2015年11月16日月曜日

平山の獅子舞と大分(だいぶ)の獅子舞


                                                  嘉麻市碓井、平山の獅子舞い

                                                             飯塚市筑穂, 大分八幡宮の獅子舞い

碓井町の明治鉱業平山炭鉱に住んでいた私は小学生の頃から平山の獅子舞いを見ていた。毎年9月に行われていたのを覚えている。ブラジルでもNHKで各地の獅子舞いを見るのだが2頭(?)の獅子で踊るのは見たことはないし、またここブラジルの日系の祭りでも獅子舞いはあるが私が日本で見ていた平山の獅子舞いみたいなのは見たことがなかった。

出来たらもう一度平山の獅子舞いを見たいと思って嘉麻市の市役所のサイトを通して尋ねてみた。返事が来た。いつも9月の始め頃なので私が訪日する20日には間に合わないが去年の映像が撮ってあるからDVDに録画して渡すことはできますとのことだった。私が訪日の際市役所で渡してもらえるようにしてもらった。

このポストにある平山の獅子舞いは私が行けないのならと、いとこが代わりに撮ってくれたものである。

昔は青年と中学生以上だったような気がする。同級生も太鼓廻しに参加していて子供心に勇壮な獅子舞いだなあーという記憶が残っている。それが自分の頭の中でますます美化されていってどうしても見たいという思いをつのらせたのかも知れない。今は後継者不足で伝統を引き継いでいこうと女子そして子供も参加している。いつまでも平山の獅子舞いが続いていくことを祈っている。






そして私がまだ飯塚にいた9月27日は運よく大分八幡宮に奉納される獅子舞いを見ることが出来た。







2015年11月15日日曜日

中学の同窓会

                                                          中学卒業写真、私は上段左から4人目

                                      前列の白い縞模様のポロシャツ、他のクラスも参加

上の二つ写真の間には56年と8か月の年月が流れている。

今回私が日本を訪問するにあたり飯塚に住むいとこに同じ町に住む同級生に私が帰ることを伝えてほしいと頼んでいた。彼女からは去年古希同窓会の写真を送ってもらっていてその時に住所と電話番号はわかっていたのでお礼に訪ねようと思っていた。
それから数日後いとこから「あんたがこっちに来る時にミニ同窓会を開くそうだよ」というメールが入ってきた。思いがけない知らせに私の期待は高まった。

このブログに過去3回同窓会のことを書いている(2007年5月20日、2011年11月6日、2014年4月26日)、2回はブラジルの大学の同窓会、そして参加はしなかったが写真を送ってもらった日本の中学の古希学友会。その全部に日本の同窓会にいつか参加したいものだと書いたと思う。書いた時には「実現はおそらく難しいだろうが」という心の中のつぶやきが入っていた。それが実現する!! 私にそういう機会を与えてくれてありがとう。
やがていとこから同窓会の日にちと場所が知らされてきた。飯塚の茶寮「このみ」とあった。インターネットで調べてみると懐石料理を出すしゃれた所だ。

いよいよその日が来た。妻と娘の参加も伝えてあった。会場にはもう大分集まっていて挨拶を交わすがなかなか昔の顔が出てこない。無理もない56年以上の年月が経っている。遠くから来てくれている級友もいる。
皆席に座ると料理が出てくる。挨拶が始まる。私は皆に自己紹介をしてもらうように頼んだ。だんだん昔の面影が出てきてなつかしくなる。みんな「君付け」で呼び合う。時空を超え昔の自分に帰れる。いろいろ珍しい料理が出てくるが話が一番のご馳走で食べる暇がない。何を食べたかわからないし全然食べなかったような気もする。

無情にも時は経つ、最後にみんなで碓井中学校の校歌を高らかに合唱、そして記念写真。私は娘が撮ってくれたのがあったが実は11月4日にブラジルの家に帰ってきた翌日、今回の同窓会の写真が郵便で届いたので早速このポストに使わさせてもらった。
参加してくれたみんなありがとう。一生の素晴らしい思い出をもらったよ。

下は校歌合唱の様子。見ているとついほおえんでしまう。
校歌の歌詞も配られたが実は今まで2番3番は知らなかった。それに1番の出だし、皆が歌ってるように「木々の緑のさわやかに」と思って歌っていた。歌われているうちにそう変わっていったのだろうか?





