2012年10月17日水曜日

Digital Baby



上の写真は今2歳8ヶ月の孫娘恵美がいつものように妻のNetbookYoutubeのアニメを見ながらまぐろの角切りのさしみを食べているところを撮ったものである。週末よく家に来る恵美と土曜の朝市に行く。私と恵美がサトウキビの絞りジュースを買いに行っている間に妻は刺身になる魚を物色する。たいていは3キロから5キロのまぐろ(刺身にすると約半分)を買うが時々は息子と嫁が好きなふぐ(とらふぐではない)を買う。嫁は魚嫌いだがふぐだけは息子と一緒に食べる。恵美は刺身はなんでもござれで妻が魚をさばいている横で注文する。おかわりまでするので一度に2百グラムくらいは平らげる。そして妻が作る豆腐が好きでこれで昼ごはんは終わってしまう。やはり日本人の血が流れているのだなと感心したりする。
自分でも馬鹿げていると思っているのだが人の表情は環境によって変わるのではないかということ。妻が以前私に言った「恵美は来た日は西洋人の顔をしているが家に2,3日居ると日本人の顔になるね」「何を言っているのだそんな馬鹿なことを言うんじゃないよ、人に笑われるよ」とぜんぜん相手にしなかった。しかし最近よく観察すると確かに家に居る間に顔が引き締まり眼もキリっとしてくる。妻の暗示にかかった気のせいかとも思うのだが・・・・・。

2012年10月16日火曜日

ブラジル 4 x 0 日本


先ほどポーランドで日本とブラジル代表とのサッカー親善試合が行われ、ブラジルとしては上出来の4対0での勝利。久しぶりに安心して見れた試合で、テレビでの観戦中に大きな声をださずにすんだ。何しろブラジルには国民の数ほどのサポーターどころか監督がいる。成績が悪いと選手でも監督でもブーイングを受ける。代表監督も例外ではなく先月だったと思うが試合中に次の監督の名前を大合唱するブーイング。次の監督として観客が選んでいたのは2002年に日本・韓国共催のワールドカップでの優勝監督のルイス・フィリッペ・スコラリ(愛称フェリポン)、しかし皮肉なことに彼が率いるチームはいま2部リーグに降格される危機にある。

今まで不安定な成績でマノ・メネーゼス代表監督の去就まで取りざたされていたがこれで首がつながったのではないか。代表から遠ざかっていたカカが前のイラク戦から復帰し6対0そして今回の4対0、二人のボランテの起用もあたりこれでようやく代表が進むべき道が見つかったとコメントしていた。しかしブラジルのこの好成績は相手が日本でのFair playの結果でもある。試合の終りごろだったが反則の数が日本7ブラジル9、そして前半は45分で終了、ブラジルのリーグ戦や南米の国とのチーム相手では絶対にない数字である。日本の代表チームも攻撃がうまく構成されていて結果ほどの実力差はなかった。
来年はブラジルでコンフェデレイション・カップ、そして2014年はワールドカップ。世界に恥じない大会運営をやってほしい。この言葉なんど書いたことだろう。

