2008年もあと三日。今年の終わりにこんな経済恐慌がおそってこようとは誰も想像できなかっただろう。アメリカの住宅事情の悪化が世界の金融、経済界の混乱を引き起こし果ては生産業にまで影響を与えた。各国の政府が連携してこれに対応していこうとしているが早急な巻き返しは可能なのだろうか? この世界規模の不況、今多くの人々の生活を脅かし重くのしかかっている。一日も早く回復の兆しが現れるよう祈っている。
今年はブラジルへの日本移民が始まって百年ということで記念祭が日系集団地の多いサンパウロ、パラナ州をはじめ各地で行われた。日本からも皇太子が来られ各界からも多くの参加があった。ここエスピリト・サント州でも州議会の発案で日系人のこの州への導入、援助などに貢献された人達また移住者高齢の方たちが表彰された。日系協会主催でもカルロス・ゴーメス劇場で同様の表彰式があり桜の記念植樹も行われた。これから日系社会ますます発展してブラジルの中に溶け込み活動範囲を広げてほしい。
どこにいてもこの時期は過ぎ去ったことを懐かしく感じさせる。自分も若くないということなのか。日本で約17年、ブラジルで48年。私は一月一日生まれ、あと四日で65歳の誕生日を迎える。元旦はその日自体がめでたい日なので私の誕生日は忘れられがち。妻がケーキを作ってくれるがご馳走の後なのでほとんど誰も食べない。正月は忙しいからケーキは作らなくてもいいと言ってあるのだが。「誕生日のケーキを食べないと誕生日ではない」とは隣の奥さんの口癖だが、その勘定だと私の歳は30歳前後か?
来年は丑年、忍耐を強いられる年になりそうだ。
2008年12月12日金曜日
実の父親はどこにいますか?
これは近くに住むカロルがこの前家に来た時に私達に話してくれたものです。
彼女はミナス州の出身で20年ほど前結婚、そして旦那の仕事の関係でエスピリト・サント州に引っ越してきました。エスピリト・サント州は小さな州なので何か大きなプロジェクトがあると他州から人材を募っています。私がいた会社でも多数ミナスから来た人達が働いていました。ミナス州は海に接していないので夏休み、冬休みなどはエスピリト・サント州に繰り出してきてどの海岸町もミナス州のナンバー・プレートの車で一杯になります。
さて今年の冬休み(7月)学校が終わるとカロルの叔母さんの息子のジョンが早めに一人でやってきました。ジョンは今年ミナスの大学の法科に入り初めての冬休み。両親は一週間後に来ることになっていました。着いた翌日早速カロルの次男のタデウとジョンは自転車を飛ばして海辺へと。半ズボンにTシャツ、そのまま海に飛び込みました。冬といってもこの辺昼は28度くらいあって子供たちは海に入って遊んでいます。飛び込んだジョンなかなか顔を上げない。タデウがつついてもなんの反応もない。あわてて顔をひきあげるとぐったりしている。浜辺まで引き上げるとあたりから人が寄ってきて携帯で救急車を呼んでくれた。病院で調べて見ると脊髄が押しつぶされている。どうやら海に飛び込んだときに頭を打ったらしい。下は砂の浅いところなのに彼だけがこうなったのは誰にも納得がいかなかった。上半身は型で固定された。ミナスの親の所に連絡が行き、まず母親が付き添いに来、それから3日たって父親がきた。ジョンは手術が必要と判断され輸血が必要となってきた。ジョンの血液型はまれな血液型で病院にはストックがない。家族の血液型が調べられたのち医者が病室に入ってきて家族を隅に呼んだ。「父親は?」『はい、私ですが』「いや、実の父親はどこにいますか」。父親、医者が何を言いたいのかさっぱりわからずキョトンとしていると横から母親すました顔で「この子の父親の行方は知りませんがその母親の住所は知っていますからそこへ行けばわかるでしょう」「それでは一刻もはやく呼んできてください」。
父親、子供のことで気が動転しているのか何も言わずただ奥さんから住所をもらってその日のうちにバスでミナスの小さな町に向かった。その町に降り立って住所を言うとその家はすぐにわかった。ドアをたたくと男の人がでてきた。「今あなたの息子さんが大変であなたの血がいるのです」。その人、さっぱりわけがわからずおそらく人違いだろうと思い「おれには息子はいないよ」「いやそれは私の息子なのですがとにかくあなたしか私の息子を救えないのです」それからいきさつを説明してもやはり息子なんていないと言い張る。「人ひとりの命がかかっているのです。どうか私と一緒に来て下さい」やっと熱意が通じ「どこの病院で聞いてきたのか知らないが私の血はめずらしいそうだ。そこまであなたが言うのなら行ってあげましょう」。
二人はその日のうちにヴィトリアに向かった。二人が病室に入ってきた時そこにいた親戚一同、あっと、驚きの声をあげた。ベッドの上のジョンと父親のあとについて入ってきた男があまりにもそっくりだったからだ。ジョンの母親であるカロルの叔母は浅黒い肌で父親は黒人。ジョンは肌の色は白で青い目。しかしブラジルではよくあることで誰も怪しまない。人種混合のブラジルでは親と違った肌色の子供が生まれても何代目か前にそういう血が入ったのだろうということで納得する。兄弟でも肌色や目の色の違うのがでる。しかしカロルは思い出した。叔母が結婚したとき1ヶ月も交際をしたかしないうちに式を挙げたことを。今の旦那が以前から彼女のことを好きでたまらないことを知っていてちょっと声をかけたら出来るだけ早く結婚したいと申し出たと自慢げに話したのを。
ジョンは7ヶ月の未熟児で生まれたと言っていた。しかし髪は長く大きい赤ちゃんだったのを覚えている。これで19年前の謎が解けたと思った。父親は後ろの男の人を献血に参加して下さったヴォランティアの人だと息子に紹介した。ジョンは弱々しげに「ありがとうございます」と言っただけ。彼は献血をした後急ぎの仕事が待っているのでと病院からバスターミナルへ直行。病室はしばらくの間誰も口をきかず静まり返った。手術は無事成功。ジョンも次第に快方に向かって行った。カロルは胸をなでおろした。あんなに父親になついているジョンが本当の父親がほかにいるなんて知ったらそれこそこの世に生きていないかもしれないと。
彼女はミナス州の出身で20年ほど前結婚、そして旦那の仕事の関係でエスピリト・サント州に引っ越してきました。エスピリト・サント州は小さな州なので何か大きなプロジェクトがあると他州から人材を募っています。私がいた会社でも多数ミナスから来た人達が働いていました。ミナス州は海に接していないので夏休み、冬休みなどはエスピリト・サント州に繰り出してきてどの海岸町もミナス州のナンバー・プレートの車で一杯になります。
さて今年の冬休み(7月)学校が終わるとカロルの叔母さんの息子のジョンが早めに一人でやってきました。ジョンは今年ミナスの大学の法科に入り初めての冬休み。両親は一週間後に来ることになっていました。着いた翌日早速カロルの次男のタデウとジョンは自転車を飛ばして海辺へと。半ズボンにTシャツ、そのまま海に飛び込みました。冬といってもこの辺昼は28度くらいあって子供たちは海に入って遊んでいます。飛び込んだジョンなかなか顔を上げない。タデウがつついてもなんの反応もない。あわてて顔をひきあげるとぐったりしている。浜辺まで引き上げるとあたりから人が寄ってきて携帯で救急車を呼んでくれた。病院で調べて見ると脊髄が押しつぶされている。どうやら海に飛び込んだときに頭を打ったらしい。下は砂の浅いところなのに彼だけがこうなったのは誰にも納得がいかなかった。上半身は型で固定された。ミナスの親の所に連絡が行き、まず母親が付き添いに来、それから3日たって父親がきた。ジョンは手術が必要と判断され輸血が必要となってきた。ジョンの血液型はまれな血液型で病院にはストックがない。家族の血液型が調べられたのち医者が病室に入ってきて家族を隅に呼んだ。「父親は?」『はい、私ですが』「いや、実の父親はどこにいますか」。父親、医者が何を言いたいのかさっぱりわからずキョトンとしていると横から母親すました顔で「この子の父親の行方は知りませんがその母親の住所は知っていますからそこへ行けばわかるでしょう」「それでは一刻もはやく呼んできてください」。
父親、子供のことで気が動転しているのか何も言わずただ奥さんから住所をもらってその日のうちにバスでミナスの小さな町に向かった。その町に降り立って住所を言うとその家はすぐにわかった。ドアをたたくと男の人がでてきた。「今あなたの息子さんが大変であなたの血がいるのです」。その人、さっぱりわけがわからずおそらく人違いだろうと思い「おれには息子はいないよ」「いやそれは私の息子なのですがとにかくあなたしか私の息子を救えないのです」それからいきさつを説明してもやはり息子なんていないと言い張る。「人ひとりの命がかかっているのです。どうか私と一緒に来て下さい」やっと熱意が通じ「どこの病院で聞いてきたのか知らないが私の血はめずらしいそうだ。そこまであなたが言うのなら行ってあげましょう」。
二人はその日のうちにヴィトリアに向かった。二人が病室に入ってきた時そこにいた親戚一同、あっと、驚きの声をあげた。ベッドの上のジョンと父親のあとについて入ってきた男があまりにもそっくりだったからだ。ジョンの母親であるカロルの叔母は浅黒い肌で父親は黒人。ジョンは肌の色は白で青い目。しかしブラジルではよくあることで誰も怪しまない。人種混合のブラジルでは親と違った肌色の子供が生まれても何代目か前にそういう血が入ったのだろうということで納得する。兄弟でも肌色や目の色の違うのがでる。しかしカロルは思い出した。叔母が結婚したとき1ヶ月も交際をしたかしないうちに式を挙げたことを。今の旦那が以前から彼女のことを好きでたまらないことを知っていてちょっと声をかけたら出来るだけ早く結婚したいと申し出たと自慢げに話したのを。
ジョンは7ヶ月の未熟児で生まれたと言っていた。しかし髪は長く大きい赤ちゃんだったのを覚えている。これで19年前の謎が解けたと思った。父親は後ろの男の人を献血に参加して下さったヴォランティアの人だと息子に紹介した。ジョンは弱々しげに「ありがとうございます」と言っただけ。彼は献血をした後急ぎの仕事が待っているのでと病院からバスターミナルへ直行。病室はしばらくの間誰も口をきかず静まり返った。手術は無事成功。ジョンも次第に快方に向かって行った。カロルは胸をなでおろした。あんなに父親になついているジョンが本当の父親がほかにいるなんて知ったらそれこそこの世に生きていないかもしれないと。
2008年12月10日水曜日
山羊の足
山羊の足
ブラジルの私達が住んでいる州では誰も耳にしたくない言葉に「山羊の足」というのがあります、というのは運が悪いことを意味するからです。例えばどの店でもお客さんが一杯入っている中に一つの店だけ誰も入っていない。すると人々は言います「ここには山羊の足が埋められている」。家の庭、春になると沢山の花が咲きます。しかしある小さい一角だけ花も咲かないし草も育ちません。ひょっとしてここには本当に山羊の足が埋められているのかも知れません。
Goat´s foot
In our state in Brazil, nobody wants to hear the word “goat’s foot”, because it means bad luck. For example, among many stores full of clients, there is one store where nobody is seen. Then, people say “Here, goat’s foot is buried” . In my garden, when the spring comes, we can see many flowers. But, there is one small space where neither flower nor grass grows. I don’t know if really there is goat’s foot buried.
ブラジルの私達が住んでいる州では誰も耳にしたくない言葉に「山羊の足」というのがあります、というのは運が悪いことを意味するからです。例えばどの店でもお客さんが一杯入っている中に一つの店だけ誰も入っていない。すると人々は言います「ここには山羊の足が埋められている」。家の庭、春になると沢山の花が咲きます。しかしある小さい一角だけ花も咲かないし草も育ちません。ひょっとしてここには本当に山羊の足が埋められているのかも知れません。
Goat´s foot
In our state in Brazil, nobody wants to hear the word “goat’s foot”, because it means bad luck. For example, among many stores full of clients, there is one store where nobody is seen. Then, people say “Here, goat’s foot is buried” . In my garden, when the spring comes, we can see many flowers. But, there is one small space where neither flower nor grass grows. I don’t know if really there is goat’s foot buried.
2008年12月8日月曜日
漢検
去年母が家に来た時にサンパウロで購読していた日本語新聞をこちらに住所変更したのでそれから日本語新聞を読むようになった。10ページほどで日本、世界、ブラジルのニュース等が載っている。その新聞でブラジルでも年に一度漢字能力検定試験(漢検)なるものがある事を知った。2級は高卒程度で常用漢字および人名漢字の約2千の漢字が対象と書いてあった。常用漢字は大体知っていると思ったので2級を受けることにした。試験場はリオとサンパウロ。リオの場所を調べてみると息子のアパートから近い。参考書も買わずに二十数年前日本で買い求めた本で一ヶ月程勉強してさて試験場に。読みはまず問題なかった。しかしいざ書くとなると知っているようでなかなか確信を持てない。結果は合格には2点足りなかった。2点とは書きの問題では一問である。ほとんど答えたので自分では通ったと思っていた。しかし後でどこを間違えていたかチェックして自分の書き癖に気がついた。「はね」てない、下の棒が長い、そして自分では楷書で書いていると思っていたのが実は行書で書いていた、などなど。そう言えば私の日本語は最近はネットの普及で読売や朝日新聞のニュースを読んでいるが書くことは全くない。会社で働いていた頃は日本語とはゼロ。私と同じように日本生まれの人が一人下の階の経理で働いていたのでたまに会うと日本で話すだけそれも挨拶程度。
今書いているこのブログはパソコンがひらがなを漢字に変換してくれる。もちろん色々な選択肢から正しいものを選ばなければならないが。まず手で書くことはない。家では妻と日本語。妻はこちらの日本人植民地内の日本語学校で子供の頃3年ほど日本語を習ったそうだ。その頃は有志が近所の子供たちを集めて自分の倉庫で授業料も取らずに忙しい仕事の合間に日本語を教えていたところも多々あった。いなかの日本語学校ではまだコロニアが貧しい時代で先生の給料も安かった。一人の先生が学力の違う子供たち全部の面倒をみていた。ささやかな情操教育をと自作の楽器で日本の童謡を教えていた先生もいた。今のコロニアの日本語はそういう人達の奉仕に支えられてきた。敬意を表したい。当時私にも小さな日本人の集落の倉庫を使っての夜の子供たちの日本語の勉強を手伝ってくれないかと話があったがまだ移住歴も浅く苦しい時代で毎晩12時過ぎまでの荷詰めでそんな余裕なんかなかった。今年の日本移民百年祭、表で活躍した人達は表彰されただろうが裏で陽の目を見ることのなかった人達、いつまでも懐かしく思い出し感謝している人達がいることを忘れないでほしい。
さて妻の話に戻ろう。彼女の日本語はほとんど独学。いなかでの家の中ではおじいちゃん、おばあちゃんと日本語での会話。大人の言葉使いをすると近所の子供たちからいじめられたそうだ。それが基礎となって後は漫画、雑誌で日本語の語彙を増やしたそうだ。思えば私たちも日本で小さい時そうだった。ブラジルでは小学校に入る頃から外ではブラジル語での会話となる。小学校は家の近くにあるが中学校になるとバスで通ったりする。家での生活の時間が短くなり、段々とブラジル語の割合が多くなり日本語との接触が少なくなってくる。日本語離れが懸念されていたころそれまで思いもかけなかった現象が起きた。ブラジルから日本への出稼ぎだ。新しい形での日伯交流が始まりこれでブラジルでの日本語が勢いを盛り返してくれるといいが。私のこの日本語のブログの最終チェックは妻に頼む。以前日本から来られた人に言われたことがあった「あんたより奥さんのほうが日本語うまいね」。
今年も10月の末に漢検があった。イタリア旅行の帰りリオに寄ったときに申し込んだ。今年は日本からネット販売の「アマゾン」を通して問題集などを取り寄せた。便利な時代になった。去年失敗した字の癖などに注意して今年は2級の200点満点の198点でパスし昨日合格証明書が届いた。
2008年11月30日日曜日
まだ(天に召される)その時ではなかったのだ!
