていた。ところがブラジルが段々調子をあげてきてA組のリーグ戦では3戦全勝、準決勝でウルグアイを破り決勝戦へと。B組ではスペインがやはりリーグで3勝し準決勝ではイタリアとのペナルティキック決戦を制し決勝戦へと。これは初めコンフェデ杯の組み合わせが決まったときにブラジルが望んでいたものだ。
こうなると私もリオに行かないわけにはいかない(?)航空券さえ買えば息子のマンションに転がり込める。息子の住むBotafogo からマラカナンまでは地下鉄で乗り換えなしで行ける。
1時から3位決定戦で決勝戦は7時から。しかし5時半から歌手のショーがある。3位決定戦をテレビでみて出かけよう、どうせ3時までには終わるだろう。イタリアとウルグアイの試合も面白く2対2の引き分け、これから延長戦それからペナルティキック決戦となると1時間はかかる。混雑する前に着きたいので予定通りの3時に家を出た。あとでイタリアがまたも延長戦の末、ペナルティキック決戦を制し3位になったことを知った。
地下鉄の電車の中は黄色いシャツでいっぱい。私も前日買った黄色のシャツで。国旗で身を包んでいる人もいる。マラカナン駅は地下ではなく路上だ。そこからスタジアムまでは陸橋でつながっている。今各地でデモが起きているので軍まで出動してスタジアムまでの道の警戒に当たっている。W杯そしてこのコンフェデ杯のために新装なったマラカナン・スタジアム、以前とは違ったモダンな装いとなった。ショーが始まると観客も盛り上がってきた。
やがて出場選手の名前と顔が場内の四つのスクリーンに映し出される。ブラジルの選手の時はすごい拍手。しかしスペインの選手の時はブーイング。国際試合でもライバルチームとやるときと何の変りもない。やがて試合が始まる。ブラジルの選手がちょっといいプレーをすると拍手、相手がへまをやるとヤジが飛ぶ。確かにこれは観客ではなく応援団だ。これではブラジルの選手たちも勢いずくだろうと思った。ブラジルの選手がドリブルでゴール近くまで攻めてくると前の席の人たちが皆立ち上がる。こちらも立ち上がらないと見えない、ちょっと遅れるとゴール近辺の攻防を見損なう。周りがすごく叫んで応援しているので年寄りの弾力のない耳はたまらない。
ネイマール選手もゴールを決めブラジルが3対0で勝った。スペインはペナルティを決めれず、すでにゴールに入ろうとしていた球をブラジルの選手が滑り込んできてはじき出した。得意のパスワークもいつものように華麗とは言えず今日は確かにスペインの日ではないなと感じた。
ブラジルのこの選手と7万人以上の観衆が一体となって試合を盛り上げる。すごいエネルギーが選手に伝わりそしてこのエネルギーは相手選手をしぼませる。開幕戦のブラジル対日本の時もこんな風ではなかったのではないかという気がした。
コンフェデ杯の16試合の観客動員数は一試合平均5万人強だったとか。FIFAも満足したようだ。

さて来年のW杯、コンフェデ杯を制したものは翌年のW杯を制したことがないというジンクスを破ることができるか。

2013年6月21日金曜日

イタリア 4x3 日本

ブラジルの北東地方最大の都市レシフェで19日行われたコンフェデ杯A組のイタリアx日本戦、4対3でイタリアが勝ったが互角の試合でどちらが勝ってもおかしくない試合。コンフェデ杯の今までの試合で一番見ごたえがあったとのコメントがあちこちで聞かれた。 対ブラジル戦では動きがぎこちなかった日本も滑らかな動きでまるで別のチームのようだった。逆にイタリアのほうがとまどっていたようだ。ゴールキーパーブフォンが日本の香川選手のゴールで2点目が入ったときの「ひょっとしたら負けるんじゃなうかな」との思いが出ていた心配そうな表情。イタリア選手誰もが一瞬思ったのではないかなという気がした。試合後のインタビューでもイタリアの監督が「日本のほうが上だった」とコメント、日本代表のザック監督も気が晴れたのではないか。日本は2連敗でリーグ戦で敗退だが残すメキシコ戦が楽しみだ。

さてブラジルだが対メキシコ戦で2対0で勝ったが引き分けてもおかしくない内容。1点目はゴールで2点目はアシスト、ネイマール選手が怪我でもしたらどうなるのだろうと逆に心配になってきた。