2012年10月12日金曜日

父とピタンガの木とその多くの実


昨日11日はクリチに住む娘理奈の誕生日なので電話を入れたところ以前彼女が小新聞「眩暈」に載せたピタンガの話(2011年11月5日のポスト)を日本語に訳したので見てほしいと言ってきた。娘が経営する東洋文化センター「トモダチ」で日本語の先生をしていて昨年まで日本で仕事をしていた日系のマヤラさんが翻訳したのに事情を知っている私が少し手を加えて下の文となった。
父とピタンガの木とその多くの実
2007年、クリチバで日本語を教えはじめた頃、生徒達によくこの話をしていた。
私が日本語教師になったきっかけはシヴィック・センターのサイクリングロードの横、ポーランド移民記念広場のあたりに立っているピタンガの木だと言う話。私にとってとても大切なこの話も長いこと語らないでいたので、新聞「メマイ」に記録しておく事にた。
2006年、クリチバへ移り住んで何ヶ月かした頃、両親がエスピリトサントから様子を見に来てくれた時の事である。当時私はシヴィック・センターに住んでいて、広場からも近かったことから、二人は毎朝広場周辺を散歩する事を習慣づけた。ある朝、散歩から帰ってきた父は真剣な顔付きで、市役所へ手紙を出すと言った。治安やインフラに関して主張するのだろうと思ったその手紙は、全く違うものだった。父は、次のように書き始めるつもりだと語り始めた:
「拝啓、
私はポーランド移民記念広場の近くの自転車専用道路の横に植えられたピタンガの木です。寒さのあまり、凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里に帰して下さい。」
細いピタンガの木を目にした父が、その植物の苦しみ説明する姿を見て、私は微笑まずにはいられなかった。「やっぱりお父さんね」の様な事しか言わなかったような気がする。私にとってこの話が面白く素敵なは、両親の純真で思いやりを感じさせられるところにある。私も同じ道を何度も往復したが、自分の目では一度もそんな角度で見たことはなかった。それが出来るほど、私は目を(そしてそれ以外の何かをも)開けていなかったのだと思う。いつも自分の考え問題のみに気をとられていたのかもしれない。いつも急いでいたのかもしれない。そこまで思いやりを持てる程、まだ苦していなかったかもしれない。
「我が...」と父は言った。昭和19年日本で生まれた父は、16歳の若さで家族と戦後の景気後退から逃げるようにブラジルへ移民して来た。昭和35年に、祖父・祖母そしてその子供4人でアフリカ丸に乗船してだ。言葉では言い表せない程辛く、苦しい時代だったと言う。何年か前、両親と兄弟達と田舎に遊びに行った時、土壁に少しのレンガを合わせて作り上げられた家を見かけた。父からブラジルでの最初の数年間は似たような家に住んでいた聞いた。が沈むと、壁に開いた沢山の隙間から入ってくる風はとても冷たく、寒さを運んできたと。信じがたかった。定年退職し、いつも穏やかで物静かな私父が、50年もしない昔にそんな暮らしをしていたなんて。
「凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里へ帰らせて下さい」。何度のを乗り越えて来たのだろうか。何回日本へ帰りたいと思ったのだろうか。
自分は幸いそういう生活を知らずに育った。全ての命に対する思いやりに隠された強さや決意、それは仏教の大事な心意であって、「私はピタンガの木」のような小さな言葉に現れる。自身の肌で感じた寒さと故郷を離れる悲しみがあったうえでの思いやりが。今でも、この話に感動する父に言うと、「バカじゃないか」と言ってう。
これが授業と何の関係があるのかと言うと、より多くの人に、こういった話や物語を聞いた時、言葉の裏側に潜む価値観や困難を発見してもらえたらと思ってこの話をしてい。自分の文化に潜む力を発見してもらいた。家族内での小言や、いつもよりちょっと甘かったり辛かったりした食事、親からのあたたかい視線に潜む美しさを発見してほし
本当は、この話を聞いた事で、もっと多くの人に微笑んでほしかっただけだと思う。自分もピタンガの木であるのかもしれない、と気づいた優しい目をして。
P.S. この記事を書いた後、写真を入れても良いかを訊くために父にメールを送った。返信された答えは「リナ、写真は使っても問題無いよ。昨日、写真を何枚か探しながらアルバムを漁っていて、昔の事を思い出していたんだ。君らの小さい時の事も。ユーカリや竹、わらぶきや土で作った、夢も絶望も沢山詰まったあの家の写真ももちろん見付けた。でも、それをも優しく思い出させてくれる為に、「時」は昔の苦しみや辛まで懐かしさに変えてくれた」と書かれていた。

佐伯リナは、トモダチ文化センター学長、日本語教師、人権法マスターである。

2012年10月7日日曜日

ブラジルの地方選


ブラジルは26の州と首都である特別連邦区Brasiliaから構成され,各州はMunicípio と呼ばれる行政地区に分けられている。今日ブラジル26州の5568のムニシピオで行政地区の長Prefeitoとその議会議員Vereadorを選ぶ選挙が行われた。全国の選挙人口は138.544.348人、私もその中の一人である。

朝テレビのニュースを見ていると投票所である学校には列を成しているところもある。もう少し後で行ったほうが良さそうだ。週末には家に来ている孫娘の恵美を連れて12時過ぎに妻と近くの学校に出かける。各教室が選挙区のセクションになっているので私の選挙手帳のセクションを確認して教室に行くと、列もなくすぐに入れた。写真つきの身分証明書と選挙手帳を係りの人に渡し確認が済むと囲いのある投票箱に。ブラジルは随分前から電子投票となっていてVereador候補とPrefeito候補の選挙番号を打つと顔写真がでるので確認してConfirmのボタンを押す、一分以内で投票が終わる。結果はその日の内にわかる。11時のニュースでは全国26州の結果を報じていた。過半数の票を取った州都のPrefeito候補は9人選出された。あとの17州都と選挙人口20万人以上のMunicipioで過半数獲得の候補者がいない33のMunicipioでは上位2者での決選投票が10月28日に行われる。エスピリト・サント州の州都ヴィトリアもその一つである。

ブラジルの選挙のたびに思うのは先進国と呼ばれるアメリカやその他の国はなぜ電子投票に踏み切らないのだろうかということである。思い出すのはブッシュとゴア候補の大統領選、何か割り切れないものが残った。