ここ2週間くらい毎日雨が降っている。ヴィトリアでもあちこち浸かっている所があり、なんでも1キロメートルの道路に平均20の穴があると新聞が報じていた。その穴が泥水で隠れているので車の運転には気をつけるようにとの事だ。しかし最も被害の大きいのは南のサンタ・カタリーナ州でブルメナウ市をはじめイタジャイー川沿いの町では百人以上の犠牲者が出て、何万人という人達が避難生活を余儀なくされている。犠牲者のほとんどが地滑りによるもので家が押しつぶされる瞬間を携帯で撮った映像をテレビが流していた。自然の力の前には人間はなすすべもない。自然と共存できる開発が必要か。
大雨と言えば私達がサンパウロからヴィトリアに引っ越してきて間もない1979年エスピリト・サント州で大洪水があり300人以上の犠牲者がでた。ミナス州に始まりエスピリト・サント州を横断するリオ・ドーセ(Rio Doceドーセ川)が氾濫した。なんでも雨が1ヶ月以上降ったそうだ。「そうだ」というのはちょうどその時私達は弟の結婚式でサンパウロのビリチーバ・ミリンの両親の所へ行っていたからである。結婚式に合わせて1ヶ月の休暇をとった。ブラジルでは1年間働けば30日の休暇がとれる。労働法で決まっており必ずとらなければならない。2回に分けて取る者もいる。30日を月曜日から取るようにするので前の土、日と合わせ32日となる。子供の学校が休みの12月から2月の半ばまでそして冬休み(?)の7月が取り合いになる。私達の課では同じ担当でなければ2人まで同時期に取れるようになっていた。次の年は優先順位が変わりあまり文句の出ないようにするのがそこの長たる者の腕の見せ所となっている。
当時ヴィトリア・サンパウロ間1千キロは車で約14時間かかった。妻と交代で運転。途中工事中の所もありリオ・ニテロイ橋に入るにもニテロイの街の中からで橋に差し掛かるところは特に渋滞していた。さて結婚式も無事終わり30日の休暇ももう少し、帰路につくことにした。さあて、ビリチーバからヴィトリアまで1千キロ。まずサンパウロとリオを結ぶヅットラ街道に入る。そして最初のガソリンスタンド。「満タンにして下さい」「満タンって、あんた達ヴィトリアにいくの?」ナンバープレートをみて従業員が言った。「ヴィトリアへは行けないよ、たしかリオの先で通行止めじゃないかな。ほら昨日テレビで言ってたろう」。何も知らなかった。そう言えば忙しいのと久し振りに親,兄弟揃ったということで毎晩話にはずみがつきテレビをつけることさえ忘れていた。新聞は24キロ先のモジの組合の私書箱の中でそこにもここ10日以上寄ってない。なんでもエスピリト・サント州では30日以上雨が降り続いていてがけ崩れ等で道はあちこち切断されているとのこと。しかし、もう帰りかけているし仕事を休むわけにはいかない。あとは運を天にまかせるのみ。リオ・サンパウロ間は何も問題なく通過。リオを過ぎると道の両脇は水に浸かっている所もある。その道もアスファルトがはがれて穴だらけ。ゆっくり、ゆっくり。所々がけ崩れの箇所をトラクターが泥を取り除いてはいるが十分ではなく滑る。おまけに穴には砂利が入れてありそれが道路にはみだしている。たしかに乗用車は少なくトラックやバスだ。そのうち、ある直線コースに来た。がけ崩れで行きと帰りの2車線しかない。少し行くと前方にトラックが2台並んで見えた。どうやら直線に出たので追い越しにかかったらしい。しかし一向に追い抜かない。だんだん私達の車との距離が縮まってくる。私はライトを点滅して合図した。まだ追い抜かない。これ以上近づいたら危ない。私は車を止めライトを点滅させクラクションを鳴らし続けた。後ろには後続車がいるし、横はがけ崩れ、前に進むのは自殺行為。トラックは近づいてくる。「これまでかっ」、脳裏をかすめた。トラックの運転手二人とも抜こう抜かせまいとお互いだけを見て前を見ていない。やがて「はっ」と二人我にかえり前を見てとんでもない事態に気がついた。一人がスピードを上げ、もう一人がスピードを落とし慌ててハンドルをきるのが見えた。トラックの荷台のしっぽが私の鼻先をかすめるようして消えていった。しばしぼうぜんとしたが妻の声で慌ててエンジンをふかして車を動かした。ブラジル人がこんな時によく使う言葉がある。「まだ(天に召される)その時ではなかったのだ」。日本語ではこの状況を「危機一髪」とでも言うのだろうか。とにかく家族全員命拾いをした。ブラジルではトラックの運転手たちの交通規則違反の無謀運転がよく悲劇を起こす。もっと教育および取締りに力をいれなければならない。20年ほど前アメリカのフロリダを旅行した時私達の車の前を超小型車が走っていた。その後ろのガラスに大きなステッカーが貼られていた。曰く「OK,YOU (TRUCK) IS A BOSS, BIG IS A KING!」。アメリカでも同じような問題があるのだろうか。
その日私たちはいつもより8時間以上も遅れ、家に着いたのは午前2時を過ぎていた。水道の蛇口をひねると赤茶けた泥水。とても飲めたものではなくご飯も炊けない。いまどき店など開いているはずもない。妻が裏庭からサトイモを掘り起こし泥水で洗いそして煮た。皮をむいたサトイモが盛られた皿は瞬く間に空になった。
大雨と言えば私達がサンパウロからヴィトリアに引っ越してきて間もない1979年エスピリト・サント州で大洪水があり300人以上の犠牲者がでた。ミナス州に始まりエスピリト・サント州を横断するリオ・ドーセ(Rio Doceドーセ川)が氾濫した。なんでも雨が1ヶ月以上降ったそうだ。「そうだ」というのはちょうどその時私達は弟の結婚式でサンパウロのビリチーバ・ミリンの両親の所へ行っていたからである。結婚式に合わせて1ヶ月の休暇をとった。ブラジルでは1年間働けば30日の休暇がとれる。労働法で決まっており必ずとらなければならない。2回に分けて取る者もいる。30日を月曜日から取るようにするので前の土、日と合わせ32日となる。子供の学校が休みの12月から2月の半ばまでそして冬休み(?)の7月が取り合いになる。私達の課では同じ担当でなければ2人まで同時期に取れるようになっていた。次の年は優先順位が変わりあまり文句の出ないようにするのがそこの長たる者の腕の見せ所となっている。
当時ヴィトリア・サンパウロ間1千キロは車で約14時間かかった。妻と交代で運転。途中工事中の所もありリオ・ニテロイ橋に入るにもニテロイの街の中からで橋に差し掛かるところは特に渋滞していた。さて結婚式も無事終わり30日の休暇ももう少し、帰路につくことにした。さあて、ビリチーバからヴィトリアまで1千キロ。まずサンパウロとリオを結ぶヅットラ街道に入る。そして最初のガソリンスタンド。「満タンにして下さい」「満タンって、あんた達ヴィトリアにいくの?」ナンバープレートをみて従業員が言った。「ヴィトリアへは行けないよ、たしかリオの先で通行止めじゃないかな。ほら昨日テレビで言ってたろう」。何も知らなかった。そう言えば忙しいのと久し振りに親,兄弟揃ったということで毎晩話にはずみがつきテレビをつけることさえ忘れていた。新聞は24キロ先のモジの組合の私書箱の中でそこにもここ10日以上寄ってない。なんでもエスピリト・サント州では30日以上雨が降り続いていてがけ崩れ等で道はあちこち切断されているとのこと。しかし、もう帰りかけているし仕事を休むわけにはいかない。あとは運を天にまかせるのみ。リオ・サンパウロ間は何も問題なく通過。リオを過ぎると道の両脇は水に浸かっている所もある。その道もアスファルトがはがれて穴だらけ。ゆっくり、ゆっくり。所々がけ崩れの箇所をトラクターが泥を取り除いてはいるが十分ではなく滑る。おまけに穴には砂利が入れてありそれが道路にはみだしている。たしかに乗用車は少なくトラックやバスだ。そのうち、ある直線コースに来た。がけ崩れで行きと帰りの2車線しかない。少し行くと前方にトラックが2台並んで見えた。どうやら直線に出たので追い越しにかかったらしい。しかし一向に追い抜かない。だんだん私達の車との距離が縮まってくる。私はライトを点滅して合図した。まだ追い抜かない。これ以上近づいたら危ない。私は車を止めライトを点滅させクラクションを鳴らし続けた。後ろには後続車がいるし、横はがけ崩れ、前に進むのは自殺行為。トラックは近づいてくる。「これまでかっ」、脳裏をかすめた。トラックの運転手二人とも抜こう抜かせまいとお互いだけを見て前を見ていない。やがて「はっ」と二人我にかえり前を見てとんでもない事態に気がついた。一人がスピードを上げ、もう一人がスピードを落とし慌ててハンドルをきるのが見えた。トラックの荷台のしっぽが私の鼻先をかすめるようして消えていった。しばしぼうぜんとしたが妻の声で慌ててエンジンをふかして車を動かした。ブラジル人がこんな時によく使う言葉がある。「まだ(天に召される)その時ではなかったのだ」。日本語ではこの状況を「危機一髪」とでも言うのだろうか。とにかく家族全員命拾いをした。ブラジルではトラックの運転手たちの交通規則違反の無謀運転がよく悲劇を起こす。もっと教育および取締りに力をいれなければならない。20年ほど前アメリカのフロリダを旅行した時私達の車の前を超小型車が走っていた。その後ろのガラスに大きなステッカーが貼られていた。曰く「OK,YOU (TRUCK) IS A BOSS, BIG IS A KING!」。アメリカでも同じような問題があるのだろうか。
その日私たちはいつもより8時間以上も遅れ、家に着いたのは午前2時を過ぎていた。水道の蛇口をひねると赤茶けた泥水。とても飲めたものではなくご飯も炊けない。いまどき店など開いているはずもない。妻が裏庭からサトイモを掘り起こし泥水で洗いそして煮た。皮をむいたサトイモが盛られた皿は瞬く間に空になった。
2008年11月23日日曜日
ブリジッテ ママのりんごケーキ Bolo de Maçã da Mama Brigite
ブラジルの南の3州(パラナ州、サンタ・カタリナ州 およびリオ・グランデ・ド・スール州)にはヨーロッパ系の移民がたくさん住んでいます。特にドイツ系とイタリア系。ぶどう栽培も盛んでおいしいワインも生産されています。サンタ・カタリナ州のブルメナウ市では10月にドイツのミュンヘンについで賑わうと言われている「Oktoberfest」が催されます。80万人の観光客が18日間で約37万リットルのビールを消費します。
さて今日紹介するブリジッテさんはパラナ州の州都クリチーバに住んでいる私の娘の姑。ドイツの血が4分の3で イタリアの血が4分の1、ご主人のカルロス氏はドイツとイタリアの血がそれぞれ50%。仲睦ましい夫婦です。このりんごケーキのレシピは去年、妻がクリチーバに行った時にブリジッテさんから教わったものです。彼女曰く『段々歳をとってくると面倒なのと金のかかるものは切ってきて気がついたら金のかからなくておいしくて簡単にできてしかも、いかにも手がかかったように見えるものだけがのこっている』とのことでこのりんごケーキはその代表的なもの。おいしくて簡単に出来るので私も何回も作っているがいまだに失敗がない。私も退職してからは少しは料理に興味を持ち時々台所で好きな卵焼きや味噌汁などを作っている。先生は妻でもっとレパートリーを増やさなければと思っているがなかなかその暇(?)がない。
小さめのりんご六個(皮をむき四つに切り種を取る。約5mmの厚さに切る)
砂糖コップ3杯
小麦粉コップ5杯
種無し乾しぶどうコップ2杯
きざみナッツ コップ1杯(好みにより無くてもよし)
シナモン粉大さじ5杯
ベ-キング・パウダー 大さじ3杯
卵5個
バター大さじ5杯
大きめのボウルに全部いれ、しゃもじで混ぜる
ケーキ用型を準備する(バターを塗り小麦粉をまぶす)
ケーキ用型の中にうつし均す
オーブンで全体がこんがり色づくまで焼く
さて今日紹介するブリジッテさんはパラナ州の州都クリチーバに住んでいる私の娘の姑。ドイツの血が4分の3で イタリアの血が4分の1、ご主人のカルロス氏はドイツとイタリアの血がそれぞれ50%。仲睦ましい夫婦です。このりんごケーキのレシピは去年、妻がクリチーバに行った時にブリジッテさんから教わったものです。彼女曰く『段々歳をとってくると面倒なのと金のかかるものは切ってきて気がついたら金のかからなくておいしくて簡単にできてしかも、いかにも手がかかったように見えるものだけがのこっている』とのことでこのりんごケーキはその代表的なもの。おいしくて簡単に出来るので私も何回も作っているがいまだに失敗がない。私も退職してからは少しは料理に興味を持ち時々台所で好きな卵焼きや味噌汁などを作っている。先生は妻でもっとレパートリーを増やさなければと思っているがなかなかその暇(?)がない。
小さめのりんご六個(皮をむき四つに切り種を取る。約5mmの厚さに切る)
砂糖コップ3杯
小麦粉コップ5杯
種無し乾しぶどうコップ2杯
きざみナッツ コップ1杯(好みにより無くてもよし)
シナモン粉大さじ5杯
ベ-キング・パウダー 大さじ3杯
卵5個
バター大さじ5杯
大きめのボウルに全部いれ、しゃもじで混ぜる
ケーキ用型を準備する(バターを塗り小麦粉をまぶす)
ケーキ用型の中にうつし均す
オーブンで全体がこんがり色づくまで焼く
2008年11月19日水曜日
神罰が下った
私達、会社を定年退職しても会社の健康保険に入っている。去年から退職者も年に一度定期健診を受けるようになり今年からは奥さん方も加わった。今日は色々な検査の結果を医者から説明を受けにいったがどこも大した異常はなし、すこし血圧とコレステロールが高いという事で薬を処方され後は一日30分程のウオーキングをするようにとのことだった。ブラジルもこれからシニア層が膨らんでくる。ただでさえ医療体制は十分でなく老人医療に関してはまだよちよち歩き。これから国をあげて準備をしなければ将来手に負えなくなってくるだろう。
さて今日会社の診療所が入っているビルの前の会社専用の駐車場に車をとめようとしたら周りの塀際の駐車用のラインのある所はいっぱいだが中は大分スペースがある。妻が残ってどこか空いたら車を入れてその後診療所に行くといって残ったがいっこうに来ない。用が済んで駐車場に帰ってみるとなんと家の車だけ。妻はそこの主人と話している。これは色々話した中の一話だそうだ。
ある日私が仕事から帰って家のガレージに車を入れようとしたら誰かの車が前に止まっていて入れない。仕方なく隣の家の前に止める事にした。決してガレージの前ではない。家の玄関を入ろうとした時『ガチャン』と音がした。外に出てみると隣の家の車が私の車の鼻先にぶつかっている。あわてて近寄ると隣の家の主人がすごいけんまくで怒鳴ってきた。『あんたが家の前に車を止めるからこういう事になったのだ。この始末どうつけてくれるのだ』「どうするってここは公道ですよ、別に駐車違反の場所ではないし、あなたがバックする時に不注意にぶつけたんでしょう」「早速警察を呼んで証拠写真をとってもらわなければ、これは誰が見ても止めていた俺の車にあんたが後ろからぶつけたと言う事で裁判までいっても俺が勝つのはわかっている」「そんな馬鹿な」「俺の言い分が通るかあんたの言い分が通るか誰も証人はいないし誰もあんたの言うことなど信用すまい」私はなぜ彼がこんな事を言っているのか全く見当がつかなかった。私の家族と彼の家族とは親戚以上の付き合いをしていると思っていたからである。お互いの娘たちは一緒に宿題をしてレンタルビデオを見たりして、遅くなるとそのまま泊まっていくこともある。奥さんどうしは連れ添って買い物に出かけたりする。なぜ隣の主人がこうも因縁をつけるのかわからない。私の車は大分へこんでいるのに彼の車はたいして傷んでない。おまけにたったこれだけに警察だの裁判だのとわめいている。 そういうことまではやりたくない。「私がどうすれば事がおさまるのですか?」すると彼はすかさず 「500レアイス(約3万円)俺にくれればいい」どうやら彼は車に保険をかけてなくて自分の車はともかく私の車を修繕するのにかなり金がかかると判断し無理難題をふっかけてそれが通れば儲け物だと目踏みして自分が悪いと謝るどころか攻撃に出てきたのだと解ったが私もこれ以上面倒になるのはいやだ。金でかたがつくのなら妻や娘のこともあるし、しゃくだがむこうの条件を飲むか。親戚以上と思い彼からの頼みならなんでも聞いて力になってやろうと今まで決めていたがこの男とは金輪際絶交だ。「私としては不本意だがそれでかたがつくのなら500レアイスあなたにあげましょう。しかしこれで私の心はあなたに閉ざされました。あなたはこれで得をしたと思っているかもしれませんが実際は大きな損をするのはあなたですよ」と私は500レアイスの小切手を書き彼にさしだした。彼は私の手から小切手をもぎとった。私はこのことを妻にも娘にも話さなかったので彼女らは以前と変わりなく行き来していた。それから15日くらい経っただろうか、彼が自分の車を私が止めた場所と同じところに止めていたところ大きなトレーラーが通ったらしく頭の部分は削りとられほとんど大破の状態になっていた。一瞬の出来事でプレートのナンバーさえわからない。タイヤはどうにかこうにか動いたので近所の人の加勢で車はやっとガレージにおさまった。
それから2,3日して妻が隣から帰ってきた。『あなた隣の車に呪いをかけたそうね。大きな損をするって』こうも因縁をつけられては黙っていられない。隣の玄関先までいって怒鳴った。「私は信心深いキリスト教徒です。だからマクンバ(アフリカ宗教のおまじない)をかけに行ったこともありません。いうなればこれはもっと上に居られる方のお裁きでしょう』中からは何の返事もなかった。それからは私が不思議な力を持っているという噂が立ち、私に因縁をつける人もいなくなった。私は肯定もしないし否定もしない。この状態満更でもないと思っている。隣の車、修繕に出されることもなく1年ほどガレージに醜態をさらしていたが私たちがバカンスから帰ってきた時にはなくなっていた。
さて今日会社の診療所が入っているビルの前の会社専用の駐車場に車をとめようとしたら周りの塀際の駐車用のラインのある所はいっぱいだが中は大分スペースがある。妻が残ってどこか空いたら車を入れてその後診療所に行くといって残ったがいっこうに来ない。用が済んで駐車場に帰ってみるとなんと家の車だけ。妻はそこの主人と話している。これは色々話した中の一話だそうだ。
ある日私が仕事から帰って家のガレージに車を入れようとしたら誰かの車が前に止まっていて入れない。仕方なく隣の家の前に止める事にした。決してガレージの前ではない。家の玄関を入ろうとした時『ガチャン』と音がした。外に出てみると隣の家の車が私の車の鼻先にぶつかっている。あわてて近寄ると隣の家の主人がすごいけんまくで怒鳴ってきた。『あんたが家の前に車を止めるからこういう事になったのだ。この始末どうつけてくれるのだ』「どうするってここは公道ですよ、別に駐車違反の場所ではないし、あなたがバックする時に不注意にぶつけたんでしょう」「早速警察を呼んで証拠写真をとってもらわなければ、これは誰が見ても止めていた俺の車にあんたが後ろからぶつけたと言う事で裁判までいっても俺が勝つのはわかっている」「そんな馬鹿な」「俺の言い分が通るかあんたの言い分が通るか誰も証人はいないし誰もあんたの言うことなど信用すまい」私はなぜ彼がこんな事を言っているのか全く見当がつかなかった。私の家族と彼の家族とは親戚以上の付き合いをしていると思っていたからである。お互いの娘たちは一緒に宿題をしてレンタルビデオを見たりして、遅くなるとそのまま泊まっていくこともある。奥さんどうしは連れ添って買い物に出かけたりする。なぜ隣の主人がこうも因縁をつけるのかわからない。私の車は大分へこんでいるのに彼の車はたいして傷んでない。おまけにたったこれだけに警察だの裁判だのとわめいている。 そういうことまではやりたくない。「私がどうすれば事がおさまるのですか?」すると彼はすかさず 「500レアイス(約3万円)俺にくれればいい」どうやら彼は車に保険をかけてなくて自分の車はともかく私の車を修繕するのにかなり金がかかると判断し無理難題をふっかけてそれが通れば儲け物だと目踏みして自分が悪いと謝るどころか攻撃に出てきたのだと解ったが私もこれ以上面倒になるのはいやだ。金でかたがつくのなら妻や娘のこともあるし、しゃくだがむこうの条件を飲むか。親戚以上と思い彼からの頼みならなんでも聞いて力になってやろうと今まで決めていたがこの男とは金輪際絶交だ。「私としては不本意だがそれでかたがつくのなら500レアイスあなたにあげましょう。しかしこれで私の心はあなたに閉ざされました。あなたはこれで得をしたと思っているかもしれませんが実際は大きな損をするのはあなたですよ」と私は500レアイスの小切手を書き彼にさしだした。彼は私の手から小切手をもぎとった。私はこのことを妻にも娘にも話さなかったので彼女らは以前と変わりなく行き来していた。それから15日くらい経っただろうか、彼が自分の車を私が止めた場所と同じところに止めていたところ大きなトレーラーが通ったらしく頭の部分は削りとられほとんど大破の状態になっていた。一瞬の出来事でプレートのナンバーさえわからない。タイヤはどうにかこうにか動いたので近所の人の加勢で車はやっとガレージにおさまった。
それから2,3日して妻が隣から帰ってきた。『あなた隣の車に呪いをかけたそうね。大きな損をするって』こうも因縁をつけられては黙っていられない。隣の玄関先までいって怒鳴った。「私は信心深いキリスト教徒です。だからマクンバ(アフリカ宗教のおまじない)をかけに行ったこともありません。いうなればこれはもっと上に居られる方のお裁きでしょう』中からは何の返事もなかった。それからは私が不思議な力を持っているという噂が立ち、私に因縁をつける人もいなくなった。私は肯定もしないし否定もしない。この状態満更でもないと思っている。隣の車、修繕に出されることもなく1年ほどガレージに醜態をさらしていたが私たちがバカンスから帰ってきた時にはなくなっていた。
2008年11月15日土曜日
またマンゴーの季節がやってきました
またマンゴーの季節がやってきました。前の作は今年の正月から収穫したのに今回は11月15日から。いつもより早く、この調子では正月には収穫し終わっているかも知れません。昨日かなり強い雨が降りました。テレビのニュースではヴィトリアでは30センチほど浸かったところもあったようです。最近強い雨の度に必ず浸かっています。ヴィトリア(Vitória)は島の上に発展していった町で人が多く住んでいるところは標高も低く埋立地の上に建てられたものもあり少しの雨でも満潮時すでに浸かっている道路もあります。今後地球温暖化で潮位があがるとどうなるのだろうかと心配です。大ヴィトリア圏内の私たちが住んでいるセーハ(Serra) は高台になっているのでその心配はないのですが。
いまエスピリト・サント州は産業活動が盛んで2006年のGDP(PIB)の伸び率は7,7パーセントで、ブラジル平均では4パーセントでした。なんでも来年の末までにエスピリト・サント州の沖合いでペトロブラス(石油公社)が30本の試験掘削を行うと発表しており、ヴィトリア、セーハともに多くのマンションの建設ラッシュが続いています。ブラジルの国旗には「秩序と進歩」とかいてありまたエスピリト・サント州の州旗には「労働と信頼」とかいてあります。「労働と信頼による秩序ある進歩」、ブラジルのとるべき道はこれですね。
えっ、私が父兄会の会長?
これは私の息子二人がブラジルではロビニョ(lobinho 直訳で「狼のこども」)と呼ばれているボーイスカウト(escoteiro エスコテイロ)のジュニア版に入っていた頃の話です。子供たちが通っていた学校の体育の先生がボーイスカウトの指導員の資格を持ち、それに3人の近所のロビニョの指導員の資格を持っている女性の方たちが助手となり地域の子供たちを集めて毎週土曜日近くの広場で訓練(遊び?)が行われていました。その助手たちはキップリングの「ジャングル・ブック」に出てくる動物の名前で呼ばれていました。 あたかも「ジャングル・ブック」にでてくる狼に育てられた狼少年モーグルを守る動物たちというところでしょうか。狼の長たる『アケラー』、黒豹の「バギラ」、クマの「バル」,三人の子供好きの彼女たち。ロビニョは6歳から10歳までの少年、少女達。隊員は約30名ほど。年に三度くらいほかの町の隊との交流やピクニック等も催されていました。
そんなある日、今度の日曜日に2年に一度の父兄会がありそこで新しい役員の選挙も行われるのでご出席下さいとの通知が回ってきた。久し振りのゆっくりした日曜のはずだったが普段から子供たちが世話になっている「アケラー」のたっての頼みということもあって出席することにした。場所は近くの学校の教室。ここ2年間の活動および会計報告。そして休憩のあと新役員の選出が始まった。まずは書記、会計係などから始まり、段々と表の下のほうから埋まっていった。私の隣には会社の顔見知りが座っていてボーナスの話などを時たまかわした。副会長の選出が終わりいよいよ会長。皆なんらかの役員に選ばれていてまだ選ばれてないのはどうやら私と隣の彼らしいと気がついた。「さて会長ですが・・・」その時、隣の彼が私の腕を取り、上に! 「あっ、それでは会長は佐伯さんということで」「えっ、私が父兄会の会長?」すると隣の彼「いや、あまり仕事しなくていいんだ、大丈夫だよ」「何を言ってるおまえ」などとやりとりしている間に選挙は終わってしまった。「隣の彼にしてやられたけど仕方ない、やるか」ということでそれから会の招集がかかるたびに行かなければならないはめになった。隊の倉庫には旗とか棒とかはあったがまだテントはなかった。あるときキャンピング用品の店で安い小型テントを見つけこれは隊の皆が活用できそうだなと私の小切手で買った。倉庫係に手渡して毎月の会費のなかから差し引くということにした。しかしその後ボーイスカウトの指導員が結婚して学校も変わったりでボーイスカウトおよびロビニョの活動は立ち消えた。テント代、全額払い戻してもらったかどうかはよく覚えていない。
私の二人の息子たちは無事ロビニョを終えてボーイスカウトとなりそれまでのロビニョの青い制服から新しいカーキ色の制服で第一回目の訓練を受けたところで隊が解散となった。ロビニョの終業式の時二人の息子は最高の章でなかなかとれない「南十字星章」をもらった。ここの隊ではうちの息子たちともう一人で全部で三人。なにか嬉しいような申し訳ないような気がしたことをおぼえている。
上の写真は当時使っていたロビニョの制服。二枚目の制服で毎週洗濯したのでかなり色はあせてしまっているが息子たちの宝として大事にしまってある。左肩には「南十字星章」が縫い付けてある(写真をクリックして頂くと大きくなるのでよくわかります)。
2008年11月7日金曜日
アメリカンドリーム X ブラジリアンドリーム
今週アメリカの大統領選挙で民主党のBarack Obama上院議員が第44代目の大統領に選ばれた。彼の父親はアフリカのケニア生まれ。今も祖母や一族はケニアに住んでいる。父親はハワイでアメリカ人女性と結婚、彼が生まれた。彼の生い立ちはマスコミを通して世界中に知れ渡った。彼はその後ハーバード大学を卒業、弁護士となり政界に身を投じ上院議員、そして今回圧倒的な勝利で大統領に。まさしくアメリカンドリームを身をもって演じた。さすがアメリカは民主主義の鑑とも言える国、自分たちの国に今誰が必要か民衆の判断の結果である。4年毎に必ず選挙が行われるというこの確固たる民主主義の体制がこれを可能にする。もし自分たちの判断が間違っていれば4年後にその修正をすればいい。今回の選挙戦の終盤に起きたアメリカ発の世界大恐慌の再来ともみなされている金融経済界の大混乱。将来への不安が渦巻いている。新大統領の舵取りの腕前に世界の命運がかかっているといっても過言ではない。
ここブラジルでもブラジリアンドリームとも言うべき現象が起こった。6年前の大統領選挙の時である。数名の大統領候補が一次選では誰も過半数の票を獲得することが出来ず上位二者の決選投票。ブラジル社会民主党のアウキミン候補と労働者党のルラ候補との戦いはルラ候補が制した。その就任式の時の演説で「自分は証書(大学卒業)を今まで貰うことが出来ず人生で初めての証書がこの大統領の証書となった」と声を詰まらせた。彼は自動車工場で工員として働き軍政から民政へ移行した1980年代前半組合活動に身を投じ労働者党を結成それ以来党首を務め三度目の正直の六年前の大統領選で当選した。下層階級に厚い政策で高い人気をほこり一昨年は再選を果たした。今でもまだ高い支持率を保っている。今年の日本移民百周年祭にも出席その時彼が最初に働いた所は日本人の洗濯屋でそこでよくしてもらったと若い日の日本人との出会いのエピソードを披露した。一下級労働者から大統領へと上り詰めた彼の経歴はまさにブラジリアンドリーム。彼はアメリカのマネーゲームが引き起こした今回の世界的な混乱についてお金は生産を向上させるためにのみ使うべきだとアメリカに対し労働者出身の彼らしい苦言を呈した。
ここブラジルでもブラジリアンドリームとも言うべき現象が起こった。6年前の大統領選挙の時である。数名の大統領候補が一次選では誰も過半数の票を獲得することが出来ず上位二者の決選投票。ブラジル社会民主党のアウキミン候補と労働者党のルラ候補との戦いはルラ候補が制した。その就任式の時の演説で「自分は証書(大学卒業)を今まで貰うことが出来ず人生で初めての証書がこの大統領の証書となった」と声を詰まらせた。彼は自動車工場で工員として働き軍政から民政へ移行した1980年代前半組合活動に身を投じ労働者党を結成それ以来党首を務め三度目の正直の六年前の大統領選で当選した。下層階級に厚い政策で高い人気をほこり一昨年は再選を果たした。今でもまだ高い支持率を保っている。今年の日本移民百周年祭にも出席その時彼が最初に働いた所は日本人の洗濯屋でそこでよくしてもらったと若い日の日本人との出会いのエピソードを披露した。一下級労働者から大統領へと上り詰めた彼の経歴はまさにブラジリアンドリーム。彼はアメリカのマネーゲームが引き起こした今回の世界的な混乱についてお金は生産を向上させるためにのみ使うべきだとアメリカに対し労働者出身の彼らしい苦言を呈した。
2008年11月2日日曜日
私を見殺しにしないで!
