2013年6月6日木曜日

水菜


毎週火曜日の有機野菜の夕市に時々日本の野菜の水菜が顔を見せる。聞いてみると日本人が植えてくれと種を持ってきて出来たものは買い取るという約束だそうだ。それでも良くできた時は全部引き取らないので台の上に並んでいる。見かけない野菜なのでブラジル人の主婦たちも珍しがって名前を聞くと「日本の野菜でMizunaといいます」と真面目に答えている。私たちも見たことがないので買ってきてトマトなどと一緒に野菜サラダにしている。そのことを隣で見ていたブラジル人の主婦の人に言うと「私も持っていこう」と二束とって買い物袋に入れていた。帰りに寄ってみると結構売れて少ししか残っていなかった。ネットで調べると日本中に広まったのは比較的最近のようだ。

チンゲン菜とにらはいくつかの屋台でいつも売っている。白菜や大根などは今では珍しくなく普通の野菜の仲間入りをしている。日本食が食事の半分以上の割合を占める我が家としては日本の野菜が容易に手に入るのはありがたい。しかしこれらの野菜日系人が作っているわけではない。ここエスピリトサント州では野菜や花はドイツ系の農家が栽培している。

2013年5月15日水曜日

ブラジルのブエノスアイレス

私たちの土地はこの道路沿いにあったのか?坂田夫妻と右は妻

娘夫婦とサンパウロ市で一日過ごした後その次の日は長い間行ってみたいと思っていた Botucatu に行くことにした。そもそも私たちはボツカツの土地に入るためにブラジルに来たのである。53年前、明治鉱業がボツカツに用意してくれた一家族当たり2.5アルケール(一アルケールは24200平方メートル、これはサンパウロ州で隣のミナス州は倍の48400平方メートル)の土地で桃栽培をするために入るようになっていた。

そのため当時桃つくりが盛んだったサンパウロ近郊のイタケーラで桃つくりをしていた日系農家で一年間働いて仕事を覚えその後ボツカツに入るようになっていた。明治鉱業から何家族来たのか正確には覚えていないが私たちと同じ船で6家族そしてほかの船で来た人たちもいる。全部で十数家族だったのか。家長の集まりが月に一回あり二、三回はボツカツに視察に行ったように覚えている。当時の父の話だと泊めてもらった家の洗濯物を干すために外に張ってある針金が風でヒュンヒュンとなっていたそうだ。

そして最後にボツカツを視察した時に土地の振り分けのくじ引きがあった。土地はほぼ正方形。坂の土地で下の方に川(行ってみたら水量の少ない水源林だった)そして上は道。それに横に平行に三つに分けてあり、あとは土地の広さに見合うように縦線。
三分の一の家族しか水を確保できない。父は道側のくじを引いてしまった。水が無くては農業は出来ない。この時点で私たちはボツカツを断念した。入れば自分の土地があったのにと、その後モジ・ダス・クルーゼスに行って借地農として苦しさを味わうたびにあの時ボツカツに入っていれば良かったと何度嘆いたことか。

ボツカツはサンパウロ市から約240キロ、標高は800mだからサンパウロ市とほぼ同じ。人口は約13万人、直行バスが地下鉄Barra Funda駅に直結しているバス・ターミナルからでていることをネットで調べ切符も買った。約3時間の旅となる。
Botucatu という地名は原住民の言語ツピー語でBons ares、良い空気、それが広義に解釈して良い気候、または良い風という意味になる。なんだ、ブラジルの Buenos Aires か!

今回のサンパウロ行きには是非ボツカツに行きたいと思っていた。今までいつでも行けると思っていつも後回しにしてきた。サンパウロ州に17年、エスピリトサント州に35年、こちらに来てもまだ若い時は週末前後に祭日がある時や1年に一度の会社の一か月の長期休暇の時はエスピリトサントからサンパウロまで一千キロを妻との交互運転で幼い子供をのせてよく行ったものだ。当時は道路も今ほど整備されてなく私たちの車にはエアコンさえなかった。たまには足を延ばして妻の叔父の住むSorocaba まで行ったりした。その頃だとボツカツには本当にいつでも行けたのだが・・・・
今は腰や足が痛み体に自信がない。「いつでも行ける」が今は「もうあとでは行けない」という状況だ。明日の約束ができない、行きたいと思っていた所には今、まだ行けるときに行っておこうと思う今日この頃である。