選挙の正当な結果とその遂行、それは民主主義の大原則。軍事政権時代を経験した私たちの世代はそれがいかに大事なことか、そしてそれが当たり前の今の有難さをかみしめる。もう一つ完全な民主主義にはもう一歩、それは任意投票だと最近の新聞のどこかで読んだ。ブラジルでは投票は義務となっている。ブラジルの国民性を考えると

これを任意とすると投票率は大分下がってしまう可能性がある。果たしてそれが民意を反映した結果となるのだろうか、疑問に思っているところである。

2012年9月28日金曜日

南風が吹くと寒い


もうすぐ夏時間が始まるというのに、ここ2,3日朝晩冷たい風が吹き寒い(?)日が続いている。今朝はエスピリト・サント州の山間の町でドイツ人が開いたDomingos Martins では霜が降ったそうで土地の人がテレビ局に送った写真が映しだされていた。家の次男の嫁さんはここ出身である。一昨日の夜は南のサンタ・カタリナ州とリオ・グランデ・ド・スール州の山間の町に雪が降って偶然当地を旅行していた観光客が雪が見れたと大喜びしている様子が夜のニュースに入ったので早速娘に電話した。娘の住むパラナ州のクリチーバは標高900mを越す。今朝は9度で寒かったが「だからクリチーバが好きなんだ」というツイッターに多くの人が賛同していたと言っていた。家の温度計を今外に置いてみた、18度、寒く感じるはずだ。ここヴィトリア大都市圏では冬(?)一番寒くても15度くらい。それでも日中は25度以上になるので7月の冬休みには海に接していない隣のミナス州からの家族連れでけっこうここらの海辺の町は賑わう。


南からの寒冷前線が上がってくると気温が下がり天気が悪くなる。家の上を飛行機が通ると寒くなるなと分かる。というのは飛行機は風に向け離陸・着陸し家は飛行場のすぐ北に位置するからである。離陸はすぐ高度が上がるが着陸はゆっくりと低いので電話をしていて上を飛行機が通るときは聞き取りにくくなる。ブラジルの公共事業は賄賂や水増し勘定問題等で工事がストップされる。ヴィトリア空港もその一つで、もう数年ストップしている。増える利用客に対処するため建屋を少し拡張したりして一時しのぎをしているが一日も早くプロジェクトどおりの大きく立派な空港が完成してほしい。ブラジルが一等国の仲間入りをするにはただ経済的に成長するだけではなくもっとモラルの向上が要求されるだろう。

2012年9月5日水曜日

処女神話

今ここの深夜テレビドラマでブラジル北東部バイーア州の作家Jorge Amado(ジョルジェ・アマード 1912-2001)が書いた「Gabriela (ガブリエラ)」が放映されている。バイーア州の奥地から当時(1920年代)カカオの生産が盛んだったIlheusの町に出てきて自由(自然?)奔放に生きる主人公「Gabriela」の話である。1920年代の生活様式、慣習なども知ることができる。1958年に出版されたこの本はベストセラーになり1999年まで版を重ね第80版を数えるにいたった。テレビドラマ化は1960年にJanette Vollu 主演、 そして1975年にはSonia Braga主演で大人気を博した。1983年には同じくSonia Braga主演で映画化され、さらに今回Juliana Paes 主演で再テレビドラマ化となった。


さて昨夜は不義の妻とそしてベッドに一緒にいた愛人を射殺したCoronel (当時の有力者は名前の前に大佐を意味するこの尊称を付けて呼ばれていた)が若い娘と再婚し最初の夜を迎えるシーンから始まった。彼は結婚前に彼女に確かめていた「お前は確かに処女だろうな?、もしそうでなかったらお前を殺す」彼女の顔は一瞬青ざめたが、気を取り直しCoronelに向かい平気を装い「もちろんですとも、私は処女ですよ。」しかし彼女は経済的な理由で父親がこの結婚を決めた時、恋人と思い出を作ろうと一夜を共にしていた。彼女は母親にこのことを相談した。二人で花嫁衣裳を作ってもらっているおばさんに何かいい知恵はないかと相談すると「自分がなんとかしてあげるよ。」という返事。

やがて当夜、彼女が小さな箱を手に持っているのにCoronelが気がついた。「お祈りをするのです」と小さい十字架の首飾りを取り出した。しかし彼がむこうを向いた時その下から小さな赤い色の子袋を取り出し手の中に隠した。翌朝Coronelが目をさましシーツを見ると赤いしみがついていた。それに気がついた彼女「すぐ洗いますわ」「いや、洗わなくて良い、2階の窓からその血痕が見えるようにしてたらしておけ」これを聞いた彼女ほくそ笑んでシーツをベッドからはいで道を通る人が見えるように窓にかけた。