先週妻の友人の誕生日のパーテイに招かれた。パーテイといっても簡単な内輪だけのもので親戚以外は私達だけ。行ってみると夫婦そろって同じ誕生日だということで、そういうカップルに出会ったのは初めての経験? 私達のあとで仕事用のブーツを履いた女の人が入ってきた。服装もなにやら制服らしい、だが見当がつかない。妻は顔見知りらしく挨拶していた。彼女はここの奥さんの妹で市警さん。今日は仕事からまっすぐ来たので服を着替える暇がなかったと言っていたと妻があとで説明してくれた。ブラジルも数年前から市でも自分の警察を持つようになり主に交通整理および違反の取締りをしていたようだったが最近は拳銃の所持も許されているので活動範囲も広くなっているのではないかと思われる。この話はその市警さんが話してくれたものだ。
ヴィトリアに本格的なショッピング・センターができたのは1993年。地下および屋外に2200台を収容できる駐車場がある。駐車場に入れるには2ドル程の料金を払わなければならないので料金をケチって駐車違反区域にとめる人もいる。そこを見回っていた市警さん早速違反車を見つけ手持ちの伝票に書き付けた。赤ら顔の30代の男の人があわただしく駆け寄ってきた。『中で働いている人に用があってほんのちょっとの間ここに置いていたんだ。その駐車違反の罰金を取り消してくれ』「違反は違反ですからもう取り消せません」『何、取り消せないだと、もう殺してやる』。興奮してズボンのポケットからナイフを取り出した。市警さんも面子がある。「殺せるものなら殺してみな』と走り出した。男もナイフをかざして後を追う。この市警さん、足には自信がありいつもマラソン大会に出場している超ベテラン。男も追いつけそうでなかなか追いつかない。市警さんそのうち携帯を取り出して本部に連絡。『今ショッピング・センターの周りで、ナイフを持った男から追いかけられている至急救援たのむ』「了解」。そのうち男が迫ってくる。もうちょっとピッチを上げないと。いつもはすぐ来る救援が今日に限ってなかなか来ない。もうショッピングの周りを2周してしまった。あまりピッチを上げて男にあきらめさせては救援が来たときに『何だお前、うそを言って俺たちをかついだのか』と笑いものにされる。しかしピッチを落としては自分の身が危ない。うしろをみながら男にあきらめさせない程度の距離を保って3周目。やがて仲間たちの車が見えてきた。サイレンも鳴らさずのろのろと来て道の脇に車を止めにやにやしながらこちらを見ている。『普段はてきぱきとやるのに、本当に腹の立つ連中だわ』。彼ら、男が近づくと現行犯として取り押さえ警察の車におしこんだ。「いやあ大変だったな、それじゃあ」と帰りはサイレンを鳴らして疾風のごとく去って行った。それを見た彼女「ちくしょう、私を殺すつもりだったの!」。
ヴィトリアに本格的なショッピング・センターができたのは1993年。地下および屋外に2200台を収容できる駐車場がある。駐車場に入れるには2ドル程の料金を払わなければならないので料金をケチって駐車違反区域にとめる人もいる。そこを見回っていた市警さん早速違反車を見つけ手持ちの伝票に書き付けた。赤ら顔の30代の男の人があわただしく駆け寄ってきた。『中で働いている人に用があってほんのちょっとの間ここに置いていたんだ。その駐車違反の罰金を取り消してくれ』「違反は違反ですからもう取り消せません」『何、取り消せないだと、もう殺してやる』。興奮してズボンのポケットからナイフを取り出した。市警さんも面子がある。「殺せるものなら殺してみな』と走り出した。男もナイフをかざして後を追う。この市警さん、足には自信がありいつもマラソン大会に出場している超ベテラン。男も追いつけそうでなかなか追いつかない。市警さんそのうち携帯を取り出して本部に連絡。『今ショッピング・センターの周りで、ナイフを持った男から追いかけられている至急救援たのむ』「了解」。そのうち男が迫ってくる。もうちょっとピッチを上げないと。いつもはすぐ来る救援が今日に限ってなかなか来ない。もうショッピングの周りを2周してしまった。あまりピッチを上げて男にあきらめさせては救援が来たときに『何だお前、うそを言って俺たちをかついだのか』と笑いものにされる。しかしピッチを落としては自分の身が危ない。うしろをみながら男にあきらめさせない程度の距離を保って3周目。やがて仲間たちの車が見えてきた。サイレンも鳴らさずのろのろと来て道の脇に車を止めにやにやしながらこちらを見ている。『普段はてきぱきとやるのに、本当に腹の立つ連中だわ』。彼ら、男が近づくと現行犯として取り押さえ警察の車におしこんだ。「いやあ大変だったな、それじゃあ」と帰りはサイレンを鳴らして疾風のごとく去って行った。それを見た彼女「ちくしょう、私を殺すつもりだったの!」。
2008年9月2日火曜日
旅を終えて
イタリア旅行から帰ってきて一週間。それでももう何年も前の話のような気がする。本当に行ってきたのだろうか? 沢山撮ってきたデジタル写真の整理などをしている。帰ってすぐいつもの土曜日の朝市に行った。今時期なのかリンゴが安い。小さいリンゴだけど1キロ1,5レアル、0,5ユーロ。なんという安さ。ヨーロッパに旅行した時は最初の2,3日はなかなか買い物ができない。すぐブラジルの通貨レアルに換算してしまう。ブラジルの3倍はする。しかしそれでは何も買えない。そのうち頭を切り替える。ユーロ表示してある値段をレアルと考える。段々買い物をするうちに慣れてくる。「あっ、マクドナルドの店がある、ブラジルで10レアイス(レアルの複数形)だから10ユーロかな?」近くへ行ってのぞいてみると当たっている。ゆっくり見る暇はなかったがコンピュータや家電関係はそんなに高くないような気がした。
汽車の窓から目についたのはオリーブ、ブドウ、とうもろこし、ひまわり。濃い緑のブラジル南東部の植物に慣れている私達にはなにか迫力に欠けた。(上の写真は我が家の庭の緑)
イタリアはどこに行っても遺跡が多い。特にローマは街中どこにでもそれらしきものが散らばっており観光カタログにも載っていない。イタリアは観光客が多い。東洋系では韓国からの人達が多く見受けられた。移動手段にはユーロスターの一等車を使ったが値段は高いのにトイレなど出発前からロックされており使えない。となりの車両まで皆行っていた。 通りがかった車掌に聞いてみると清掃されてなく汚れたままなので使えないとのことだった。せめて出発前にはかなりの時間止まっているのでトイレの清掃ぐらいはしていてもらいたいものだ。FS(イタリア国鉄)さんお願いします。
帰ってきて6日目昨日ギックリ腰になって一日動けなくなってしまった。旅行中でなくて良かった。今日はどうにかコンピュータには向かえるのでこのブログとなった。
2008年8月22日金曜日
リスボン Lisboa
最後の日いよいよイタリアともお別れだなとコンピューターを整理していたらポルトガルのリスボンで書いていたのが見つかったのでここに載せることにした。
今ポルトガルのリスボン飛行場のなか、ローマ行き乗換えの待合ロビーで書いている。アナウンスがポルトガル語なので何かブラジルの飛行場にいるような錯覚を覚える。もっともブラジルのポルトガル語の発音とはちょっと違うが。空から見たリスボンはテジョ河の河口とは知っていたが湖のように広がっていた。飛行機でリオから約9時間、8000キロ弱。これを15世紀の大航海時代ポルトガルは当時の最先端の航海技術で世界の海へ飛び出していった。南米、アフリカ、アジア、そしてマゼラン(ポルトガル語でマガリャンエス)は世界一周を成し遂げた。私もブラジルに来てからはポルトガルの歴史とはなじみが深い。入国手続きをする時はポルトガル語圏国の列に入った。今また世界で話されているポルトガル語の標準化が進められている。
出来るだけ筆記上のアクセントの記号を無くしていくような傾向にある。時々変わるのでそのたび戸惑う。
次はローマで。
再びローマ Roma_Parte 2
帰りもローマからなので再びローマに戻ってきた。初めてローマに着いた翌日サンピエトロ大聖堂を見学してエレベーターで数階昇った後、 約370段の狭い階段を上りドームの高い所まで登ったので疲れてあとは大聖堂の下の方を見るのがやっとで帰ってきて、しまった!ミケランジェロのシスチーンチャペルを見なかったと気が付いた。それで今日ヴァチカン博物館とその中にあるシスチーンチャペルを見に行った。100mほどのすごい列。ようやくたどりつき中に入る。早速日本語のAudio Guide を借りる。展示はまずエジプト館から。そのあとも彫刻が多い。ラファエルの描いた数部屋、其の他当時の画家達が腕を競っての傑作。シスチーンチャペルへ行き着くまで3時間ほどかかったか。とにかく見るものが多い。シスチーンチャペルには人が一杯。ミケランジェロが全身全霊で描いた絵の宗教的、芸術的な素晴らしさは見る人を圧倒する。博物館の装飾も当代随一の物を揃えローマ法王の権力の偉大さを感じさせる。
明日はローマ発リオへと。思ったよりも収穫の多い旅だった。
2008年8月21日木曜日
ナポリ(Napoli) Napoles
フローレンスからナポリへ。Eurostar で約三時間40分。トスカーナ地方はまだひまわりの畑が広がっていた。ローマを過ぎナポリに近づくにつれ農地の割合が多くなってきた。そしてナポリの近郊に入ってくるとアパート郡が多くなり駅に近くなると高いビルが見えてきた。今まで見てきたローマ、ヴェニスそしてフローレンスとは様子が違う。中世がなくなってしまった。ホテルはさいわい駅に近い。リュックを背負い小さいスーツケースを引いてホテルに向かう。駅前の広場には露天商人たちが所狭しとかばん、靴、めがね、シャツ等を売っている。
ホテルに落ち着くとさっそく近辺の探検に出かけた。交通量はけっこうあるのに交差点に信号がない。車の流れは切れないしなかなか渡れない。こちらの人は慣れたもので構わず渡っている。車も適当にスピードを落としたり止まったりしている。おじいさんなどは車がすれすれで通ったりすると車をたたいて文句を言ったりしている。さすがにこれには慣れることができない。駅に戻って明日行く予定のポンペイの時間を確認した。夏なので午後7時といえどもまだ明るいし暑い。おまけにここは湿気が多いらしく今まで通ってきた所より暑く感じる。駅前の広場からは噴火により山頂が大分欠けたVesuvio を望むことが出来る。
翌朝早く起きCircumvesuviana線でポンペイに向かう。駅から2分たらずで遺跡の入り口に着く。入場料11ユーロを払う。家々のれんが作りの土台が1mほどの高さで残っている。所々屋根の部分が残っている家もある。屋根の瓦は大きく壁が厚い。昔は壁や床は色々な色の小さい石からなるモザイクで飾られていたらしく贅沢な生活振りがうかがわれた。大きな円形劇場それに中と小の半円形劇場などありけっこう今の私達より優雅な暮らしをしていたのではないかと思わせる。後でナポリの国立考古学博物館に行った時にポンペイ出土の鍋や其の他の台所用品など見たが現在とあまり変わらない生活のような気がした。陽に照らされて暑く、持ってきた1リットルの水では間に合わなくなり所々に設けられている飲料用の水飲み場の世話になった。見学が終わり歩きまわって喉が渇くわ腹はすくわで駅に行く道の脇のレストランでピッザポンペイを頼んだはいいが硬くていただけなかった。ブラジルのおいしいピッザがなつかしかった。さて駅に着いたがナポリに帰るのは止め反対方向の終点駅ソレントへ向かうことにした。日本で中学時代に習った「帰れソレントへ」のあの哀愁漂う歌は僕のよく口ずさむ歌の一つである。非常に興味がある。駅に着くとソレントのメインポイントを一回りする観光バスが待っていた。一人15ユーロ早速乗り込んだ。カメラを片手に2階の一番前の席をとった。落ち着いた町で風光明媚。多くの作家、詩人、俳優などが家を構え愛した町だと日本語のAudio Guideが説明していた。ソレントの岬に近づくとカプリ島がかなり近くに見えてくる。上り詰めたところで小休憩。水の青さが快い。ここからはナポリ湾とサレルノ湾が見渡せる。この二つの湾は二人の神が作ったと言われている。一人の神は穏やかでもう一人の神はとても激しい気質だったと地元の人々は信じているそうである。美しい自然のなかに高級ホテルなどが立ち並びプール脇でゆっくり休養している人達を見かけた。約1時間40分の旅を満喫してソレントに別れをつげた。いつかまた再び訪れる日を夢見て。「さらばソレントよ」。
ナポリの国立考古学博物館を見学した。ポンペイから出土された多くの美しいモザイクが目をひいた。特にFauno家より発掘された数々の作品には目を見はるばかりであった。其の他数多い素晴らしい彫刻の展示のなかに幼年のFaunoの全身像を見つけた。Vesuvio火山噴火のやく40年前の姿であった。
最後に世界三大美港の一つと言われるナポリ湾を訪ねた。湾内1周のツアーを探したが見つからなかった。ちょうど目の前に城があったので見学することにした。けっこう宗教画などが展示されており、その他現代の画家のもありイタリア統一に貢献のあったGaribaldiのナポリへの凱旋図もあった。彼はまたブラジルで南部が独立しようとした時のFarroupilhaの戦いでも有名である。この城の屋上からVesuvioを背にしたナポリ湾、そして昨日訪れたソレントおよびその前に位置するカプリ島。眺めは素晴らしい。
さてナポリはなんの都だろう? 今回は陽に焼かれたから太陽の都? 色々な人種が混じってきている交錯の都? 考えているのだがこれっといった決まり文句が出てこない。この次の機会までおあづけということで、、、
2008年8月18日月曜日
フローレンス(Firenze) Florença
ヴェニスからEurostarにのってフローレンスへ。2時間40分の旅。一等車には日本からのツアーの人達も。しかし半分以上の席が空いていた。窓から見る風景、夏だというのにブラジルに比べ緑が薄い。とうもろこしの畑が広がっていた。そしてルネッサンスの舞台となったフローレンスへ着いた。今回の旅でも楽しみにしていた所である。ミケランジェロのダビデの像で有名なGalleria dell` Accademia そして「ヴィーナスの誕生」や『春』の作品で有名なBotticelli, をはじめTicianoやその他多くの絵画や彫刻を有するイタリア最大の美術館Uffizi。そのほかにも町のあちこちにルネッサンス時代の作品がちりばめられている。道や建物は当時のままではないかとも思われる。新しい息吹に満ちた魅力ある町であったに相違ない。私と妻も町を散策して当時を偲んだ。
今回は斜塔にも縁がある。ホテルを駅の近くにとったので、朝ピサへ行く汽車があるかどうか調べようと駅に行った。5分後に出るのがある。持ち合わせの硬貨を自動販売機の中に押し込んで切符を買って乗り込んだ。1時間20分程で着いた。駅には地図もない。さてどうしようかとあたりを見渡すとかなりの人があるバス停に集まっている。「さてはあれだな」早速行って聞いてみるとやはりそのとおり。ピサの斜塔はピサの大聖堂の鐘楼でその一角は建物がすばらしい。斜塔というだけあってかなり傾いている。思ったより大きい。上るには30分毎に人数が制限されており4時間後の切符しかないとのことであきらめた。ここも観光客で一杯。イタリアの観光収入かなりの額にのぼると思う。過去の栄光が現在をも支えているとも言えようか。フローレンスを中心とするこの地方はトスカーナと呼ばれている。ぶどう酒の生産でも有名でイタリアぶどう酒のファンである私もこの地方のChiantiは飲んでいるし知っている。今回食事の度にグラス一杯ほど注文し堪能した。フローレンスからピサへ向かう車中から「ひまわり」畑をよく見かけた。もう花はしおれていたがこれが真っ盛りの時はさぞ見ごたえがあるだろうなと思わせた。
旅行前知ってるひとにフローレンスに行くと話しをするとぜひSienaにも寄ってきなさいと複数の人に言われた。駅の近くのバスターミナルからSiena行きが出ていた。早速切符を買って乗り込んだ。1時間20分ほどで着いた。やはり中世の町そのもの。なんでも昔はフローレンスのライバルだったらしい。それほど栄えていたということか。いまでは静かな地方の町という感じ。ここの中央広場である区対抗の競馬は有名でなんでも昨日あったらしい。優勝した区の旗が家々の窓に掲げられていた。偶然にもブラジルの旗の色である緑と黄色模様の旗だった。ここの大聖堂も当時の栄光を思わせる大きく立派なものだ。中央広場にあるGaiaと呼ばれる泉の水は五百年以上も前に作られた地下水路により供給されているとのことだ。ベニスもそうだったがここも昔の狭い道で迷路のようになっている。大聖堂を見た後、地図なしで歩いていたので帰る方向を間違えてしまった。しかしどこを通っても古い教会や建物がありそしてとうとう町外れの農地が見えるところまできてしまった。オリーブが植えてある。シャーロックホームズではないが原点に戻ってということでまた中央広場に戻ればいいのだと気がついた。さいわい「この町ではすべての道は中央広場(Piazza Del Campo)に通じる」。そこに戻りそれからもと来た道をたどってバス停まで行き着いた。
中世の姿そのままを残すToscana. そしてその殻を打ち破って人類に新しい息吹を吹き込んだToscana. 文明の跡を今も残し世界の人を魅了するToscana. いつまでも大事に残してほしい。
永遠の都といわれるRoma, 水の都といわれるVeneziaそして文明の都ともいえるFirenze. さて明日行くNapoliはなんの都なのだろう。
写真はUffiziの3階の窓から見たフローレンスの町並み.
