このブログを読んでいた妻、急に「そうだわこの時だわ会社から電話があったの、ご主人はニューヨークで身動きがとれなくなっていますが会社から特別ミッションを出してでも必ず救い出して連れて帰りますからと。」それまで何も知らなかった妻、急に不安になって何か高いビルからロープで吊られている私を想像したそうだ。誰だ、そんなに大げさに騒いだのは?
ようやく私は日本に着いた。遠い遠い日本だった。
早速北海道のお客さんを訪問していた会社の技術者と連絡する。会議が終わったのでこれから飛行場に向かうから、あと4時間ほどで羽田に着くという。彼らのフライト番号、時間を確認して荷物を成田空港のロッカーに預ける。成田から羽田まで電車を乗り継いでいく。彼らの到着時間が近づくと案内所に行って私が到着ロビーで待っていることをアナウンスしてもらうように頼んだ。やがて彼らが出てきた。日本の商社の人達と挨拶を交わしそこで別れ私たち3人は成田に向かいそれから中国へと発った。
10年ぶりの日本。しかしわずか数時間の滞在だった。誰にも連絡するひまもなかった。
中国は当時はまだ現在の近代化の前。北京の空港からホテルまでの道も曲がりくねって暗かったのを覚えている。ビルもあちこちにしか電気がついていない。節電でもしているのかなと思った。その夜、ホテルの私の部屋に3人集まって会社に日本のお客さん訪問のレポートを書いた。その書き出しは「マーフィの法則が適用された」 だった。
翌日からお客さんをまわったり政府の鉄鋼関係の窓口の人達とあったりしてそれから武漢へと発った。武漢では製鉄所のゲストハウスにお世話になった。しかし部屋は暖房がきいてなくて同行していたアメリカの商社の人はIceboxと名付けていた。そこでの仕事が終わり私達5人(3人+中国の鉄鋼購買の係りの女性+アメリカの商社の人)は会社で都合してもらった車に分乗して空港に向かうこととなった。たしか揚子江がこの近くを流れているはずだ、私は会社の人に空港に行く途中に見れないかと尋ねた。実は反対方向なので飛行機の時間もあまり余裕がないので今回は難しいとの返事。上海に向かうべく私たちは空港へと直行。
空港で連れの中国の女性が全員のパスポートと航空券とを持ってチェックインしてくるとカウンターの方へ行ったのでその間雑談していた私たちに彼女が急ぎ足で戻ってきた。「実は政府の要人が乗るので私たちは3人しか乗れません。」それでは技術的な話を先にやってもらおうと技術者を先にやることにして私とアメリカの商社の人とは3時間あとの飛行機に乗ることとなった。
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