同窓会解散後、同じ飯塚に住んでおられる担任だった西園先生(上写真の4人目)を挨拶に訪ねた。
他にも手紙をいただいたり電話でも連絡をもらったりしました。ありがとう。日本滞在後半の10日間は日本で買った携帯用のSimカードが繋がらなくなり連絡が取れなくなりました。

懐かしい顔がある。

右は妻の清子


                                         卒業の時取り交わしたサインブックを見せている

            
一人一人自己紹介してもらった

現中学校校舎、昔は木造で山のふもとに一階x3校舎だった。

2015年11月12日木曜日

南国の春 (?)


一か月の日本旅行を終えブラジルに帰ってきたのが10月20日。それからサンパウロ市近郊に住む親せきを訪ねて周り、姪の結婚式に出席して、我が家に帰ってきたのが11月4日。ブラジルを発った9月19日にはようやく新芽が出始めたばかりのブドウが帰ってきた時には葉が茂り、かなり大きなブドウの実までなっていた。聞くところによるとエスピリト・サント州は雨も少なく暑い日が続いているという。飛行場に降り立った時は一片の雲もない青空であった。いい天気はまだ今も続いている。これからますます暑くなっていくのに先が思いやられる。

ここエスピリト・サント州ではわずかに果物の木が芽を出し花が咲き実がなるサイクルを通して季節の変化(?)を感じ取ろうとするのだがブドウなどは一年に2回か3回くらい収穫できるので情緒も何もあったものではない。

私たちが日本を発つころは紅葉が始まろうという頃で日光ではその前触れを見ることができた。若い頃は「日本は四季があるからいいでしょう」と言われると「それが春と過ごし安い夏ばかりだったらもっと良いのでは」などと馬鹿げた強がりを言っていたことを思い出します。今や故郷になったブラジルびいきだったのかも知れません。しかしこの歳になって日本にいくとやはり四季の移り変わりと共に移り変わる人の感性もいいものだと思うようになりました。甲を破った功のおかげですかね。

長いことこのブログをサボってしまった。日本での楽しかった思い出を少しずつ載せていこうと思っている。

2015年9月14日月曜日

南国の冬(?)


これは8月の末にとった写真でブドウの葉が枯れて落ち剪定した後で、我が家で冬(?)を感じさせてくれる時である。後ろに青々としたヤシの木やピタンガ(赤い小さな果物)の木が写っていては風情はでないが朝早く涼しい時に真下にいるとちょっぴりはそんな気になる。もちろんここエスピリト・サント州の海辺では海水浴もできる。8月の初めクリチーバの理奈のところにDobrando Alegriaのボランティアに来ていたイタリアと中国からの娘さんがうちに泊まった時、彼女らは海に入って遊んでいった。冬に海に入ったのは初めてだと言っていた。家から一歩外に出ても木々は緑、みんな半袖半ズボンなので冬は感じれない。これは我が家の特権か。
このブドウ、クリスマス・正月頃熟れ、そのあと剪定すると4月ごろまた獲れる。年によるが3回獲れることもある。
 

2015年8月29日土曜日

地球温暖化はありうる

「なんと馬鹿なタイトルだ。いまどき常識で誰でも知っていることだろう。」という声がきこえてくる。

しかし今までは北半球がものすごく暑いと南半球がものすごく寒かったり、またはその反対だったりしていたので私の頭では地球は自分でバランスを取るので地球温暖化はそう深刻なことではないのではと勝手に思っていた。

氷河がなくなったり、小さくなったりしていることも知っている。南極の氷がとけたり、北極海での航行が可能になったり色々な証拠があるのになぜ深刻な問題だと思わなかったのだろうか。

私たちがここエスピリトサント州に移ってきたころの冬(?)は夜軽い毛布だけで過ごせたような気がしていた。いまは毛布のほかに軽い掛布団もかぶっている。そして周りの様子はあまり変わっていないような気もする。

それなのになぜ今年は地球は熱くなったと感じたのか。それは今年の冬は全然電気シャワーを使わずに済んだからだ。サンパウロからエスピリトサントに移ってきた時、まず最初に頭にピンときたのはこの陽の強さを利用しなければということだった。そこで風呂の水とシャワーは太陽熱で温めようとパネルを取り付け温水を利用してきた。しかし特に冬の6-8月の何日かは曇ったり雨が降ったりすると十分に水を温めきれず電気シャワーを10日ほど使ってきた。

それが今年の6-8月は一回も電気シャワーを使っていない。それに北半球は猛烈な暑さだというのに南半球は猛烈な寒さではなく今年は冬はなかったという人もいる。それは私も身をもって感じている。やはり自分の身で経験しないと人間は信用しないのかな ?