2008年8月15日金曜日
ヴェニス(Venezia) Veneza
ローマから空路ヴェニスへと。空港からバスでヴェニスの町に入る。早速降りてタクシーの運転手にホテルの住所を書いた紙を見せる。「いや、行かない」と首を横に振る。そしてサンマルコなら次の角を左にまがると乗り場があると言う。幸い今回の旅行は夏なので軽装。しかもこれから先の旅は汽車の切符をとってあるので運びやすいようにリュックと小さいケースに分けてある。すばやくかかえて乗り場に行ってみた。なんと船着場だった。そうだ、ヴェニスは水の都、船が交通機関なんだと気がついた。なにしろタクシーに断られたのは初めてだったのでショックだった。San Marco行きの切符を買って乗り込んだ。Grande Canalがヴェニスの大通りとなっている。水位が高い、波が立つと建物の戸口に水が入っている所もある。地球温暖化で南洋の島がなくなると言って騒いでいるがヴェニスは大丈夫なのだろうか? 心配になってくる。古い建物がGrande Canalにそって隙間なく建っている。船はみな波を立てないようゆっくり進んでいる。おそらく規制があるのだろう。San Marcoのターミナル(?)で降りホテルを訪ねるとすぐ近くだった。夜の8時位だったがまだ明るい。着るもの等の整理をして散歩がてら食事をしようとホテルをでた。San Marco広場はすぐだった。夜の10時なのにかなり賑わっている。広場の周りのレストランが4軒ほどそれぞれ舞台をもうけて5,6人からなる楽団で客引きの競争をやっている。ブラジルの曲が耳に入ったので私たちはそこに決め、まずビールとミネラルウォーターを頼んだ。ロシヤ民謡からNew York, New Yorkなどレパートリーも広い。スタイルのいい娘二人(ロシア系か?)がヴァイオリンの演奏。曲が終わる度拍手がわく。領収書には高い飲み物、食べ物のほかにミュージック代としてひとりあたり6ユーロつけてあった。まあ、いい気分になった代金か。
ヴェニスには世界中から観光客が集まりそのかず年間千四百万人とか。翌朝San Marco広場に行ってびっくりした。San Marco Basílica, 横のDucal Palace そして鐘楼、どれもものすごい列。待つのは時間の無駄と私たちはガラス細工で有名なMurano島へと向かった。島では実際に製法の実演を見せたり大中小色とりどりのガラス細工を売る店などありあちこち覗いているうちに気がついた時はもう5時をまわっていた。島ではスパゲッテイ とシーフッドの揚げ物で昼食。イタリアの味である。また夜San Marco 広場に出た。
翌日は少し陸を歩いて見物しようと出かけた。ヴェニスの路地は狭く迷路のよう。。Ponte Rialtoまでようやくたどり着いたがあまりにも人が多い。あきらめてSan Marco に引き返しまた船に乗って今度は1時間強かかるBurano島へと向かった。「ヴェニスの全ての道はSan Marcoに通じる」幸い私達のホテルはSan Marcoに近いので助かる。Burano島はレース編みで知られている。船が島に近づいてくると何か高いものが見える。「あっ、しゃとーだ!」私の声に妻が「えっ、どこ?」「ほら、あそこ」「なんだ、傾いている塔じゃない。私はてっきりきれいなお城かと思ったわ」。斜塔とシャトー違いでした。ここの島の教会の塔は傾いているので知られているそうだ。斜塔と言えば小さい時からPisaの斜塔しか知らなかったので大発見だった。島の家々はカラフルに塗ってありきれいに手入れされていた。行き帰り時間をかけての色々な島を眺めるゆっくりした時間だった。
帰ってホテル近くのレストランで食事をとった後、店を眺めながら歩いているとゴンドラの駐船場(?)で若い男に声をかけられた。「お客さん、今日は満月だしゴンドラで散歩でもいかがですか?」えっ、満月。そういえば旧婚旅行(?)とかけて 「フルムーン」という言葉が日本にあったなあ。「よっしゃ乗ろう」。昼は多くのゴンドラで渋滞気味の水路もすいている。狭い水路をたくみに操って長いゴンドラが進む。私はブラジルに来て田舎で百姓をやっていた若い頃ブラジルのラジオから流れてくるイタリアの歌を聞くのが苦しい生活の中の唯一の楽しみだった。1960から70年代イタリアの歌がブラジルのヒットパレードのトップになったことも数度あったと覚えている。当時16歳でデビューしたGigliola Cinquettiにイタリア語でファンレターを書いたこともあった。返事がサイン入りのブロマイドで来た。そういうわけで当時ヒットした歌を数曲まだイタリア語で覚えている。ゴンドラ漕ぎの若いのにどうだこういう昔の歌を知っているかと私が歌いだすと彼も歌いだし二人の声がヴェニスの月で照らされた薄明かい運河に響いた。「オーソレミオ」を彼が歌い始めると、それは 「オー私の太陽よ」という意味だから今日は「オールナミア(オー私の月よ)に変えないかと私が提案すると彼はにやりと笑い二人で「オールナミア」となった。
妻は隣で拍手。良き「フルムーン」となった。
さて次はフローレンス。なにが待ち受けているやら。
2008年8月12日火曜日
ローマ Roma
長年の夢だったイタリア旅行。今回妻とローマ、ヴェニス、フローレンス そしてナポリを廻る旅で今ローマのホテルでこれを書いている。イタリアはブラジルより5時間針を進める。今は8月、夏なので夜は8時半でもまだちょっと明るい。旅行者には時間がとれてありがたい。その分疲れるが。飛行場からタクシーでローマの町に入ってくると何だかどこかで見たような風景。ああ、そうだ。映画の「ローマの休日」だ。ローマ市内は高いビルがない。法令で定められているのかも知れない。古い町並みでけっこう緑も多い。観光名所と指定されているところ以外でもあちこちに由緒ある遺跡らしきものがある。
朝起きてホテルで朝食をとるとホテルに近いバス停に行き、まずStazione Terminiへと向かう。昔ヨーロッパ、アフリカ北部を治めていたローマ帝国時代には 「全ての道はローマに通じる」と言われていた。今は 「全てのローマ市内の道はStazione Termini (中央ターミナル)に通じる」と言ってもいい。そこからヴァチカン市国やコロッセウムへと向かう。どこも観光客で一杯。他のところを歩いていてもローマ市民よりも観光客のほうが多いのではないかと思うほど。観光客相手にローマパスというものが発行されておりこれを買うと三日間どの市内バス、メトロにも何回でも乗ることができ博物館の入館料も免除或いは割引と便利にできている。ローマには日本人観光客も多く時々売り子が私たちにも日本語で数字を言ってきたりする。ローマ法王庁のサンピエトロ大聖堂は贅を凝らした造りで圧倒された。色々な観光名所で日本語のAudio Guideもありコロッセウムではそれを借りて廻ったが歴史的な説明がすばらしく妻はすっかり気に入って2回も聞きコロッセウムのとりこになってしまった。家に帰ってどのくらい覚えているかテストをしてみようと思っている。
昨日は娘のリナのイタリアの友達でうちにも遊びに来たこともあるGabriellaのところに行ってみた。ローマからバスで約2時間San Felice Ciceroという人口8千人程の小さな町。そこでこじんまりとしたセンスのいい婦人靴店を開いていた。海の色が真っ青で夏は町の人口は3倍以上にふくれあがるそうだ。しかし冬は町には猫一匹道を通らないそうで冬は店を閉めて旅行をするのだと言っていた。風光明媚な小さな町、いつまでもこの景色を保ってほしいと願った。なんでも最近はロシア人が土地を買っているそうだ。帰りは汽車でStazione Terminiまで1時間強、途中に高いところに町が見えるが不思議と駅の周辺には何もない。日本では考えられない現象か?
これからヴェニス、フローレンスそしてナポリの後ブラジルへ帰る前にまたこのホテルへ戻ってくる。
2008年7月21日月曜日
Pedra Azul (青い石)と桜
Monte Verdeホテルの桜。
まだ見たことはないがサンパウロではカルモ公園などに桜が咲いているということは新聞などで知っている。しかしここエスピリト・サント州でも桜が見れるということで昨日知人に誘われて行ってきた。場所はヴィトリア市からミナス州に向かう国道262号線を車で約一時間半行った所でDomingos Martins,CasteloおよびVenda Nova do Imigrante の三つの郡が境を成してる地方でPedra Azul(青い石)といって青みをおびた巨大な一枚岩に大きなトカゲが這い上がっていくように見える自然の不思議な創造物でも有名な所でもある。
この辺は標高一千メートル程、なんでも先週は霜が降りたとこの地方に長年住んでいる日本人の知人が話していた。七月はブラジルは冬、といっても海辺のまちヴィトリアでは寒さは全然感じられない。最低気温は15度位か。ちょうどこの月は学校も冬休み。海に飽きた人達が今度は寒さ(?)を楽しもうと家族づれでおしかける。またミナス州からもヴィトリアでバカンスを過ごす人達が立ち寄ったりでこの時期ホテルや民宿タイプのPousadaと呼ばれるところは一杯で急な予約は難しいと立ち寄ったレストランの主人が話していた。この地方20年ほど前から寒さ(涼しさか?)を観光の目玉にしようとホテルやポウザーダの建築ラッシュとなっている。地価も相当高騰したらしい。
さてこのPedra Azul、国道262号線から近くて良く見える。私達も国道からそれてPedra Azulに行けるよう最近舗装されたRota do Lagarto (トカゲルート)と命名された狭い道をPedra Azulへと向かった。このルートの要点になっているPedra Azulへの入り口にあるレストランで休憩した。このレストラン、日本人の知人が設計施工した丸太造りで屋根は天然の芝生である。周りの自然と良くマッチしている。彼は近くにも大きな木造のレストランや厩舎などを請け負って造っている。Rota do Lagartoは国道262号線からMonte Verde ホテルへ通じる道へとぬける。ちょうどその交差点あたりに桜を見かけたので立ち寄って見せてもらった。そこの家の主人は以前住んでいたリオ州の高原地帯Nova Friburgo市から苗を持ってきて植えて七年になると言っていた。快く応対してくれて花を花瓶に挿すなら持ち帰ってもいいとまで言ってくれたので妻は花は貰わず根から出ていた枯れかけた枝を二本貰ってきた。
家では庭に植えてみようと思っている。実は15年ほど前にサンパウロで手に入れた苗を植えたのだが幹ばかり大きくなって一向に花は咲かず結局は切り倒したといういきさつがある。今回はうまくいけばよいが。彼はこのあたりで日系人による移民百周年を記念しての桜を植える計画があれば全面的に協力したいと言っていた。彼としてはここにもうひとつ桜という呼び物があればちょうど7月の冬休みの時期に咲くのでもっと多くの観光客を誘致できるという利点があるといっていた。彼の申し出に感謝しつつ私たちはMonte Verdeホテルへと向かった。
ここには三種類の桜が池の周りに植えてあった。沖縄桜、ヒマラヤ桜と雪割り桜。ちょうど咲いていたのは沖縄桜で日本で見ていたソメイヨシノなどと比べると赤が濃いように思った。木は20年ほどたつというのだがまだ小さかった。来月にはさらにここで桜の記念植樹式があることになっている。ちょうど12時になり私達は手持ちの弁当を開けての昼食となった。やがてエスピリトサント州で桜の下でにぎやかに花見が出来る日がくればいいなあと話がはずんだ。
帰りはまず近くで農業も営んでいる知人の畑に案内してもらった。椎茸を山のふもとで栽培していて出荷用のパックをお土産にもらった。彼の口利きで特別に許可をもらって私達は普通は車で入れないPedra Azul公園内を車でPedra Azul の近くまで行った。ここで彼が皆に尋ねた。この岩の高さ(見えているところ)とトカゲの長さは何メートルかと。私は150mと50mと答えたのだがなんとこれが600mと280mで岩の頂上の標高は1822mとのこと。この公園の敷地内に50本程の桜が来月植えられるようになっている。咲いた時の様子を想像するだけでうれしさがこみあげてくる。
2008年7月9日水曜日
Curuá, Jamelão, かぼちゃメロン、Melocoton
Até que em fim o mistério que durou quase 6 meses foi desvendado. O nome da fruta da foto do blog de 28/01/2008 é “Sicana Odorífera” ou “Cucurbita odorífera”, cientificamente falando. E tem mais de 10 nomes populares: : Melão caipira, Fruta mortadela, Fruta maracujá, Cura, Coroá, Curuá, Uruba, Cruatina, Melão maçã, Melão caboclo, Melão do norte, Jamelão.
Antes de colocar no blog de 28/01/2008, algumas pessoas de vizinhança falavam que o nome da fruta seria “Maracugina” ou “Jamelão do norte”. Mas “Maracugina” é o nome do remédio que passa na televisão e “Jamelão” é a fruta que sempre via em frente da casa parecida à azeitona com a cor variando de vermelho para roxo escuro quando amadurecer.
Então a qual das duas merece o nome “Jamelão”. Parece que esta fruta gigante é o legítimo dono. Aquela fruta que a gente chamava de “Jamelão” é na verdade se chama “Jambolão”. Daqui em diante, então para evitar o equívoco, chamarei esta fruta gigante de “Curuá”, o nome em Tupi-Guarani como os índios chamavam. Descobri ainda que esta fruta aparece no quadro entitulado de “Frutas do Brasil” do pintor e botânico holandês Albert Eckhout que veio para o Brasil acompanhando Maurício de Nassau no século 17. Como o nome científico Cucurbita significa a abóbora, minha mulher denominou em japonês “Kabocha Meron (abóbora melão)”. Realmente o sabor lembra a mistura dessas duas frutas.
As frutas pequenas da foto abaixo é Cajá manga e, como a Curuá é uma trepadeira, subiu no pé de Cajá.
P.S.:Esta fruta é nativa da América Tropical e em alguns países da América Central/do Sul é chamada como Melocoton.
Antes de colocar no blog de 28/01/2008, algumas pessoas de vizinhança falavam que o nome da fruta seria “Maracugina” ou “Jamelão do norte”. Mas “Maracugina” é o nome do remédio que passa na televisão e “Jamelão” é a fruta que sempre via em frente da casa parecida à azeitona com a cor variando de vermelho para roxo escuro quando amadurecer.
Então a qual das duas merece o nome “Jamelão”. Parece que esta fruta gigante é o legítimo dono. Aquela fruta que a gente chamava de “Jamelão” é na verdade se chama “Jambolão”. Daqui em diante, então para evitar o equívoco, chamarei esta fruta gigante de “Curuá”, o nome em Tupi-Guarani como os índios chamavam. Descobri ainda que esta fruta aparece no quadro entitulado de “Frutas do Brasil” do pintor e botânico holandês Albert Eckhout que veio para o Brasil acompanhando Maurício de Nassau no século 17. Como o nome científico Cucurbita significa a abóbora, minha mulher denominou em japonês “Kabocha Meron (abóbora melão)”. Realmente o sabor lembra a mistura dessas duas frutas.
As frutas pequenas da foto abaixo é Cajá manga e, como a Curuá é uma trepadeira, subiu no pé de Cajá.
P.S.:Esta fruta é nativa da América Tropical e em alguns países da América Central/do Sul é chamada como Melocoton.
Curuá, Jamelão, かぼちゃメロン、メロコトン
約半年間のミステリーがようやく解けました。1月28日のブログに載せた上の写真の果物の名前がわかりました。学術名「Sicana Odorifera」或いは「Cucurbita odorifera」そしてなんと10以上の俗名があるのです: Melão caipira, Fruta mortadela, Fruta maracujá, Cura, Coroá, Curuá, Uruba, Cruatina, Melão maçã, Melão caboclo, Melão do norte, Jamelão. 1月28日のブログに出す前から「Maracugina」或いは「Jamelão do norte」というと聞いていたのですが前者は薬の名だし後者のJamelãoは家の前の空き地にはえていた果物の名前ということで本当の名前はなんでしょうというブログになりました。ここでまた疑問発生。Jamelão とは何ぞやです。調べてみるとここで私達がJamelãoと呼んでいる果物は実はJambolãoというのが正しい名らしいのです。しかしここら一帯ではJamelãoで通っているのでこのJamelãoという呼び名どちらに軍配をあげようか迷っているところです。もしいままでどおりあのオリーブの実のような赤紫の果物をJamelãoとよぶとするなら、この大きな茶色の果物はブラジル原住民がツピー・グアラニー語で呼んでいた「Curuá (クルアー)」にしようと思います。この果物17世紀、当時のオランダの総統Mauricio de Nassauについてブラジルに来た植物学者で画家でもあるAlbert Eckhoutの「ブラジルの果物」という作品のなかに描かれているのです。学術名Cucurbitaというのはかぼちゃということで妻は日本式に「かぼちゃメロン」と名付けました。そういえば確かにそのような味がします。
写真の小さい方の果物はCajáでCuruáはつるなのでCajáの木にまきついて登っていっています。
後で調べてみるとこの果物、原産は南米熱帯地方で中南米の数カ国ではメロコトンと呼ばれています。
2008年6月23日月曜日
ニテロイ現代美術館-Museu de Arte Contemporânea de Niteroi
先週リオに行った折グアナバラ湾をはさんだ対岸のまちニテロイ市に足をのばした。世界三大美港の一つである(あとの二つはシドニーとナポリ)このリオ港は移住してきた時船からの眺めの美しさに目をうばわれた。陸からではその美しさは満喫できまい。Rio-Niteroi 間は1974年に完成した全長13,29kmの橋で結ばれているが今回は便利のいいフェリーで渡った。20分程でリオの中心街からニテロイの中心街についた。目指すはOscar Niemayerが設計した現代美術館。海辺の小高い所に1996年に建てられたもので対岸のリオの風景を遮らないようにそして美術館からは周りの景色が360度見渡せるようになっている。こじんまりとした円形状の美術館で二階にわたって作品が展示されていた。地階は感じのいいレストランになっていて海のほうは崖になっているのでここからも窓からリオの景色が見渡せる。オスカール・ニーマイヤーは今年100歳。1960年ブラジルが新しい首都を内陸部のBrasilia に移転させた時の斬新なデザインの建物で世界の注目を浴びた。その年いままで首都であったリオ市がGuanabara州となりここニテロイ市はリオ州の州都となった。1974年にGuanabara州がなくなりリオ市がリオ州の州都となったといういきさつがある。ふつうリオと行っているが正式な名前はリオ・デ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)。一月の川という意味である。ポルトガル人がここを1502年1月1日に発見して命名したもので湾を川と間違えたという説と当時は海以外の水であればRioと呼んでいたという説がありどうやら後者が正らしい。今は湾岸道路からリオ・ニテロイ橋へ直接入れるが私達がヴィトリアに行ってまもないころはニテロイのまちの中を通ってリオ・ニテロイ橋へと出てリオに入りサンパウロまで車で行っていたものである。小さい子供達をつれての約一千キロ、まだ若くて元気の良かった頃の話で今回は色々な事が思い出される旅ともなった。
ブラジル流れ者
2008年6月21日土曜日
ブラジルに第一歩を刻む
毎日テレビではサンパウロのSambodromo (カーニバルのサンバスクールパレード用に作られた会場)で行われている百周年の様子がテレビニュースで映しだされている。パラナ州のロンドリーナで盛大に行われているのも流していた。今日リオから帰ってきて予約録画していたNHKの『その時歴史が動いた』の水野龍の第一回ブラジル移民にまつわる話を観た。その番組のはじめに「Japonês Garantido」と書いた紙がでてきてそれが『日本人は信用できる』という意味だと説明していた。あれっ、私のブログのタイトルと同じだ! NHKの明日の番組表をみると『地球アゴラ』で午前3時10分から6時まで南米特集と書いてある。こんなに早くからは起きれない。またタイマーで録画しよう。
1960年11月19日 曇り時々雷雨
僕達は目的港のサントスに11月18日の午後4時頃着いた。それから色々な入港手続や入国手続と荷物の陸揚げでその日は終了。翌19日の朝早く僕達は50日近く乗ったアフリカ丸を降りてサントス税関所に入った。僕の家は4人中に入って仕事をした。沢山積んである荷物の中から自分の荷を見つけてポーターを呼んで運んでもらう。やがて一箇所に荷物を集めると税関吏を呼んで検査をうける。ポーターも税関吏も通訳も皆良くて僕の家の荷は無税で通った。荷はトラックに積み僕達は自動車に乗って一路サンパウロ市近郊のイタケーラに向かった。サントス・サンパウロ間の道路は非常に整備されていた。途中吉岡さんの所で一寸止まって僕達のパトロン(雇用主)斉藤さんの所に着いたのは夜も遅く11時近くだった。バナナや桃をいただいた。そして奥さんはご飯を作って下さったが腹がいっぱいであまりいけなかった。一時する内にトラックが来て僕達にあてられた家に荷を降ろし風呂に入って寝た時はもう時計の針は午前2時を指していた。
1960年11月19日 曇り時々雷雨
僕達は目的港のサントスに11月18日の午後4時頃着いた。それから色々な入港手続や入国手続と荷物の陸揚げでその日は終了。翌19日の朝早く僕達は50日近く乗ったアフリカ丸を降りてサントス税関所に入った。僕の家は4人中に入って仕事をした。沢山積んである荷物の中から自分の荷を見つけてポーターを呼んで運んでもらう。やがて一箇所に荷物を集めると税関吏を呼んで検査をうける。ポーターも税関吏も通訳も皆良くて僕の家の荷は無税で通った。荷はトラックに積み僕達は自動車に乗って一路サンパウロ市近郊のイタケーラに向かった。サントス・サンパウロ間の道路は非常に整備されていた。途中吉岡さんの所で一寸止まって僕達のパトロン(雇用主)斉藤さんの所に着いたのは夜も遅く11時近くだった。バナナや桃をいただいた。そして奥さんはご飯を作って下さったが腹がいっぱいであまりいけなかった。一時する内にトラックが来て僕達にあてられた家に荷を降ろし風呂に入って寝た時はもう時計の針は午前2時を指していた。
2008年6月18日水曜日
ブラジル銀行日本移民百周年記念展
今日リオのブラジル銀行カルチャーセンターで開かれている日本移民百周年記念展をみてきた。日本の歴史、伝統、文化そしてアニメ、コスプレ、ジャパンポップに到るまで二階三階で見事に展示されていた。こんなにていねいに日本を紹介してあるのを見たのは記憶にないような気がする。
サンパウロには長いこと行ってないのでちょっと点が甘くなっているかもしれないが。
一階では技術の先端を駆使したロボットのデモンストレーションに若い人達の輪が広がっていた。百年前の今日6月18日第一回移民781人から始まった日本とブラジルとの関係、百年たった今円熟の関係にはいってきたと言えるのだろうか。上の写真は会場に展示されていた十二単の前で撮ったもの。
先ほど末の息子から電話がかかってきて今日会社の同僚たちから移民百周年おめでとうと握手ぜめにあったそうだ。今回の百周年、私達が戸惑うほどブラジルマスコミが好意的にとりあげてくれている。ブラジルが日本移民にたいして抱いている正直・勤勉というイメージそれにもとづいた信頼。それを裏切ってはならないという責任の重大さを痛感させられた。
今日サンパウロでは皇太子殿下を迎えての式典が大々的に催されたようだ。ルラ大統領との交歓の様子もテレビで放映されていた。日本からも数多くの県知事等の來伯があったようだ。
日伯関係、これから日本に住む日系人を含めての大人のつきあい、問題解決を模索していかねばならないだろう。
追記:25日には皇太子殿下のリオブラジル銀行カルチャーセンターへのご来館が予定されている。
2008年6月13日金曜日
百の遺産 - 100 legados
今年は日本移民百周年ということでブラジルのマスコミもよく日本特集をくんでいます。こちらで最大の発行部数をほこる週刊誌『VEJA』も去年の12月12日号では笠戸丸からの百年の歴史を追っての特集、そして先週の6月4日号では日本移民がブラジルにもたらしたものを百の遺産というタイトルで紹介しているので列記しました。いかに日本がブラジルの日々の生活の中に溶け込んでいるか改めて思い知らされました。
Este ano celebra-se o Centenário da Imigração japonesa no Brasil. As mídias estão trazendo as reportagens especiais tanto na imprensa como na televisão. A revista semanal “veja”, que ostenta a maior tiragem no Brasil, mostrou na edição de 12/12/2007 cem anos de história dos imigrantes japoneses desde o primeiro navio “Kasato-maru”. E agora na edição de 04/06/2008 apresentou 100 legados japoneses. Ficamos surpresos como o Japão está presente no dia-a-dia do Brasil.