まず第一にボツカツに明治鉱業の人が誰か住んでおられるかどうかを知る必要がある。

インターネットでボツカツの日系人の団体がないか検索すると出てきた。そこに電話した「1962年頃にそこに桃つくりに入植した明治鉱業の人で「坂田さん」という人がおられるでしょうか」と聞くと「おられます」という事。坂田さんは日本の頃、家の近所に住んでおられた人でそこの長男の人はやはり近所に住んでいた私と同じ年のいとことは同じ高校に通っていて彼の友達とは聞いていた。坂田さん一家はボツカツに入られた数少ない家族で私たちがモジの奥のBiritiba Mirim に自分たちの土地を買求めて農業を営んでいた時一度次男の人と一緒に家を訪ねてこられたように記憶している。

まだそこにおられるかどうかわからなかったがインターネットで検索したたった一本の電話で消息を知ることが出来た。実にラッキーだった。その人はボツカツ日本人会の関係の坂手という人で「今坂田さんのところの電話番号はないがあとで調べてこちらから連絡します」と。一時間ほどして電話がはいり今は坂田さんの三男の方がやっておられます、そこの電話番号は・・・・・・ですと教えてくれた。ありがとうございます。その晩電話をかけて佐伯ですがというと名前は聞いてました、訪ねてきてくださいバスターミナルまで迎えに行きますと快諾してもらえた。

サンパウロからボツカツまではCastelo Branco 高速道路を通っていく。何十キロ行っても町が見えてこない。制限時速は110キロ、Sorocaba や周辺の大きな町には高速道路から何キロか入るようになっている。3時間強でボツカツのバスターミナルへ。待合ベンチに日本人夫婦、「すいません、坂田さんでしょうか?佐伯です」と握手を交わす。「家はここから12キロです」その道中いろいろ町の移り変わりなどの話を聞く。横に広がった静かな町、気候がよく住みよい街だと、さすがBuenos Aires。51年前、父も夢と不安を抱きこの道を通ったのかと思うと感慨深かった。

やがて小高い場所に車を止めると、「ここが土地を選ぶくじ引きがあった場所です」との説明。見渡すと土地は乾燥していて下の方に木が茂っている帯が見える。ああ、あそこが川か、思っていたほど大きくなく水も見えない。湧き水がありボツカツ市の水源の一つになっており環境局の見回りもあるとのこと。「佐伯さんの土地は確か道に面した土地でこの先をちょっと行った所だったと聞いてます」とさされた指の方向を見る。背の高い草が少し生えている。色々と説明を聞きながら低みにある坂田さんの家に着く。明治鉱業の家族のうち結局は4家族しかボツカツに入らなかったそうだ。坂田さんは川べりは当たらなかったが川べりが当たった人の中から入らない人が出るのではないかと待っていて一家族入らなかったのでその土地に入られたそうだ。
4家族入ったけど今は借地に出した人や、病気で町に移った人もいて結局は坂田さん一家しかこの先やっていけそうもないのではという気がした。

坂田さんのお父さんは86で亡くなられたとのこと。93歳のお母さんはまだ元気で家の手伝いを少しやっておられるようだ。「来よう来ようと思っているうちに50年経ちました」とあいさつすると笑顔で「よく来てくださいました」と返していただいた。私と同じ年の長男の人はずっとサンパウロ市で日本の商社に勤められサンパウロ市に住んでおられるとのこと。次男の方は独身で一緒に農作業の手伝いをされているそうだ。

坂田さんたちは初めは桃、それからブドウ、そして今は日本梨の栽培をしておられて成績も良いようで大きな梨の実がなっていた。色々な品種を試されこれからは土地にあっているのか成長が速い日本の梨ニッコリ種だけに絞ると話された。まだこの梨は試験中で市場には出回っていないとのこと。なんでも1個の重さが1キロ半位になるとのことで楽しみだ。ちぎりたてを頂いたがみずみずしい。さすが日本の梨だ。

お土産にやはり日本の梨、新世紀梨(ブラジルでの呼び名はYellow Super)をひと箱いただいた。この梨の収穫時期は1月だがその時出荷すると値が低いので冷蔵倉庫に入れておき品のない今出荷すると高い値で売れるそうだ。なるほど、そこまでやれば完璧だ、と感心した。