遠慮しないで、ふるさと満喫 !

これはいとこが私にくれたメールのタイトルである。
今、来月の私たちの訪日スケジュールにあわせていとこが細かい所の手配をしてくれている。あまりにも迷惑をかけているようで恐縮ですとメールを出したらこの返事。彼の思いがドーンと私の胸に響く。なんと頼りになる力強い言葉だろう。ありがとう。

1960年にブラジルに移住、1981年3月から83年1月までブラジルの会社の駐在員として東京事務所に勤務。その時、一度ゴールデンウイークにいとこ達にあったがわずかな時間であった。子供たちもお互い小さかったしゆっくり話も出来なかった。今回も故郷ですごす日にちは短いが効率よく時間を過ごそうと彼が他のいとこ達にも呼びかけ"いとこ会"を開こうと言っている。一番の思い出になるだろう。

私も妻も自分たちの身体に自信が持てなくなってきている。今年こそはと年の初めころから日本行の手ごろな値段の航空券が出ないかと気を付けていたら3月の末頃から出だしたので早速買った。まるでブラジルの国内旅行をする感覚で。いつものようにしばらくほっておく。ブラジル旅行だと前日か当日にカバンの整理をするくらいなのでのんきにしていたら今度は違うと気が付いた。私はこちらに帰化しているので日本のビザがいる。しかもアメリカ経由なのでアメリカのビザもいる。どちらもリオまで行って取らなくてはならない。あれこれ忙しい日が続いた。

日本の事情もよく知らないから色々調べなければならない。なかなか気持ちが落ち着かない。ブログを怠けた理由にはなるかな。1か月半何も書いてない。ネタはあったのだが時期を外してしまった。特に「いまブラジルの政治、経済はおかしい」これは書いていると、きりがないからあきらめるか。

私が今日ノートブックを開けるたびに笑い出すので妻が怪しむ。「なに、このいとこがくれたメールのタイトルだよ。彼の声がこれを開けるたびに聞こえてくるんだよ。おもしろい。」






2015年7月14日火曜日

SUGOI !!!  すごい!!!




今年もブラジルのブエノスアイレス、Botucatu (2013年5月15日のポスト参照)から我が家に大きな梨が届いた。日本のニッコリ種でこちらブラジルでは生産者の坂田さんが「スゴイ」と名づけられた。
家のブザーが鳴った。妻が「郵便ですよ」と呼んでいる。黄色のヴァンが家の前に止まっているのがドアのすきまから見える。「最近何も買っていないんだがな?」と受け取りに行くと小包を渡された。小さい箱のわりに重い。差出人は坂田と書いてある。「おーい、だよ」と妻を呼び開けると大きな梨が3個はいっていた。どれもでかい。一番大きなのを計ってみると約950グラム」
早速坂田さんに電話を入れた。「梨、今届きました。すごいですね!あっ、そうか、すごいは梨の名前でしたか。大きいですね900グラム以上ありましたよ」と言うと、「一番大きかったのは1キロ200グラムありました」ということだ。サンパウロのセアザ(サンパウロ農作物中央卸売り市場ではなく直接消費者に渡されるMercado(市内マーケット)に持っていって売られたそうだ。まだ珍品扱いだ。
ブラジルで出回っている西洋梨や果汁の少ないほかの梨とは違ってみずみずしいとも言える果汁いっぱいの梨だ。ブラジルでこれが味わえるのはうれしい。
ブラジルは国土が広い。南北、東西、まだ私の知らない果物も多数あるみたいだ。それに外国との貿易で入ってくるのもある。そのなかで私が特に望んでいたのは果汁が豊富な梨でなかなか出会えなかった。
これが実現した、坂田さんありがとう。