1.Acupuntura (medicina, tratamento) 1.針治療(はりちりょう)
2.Aji-no-moto (tempero) 2.味の素 (あじのもと)
3.Ala japonesa da Escola de samba Barroca Zona Sul 3.日系のサンバスクール(1991解散)
4.Alunos aplicados 4.優秀な生徒(ゆうしゅうなせいと)
5.Amendoim japonês 5.しょうゆ味落花生のおつまみ
6.Animê (desenhos animados) 6.アニメ
7.Assaí (cidade em Paraná) 7.パラナ州アサイ市(朝日植民地から始まる)
8.Bairro da Liberdade (Cidade de São Paulo) 8.サンパウロ市リベルダデ区(東洋街)
9.Bambu (planta) 9.竹(竹細工) {たけ(たけざいく)}
10.Banco América do Sul 10.南米銀行(1944-1998)
11.Bardana (planta) 11.ごぼう
12.Bares que guardam uísque com o nome do dono 12.ウイスキーのボトルキープ制
13.Bastos(SP), a maior produtora de ovos do Brasil 13.サンパウロ州バストス市(卵生産一番)
14.Beisebol (esporte) 14.野球 (やきゅう)
15.Bomsai (árvores em miniatura) 15.盆栽 (ぼんさい)
16.Brincadeira de “Pedra-Papel-Tesoura” 16.じゃんけん
17.Broto de feijão 17.もやし
18.Budismo (religião) 18.仏教 (ぶっきょう)
19.Cabochá (Abóbora japonesa) 19.かぼちゃ
20.Caqui doce (fruta) 20.甘柿 (あまがき)
21.Cão da raça Akita 21.秋田犬 (あきたいぬ)
22.Carpa (peixe) 22.鯉(こい)
23.Cerejeira (flor) 23.桜(さくら)
24.Cerâmica japonesa 24.陶磁器(とうじき)
25.Chá verde 25.緑茶(りょくちゃ)
26.Chinelo de dedo 26.ぞうり
27.Cinturão verde de São Paulo 27.サンパウロの近郊農業
28.Cooperativa de Cotia 28.コチア産業組合 (1927-1994)
29.Cosplay (vestindo como personagens das histórias) 29.コスプレ(costume play)
30.Crisântemo (flor) 30.菊(きく)
31.Daruma (boneco vermelho e redondo) 31.だるま
32.Doce de feijão (Manju) 32.まんじゅう
33.Desemvolvimento do Cerrado 33.セハード開発(かいはつ)
34.2,7 bilhões de Dólares 34.27億ドル、出稼ぎ日系人の年間送金額
35.Flores de lótus 35.蓮の花(はすのはな)
36.Futon (edredom grosso) 36.蒲団 (ふとん)
37.Gaijin, o filme 37.(映画)ガイジン 山崎ちずか監督
38.Gateball (jogo, esporte) 38.ゲートボール
39.Haikai (poesia de três versos) 39.俳諧(はいかい)
40.Hashi (palitinhos) 40.箸(はし)
41.Hashi enfeitando o cabelo 41.髪飾り(留め)に使う箸
42.Hospital Santa Cruz (São Paulo) 42.サンタクルス病院(びょういん)
43.Ikebana (arranjo floral) 43.生け花 (いけばな)
44.Junco (planta) 44.いぐさ
45.Kanjis (caracteres chineses) 45.漢字 (かんじ)
46.Karaokê 46.からおけ
47.Karatê 47.空手(からて)
48.Kinkakuji (templo dourado) 48.金閣寺(きんかくじ)
49.Kotsu anzenn omamori 49.交通安全お守り
50.Luminária de papel 50.提灯(ちょうちん)
51.Maçã Fuji 51.りんご - ふじ
52.Manabu Mabe (pintor) 52.間部 学 (画家){がか}
53.Maneki-neko(o gatinho da sorte) 53.招き猫 (まねきねこ)
54.Mangá (histórias em quadrinhos) 54.漫画(まんが)
55.Máquina colhedora de café 55.コーヒー収穫機(西村俊二)
56.Matsu (árvore、pinheiro japonês) 56.松(まつ)
57.Mestiços 57.混血
58.Método Kumon (ensino) 58.公文式授業
59.Miss Nikkei (Concurso) 59.ミス・日系 コンクール
60.Monumento aos imigrantes japoneses 60.日本移民モニュメント
61.National Kid 61.ナショナルキッド(1960,70年代)
62.Neusinha (personagem de Mauricio de Sousa) 62.ネウジンニャ(漫画の中の日系の子)
63.Ofurô (banheira japonesa ) 63.お風呂(おふろ)
64.Origami 64.折り紙(おりがみ)
65.Pasta de soja 65.味噌(みそ)→ みそしる
66.Pastel de feira 66.揚げパイ
67.Pavilhão japonês do Parque Ibirapuera 67.イビラプエラ公園内の日本館
68.Pepino japonês 68.日本(にほん)きゅうり
69.Pimenta-do-reino 69.こしょう
70.Plantio de hortaliças em estufa 70.ハウス栽培(さいばい)
71.Poncã 71.ポンカン
72.Programa Imagens do Japão 72.ブラジルの日本語テレビ番組(1970-2005)
73.Rabanete 73.二十日大根(はつかだいこん)
74.Rádio Taissô (ginástica acompanhando a rádio) 74.ラジオ体操(たいそう)
75.Raiz-forte (pasta verde que acompanha peixe cru) 75.わさび
76.Rámen (Miojo) 76.明星(みょうじょう)ラーメン
77.Sabrina Sato 77.佐藤サブリナ(テレビタレント)
78.Saquê 78.酒(さけ)
79.Sashimi(peixe cru) 79.刺身(さしみ)
80.São Paulo Shimbun (jornal da comunidade nipo-brasileira) 80.サンパウロ新聞(日語新聞)
81.Seicho-no-ie (religião) 81.生長の家
82.Shiatsu (massagem que usa pressão dos dedos) 82.指圧(しあつ)
83.Shoyu (molho de soja) 83.醤油(しょうゆ)
84.Soja 84.大豆(だいず)
85.Sushi 85.寿司(すし)
86.Sushiman 86.寿司職人(すししゅくにん)
87.Sukiyaki (prato japonês, cozido) 87.すきやき
88.Sumiê (pintura com tinta monocromática) 88.墨絵(すみえ)
89.Sumô (esporte) 89.相撲(すもう)
90.Tabi (meia de dedinhos) 90.足袋(たび)
91.Tatami (piso japonês feito de junco) 91.畳(たたみ)
92.Temaqueria 92.手巻き寿司屋
93.Tofu (queijo de soja) 93.豆腐(とうふ)
94.Tomie Ohtake (artista plástica) 94.大竹富江 (画家、モニュメント制作)
95.Uva Rubi 95.ぶどうルビ-種
96.1,3 milhão 96.130万人、ブラジル日系人口
97.Urashima Tarô (personagem do comercial da Varig) 97.浦島太郎(うらしまたろう)
98.Yakult 98.ヤクルト
99.Yakisoba 99.やきそば
100.Zen 100.禅(ぜん)
2008年6月8日日曜日
忠四郎氏の二人の息子
忠四郎氏には二人の息子がいます。上の息子は日本を出た時は七歳。東京に住んでいて近くに男爵の親戚がありその家は子供がいないので忠四郎氏の息子を自分の子のように可愛がっていつも自分の家へ連れて行っていました。外国暮らしが長かった男爵は当時としてはめずらしいパンやミルクを近所の「ベーカリー」なる所から取り寄せ身体が弱い子供のために「牛乳がゆ」などを作ってやっていました。そのおかげでか身体も大きくなり後に大人になった時には1メートル八十を越す背丈となりました。
ブラジルへ来てからはサンパウロの奥地の植民地を親とともに移動するうちに段々大きくなり家では日本語を両親から仕込まれ植民地内の日本語学校では日本語を学び毎日が日本語での生活でした。ほとんどの戦前の移民の家がそのようではなかったかと思います。一旗あげて日本に帰る気でいたので子供たちはブラジル語は必要ないと学校には入れず、それに家計の苦しい当時の移民の家では子供達は貴重な労働力で学校どころではなかったという事情もありました。私達もブラジルに来て10年くらいはそんな生活でした。何度ブラジルに来なければよかったと思ったことか。5月22日のブログのあの故郷(ふるさと)の歌の「志を果たしていつの日にか帰らん・・・」と聴く度に故郷がいかに遠く感じられたことか!5月17日のブログにあるように戦前は85%の移民がやがては日本に帰ることを夢見ていました。
忠四郎氏一家がブラジルにきて八年目に二番目の男子が誕生。戦時中、当時日本は敵対国ということで日本移民の家へは警察が家捜しをしてめぼしいものを没収という形でもっていってしまいました。そして戦後。ほとんどの移民がこの地に居着くことを決心しました。そのうちに少しずつ経済的にも余裕がでてきて忠四郎氏のところは小型トラックを買い求め自分で市場に荷をもっていくようになりました。。上の息子は農作業で日雇い労働者を使ったりトラックを運転して町へ出かけて用をたしたりでもっとブラジル語をうまくしゃべれるようになりたいと思っていました。そこで思いついたのが近くの集落にあるバール(注:2007年1月20日のブログ喧嘩を止めた一言)。仕事を終えた近所の労働者たちが集まって話がはずんでいる。知っている顔もある。アルコール類は一切飲めないのでミルクを注文する、それを手にして話の輪の中に入っていく。努力の甲斐あって(?)何ヶ月か通ううち彼のブラジル語はめきめきと上達していきました。
話ははずれますが彼のアルコールアレルギーの逸話のなかのトップ。これはずっと後の話ですが親戚の家で昼食をごちそうになり皆がいざ帰ろうとしても彼は酔ったのか顔が真っ赤になりそのうち気分が悪いと横になってしまった。席には何も酒は出ていなかったし誰も心当たりがない。料理を作った奥さんさかんに首をひねっていたが「はっ」と思いついた。フルーツサラダの中に味付けにほんのちょっとぶどう酒をたらしたのを。原因がわかって皆一安心。3時間くらい休んで彼の運転で帰りの途につきました。当時田舎のバールに入ってアルコールを一滴も飲まなかったのはブラジル広しと言えども彼くらいのものでしょう。こうして彼は日伯両語に通じるようになりました。
さて下の息子はというと親がブラジルに住むにはブラジルの教育を受けさせなくてはならないと決心しその町でも一番の上流社会の子供たちが通う学校の寄宿舎に入れさせられました。小学校の時から一日中ブラジル語づけ。週末に家に帰って来た時だけ両親と短い日本語での会話。その学校には日系人は彼一人。そんなブラジル人ばかりのところで、なおさら自分は日系人だということを強く意識しだし時間があれば兄が昔習っていた日本語の本や漫画などをとりだしてはむさぼり読んでいました。彼は日本語をだれに習うでもなく独学で覚え今でも私と話すときは流暢な日本語です。
さていよいよ大学受験。苦労した親にあまり負担をかけないようにと軍警の士官学校に入学しました。彼が少佐の時、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下がブラジルを訪問された際その護衛の任に当たり、殿下が『ご両親は息災でおられますか』とお声をかけられた時、「はい、ありがとうございます。元気にしております」と答え敬礼とともに靴のかかとがカチッとなった時は一瞬日本の近衛兵になったような錯覚を覚えたと語ってくれました。
ブラジルへ来てからはサンパウロの奥地の植民地を親とともに移動するうちに段々大きくなり家では日本語を両親から仕込まれ植民地内の日本語学校では日本語を学び毎日が日本語での生活でした。ほとんどの戦前の移民の家がそのようではなかったかと思います。一旗あげて日本に帰る気でいたので子供たちはブラジル語は必要ないと学校には入れず、それに家計の苦しい当時の移民の家では子供達は貴重な労働力で学校どころではなかったという事情もありました。私達もブラジルに来て10年くらいはそんな生活でした。何度ブラジルに来なければよかったと思ったことか。5月22日のブログのあの故郷(ふるさと)の歌の「志を果たしていつの日にか帰らん・・・」と聴く度に故郷がいかに遠く感じられたことか!5月17日のブログにあるように戦前は85%の移民がやがては日本に帰ることを夢見ていました。
忠四郎氏一家がブラジルにきて八年目に二番目の男子が誕生。戦時中、当時日本は敵対国ということで日本移民の家へは警察が家捜しをしてめぼしいものを没収という形でもっていってしまいました。そして戦後。ほとんどの移民がこの地に居着くことを決心しました。そのうちに少しずつ経済的にも余裕がでてきて忠四郎氏のところは小型トラックを買い求め自分で市場に荷をもっていくようになりました。。上の息子は農作業で日雇い労働者を使ったりトラックを運転して町へ出かけて用をたしたりでもっとブラジル語をうまくしゃべれるようになりたいと思っていました。そこで思いついたのが近くの集落にあるバール(注:2007年1月20日のブログ喧嘩を止めた一言)。仕事を終えた近所の労働者たちが集まって話がはずんでいる。知っている顔もある。アルコール類は一切飲めないのでミルクを注文する、それを手にして話の輪の中に入っていく。努力の甲斐あって(?)何ヶ月か通ううち彼のブラジル語はめきめきと上達していきました。
話ははずれますが彼のアルコールアレルギーの逸話のなかのトップ。これはずっと後の話ですが親戚の家で昼食をごちそうになり皆がいざ帰ろうとしても彼は酔ったのか顔が真っ赤になりそのうち気分が悪いと横になってしまった。席には何も酒は出ていなかったし誰も心当たりがない。料理を作った奥さんさかんに首をひねっていたが「はっ」と思いついた。フルーツサラダの中に味付けにほんのちょっとぶどう酒をたらしたのを。原因がわかって皆一安心。3時間くらい休んで彼の運転で帰りの途につきました。当時田舎のバールに入ってアルコールを一滴も飲まなかったのはブラジル広しと言えども彼くらいのものでしょう。こうして彼は日伯両語に通じるようになりました。
さて下の息子はというと親がブラジルに住むにはブラジルの教育を受けさせなくてはならないと決心しその町でも一番の上流社会の子供たちが通う学校の寄宿舎に入れさせられました。小学校の時から一日中ブラジル語づけ。週末に家に帰って来た時だけ両親と短い日本語での会話。その学校には日系人は彼一人。そんなブラジル人ばかりのところで、なおさら自分は日系人だということを強く意識しだし時間があれば兄が昔習っていた日本語の本や漫画などをとりだしてはむさぼり読んでいました。彼は日本語をだれに習うでもなく独学で覚え今でも私と話すときは流暢な日本語です。
さていよいよ大学受験。苦労した親にあまり負担をかけないようにと軍警の士官学校に入学しました。彼が少佐の時、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下がブラジルを訪問された際その護衛の任に当たり、殿下が『ご両親は息災でおられますか』とお声をかけられた時、「はい、ありがとうございます。元気にしております」と答え敬礼とともに靴のかかとがカチッとなった時は一瞬日本の近衛兵になったような錯覚を覚えたと語ってくれました。
2008年5月28日水曜日
アボカド or アボガド ? Abacate!
今日はアボカドの収穫をしました。ブラジル語でAbacateといいます。
右うしろに見えるのがその木です。家の門のすぐ横で普通はあまりとれないのですが今年は二本ある木が良く実をつけました。アボカドの実は熟れてくると中で種が実から離れてきて振ってみるとコトコトと音がします。種がかなり大きいので実を半分に切って種をとったあとに砂糖をいれて一緒に食べます。田舎にいたときは大きな木で沢山なっていたので父は醤油をかけておかずとして食べていました。マグロのさしみに似た味がします(種類によりますが)。今から40年ほど前の話です。
今日は沢山取れたので刺身風に食べれそうです。アボカドは栄養価が高いのでダイエット全盛時代はちょっと見放されていましたが最近では身体にいいとかで見直されています。写真の妻の左は妻の母です。右は来月の25日に80歳になられる伊藤さん。古い付き合いで私たちの結婚式の仲人をしてもらいました。彼は自然農法の研究家で土着菌をもとにした肥料などを自宅で作っておられます。私の所の庭が格好の実験場になっていて、いろいろな果樹や野菜の成績のいいのはそのおかげと感謝しています。
またその土着菌の培養液を生ごみにかけておくと腐らないで発酵するので何日たってもいやなにおいがせず後は有機肥料として利用できます。最近水道局から水のタンクの底にたまる泥の臭いが消せないかと相談があったそうです。あくまでもマイペースで毎日自宅で研究を続けておられます。
2008年5月22日木曜日
二つの「故郷(ふるさと)」の歌
私には忘れられない「故郷」の歌が二つある。一つはブラジルに来る時アフリカ丸の船上で赤道祭の終わりに皆で歌った涙の大合唱のあの「うさぎおいし・・・・」で始まる誰もが知っている文部省唱歌の「故郷」。いつ帰れるかわからない故郷への思いとまだ見ぬブラジルへの不安が交錯しての荘厳とも言える涙の大合唱となった。いまでも光景が焼きついている。
もう一つは慣れないブラジル生活で味わった失意や絶望を乗り越え進学の夢が断ち切れず、自分たちの土地を買い家の状態が落ち着いた移住10年後、高卒認定試験をパスしサンパウロ大学の工学部に入った。それでも週末には消毒、収穫、荷づめの手助けにとビリチーバ・ミリンの家に帰っていた頃小高い家の窓から土地を眺めていてモジの日本語のラジオ放送から耳に入ってきた五木ひろしの「まつりもちかいと・・・・」で始まる「故郷」の歌。その時「ああ、ここが僕の故郷になったんだなあー」としみじみ思ったこと。その時の光景今も忘れていない。
大学生活ではいつもジーパンをはいていた。うまくブラジル語を操れない私をみんな快く受け入れてくれた。初めて参加した去年の同窓会でも同じように感じた。ブラジルは州立、国立大学は授業料をとらない。日系の多くもその恩恵をうけた。私は大学を卒業する前に帰化した。ブラジルに世話になったと思ったからだ。当時兄弟四人とも大学に通っていて皆帰化した。帰化の証明書を受け取る簡単な式のその席上、証明書を手渡す判事のあいさつがあった。「君たちが本当のブラジル人といえる。それは君たちが自分の意思でこの国を選んだからだ。私たちはたまたまこの国に生まれてきたにすぎない」感動した。彼の席上での決まり文句かも知れないが。式の終わりにブラジル国歌の斉唱。これが長い。一番でも満足に歌えればそれこそ大満足。当時は一所懸命二番まで覚えたのだが今では一番でもやっと人の後について歌っている。日本の「君が代」は短くて羨ましい。
今年の日本移民百年祭には日本からはるばる五木ひろしが来て歌うようになっている。生で「故郷」の歌を聴きたいものだ。
もう一つは慣れないブラジル生活で味わった失意や絶望を乗り越え進学の夢が断ち切れず、自分たちの土地を買い家の状態が落ち着いた移住10年後、高卒認定試験をパスしサンパウロ大学の工学部に入った。それでも週末には消毒、収穫、荷づめの手助けにとビリチーバ・ミリンの家に帰っていた頃小高い家の窓から土地を眺めていてモジの日本語のラジオ放送から耳に入ってきた五木ひろしの「まつりもちかいと・・・・」で始まる「故郷」の歌。その時「ああ、ここが僕の故郷になったんだなあー」としみじみ思ったこと。その時の光景今も忘れていない。
大学生活ではいつもジーパンをはいていた。うまくブラジル語を操れない私をみんな快く受け入れてくれた。初めて参加した去年の同窓会でも同じように感じた。ブラジルは州立、国立大学は授業料をとらない。日系の多くもその恩恵をうけた。私は大学を卒業する前に帰化した。ブラジルに世話になったと思ったからだ。当時兄弟四人とも大学に通っていて皆帰化した。帰化の証明書を受け取る簡単な式のその席上、証明書を手渡す判事のあいさつがあった。「君たちが本当のブラジル人といえる。それは君たちが自分の意思でこの国を選んだからだ。私たちはたまたまこの国に生まれてきたにすぎない」感動した。彼の席上での決まり文句かも知れないが。式の終わりにブラジル国歌の斉唱。これが長い。一番でも満足に歌えればそれこそ大満足。当時は一所懸命二番まで覚えたのだが今では一番でもやっと人の後について歌っている。日本の「君が代」は短くて羨ましい。
今年の日本移民百年祭には日本からはるばる五木ひろしが来て歌うようになっている。生で「故郷」の歌を聴きたいものだ。
2008年5月21日水曜日
移住航海記
100年前笠戸丸は今航海中。笠戸丸はアフリカの先端喜望峰をまわっての西回りだが我々のあふりか丸はパナマ運河通過の東回り。東回り西回りは当時交互に出ていたように覚えているのだが。東回りは45日西回りの笠戸丸は52日かかった。
日本を出てからブラジルに着くまでのことは数行のメモとあとは次ぎのようなまとめが書き留めてあった。
上のは日本を出たときのパスポート。
1960年10月4日故国日本を離れ世界一の大洋を一路東へ東へと進むこと16日にして米国太平洋岸第一の都市ロスアンジェルスに着いた。さすがアメリカだけあって道路には多くの車が行き交い家々の庭はきれいに手入れされていた。90人の人達がこの地に降りた。
それから船は方向を南に変えた。段々暑くなってきて寝台の上に寝ていても汗でびっしょりになる。時々大陸がその片鱗を我々に見せる。イルカの大群に時々出会ったり亀や海蛇にも時々お目にかかる。やがてパナマ近くになると島々がはっきりと見えだしパナマ運河入口の近くには数隻の貨物船らしきものが停泊していた。
僕達の船が運河にさしかかると南米大陸と北米大陸とを結ぶ橋が回転して多くの車が停車する。第一の門を目の前にしてこれからどうなるのかと思っているうちに下から水が上がってきて次の水の高さと同じになった時、門が開いて船は次に進む。そういう事を何回か繰り返して掘割に入った。運河の両側は岩石のがけがそそりたち当時の工事の困難さが知られた。それからガツン湖に入り始めと同じような事(違うのは船が下がる)を繰り返して第二の大洋大西洋に入った。
大西洋は非常に穏やかで海の水は油のようでちょっと気味が悪かった。パナマ運河を通ってすぐクリストバルに入港した。上陸したが町は非常に汚くて変な臭いがしていた。市場に行ってバナナを35セント分買った。これは安くて10本が10セント位だった。それからコーヒーと砂糖を買って帰船した。11月3日はヴェネズエラのラガイラに寄港した。ここは物価が非常に高いので何も買わずただ見物してまわった。たいして見るべきものはなかった。5日は油を積むために後戻りしてキュラソー島に向かった。小さい島だけど道はよく整備され家々はきれいだった。
キュラソーを出て船内で盆踊り、映画と催しは色々あった。11月12日午前1時50分船は赤道を通った。その日は赤道祭。劇や踊りや仮装行列、時を忘れて大いに楽しんだ。次の日はサヨナラ演芸会。いよいよ下船も間近になってきた。長い船旅とももうお別れ。前途にはどんな苦労が待ち受けているか知らないけどとにかく力いっぱいやるつもりだ。
2008年5月17日土曜日
Japonês é garantido!