我が家の住所、電話などを置き、遊びに来てくださいと別れの挨拶。帰りもバスターミナルまで送ってもらった。思い出に残る一日で昔からの願いをようやくかなえることが出来た。

新しい品種の大きな梨









2013年5月13日月曜日

サンパウロの地下鉄



4月の末、サンパウロの西本願寺で母の四十九日忌の法要を済ませた。久しぶりに親戚と会いお互いの最近の情報を交換する。甥や姪たちもすっかり大人になっているので何十年ぶりかなと首をかしげる。今回はホテルを予約していたのだが我が家の自称「金髪の長男」Aender  がフィンランド、バルト三国、ロシアと世界遺産めぐり( www.aender.com.br )をしていて彼のマンションが空いているので使っていいよと鍵をもらっていたので遠慮なく好意に甘えた。サンパウロは坂が多い。彼の所は地下鉄の駅にも近く近所もにぎやかだが夜の騒音はまったくない。というのは土地の起伏がかなりあるところはそのままにして車は行き止まりだが人だけは階段で下に降りれるようになっている。マンションまで送ってくれた弟も「こんなところは珍しい」と言っていた。

娘の理奈も夫婦で来ていたので一緒に東洋人街の「Liberdade」まで地下鉄で行った。ラッシュ時ではなかったので混雑とまではいかないが利用者はかなり多い。切符を買おうと窓口に行く。横に何か張り紙がある「高齢者には何か割引があるのかな?」と生年月日の入ったID カードを差し出すと「65歳以上の人は無料です」と言ってIDカードを返しながら「これをあの左端の改札口の人に見せれば開けてくれます」との返事。券を買おうと用意していた3Reais (約1.5ドル)を引っ込めて改札口へ。本当にIDカードを見せるだけで通してくれた。他州から来た私たちも恩恵が受けられる。さすがサンパウロと感心した。ブラジルはリオでもサンパウロでも地下鉄はどこまで乗ろうと料金は均一。乗り換えをしてでもである。ブラジルでは市内バスは60歳以上は無料だが地下鉄にまで(65歳以上だが)導入されているとは知らなかった。

サンパウロの地下鉄はきれいに管理されている。私も外国の地下鉄には何度か乗ったがどこの地下鉄と比較しても引けをとらない。上の写真のPaulista 駅などはプラットフォームは全部アクリル板ではってあり電車が来た時だけドアの部分が連動して開く。
これだと小さい子供でも安全だ。
サンパウロの地下鉄は私が大学在学中に最初の青の車両の南北線が開通した。工事中の不便さ、道を覆っている鉄板の上をずいぶん歩いたように覚えている。しかし初めて乗った時の感動、これは"新しいブラジル"のシンボルだとその時思った。

2013年4月4日木曜日

母逝く

3月22日、母が亡くなりました。91歳でした。
1960年にブラジルに来て以来病気らしい病気にもかからず入院もしたこともない母でしたが最近は寝たきりで体の調子も思わしくなく近くの病院で肺炎が悪化し息 を引き取りました。
ブラジルでの慣れない生活で初めは苦労の連続でしたが自分たちの土地を買い、農業で生活が安定した頃息子たちが勉学を目指し町に出、4人とも大学を出た時は大喜びでした。しかし四男、三男と若くして他界した時はさぞ悲しかったことでしょう。その後日本で覚えたゲートボールを初めはサンパウロそして後にここヴィトリアで父と共に広めようと同じ年代の人達との交流を通しての楽しい時間を満喫したようでした。ひ孫の恵美とは話さずとも息がピッタリ合っていてびっくりしました。
今頃は父と楽しくゲートボールをやっているのではないでしょうか。

2013年3月18日月曜日

走れ!レッド!!