そのシーンが終わった時、突然妻が「思い出したわ、もう30年前くらいになるかしら、ほら家の前に住んでいたジョンとマリルダ夫婦。これと似た話を私にしたのよ。彼女はミナス州出身で、あの州は古い伝統を守ることで知られているからあの頃まであったのね。彼女が結婚式をあげて初夜を過ごした翌日の朝、ジョンのおばあちゃんが「コツコツ」とドアをたたいて言ったそうよ「後でシーツをドアのノブに掛けておきなさい窓に掛けるから」と。それを聞いたジョン、シーツをめくってみたの、真っ白。彼の顔はそれより真っ白になっていたそうよ。「おい、お前、用意はしてきたのだろうな」「用意ってなに?」「ほら、あの鶏の血を入れた小さい風船の袋だよ」「私たちはずっと付き合っていたからみんな知っているものと思ってあれ家に置いてきたわ。」花嫁衣裳を頼むと、衣裳のほかに花束とその鶏の血が入った小袋がセットとして届けられていたそうよ。「どうしよう、シーツに血のしみをつけなくてはいけない」妻の実家まで取りにいくわけにはいかない。ジョンは机の引き出しをあけ中からナイフを取り出して「これでちょっと指を切って血でこのシーツにシミをつけるか」「それしかないわね」ジョンはおそるおそる指にナイフを当て顔をそむけて切った。「イタッ」と彼が大きな声をあげると、傷から血が流れてシーツを染めていく。しかしなかなか血がとまらない。「ジョン、しっかり指を押さえていなさい。私は下に行って包帯をもらってくるから」と彼女はあわただしく階段を降りてテーブルを囲んでいたジョンの家族たちに言った「ジョンがけがをしたので包帯をください。」それを聞いてみんな心配顔になった。治療をして二人で下に降りると包帯をした指を見て、みんなニヤニヤした。ただひとりおばあちゃんだけはため息をつきシュンとなった。

こちらの日本語新聞で、私はインターネット版で購読している ニッケイ新聞( http://www.nikkeyshimbun.com.br ) でも今「ガブリエラ」の連載があっている。佐東三枝 訳で今339回目である。


 

2012年9月2日日曜日

勝ち組、負け組 その2


戦中および戦後の初めにブラジルの日系人の間に何かあったのではないかということはブラジルに関心をもつ日本人や一般ブラジル人の間でもわかっていたのではないかと思う。私が見た範囲でもノンフィクション作家の角田房子が書き毎日新聞社から1966年に発行された『アマゾンの歌』(こちらの日本語新聞に連載され毎日、新聞が来るのが待ち遠しかったのを思い出す)が同名の映画「アマゾンの歌」(仲代達也主演でアマゾンのパラー州に入植した日本移民の話)として製作され後にNHKで見たように記憶しているがその中でも出ていたように思う。
そしてNHK「放送80周年記念」として豪華キャスト(森光子、野際陽子、米倉涼子、仲間由紀恵、等々)で製作しここブラジルでは2008年に日本移民百周年記念の一環としてNHKから放映された「ハルとナツ  届かなかった手紙」の中でも日本人同士の抗争を垣間見ることができた。
ブラジルのテレビ業界NO1で特にドラマ制作では世界中に販売網を広げているグローボ社が製作したドラマにも戦後のイタリア移民の話の中にも適性国移民の苦悩のエピソードの一つとして日本人移民同士の争いが扱われていた。
戦中、戦後の日本移民を語るには避けて通れない事件ではあるが日系コロニアとしては腫れ物を触るように取り扱ってきたように思う。今回のブラジル映画のCorações sujos (汚れた心)はそれを真正面から見すえた映画としてみんなの心に残るのではないかと思う。
先週の日本語新聞にはドイツ移民の多いブラジルの南部の州に海外最大のナチスの結社があったと伝えていた。
クリチーバの娘婿の両親の家に挨拶に行った時、私が映画を見てきたと話をし戦中戦後の日本移民の話をすると自分たちもだと当時の苦労話を語りだした。クリチーバのイタリア会館は没収され戦後もかなり経って返還されたとか、「私たちはナチス、ナチスと言われたけどナチスじゃなかったのよ」とか当時のエピソードが随分出てきて話に花が咲いた。ちなみに婿の父親はイタリア系、母親はドイツ系私は帰化ブラジル人で日本生まれ。最後に婿の父親が「まるでこれでは「枢軸国間の密談」のようだな」と言ったのでみんなで大笑いとなった。