Na semana passada, levei a minha mãe à casa do meu irmão em Vargem Grande-SP que fica logo depois de Cotia. Na volta à São Paulo, quando o ônibus passou perto da Estação Clínicas, desci para pegar o metrô. Logo de entrada me deparei com os painéis enormes desenhados na parede do corredor da estação, alusivos ao Centenário da Imigração japonesa. Aí tinha apresentado a história da imigração japonesa em 7 painéis com fotos da época separados em 6 fases, desde o Kasato-maru até os Dekaseguis. A saga dos imigrantes japoneses, da esperança à dura realidade ainda no país estrangeiro, vítimas de moléstias como febre amarela e malária, perseguição sofrida durante a segunda guerra mundial, conflito dentro da colônia japonesa entre Kachigumi (aqueles que acreditaram na vitória do Japão) e Makegumi (aqueles que aceitaram a derrota do Japão). Foi longo caminho até aqui, e agora a colônia japonesa festeja o Centenário.
“Japonês é garantido” . Esta é a palavra que representou os japoneses no Brasil até agora. No Brasil são freqüentes as pessoas receberem cheques sem fundo e para se prevenir do prejuízo os comerciantes só vendem em dinheiro para os desconhecidos. Logo depois que mudei para o Espírito Santo, fui visitar um amigo no município vizinho. Na volta passei em frente a um açougue e vi um pedaço de carne bonito no balcão. Resolvi comprar 3 quilos. Na hora de pagar, enfiei a mão no bolso, mas nada de dinheiro vivo e só achei um talão de cheque. Em tom de desculpa eu disse“ Só tem cheque”. O dono do açougue até abriu um sorriso e disse “Não tem problema, aqui não tem luxo de recusar o cheque do japonês” Obrigado os pioneiros que estabeleceram esta fama. Daqui em diante qual adjetivo será que os japoneses vão ganhar ? Certamente a colônia japonesa vai se integrar mais na sociedade brasileira num mundo de mudança acentuada. Gostaria de acompanhar o trajeto com esperança.
Anotei alguns números interessantes do painel. Nos 3 anos entre 1932 e 34, chegaram aqui mais de 60 mil imigrantes japoneses devido à Recessão mundial e ao grande terremoto de Kantou (região de Tokyo). Em 1937, conforme a pesquisa , 85 % dos imigrantes tinham intenção de voltar para o Japão em vez de fixar moradia aqui. A população rural dos imigrantes representava 58% em 1958 e caiu drasticamente para 19% em 1978. Uma decisão dos japoneses contribuiu para esse êxodo rural. Essa época os japoneses perceberam que o sonho brasileiro é mais fácil realizar com a educação e mandaram seus filhos para ensino superior sacrificando suas vidas. Foi uma incansável perseguição ao sonho no meio de desespero e miséria, e deu certo.
No Japão agora estão em torno de 300 mil nikkeis, maioria nascidos no Brasil e o número de naturalizados estão aumentando. Peço ao Japão que receba os nikkeis com mesmo carinho que o Brasil recebeu os japoneses, e que eles sintam felizes vivendo no Japão. Estamos na era da globalização e o Japão precisa de imigrantes. O Japão sabe se comportar como adulto na economia mundial e agora a vez de mostrar uma solução no aspecto social e o mundo está observando com que habilidade o Japão resolve este problema.
“Japonês é garantido” . Esta é a palavra que representou os japoneses no Brasil até agora. No Brasil são freqüentes as pessoas receberem cheques sem fundo e para se prevenir do prejuízo os comerciantes só vendem em dinheiro para os desconhecidos. Logo depois que mudei para o Espírito Santo, fui visitar um amigo no município vizinho. Na volta passei em frente a um açougue e vi um pedaço de carne bonito no balcão. Resolvi comprar 3 quilos. Na hora de pagar, enfiei a mão no bolso, mas nada de dinheiro vivo e só achei um talão de cheque. Em tom de desculpa eu disse“ Só tem cheque”. O dono do açougue até abriu um sorriso e disse “Não tem problema, aqui não tem luxo de recusar o cheque do japonês” Obrigado os pioneiros que estabeleceram esta fama. Daqui em diante qual adjetivo será que os japoneses vão ganhar ? Certamente a colônia japonesa vai se integrar mais na sociedade brasileira num mundo de mudança acentuada. Gostaria de acompanhar o trajeto com esperança.
Anotei alguns números interessantes do painel. Nos 3 anos entre 1932 e 34, chegaram aqui mais de 60 mil imigrantes japoneses devido à Recessão mundial e ao grande terremoto de Kantou (região de Tokyo). Em 1937, conforme a pesquisa , 85 % dos imigrantes tinham intenção de voltar para o Japão em vez de fixar moradia aqui. A população rural dos imigrantes representava 58% em 1958 e caiu drasticamente para 19% em 1978. Uma decisão dos japoneses contribuiu para esse êxodo rural. Essa época os japoneses perceberam que o sonho brasileiro é mais fácil realizar com a educação e mandaram seus filhos para ensino superior sacrificando suas vidas. Foi uma incansável perseguição ao sonho no meio de desespero e miséria, e deu certo.
No Japão agora estão em torno de 300 mil nikkeis, maioria nascidos no Brasil e o número de naturalizados estão aumentando. Peço ao Japão que receba os nikkeis com mesmo carinho que o Brasil recebeu os japoneses, e que eles sintam felizes vivendo no Japão. Estamos na era da globalização e o Japão precisa de imigrantes. O Japão sabe se comportar como adulto na economia mundial e agora a vez de mostrar uma solução no aspecto social e o mundo está observando com que habilidade o Japão resolve este problema.
日本人は信用できる!
Cotia の先のVargem Grande に引っ越した弟の所に母を送って行っての帰りSão Paulo 市内で地下鉄に乗ろうとクリニカス駅に入った時改札口まで続く通路の壁に描かれている大きなパネルが目に入りました。日本移民百周年行事の一環としての日本移民の百年の歴史が紹介してありました。
笠戸丸から出稼ぎまで当時の写真を含めて六つの時代に分けて説明してありました。話に聞いていたのとは違う慣れない土地での、しかも外国での厳しい現実。黄熱病やマラリアに倒れていった幾多の同胞、第二次世界大戦中に受けた迫害、コロニア内での勝ち組と負け組の争いなど, ここまでの道は遠かった。今それらをかえりみて祝う余裕がでてきたコロニア。
『日本人は信用できる!』。これが今まで日本人がブラジルに刻み込んできた言葉です。ブラジルでは小切手の不渡りがよくあるので見知らぬ人には現金払いということになります。エスピリトサント州に来て間もない頃となり町に知人を訪ねての帰りきれいな牛肉をみかけたので店に入り3キロほどもとめました。いざ払おうとポケットに手を突っ込んでも金はない。小切手帳しかない。そこでおそるおそる「あの今小切手しか持っていないんですが」というと「ああ、いいよ、日本人の小切手を断るなんてそんな馬鹿はいないよ」。先人たちよありがとう!これからはどんな代名詞が日系人につくのか? ブラジルの一部として溶け込んでいく コロニア、これから先だんだん変わっていくでしょう。希望をもって見守りたい。
パネルを読んでいて少し書きとめました。世界大恐慌と関東大震災のあおりで1932年から34年の3年間で6万人以上の移民がブラジルの土地を踏んだこと、1937年の調査では85%の移民がここは永住地ではなく日本にやがて帰ることを希望していたこと、1958年には57%が農業に従事していたのが1978年には19%に減っていたこと、などなど。
日系の農村人口が減ったのはブラジルで夢をかなえるには教育しかないと悟り、自分たちの苦しい生活の中から子供たちを大学までやった結果ということが書かれていました。賢い決断だったといえるでしょう。
いま日本に約30万人のブラジルからの日系人が生活し最近は永住者も増えているようです。ブラジルが差別なく私達を暖かく迎え入れてくれたように日本も暖かく迎え入れてほしい。日本に来てよかったと思えるようになってほしい。これからの移り変わる時代に経済的に大人になった日本が社会的にどう大人としての対応ができるのか日本の力量が試される時でしょう。
2008年4月27日日曜日
さらば日本
100年前の4月28日第一回移民船笠戸丸が神戸を発った。どんな気持ちで人々はたったのだろう。私の古い本箱から虫にくわれかけたノートがでてきた。私たちが日本を発ったときの様子が記してある。当時私は高校二年中退の16歳。忘れかけたものがよみがえってきた。
1960年9月30日 金曜日 曇天
神戸の斡旋所にいるのもあと二日。今日午後6時から演芸会があった。道夫も出た。どうなるかと思ったがどうにかこうにか歌った。行雄の作文も発表されたが、僕が思っている以上に成長しているのにいささか驚いた。我等新天地を求めて郷里を出発したもののやはりさびしい感じがする。山田高校のみんなはどうしているだろう。さぞ勉強にはげんでいるに違いない。楽しく過ごした日々が僕の頭に再現される。それとともに未来の僕等の姿がぼんやりと浮かぶ。これから先の希望、不安が僕の頭で交錯する。夜、屋上に出てみた。夜の神戸が一望される。さすが六大都市のひとつ、さまざまなネオンがついては消え、消えてはつく。しばらく時を忘れて見入る。小学六年の時の担任の村次先生から電報がきていた。
キミノソウトヲシュクシ、ケンコウトセイコウヲイノル。
10月1日 土曜日 曇天
今日から10月。衣替えの日である。暇な時、神戸の町を歩いてみても学生は全て黒服。なんとなくしっとりした感じで寒さを感じさせる。
10月2日 日曜日 晴天
昨日まで曇っていた空が今日はからりと晴れてまるで僕達の門出を祝福してるよう。午後1時頃斡旋所をバスで出て一路第四突堤に向かった。第四突堤にはあふりか丸がその偉容を堂々と神戸港に浮かばせていた。割り当てのベッドに寝てゆっくりと手足を伸ばした(すこしせますぎるが)。ジャンジャンジャンジャンとドラが鳴ると色とりどりのテープが船から桟橋へ、桟橋から船へと投げられる。タラップが上げられてやがて午後四時。ボー、船は岸を静かに離れていく。大声で泣き叫ぶ者、静かに別れを惜しむ者、悲喜こもごもの思いをのせて船は静かに静かに。始めの頃は内海で波は低く船の揺れも少なくてこれは快適な旅だなと思っていたが、しばらくすると波も高くなってきた。
夜ちょっと気分が悪くなったので甲板に出た。陸づたいに行っているので海岸の家の灯りが夜目に美しく見えた。
10月3日 月曜日 晴天
朝起きた時から気持ちが悪い。どうも酔ったらしい。今まで乗物に酔ったことはなかったのだが予想以上に揺れるのですっかりまいってしまった。朝食も食べる気にならない。ようやく起きて顔だけ洗った。それだけでもうフラフラしている。ようやくのことで床に入った。こんな事でこれから先どうなるかと自分ながら情けなくなる。
横浜港に午後四時着くはずだったが海が荒れて六時間も遅くついた。こんな事は五十三年振りだという話を耳にした。
10月4日 火曜日
十時頃明治鉱業の人達と会って壮行会なるものが開かれた。三時頃、小学五年の時の担任で今は東京に住んでおられる野見山先生が見送りにこられた。色々と話し合って名残を惜しんだ。やがて四時、ドラの音が高らかに鳴りわたり、消防隊の演奏する 「出船」 と共に船は次第に岸壁を離れてゆく。僕と野見山先生を結んでいたテープも無情にも切られてゆく。これで日本ともお別れかと思うと僕の胸に何かこらえきれないものが襲ってきて涙がおちた。
1960年9月30日 金曜日 曇天
神戸の斡旋所にいるのもあと二日。今日午後6時から演芸会があった。道夫も出た。どうなるかと思ったがどうにかこうにか歌った。行雄の作文も発表されたが、僕が思っている以上に成長しているのにいささか驚いた。我等新天地を求めて郷里を出発したもののやはりさびしい感じがする。山田高校のみんなはどうしているだろう。さぞ勉強にはげんでいるに違いない。楽しく過ごした日々が僕の頭に再現される。それとともに未来の僕等の姿がぼんやりと浮かぶ。これから先の希望、不安が僕の頭で交錯する。夜、屋上に出てみた。夜の神戸が一望される。さすが六大都市のひとつ、さまざまなネオンがついては消え、消えてはつく。しばらく時を忘れて見入る。小学六年の時の担任の村次先生から電報がきていた。
キミノソウトヲシュクシ、ケンコウトセイコウヲイノル。
10月1日 土曜日 曇天
今日から10月。衣替えの日である。暇な時、神戸の町を歩いてみても学生は全て黒服。なんとなくしっとりした感じで寒さを感じさせる。
10月2日 日曜日 晴天
昨日まで曇っていた空が今日はからりと晴れてまるで僕達の門出を祝福してるよう。午後1時頃斡旋所をバスで出て一路第四突堤に向かった。第四突堤にはあふりか丸がその偉容を堂々と神戸港に浮かばせていた。割り当てのベッドに寝てゆっくりと手足を伸ばした(すこしせますぎるが)。ジャンジャンジャンジャンとドラが鳴ると色とりどりのテープが船から桟橋へ、桟橋から船へと投げられる。タラップが上げられてやがて午後四時。ボー、船は岸を静かに離れていく。大声で泣き叫ぶ者、静かに別れを惜しむ者、悲喜こもごもの思いをのせて船は静かに静かに。始めの頃は内海で波は低く船の揺れも少なくてこれは快適な旅だなと思っていたが、しばらくすると波も高くなってきた。
夜ちょっと気分が悪くなったので甲板に出た。陸づたいに行っているので海岸の家の灯りが夜目に美しく見えた。
10月3日 月曜日 晴天
朝起きた時から気持ちが悪い。どうも酔ったらしい。今まで乗物に酔ったことはなかったのだが予想以上に揺れるのですっかりまいってしまった。朝食も食べる気にならない。ようやく起きて顔だけ洗った。それだけでもうフラフラしている。ようやくのことで床に入った。こんな事でこれから先どうなるかと自分ながら情けなくなる。
横浜港に午後四時着くはずだったが海が荒れて六時間も遅くついた。こんな事は五十三年振りだという話を耳にした。
10月4日 火曜日
十時頃明治鉱業の人達と会って壮行会なるものが開かれた。三時頃、小学五年の時の担任で今は東京に住んでおられる野見山先生が見送りにこられた。色々と話し合って名残を惜しんだ。やがて四時、ドラの音が高らかに鳴りわたり、消防隊の演奏する 「出船」 と共に船は次第に岸壁を離れてゆく。僕と野見山先生を結んでいたテープも無情にも切られてゆく。これで日本ともお別れかと思うと僕の胸に何かこらえきれないものが襲ってきて涙がおちた。
2008年4月22日火曜日
日本語の おもしろさ と むつかしさ (III)
Lina のTomodachi のみなさん、おげんきですか。こちらはまだ暑い日がつづいています。
Match-kun, はるみさん、Rennanさん、会縁出理さん、メールありがとう。
これからも日本語のべんきょうをつづけてください。なにかわからないことがあったらメールください。
日本語がほかのことばと大きくちがうのは じょし(助詞)のはたらきでしょう。
西洋のことばは文字のいち(位置=posição)でそのやくめ(役目=função)がきまりますが日本語は助詞がその役目をきめます。れい(例=exemplo)でせつめいしたほうが わかりやすいでしょう。
Eu falo japonês.
Eu が しゅご(主語=sujeito) で falo が どうし(動詞=verbo)で japonês が もくてきご(目的語=objeto)となります。これらのことばはならびかたでそれぞれの役目がきまっています。ラテン語(=Latim)からきた げんご(言語=língua)や えいご(英語=inglês)など アングロサクソン系の言語もそうです。
しかし日本語のばあいは助詞がその役目をきめます。うえ(上)の文を日本語で書いてみましょう。
わたし は にほんご を はなします。
ポルトガル語の文とくらべて(比べて=comparar) みましょう。
Eu=わたし、falo=はなします、japonês=にほんご となります。
まず じゅんじょ(順序=ordem)がちがいますね。
そしてなにか あまっています。は と を ですね。これが助詞(palavra auxiliar)です。は [わ と はつおん(発音=pronúncia)します]がついていることばが 主語となり を[お と はつおん(発音=pronúncia)します]がついているのが目的語となります。助詞はほかにもあるのでまとめてみます。
は、が - 主語
を - ちょくせつ(直接=direto)目的語
に - かんせつ(間接=indireto)目的語
順序は主語、間接目的語、直接目的語、動詞 あるいは
主語、直接目的語、間接目的語、動詞 となります。このばあい動詞にちかいほうのことばがきょうちょう(強調=ênfase)されます。
また が は直接目的語を強調(=ênfase)するときにも使われます。
例
私はマリアに本(ほん)を貸しました。(Eu emprestei o livro a Maria )
(本にênfase があります。)
私は本をマリアに貸しました。(マリアにênfase があります。)
わたしは本がほしい。(Eu quero o livro)
とうよう(東洋=oriente)の言語ではちゅうごくご(中国語=chinês)は文字
のならびできまりますがかんこくご(韓国語=coreano)は 日本語とおなじように助詞を使います。
Match-kun, はるみさん、Rennanさん、会縁出理さん、メールありがとう。
これからも日本語のべんきょうをつづけてください。なにかわからないことがあったらメールください。
日本語がほかのことばと大きくちがうのは じょし(助詞)のはたらきでしょう。
西洋のことばは文字のいち(位置=posição)でそのやくめ(役目=função)がきまりますが日本語は助詞がその役目をきめます。れい(例=exemplo)でせつめいしたほうが わかりやすいでしょう。
Eu falo japonês.