土曜日の朝市の他に毎週火曜日、近くの公共駐車場で有機栽培野菜の夕市が立つようになった。農家自身が持ってくるので新鮮でおまけに無農薬、安心して買えて安い。市の職員が時々抜き打ち検査をしているのを目にした。大根、株、チンゲン菜、白菜なども手に入る。
2,3回前の夕市、買い物が終わり車に向かおうとしていたら東洋人の青年がござ(らしきもの)を広げておもちゃ等を売っている。もうすぐ孫娘の3歳の誕生日か、何かないかと見ていたら赤いゴム製(らしき)子供が乗れる馬を売っている。いくらするか聞いてみるとたどたどしいブラジル語で40Reais(約20ドル)という。どうやら中国の人らしい。しかし言葉もあまりできずにこうやって道でものが売れるのだからブラジルはさすが移民の国だなと感心して50Reaisの札を出し10Reaisのつりをもらった。ブラジルもお札は皆新紙幣に変わってきている。前のお札より少し大きめで偽札防止の対策がとられているとか。
早速、週末に遊びに来た恵美に馬をプレゼント。喜んで飛び乗りすぐ慣れて上手に操る。台所のまわりを「パカチパカチ」と疲れも知らずに何周もする。昔テレビで西部劇がはやっていたころ「走れ!シルバー!」(らしき)連続ドラマがあったように記憶する。恵美は「走れ!レッド!」というところか。



2013年3月15日金曜日

ローマ法王 「フランシスコ一世」


一昨日バチカンの煙突から新しいローマ法王が決まったことを知らせる白い煙があがりサンピエトロ広場に今か今かと待ちかまえていたカトリック教徒から大歓声があがった。アルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が「フランシスコ一世」として第266代目のローマ法王に即位されることが決まった。サンピエトロ大寺院のバルコニーに新ローマ法王として現れた「フランシスコ一世」、穏やかに祝福をあたえる第一声の中「私を地の果て(遠いアルゼンチン)まで探しにいって私を見つけてくれた」とのユーモアも交じっていた。それから昨日Conclave(法王選びに鍵がかかった広間に閉じこもること)に集まった世界中の枢機卿との晩餐会の中でも「神様(私を選んだ)この人たちをお許しください」とお祈りをあげられたとのエピソードも伝えられた。なにか親しみを感じる。
前法王ローマ法王ベネディクト16世の自発的退位による新法王選び。まず自発的退位が1300年ぶりという。ヨーロッパ以外から選ばれるのは初めて、フランシスコと名乗るのも初めて、そしてイエズス会から選ばれるのも初めて。
全世界約12億のカトリック信者、その中でもブラジルは世界一のカトリック教徒を有する。南米のカトリック教徒は世界のカトリック教徒の41%強を占める。今回の法王選びでもブラジルから選ばれる可能性も取りざたされていた。私も期待していたのだが。
それともう一つの疑問はフランシスコ一世を名乗った理由。新聞などではイタリアの13世紀の聖人Francesco de Assis に由来するとされているが、私には16世紀にアジアの国々、特にインド、日本にキリスト教を布教したイエズス会のフランシスコ・ザビエルからとったのではないかと思われてならない。
今日のブラジルのテレビのニュースで新法王は近日中にある即位式にアルゼンチン国民に(高い金を使って)来ないようにとのメッセージを送ったと言っていた。


P.S.: 3月16日 土曜日、今日テレビをみていたらローマ法王の「フランシスコ一世」はSão Francisco de Assisから採られたものでこれにはブラジルの枢機卿のすすめがあったと法王自身が言っておられるところが映されていた。1972年の映画「Brother Sun, Sister Moon」は聖フランシスコの信仰の目覚めを描いたものである。

2013年3月11日月曜日

あれから2年・・・・・・・・

東日本大震災から今日で2年。テレビに映し出されたあの映像はまるで特撮映画のシーンを見ているようで初めは信じられなかった。すべてを飲み込んでいくあの津波の全く自然(?!)な振る舞い。それゆえに自然の恐怖を感じ、なすすべもなく翻弄される人間の非力さ無力さ。立ち向かうことは出来ない、ただ逃げるしか手はないことを思い知らされたシーンだった。人が波にのまれていく、見ているうちに涙がボロボロとこぼれた。二万人弱の人が亡くなり、今日は各地で追悼式が行われている様子がテレビで流されていた。ご冥福をお祈りいたします。
今こちらで強く感じているのは地球温暖化。特にここエスピリトサント州は雨が少なく日差しが強い。夜は毎晩エアコンをかけないと眠れない。他の州では局地的に大雨が降ってその被害が報じられている。昨日リオは37度と言っていたからここもおそらくその位だろう。日焼け止めのクリームを塗る習慣がつきつつある。去年までは気にもかけなかったが。年齢のせいも少しはあるかもしれない。あまり暑いと何もやる気もでない、気にかかっていてやらなければならないこと(ブログも含めて)も後回しにする。涼しくなったらやろうと思っているのだが・・・・・・・・