Eu が しゅご(主語=sujeito) で falo が どうし(動詞=verbo)で japonês が もくてきご(目的語=objeto)となります。これらのことばはならびかたでそれぞれの役目がきまっています。ラテン語(=Latim)からきた げんご(言語=língua)や えいご(英語=inglês)など アングロサクソン系の言語もそうです。
しかし日本語のばあいは助詞がその役目をきめます。うえ(上)の文を日本語で書いてみましょう。
わたし は にほんご を はなします。
ポルトガル語の文とくらべて(比べて=comparar) みましょう。
Eu=わたし、falo=はなします、japonês=にほんご となります。
まず じゅんじょ(順序=ordem)がちがいますね。
そしてなにか あまっています。は と を ですね。これが助詞(palavra auxiliar)です。は [わ と はつおん(発音=pronúncia)します]がついていることばが 主語となり を[お と はつおん(発音=pronúncia)します]がついているのが目的語となります。助詞はほかにもあるのでまとめてみます。
は、が - 主語
を - ちょくせつ(直接=direto)目的語
に - かんせつ(間接=indireto)目的語
順序は主語、間接目的語、直接目的語、動詞 あるいは
主語、直接目的語、間接目的語、動詞 となります。このばあい動詞にちかいほうのことばがきょうちょう(強調=ênfase)されます。
また が は直接目的語を強調(=ênfase)するときにも使われます。
例
私はマリアに本(ほん)を貸しました。(Eu emprestei o livro a Maria )
(本にênfase があります。)
私は本をマリアに貸しました。(マリアにênfase があります。)
わたしは本がほしい。(Eu quero o livro)
とうよう(東洋=oriente)の言語ではちゅうごくご(中国語=chinês)は文字
のならびできまりますがかんこくご(韓国語=coreano)は 日本語とおなじように助詞を使います。
日本語の おもしろさ と むつかしさ (II)
きのう(昨日=ontem)のブログはほかのことを かく(書く=escrever)つもりでした。
日本語のだいめいし(代名詞=pronome)はたくさん(沢山=muito)あるということ知っていますか。
まずじぶんのことをいうときは わたくし/わたし(私)を使いますが かいわ(会話=conversação)では ぼく、おれ、わし、うち、あたし、etc.,
はなす(話す=falar)あいてをさすときは あなた をはじめ きみ、おまえ、きさま、etc.。
会話をしているひと(人)いがいの人をさすときは かれ、かのじょ そして たいていは その人のなまえ(名前=nome)を使います。また その ちほう(地方=região)だけに使われるものもあるし、じだい(時代=época)によっても ちがいます。
日本語では だんせい(男性=sexo masculino)が使う代名詞とじょせい(女性=sexo feminino)が使う代名詞、あるねんだいの人によく使われる代名詞などもあります。
せいべつ(性別=diferença de sexo)にかんけいなく使われる わたくし/わたし、あなた、そして 男性に使われる かれ(彼=ele)、女性に使われる かのじょ(彼女=ela)は せいよう(西洋=ocidente)のえいきょうをうけた めいじ(明治)いこうに作られたのではないかと思います。
おれ とか ぼく とかはおとこ(男=homem)の人が使い、うち とか あたい とかは おんな(女=mulher)の人が使います。ふくざつ ですが べんり なときもあります。
よく西洋の本にすうにんの会話がのるとき、―――とだれが言ったとか、―――とマリアが言ったとか説明をつけねばなりません。しかし日本語のばあいは、男か女か、こども(子供=criança)か せいねん(青年=jovem)か ろうじん(老人=idoso)か、とかい(都会=cidade)にすんでいるのか いなか(田舎=roça)の人か などがわかっているとあとはせつめいが いりません。それぞれの人が使う代名詞やごび(語尾=sufixo)でだれが言っているのかわかるからです。語尾に わ をつけるのは女性です。女性らしさもあらわせます。
ある ねんだい(年代=faixa de idade)の人によく使われる代名詞についての私のはなしです。
私はずっと子供のころから自分のことを ぼく といっていました。ブラジルにきたのが16歳のときでその時もまだ ぼく でした。ずっとかぞく(家族=família)で田舎にすんでいたので 27さいまで ぼく でとおしていました。そのごまちにでて日本のかいしゃにはたらいているひとたちと話す機会が増えてその時ある会社をたずねたとき二世(nissei)の青年が自分のことを わたし と言っているのをきいておとなっぽく見えてかっこういいなと思ったのです。それから わたし を使い始めました。田舎にいたとはいえ まったく恥ずかしいかぎりです。
自分のことをどう言っているか こんど日本人と話す きかい(機会=oportunidade)があったら気をつけていてください。
ではまた!
日本語のだいめいし(代名詞=pronome)はたくさん(沢山=muito)あるということ知っていますか。
まずじぶんのことをいうときは わたくし/わたし(私)を使いますが かいわ(会話=conversação)では ぼく、おれ、わし、うち、あたし、etc.,
はなす(話す=falar)あいてをさすときは あなた をはじめ きみ、おまえ、きさま、etc.。
会話をしているひと(人)いがいの人をさすときは かれ、かのじょ そして たいていは その人のなまえ(名前=nome)を使います。また その ちほう(地方=região)だけに使われるものもあるし、じだい(時代=época)によっても ちがいます。
日本語では だんせい(男性=sexo masculino)が使う代名詞とじょせい(女性=sexo feminino)が使う代名詞、あるねんだいの人によく使われる代名詞などもあります。
せいべつ(性別=diferença de sexo)にかんけいなく使われる わたくし/わたし、あなた、そして 男性に使われる かれ(彼=ele)、女性に使われる かのじょ(彼女=ela)は せいよう(西洋=ocidente)のえいきょうをうけた めいじ(明治)いこうに作られたのではないかと思います。
おれ とか ぼく とかはおとこ(男=homem)の人が使い、うち とか あたい とかは おんな(女=mulher)の人が使います。ふくざつ ですが べんり なときもあります。
よく西洋の本にすうにんの会話がのるとき、―――とだれが言ったとか、―――とマリアが言ったとか説明をつけねばなりません。しかし日本語のばあいは、男か女か、こども(子供=criança)か せいねん(青年=jovem)か ろうじん(老人=idoso)か、とかい(都会=cidade)にすんでいるのか いなか(田舎=roça)の人か などがわかっているとあとはせつめいが いりません。それぞれの人が使う代名詞やごび(語尾=sufixo)でだれが言っているのかわかるからです。語尾に わ をつけるのは女性です。女性らしさもあらわせます。
ある ねんだい(年代=faixa de idade)の人によく使われる代名詞についての私のはなしです。
私はずっと子供のころから自分のことを ぼく といっていました。ブラジルにきたのが16歳のときでその時もまだ ぼく でした。ずっとかぞく(家族=família)で田舎にすんでいたので 27さいまで ぼく でとおしていました。そのごまちにでて日本のかいしゃにはたらいているひとたちと話す機会が増えてその時ある会社をたずねたとき二世(nissei)の青年が自分のことを わたし と言っているのをきいておとなっぽく見えてかっこういいなと思ったのです。それから わたし を使い始めました。田舎にいたとはいえ まったく恥ずかしいかぎりです。
自分のことをどう言っているか こんど日本人と話す きかい(機会=oportunidade)があったら気をつけていてください。
ではまた!
2008年4月21日月曜日
日本語の おもしろさ と むつかしさ (I)
リナのともだちのみなさんへ
にほんご(日本語)はかんじ(漢字)をつかう(使う)ことはしって(知って)いますね。せいよう(西洋)では日本語のひらがな あるいは カタカナ と おなじ(同じ)おと(音)をあらわす にじゅうすうこ(二十数個)の アルファベット を 使います。
日本語はそのほかに しんぶんが よめるようになるには あのむつかしい 漢字を にせんじ(二千字) ほど おぼえなければ ならないので たいへん(大変)です。そのほとんどの漢字はすくなくとも ふたとおり(二通り)のよみかた(読み方)があります。それは日本が ちゅうごく(中国)の漢字をじぶんたちの もじ(文字) として使おうとしたとき その漢字と同じいみ(意味)の日本語で読むようにしたからです。たとえば 犬 という漢字、 中国では日本で いぬ とよんでいる どうぶつ(動物) に 使っているので この漢字の読み方は いぬ となりました。この漢字は中国では quan と はつおん(発音)されています。もうひとつの日本語での読み方は ケン です。
この文字に意味があるというのはいちど(一度)おぼえるとべんりです。というのは みた(見た)だけで意味がわかるのでさっと め(目)を とおす(通す)だけで だいたいなにが かいて(書いて)あるのかわかります。
3月29日の日本語のblog に書いているのですが わたし(私)の みょうじ(名字)の 佐伯(さえき)という漢字。 佐 は たすける(助ける)を意味し 伯 はブラジルを意味します。
すなわち ブラジルを助ける という意味だといっても だれもしん(信)じません。
あなたは信じますか?
ではまた。
(日伯 とかいて(書いて)Japão-Brasil という意味です。)
にほんご(日本語)はかんじ(漢字)をつかう(使う)ことはしって(知って)いますね。せいよう(西洋)では日本語のひらがな あるいは カタカナ と おなじ(同じ)おと(音)をあらわす にじゅうすうこ(二十数個)の アルファベット を 使います。
日本語はそのほかに しんぶんが よめるようになるには あのむつかしい 漢字を にせんじ(二千字) ほど おぼえなければ ならないので たいへん(大変)です。そのほとんどの漢字はすくなくとも ふたとおり(二通り)のよみかた(読み方)があります。それは日本が ちゅうごく(中国)の漢字をじぶんたちの もじ(文字) として使おうとしたとき その漢字と同じいみ(意味)の日本語で読むようにしたからです。たとえば 犬 という漢字、 中国では日本で いぬ とよんでいる どうぶつ(動物) に 使っているので この漢字の読み方は いぬ となりました。この漢字は中国では quan と はつおん(発音)されています。もうひとつの日本語での読み方は ケン です。
この文字に意味があるというのはいちど(一度)おぼえるとべんりです。というのは みた(見た)だけで意味がわかるのでさっと め(目)を とおす(通す)だけで だいたいなにが かいて(書いて)あるのかわかります。
3月29日の日本語のblog に書いているのですが わたし(私)の みょうじ(名字)の 佐伯(さえき)という漢字。 佐 は たすける(助ける)を意味し 伯 はブラジルを意味します。
すなわち ブラジルを助ける という意味だといっても だれもしん(信)じません。
あなたは信じますか?
ではまた。
(日伯 とかいて(書いて)Japão-Brasil という意味です。)
Obrigado o Espírito Santo!
As comemorações do Centenário da imigração japonesa estão se desenrolando em vários lugares do Brasil e o Espírito Santo não fica por trás. No dia 10 de abril, houve a homenagem aos japoneses pioneiros e àqueles da área político-econômica que contribuíram para a vinda de japoneses ao estado. Os japoneses com mais de 72 anos de idade também receberam o diploma e buquê de flores, dentre eles, minha mãe de 86 anos e a sogra de 75 anos. A cerimônia teve lugar na Assembléia Legislativa por iniciativa da própria casa e se reuniram muitos japoneses e autoridades locais. Na ocasião, soube que moram em torno de 1000 nikkeis (japoneses e seus descendentes) no estado.
Obrigado o Espírito Santo! por nos receber com carinho.
Nós mudamos para o Espírito Santo há quase 31 anos. Na época havia poucos japoneses. Quando a gente andava na rua com a filha de 1 ano no colo, as pessoas paravam para ver e tocar e falavam “Parece que é uma boneca de porcelana”. Durante 10 anos seguidos da mudança para o estado, uma ou duas vezes por ano íamos ao São Paulo para ver os parentes nas férias. Mas ninguém olhava para a gente mesmo com as crianças no colo. Aí a saudade de ser paparicado batia e queria voltar para casa quanto antes. Bons tempos!
O pessoal de São Paulo está acostumado com japoneses, mas aqui é raro se encontrar com japoneses na rua. Portanto, ainda nos perguntam com ar de curiosidade “Vocês são japoneses?” Eu respondo “Nasci no Japão, mas sou Brasileiro porque me naturalizei”. Mas minha mulher, que nasceu no Rio, que já se declara japonesa, dependendo do humor do dia, retruca “Nasci aqui, mas você me chama de japonesa? Então, quem são os brasileiros? só os índios” Aí, a pessoa fica sem jeito.
O Brasil é o país de miscigenação. Desde o descobrimento em 1500 por portugueses, o Brasil é o palco de mistura de raças e nacionalidades. Japoneses só tem 100 anos da imigração e além do mais, as diferenças de raça, língua , religião e costume atrasaram a integração à sociedade brasileira. E o mais importante, a cara de japonês, o inegável traço, provoca a curiosidade com esse tipo de pergunta acima. Os nikkeis são chamados de japoneses aqui no Brasil e os que moram no Japão (dekaseguis) vivem como brasileiros na consciência.
Fomos assim quando morávamos no Japão há vinte e tantos anos atrás, como representante da firma brasileira no Japão. Na época só poucos brasileiros moravam no Japão e a minha esposa andava sempre a bandeira brasileira nas costas, claro no sentido figurado. Quando alguém falava mal do Brasil, ela defendia com unhas e dentes e se emocionava ao ouvir o hino nacional. Vendo isso, a vizinha comentou, “O Brasil deve ser um país maravilhoso, porque aqui no Japão não existe nenhuma patriota como você”. E aqui no Brasil? Ela fica nervosa quando alguém fala mal do Japão e canta Kimigayo (hino nacional japonesa) do fundo de coração.
Agora estamos na era da globalização. As mercadorias e as pessoas se movem independente de nacionalidade em busca de novos mercados, empregos e lugares para morar. Será que algum dia podemos dizer “Somos terráqueos”? Espero que não acabe em sonho.
Depois de aposentado, para exercitar os movimentos de dedos, estou aprendendo a tocar violão. Às vezes, os dedos não obedecem o comando do cérebro. Estou apaixonado com a musica “Imagine” de John Lennon.
Obrigado o Espírito Santo! por nos receber com carinho.
Nós mudamos para o Espírito Santo há quase 31 anos. Na época havia poucos japoneses. Quando a gente andava na rua com a filha de 1 ano no colo, as pessoas paravam para ver e tocar e falavam “Parece que é uma boneca de porcelana”. Durante 10 anos seguidos da mudança para o estado, uma ou duas vezes por ano íamos ao São Paulo para ver os parentes nas férias. Mas ninguém olhava para a gente mesmo com as crianças no colo. Aí a saudade de ser paparicado batia e queria voltar para casa quanto antes. Bons tempos!
O pessoal de São Paulo está acostumado com japoneses, mas aqui é raro se encontrar com japoneses na rua. Portanto, ainda nos perguntam com ar de curiosidade “Vocês são japoneses?” Eu respondo “Nasci no Japão, mas sou Brasileiro porque me naturalizei”. Mas minha mulher, que nasceu no Rio, que já se declara japonesa, dependendo do humor do dia, retruca “Nasci aqui, mas você me chama de japonesa? Então, quem são os brasileiros? só os índios” Aí, a pessoa fica sem jeito.
O Brasil é o país de miscigenação. Desde o descobrimento em 1500 por portugueses, o Brasil é o palco de mistura de raças e nacionalidades. Japoneses só tem 100 anos da imigração e além do mais, as diferenças de raça, língua , religião e costume atrasaram a integração à sociedade brasileira. E o mais importante, a cara de japonês, o inegável traço, provoca a curiosidade com esse tipo de pergunta acima. Os nikkeis são chamados de japoneses aqui no Brasil e os que moram no Japão (dekaseguis) vivem como brasileiros na consciência.
Fomos assim quando morávamos no Japão há vinte e tantos anos atrás, como representante da firma brasileira no Japão. Na época só poucos brasileiros moravam no Japão e a minha esposa andava sempre a bandeira brasileira nas costas, claro no sentido figurado. Quando alguém falava mal do Brasil, ela defendia com unhas e dentes e se emocionava ao ouvir o hino nacional. Vendo isso, a vizinha comentou, “O Brasil deve ser um país maravilhoso, porque aqui no Japão não existe nenhuma patriota como você”. E aqui no Brasil? Ela fica nervosa quando alguém fala mal do Japão e canta Kimigayo (hino nacional japonesa) do fundo de coração.
Agora estamos na era da globalização. As mercadorias e as pessoas se movem independente de nacionalidade em busca de novos mercados, empregos e lugares para morar. Será que algum dia podemos dizer “Somos terráqueos”? Espero que não acabe em sonho.
Depois de aposentado, para exercitar os movimentos de dedos, estou aprendendo a tocar violão. Às vezes, os dedos não obedecem o comando do cérebro. Estou apaixonado com a musica “Imagine” de John Lennon.
2008年4月20日日曜日
エスピリトサント州ありがとう!
ブラジルへの日本移民が始まって百年ということで各地で色々な記念式典が催されているようです。ここヴィトリアでは4月10日エスピリトサント州の日本移民の先駆者や州の政財界で日系人の州への導入に貢献のあった人達が表彰されました。それと同時に州内の72歳以上の日系人も表彰状と花束を受け取りました。86歳の私の母そして75歳の姑も頂きました。州議会の発案ということで会議場は多くの日系人および関係者で埋まりました。州内の日系人は約千人ということでした。エスピリトサント州ありがとう。私達を暖かく迎えてくれて。
私たちがサンパウロ州からこちらに越してきたのは31年前。当時日系人は数えるほど。街を歩いていても、一歳になったばかりの娘を抱いているとちょっと触らせてくれと人が立ち止まり瀬戸物の人形のようだと珍しがられました。こちらに来てから10年ほどは毎年のように休暇にはサンパウロに行っていましたが子供を連れていても誰も振りかえってくれず妻と二人でここは張り合いがないなと愚痴って早くヴィトリアに帰ろうといっていたものです。
サンパウロではブラジル人も日系人に慣れていますがこちらでは今もってよく”あなたは日本人ですか”と聞かれます。私は”日本で生まれたけど帰化したからブラジル人だよ” と返事をしますが、自称日本人でリオ生まれの妻は時々虫の居所が悪いと”ここで生まれた私が日本人ならいったい誰がブラジル人なの? インヂオだけ?" と反論するとバツの悪そうな顔をします。なにしろブラジルは混血の国。西暦1500年ポルトガル人によって発見され、それ以来色々な人種、国籍の人たちが混じっています。日本人はまだ百年と移民の歴史も浅く人種、言葉、宗教、習慣の違いなどでブラジルに同化したのも遅くそしてこの顔ですからいつまでもこういうことが起きるのだと思います。
日系人たちはブラジルでは日本人かと言われ、日本へ行けばブラジル人という意識で生活します。私達がそうでした。二十数年前私たちが日本でブラジルからの駐在員として住んでいた時、周りにブラジル人はいなく妻はいつもブラジルの旗を掲げて生活していたと言っています。ブラジルの悪口を言われると憤慨しブラジルの国歌を聞くと涙ぐんでいました。それを見て近所の奥さんたちは”ブラジルはきっと素晴らしい国に違いない、なぜならば日本国中探してもあなたのような愛国者はどこにもいないから”と言われたそうです。逆に彼女ここブラジルで日本の悪口を言われると憤慨して 君が代 を聞くと感激します。州議会での式典では両国歌が歌われました。
今はグロバリゼーションの時代。品物や人が国籍を問わず新しい市場、職、生活の場を求めて移動しています。将来、国籍など関係なく地球人として通る日が来るでしょうか?
定年退職して指の運動にと今ギターを習っています。よく指が脳の指令を無視します。ジョンレノンのIMAGINE、良い曲ですね。
私たちがサンパウロ州からこちらに越してきたのは31年前。当時日系人は数えるほど。街を歩いていても、一歳になったばかりの娘を抱いているとちょっと触らせてくれと人が立ち止まり瀬戸物の人形のようだと珍しがられました。こちらに来てから10年ほどは毎年のように休暇にはサンパウロに行っていましたが子供を連れていても誰も振りかえってくれず妻と二人でここは張り合いがないなと愚痴って早くヴィトリアに帰ろうといっていたものです。
サンパウロではブラジル人も日系人に慣れていますがこちらでは今もってよく”あなたは日本人ですか”と聞かれます。私は”日本で生まれたけど帰化したからブラジル人だよ” と返事をしますが、自称日本人でリオ生まれの妻は時々虫の居所が悪いと”ここで生まれた私が日本人ならいったい誰がブラジル人なの? インヂオだけ?" と反論するとバツの悪そうな顔をします。なにしろブラジルは混血の国。西暦1500年ポルトガル人によって発見され、それ以来色々な人種、国籍の人たちが混じっています。日本人はまだ百年と移民の歴史も浅く人種、言葉、宗教、習慣の違いなどでブラジルに同化したのも遅くそしてこの顔ですからいつまでもこういうことが起きるのだと思います。
日系人たちはブラジルでは日本人かと言われ、日本へ行けばブラジル人という意識で生活します。私達がそうでした。二十数年前私たちが日本でブラジルからの駐在員として住んでいた時、周りにブラジル人はいなく妻はいつもブラジルの旗を掲げて生活していたと言っています。ブラジルの悪口を言われると憤慨しブラジルの国歌を聞くと涙ぐんでいました。それを見て近所の奥さんたちは”ブラジルはきっと素晴らしい国に違いない、なぜならば日本国中探してもあなたのような愛国者はどこにもいないから”と言われたそうです。逆に彼女ここブラジルで日本の悪口を言われると憤慨して 君が代 を聞くと感激します。州議会での式典では両国歌が歌われました。
今はグロバリゼーションの時代。品物や人が国籍を問わず新しい市場、職、生活の場を求めて移動しています。将来、国籍など関係なく地球人として通る日が来るでしょうか?
定年退職して指の運動にと今ギターを習っています。よく指が脳の指令を無視します。ジョンレノンのIMAGINE、良い曲ですね。
2008年4月8日火曜日
Mãe Coragem
No Brasil a cada esquina tem um carrinho de churrasco. Perto de casa também tem, um que oferece espetinhos com tempero especial. Às vezes, quando volto para casa bem de tardezinha, aquele cheirinho é uma tentação. Acabo pegando para janta 4 espetos de boi, 3 de frango, 2 de coração e 2 de lingüiça. Sempre o marido fica na brasa e a mulher atendendo a freguesia. Esta é a história que a mulher contou para minha esposa.
Há mais de 10 anos atrás, um dia, o marido chegou em casa mancando, entregou um punhadinho de dinheiro e disse “Este é o último dinheiro, pois torci o pé e fui despedido do serviço de ajudante de pedreiro”. A mulher contou o dinheiro e viu que só dava para comprar um pacote de arroz, feijão, óleo, açúcar e mais um punhado de coisas. E depois? O que vamos comer? Dois filhos pequenos para criar... Pensou, pensou e criou a coragem e foi para o supermercado perto de casa. Comprou um maço de espetos, um pacote de carvão, algumas cervejas e o resto em carne. Preparou a carne em espetos e à tarde já estava na esquina assando carninhas numa churrasqueira improvisada de lata de óleo de 18 litros, catada na rua.
Os peões que estavam voltando para casa pararam atraídos pelo cheiro. Aí ela disse “Vem cá, a carne daqui é especial, pode pegar que aqui não tem miséria não, estão bem apertadinhas que você nem vê o espeto e tem ainda farinha à vontade”. “Então vamos”. A turma gostou e foram ajuntando as pessoas e nem precisou acender a lâmpada quando percebeu que não tinha mais espeto para vender. Voltou para casa e viu que o dinheiro dava para comprar a comida que precisava e ainda sobrou o suficiente para preparar espetinhos. E foi assim dia após dia crescendo a renda.
Hoje, ela não está mais na esquina. Comprou a casa onde antes mal conseguia pagar o aluguel. De dia, o marido usando a experiência anterior de ajudante de pedreiro fez a obra reformando a casa e mais 2 casas para alugar nos fundos e um ponto de comércio para servir os espetinhos na frente. Outro dia ela estava fazendo propaganda de que vai ter frangos na brasa aos domingos e comentou que não se faz espetinho como antigamente. As coisas estão ficando mais difíceis e sempre tentando oferecer mais para sobreviver. “Tudo bem, se faltar mais, vai ter café da manhã e marmita no almoço também. Não tenho preguiça para trabalhar”.
Viva mãe coragem !!
Há mais de 10 anos atrás, um dia, o marido chegou em casa mancando, entregou um punhadinho de dinheiro e disse “Este é o último dinheiro, pois torci o pé e fui despedido do serviço de ajudante de pedreiro”. A mulher contou o dinheiro e viu que só dava para comprar um pacote de arroz, feijão, óleo, açúcar e mais um punhado de coisas. E depois? O que vamos comer? Dois filhos pequenos para criar... Pensou, pensou e criou a coragem e foi para o supermercado perto de casa. Comprou um maço de espetos, um pacote de carvão, algumas cervejas e o resto em carne. Preparou a carne em espetos e à tarde já estava na esquina assando carninhas numa churrasqueira improvisada de lata de óleo de 18 litros, catada na rua.
Os peões que estavam voltando para casa pararam atraídos pelo cheiro. Aí ela disse “Vem cá, a carne daqui é especial, pode pegar que aqui não tem miséria não, estão bem apertadinhas que você nem vê o espeto e tem ainda farinha à vontade”. “Então vamos”. A turma gostou e foram ajuntando as pessoas e nem precisou acender a lâmpada quando percebeu que não tinha mais espeto para vender. Voltou para casa e viu que o dinheiro dava para comprar a comida que precisava e ainda sobrou o suficiente para preparar espetinhos. E foi assim dia após dia crescendo a renda.
Hoje, ela não está mais na esquina. Comprou a casa onde antes mal conseguia pagar o aluguel. De dia, o marido usando a experiência anterior de ajudante de pedreiro fez a obra reformando a casa e mais 2 casas para alugar nos fundos e um ponto de comércio para servir os espetinhos na frente. Outro dia ela estava fazendo propaganda de que vai ter frangos na brasa aos domingos e comentou que não se faz espetinho como antigamente. As coisas estão ficando mais difíceis e sempre tentando oferecer mais para sobreviver. “Tudo bem, se faltar mais, vai ter café da manhã e marmita no almoço também. Não tenho preguiça para trabalhar”.
Viva mãe coragem !!
2008年4月4日金曜日
肝っ玉母さん
ブラジルではよく街角に屋台がでています。うちの近くにもおいしいバーベキューの串刺しを出している屋台があります。夕暮れ、用事で遅くなったときそこを通りかかると牛肉4本、鶏肉3本、鶏の心臓2本、ひき肉の腸詰2本など持ち帰り夕食とします。旦那は焼き方専門、奥さんはお客さんの応対と夫婦で仲良くやっています。この話はそこの奥さんが妻に語った話です。
十数年前のある日、左官の見習いをしていた旦那がトボトボと家に帰り着き奥さんに言いました。「今日足をくじいて仕事が出来なくなって首になったよ」と奥さんに僅かな金を渡しました。数えてみると明日の米と豆、それとおかずを買う金しかない。これを全部使ったらそのあと食べていけない。まだ小さい子供が二人いる。奥さんじっと考えこんだかと思うと近くのスーパーに駆け込みました。有り金はたいて肉、炭一袋、串一束それにビールを数缶買いました。早速家に帰り肉を切り串に刺し18リットルの油の古缶を拾ってきてそれに炭をおこしました。「あなた何ぐずぐずしているの早くこれを通りの角まで持って行って私は肉を持っていくから」。丁度仕事帰りの男たちが匂いに惹かれて立ち止まりました。「おや、おいしそうな肉だな」「私が一番いい肉をよってきたんだよ、それにけちっちゃないよ、ほらこの通り串に隙間なく刺してあるのでお客さんにひもじい思いはさせないって」「おいみんな、それじゃここで晩飯とするか」慣れない手付きで忙しく応対しているうちに気が付いたら全部売り切れていました。家に帰って売り上げを数えてみると明日の家族の食料と肉や炭が今日より買える金が残っていました。翌日早速スーパーに行きその日の食料、それから肉、炭、串そしてビールを1ダース買って帰りました。その日も全部売り切れ。
おいしくて他より肉が多いと評判になり今でも仕事帰りの人たちが結構座っています。旦那にも左官の仕事はやめてもらい手伝ってもらうようにしました。ようやくのことで家賃を払っていたのがいまはそこの家を買い取り建て増しして借家を2軒つくりいまや家主さんです。建て増しには旦那の以前の左官の腕が役に立ちほとんど自分一人で仕上げました。先月から自宅を改良して街角はやめてそこでお客さんに出せるようにしましたが売り上げは競争も激しくなってちょっと減ってきたといっていました。「なあに、そうなれば弁当でも朝のコーヒーでもなんでもだすよ。私は怠けることがだいっ嫌いなのでね」
肝っ玉母さんがんばれ!!
十数年前のある日、左官の見習いをしていた旦那がトボトボと家に帰り着き奥さんに言いました。「今日足をくじいて仕事が出来なくなって首になったよ」と奥さんに僅かな金を渡しました。数えてみると明日の米と豆、それとおかずを買う金しかない。これを全部使ったらそのあと食べていけない。まだ小さい子供が二人いる。奥さんじっと考えこんだかと思うと近くのスーパーに駆け込みました。有り金はたいて肉、炭一袋、串一束それにビールを数缶買いました。早速家に帰り肉を切り串に刺し18リットルの油の古缶を拾ってきてそれに炭をおこしました。「あなた何ぐずぐずしているの早くこれを通りの角まで持って行って私は肉を持っていくから」。丁度仕事帰りの男たちが匂いに惹かれて立ち止まりました。「おや、おいしそうな肉だな」「私が一番いい肉をよってきたんだよ、それにけちっちゃないよ、ほらこの通り串に隙間なく刺してあるのでお客さんにひもじい思いはさせないって」「おいみんな、それじゃここで晩飯とするか」慣れない手付きで忙しく応対しているうちに気が付いたら全部売り切れていました。家に帰って売り上げを数えてみると明日の家族の食料と肉や炭が今日より買える金が残っていました。翌日早速スーパーに行きその日の食料、それから肉、炭、串そしてビールを1ダース買って帰りました。その日も全部売り切れ。
おいしくて他より肉が多いと評判になり今でも仕事帰りの人たちが結構座っています。旦那にも左官の仕事はやめてもらい手伝ってもらうようにしました。ようやくのことで家賃を払っていたのがいまはそこの家を買い取り建て増しして借家を2軒つくりいまや家主さんです。建て増しには旦那の以前の左官の腕が役に立ちほとんど自分一人で仕上げました。先月から自宅を改良して街角はやめてそこでお客さんに出せるようにしましたが売り上げは競争も激しくなってちょっと減ってきたといっていました。「なあに、そうなれば弁当でも朝のコーヒーでもなんでもだすよ。私は怠けることがだいっ嫌いなのでね」
肝っ玉母さんがんばれ!!
2008年3月29日土曜日
なんでわかったと?
この前、近所の知り合いの二世の方と会ったとき時日本の方言の話がでました。私と同じ年配の二世の人たちは大体皆日本語が話せます。なんでも彼が育ったコロニヤ(日系集団地)は約50家族ほど、親は熊本出身、でもまわりは日本の色々な地方から来ている人たちでその中で育ったから今でも自分の日本語はどこの方言なのかわからないと言っていました。
そういえばこちらでも早くから日本語のラジオ放送はあったし、また田舎に住んでいた私達には唯一の娯楽であった日本映画はよく見たし、それに最近ではNHKも見れるので方言はこちらでもあまり気づかなくなりました。まだ私達日本生まれの者のほうが残っているかもしれません。今やコンピュータ時代、インターネットで日本の新聞のニュースをオンラインで読んでいます。このカタカナ言葉や略語には悩まされます。便利なのも沢山ありますがなぜ日本語で言わないのかと言いたくなるのもまた沢山。先月読売オンラインの発言小町というコーナーで博多弁(福岡弁)というトピ(これ英語のtopicの日本語略ですかね?)がでていたので私も参加してみました。ブラジル(伯国)に住んでいるという意味で住伯というHN(なんでも英語のハンドルネームの略語らしいです)でだしてみました。以前、他のトピでこのHNでだしたことがあるのですがその時は最後にブラジルの者ですと書いたところトピ主さんはてっきり佐伯さんだと思っていたとそのあと書いておられたのでびっくりしました。字が似ていますからね。危ういところでした(?)。
そういえば、漢字には意味があるというのはこちらの人も皆知っているので私の名前の意味はなんだとよく聞かれます。私は"佐"は助けるを意味し、また"伯"はブラジルを意味するので即ち私はブラジルを助けるためにこちらに来たのだというと皆半信半疑の顔をします。このこじつけ訳、結構気に入っていてよく使っています。
さて私の投稿はこういう内容でした。
なんでわかったと?
住伯
2008年2月7日 23:19
トピのタイトルに惹かれて読んでいるうちになつかしいやらおかしいやらで涙がでてきました。私は筑豊生まれの筑豊育ちでブラジルに来て47年。今でも家の 中の会話は日本語です。結婚するまでは勿論福岡弁の中。おばあちゃんが長野県出身の二世の妻と結婚してからは出来るだけ標準語らしきものを使うよう努めて います。時々母と妻との会話が通じなくなることがあります。”あんたくさ、これなおしといて”とバケツを手渡された妻、水を入れてももっていないし取っ手 もまだ新しい、いくら調べても修繕するところがない。”これなおすところはありません”という始末。この前、娘が日本からの留学生と話していたところ ” もしかして、あなたのお父さんかお母さん福岡県の人じゃない?”と言われたそうです。”なんでわかったとと聞かんやったんか”と私。 (注:"なおす"というのは"仕舞う"ということです。)
自信なくしました
住伯
2008年2月12日 1:22
このトピにでているのみんな福岡弁ですか? 自信なくしました。自分では標準語を話しているつもりですが。十何年か前九大生の従兄弟の長男がこちらに遊び に来てくれた時すごい博多弁でびっくりしました。若い人達は博多弁を使わないと思っていたからです。それに比べて自分のは標準語だと安心していたのです が。
今年はブラジルでは日本移民百年祭が催されます。日本からも多くの訪問客があるようです。停車場ならぬ飛行場では日本の方言、ひょっとしたら博多弁も聞けるかもしれません。
”ききい?” と ”きききい?”suzu様の説明で ”る” を ”い”に置き換えるとよくわかりました。楽しいトピありがとうございました。 (注:「来きる」→一人でうちまで来きる?
「聞ききる」→道に迷ったら、通りがかった人に道ば聞ききる?)
「かった」と「こぅた」?
住伯
2008年3月1日 6:53
「げってん」が出てきたのでまた戻ってきました。うちのほうでは「げってんをおこす」と言わず「げってんをまわす」と言っていました。いろいろ懐かしい言葉が出てきていますね。
そこでみなさんにお聞きします。我が家では借りたのを「かった」そして買ったのを「こぅた」と言っていました。私も妻も本好き。私が気に入った本を「これ かったから読んだらいいよ」と手渡してさて一週間後「もう読んだ、あの本もどさんといかんとよ」と言うと「まだ読んでないわ、私はあなたが買ったと思って いたのに」「なに私はこぅたとはいわんやったよ」。それからは「借りた」「買った」で気を付けていますが時々昔の癖がでてきて混乱がおきます。これは我が 家だけだったのでしょうか?
(注: げってんをおこす、或いは げってんをまわすとは癇癪(かんしゃく)をおこすということです。またこの後、自分の所も"かった" "こぅた" を使っているとの投稿がありました。)
後談: このあと日本語を書く時に漢字に変換できないのは標準語かどうか辞書で調べています。
そういえばこちらでも早くから日本語のラジオ放送はあったし、また田舎に住んでいた私達には唯一の娯楽であった日本映画はよく見たし、それに最近ではNHKも見れるので方言はこちらでもあまり気づかなくなりました。まだ私達日本生まれの者のほうが残っているかもしれません。今やコンピュータ時代、インターネットで日本の新聞のニュースをオンラインで読んでいます。このカタカナ言葉や略語には悩まされます。便利なのも沢山ありますがなぜ日本語で言わないのかと言いたくなるのもまた沢山。先月読売オンラインの発言小町というコーナーで博多弁(福岡弁)というトピ(これ英語のtopicの日本語略ですかね?)がでていたので私も参加してみました。ブラジル(伯国)に住んでいるという意味で住伯というHN(なんでも英語のハンドルネームの略語らしいです)でだしてみました。以前、他のトピでこのHNでだしたことがあるのですがその時は最後にブラジルの者ですと書いたところトピ主さんはてっきり佐伯さんだと思っていたとそのあと書いておられたのでびっくりしました。字が似ていますからね。危ういところでした(?)。
そういえば、漢字には意味があるというのはこちらの人も皆知っているので私の名前の意味はなんだとよく聞かれます。私は"佐"は助けるを意味し、また"伯"はブラジルを意味するので即ち私はブラジルを助けるためにこちらに来たのだというと皆半信半疑の顔をします。このこじつけ訳、結構気に入っていてよく使っています。
さて私の投稿はこういう内容でした。
なんでわかったと?
住伯
2008年2月7日 23:19
トピのタイトルに惹かれて読んでいるうちになつかしいやらおかしいやらで涙がでてきました。私は筑豊生まれの筑豊育ちでブラジルに来て47年。今でも家の 中の会話は日本語です。結婚するまでは勿論福岡弁の中。おばあちゃんが長野県出身の二世の妻と結婚してからは出来るだけ標準語らしきものを使うよう努めて います。時々母と妻との会話が通じなくなることがあります。”あんたくさ、これなおしといて”とバケツを手渡された妻、水を入れてももっていないし取っ手 もまだ新しい、いくら調べても修繕するところがない。”これなおすところはありません”という始末。この前、娘が日本からの留学生と話していたところ ” もしかして、あなたのお父さんかお母さん福岡県の人じゃない?”と言われたそうです。”なんでわかったとと聞かんやったんか”と私。 (注:"なおす"というのは"仕舞う"ということです。)
自信なくしました
住伯
2008年2月12日 1:22
このトピにでているのみんな福岡弁ですか? 自信なくしました。自分では標準語を話しているつもりですが。十何年か前九大生の従兄弟の長男がこちらに遊び に来てくれた時すごい博多弁でびっくりしました。若い人達は博多弁を使わないと思っていたからです。それに比べて自分のは標準語だと安心していたのです が。
今年はブラジルでは日本移民百年祭が催されます。日本からも多くの訪問客があるようです。停車場ならぬ飛行場では日本の方言、ひょっとしたら博多弁も聞けるかもしれません。
”ききい?” と ”きききい?”suzu様の説明で ”る” を ”い”に置き換えるとよくわかりました。楽しいトピありがとうございました。 (注:「来きる」→一人でうちまで来きる?
「聞ききる」→道に迷ったら、通りがかった人に道ば聞ききる?)
「かった」と「こぅた」?
住伯
2008年3月1日 6:53
「げってん」が出てきたのでまた戻ってきました。うちのほうでは「げってんをおこす」と言わず「げってんをまわす」と言っていました。いろいろ懐かしい言葉が出てきていますね。
そこでみなさんにお聞きします。我が家では借りたのを「かった」そして買ったのを「こぅた」と言っていました。私も妻も本好き。私が気に入った本を「これ かったから読んだらいいよ」と手渡してさて一週間後「もう読んだ、あの本もどさんといかんとよ」と言うと「まだ読んでないわ、私はあなたが買ったと思って いたのに」「なに私はこぅたとはいわんやったよ」。それからは「借りた」「買った」で気を付けていますが時々昔の癖がでてきて混乱がおきます。これは我が 家だけだったのでしょうか?
(注: げってんをおこす、或いは げってんをまわすとは癇癪(かんしゃく)をおこすということです。またこの後、自分の所も"かった" "こぅた" を使っているとの投稿がありました。)
後談: このあと日本語を書く時に漢字に変換できないのは標準語かどうか辞書で調べています。
2008年2月29日金曜日
うるうどしーAno bissexto
Lina の ともだちのみなさん おげんきですか?
きょうは うるうどしの にがつにじゅうくにち (2月29日)。よねん (4年)に いちど しか めぐってきません。
このうるうどし どうして できるのかというと ちきゅうが たいようの まわりを まわるのに さんびゃく ろくじゅう ご にち(365日) ご じかん よんじゅう はち ふん よんじゅう ろく びょう (5時間48分46秒)かかるからです。ろく じかん (6時間)あれば よねんで ちょうど にじゅう よ じかん (24時間) で いちにち(1日)たせばいいのですが そのずれをなおすには ひゃく にじゅう はち ねん (128年)に いちにち (1日)とらなければなりません。にがつ (2月)はローマのこうてい Julio Cesar と Augusto がじぶんのつき Julho と Agosto が さんじゅういちにち (31日)になるように にがつ (2がつ)からいちにち (一日)ずつとったので にじゅうはちにち (28日)になったのだと きいたことがあります。
それにしても 2月29日に かくことができるのは 4年に いちどなので このポストとなりました。
にほんご (日本語) の かずのかぞえかた せかいで いちばん やさしいのでは ないかとおもいます。なにしろ 1 から 10 まで おぼえれば 99まで かぞえることができ ひゃくということばをひとつ おぼえれば 999 まで、 そして せん、まん、おく、ちょう ということばをおぼえればなんと trilhoes までかぞえることができるのです。
1(ichi),2(ni),3(san),4(yon,ou shi),5(go),6(roku),7(nana, ou shichi),8(hachi),9(kyu, ou ku),10(juu), 100(hyaku),1000(sen),10000(man), 100000000(oku). A contagem em japonês muda em cada 4 zeros e não em cada 3 zeros como no modo ocidental. Por exemplo, como contar os números que apareceram no texto acima, 29, 46, 365 e 128 ?
ni juu kyu, yon juu roku, san byaku (variação de hyaku usada no caso de 300) roku juu go, hyaku ni juu hachi. Não é fácil? E agora 4578 ? yon sen go hyaku nana juu hachi!
Tem mais uma variação no caso de 800 devido a sequencia de hachi e hyaku ser pronunciada numa só palavra happyaku por eufonia (?). Hachi mais sen também pronuncia-se como hassen. 3000 é pronunciado san zen em vez de san sen.
Animou? Entao, agora 26893? ni man roku sen happyaku kyu juu san.
Agora invente os números e pratique, você será o doutor em contar os números em japonês.
Boa sorte ?
P.S. :うえのしゃしんは1がつ22にちにうまれたあきたのこいぬです。ごひきうまれました。
2008年2月21日木曜日
Banana chips - バナナチップス
2月18日のブログで紹介したバナナチップス早速作ってみました。これは木からまだ青い時に切ったものでガス等で人工的に熟らすプロセスが為されてないものでないと出来ません。こちらでも八百屋さんに並んでいるのではだめです。バナナを縦に薄く切り油で揚げます.写真のバナナチップスはチップス用として早めに獲らなかったバナナなので糖分がでてきてしまって真っ白には仕上がりませんでした。それでもさわやかな味でおいしかったです。青い時はチップスそして熟れて来るとそのまま皮をむいて食べます。人工的に熟れたものは一度にみな熟れてしまいますが、自然に熟れてくると段々色づいてきます。それでも食べきれない時はバナナケーキ、バナナ飴、バナナジャムとなります。またバナナを縦半分に切り干バナナにすれば甘みが集約されとても甘くなります。
2008年2月19日火曜日
Obrigado o Brasil !!
O Carnaval terminou e começaram, de verdade, as atividades de 2008. Durante o período entre o Natal e O Carnaval, o Brasil ainda está sonolento e só acorda depois do Carnaval. O Carnaval lembra a farra, mas é definido conforme o calendário religioso. Primeiro, fixa-se a Páscoa como primeiro domingo após a lua cheia que ocorre depois de 21 de março (inclusive). O Carnaval é um dia antes de quarta-feira de cinza, a qual é definida como 40 dias antes da Páscoa. Nessa contagem de dias excluem-se os domingos. Este ano, o Carnaval ficou no dia 5 de fevereiro, o que é muito cedo comparado com outros anos, pois a lua cheia caiu exatamente no dia 21 de março. Parece que o Carnaval tão cedo não acontecia há 40 anos.
A Quaresma, o período que se inicia na quarta-feira de cinza e termina no domingo de Páscoa, como sendo de penitência e meditação, as atividades serão moderadas inclusive as refeições privadas de carne. O rigor da tradição parece estar perdendo pouco a pouco exceto para a sexta-feira de Paixão, quando não se come a carne mesmo, assim aumenta a procura de peixe, conseqüentemente aumenta o preço de peixe. Nós, japoneses, budistas, também respeitando a tradição, não comemos carne nesse dia. A Ilha de Páscoa que pertence ao Chile no Pacífico sul foi assim denominado no dia 5 de maio de 1722, no dia da Páscoa.
O Carnaval deste ano ficou inesquecível para nós, nipo-brasileiros, porque a “Porto da Pedra”, uma das escolas de samba do Grupo especial do Rio adotou como o enredo “O centenário da imigração japonesa”, foi assim fez a “Unidos de Vila Maria”, uma das escolas de samba do Grupo especial de São Paulo. O Carnaval do Rio é conhecido como o maior show do mundo. Porém, o desfile de São Paulo está fazendo bonito e ficando cada vez maior. Hoje em dia tanto no Rio como em São Paulo, cada escola de samba está composta de mais de 4 mil pessoas com as fantasias deslumbrantes (ou pouquíssimas vestimentas) acompanhadas de enormes carros alegóricos com cheio de tecnologia de ponta (?).
O último lugar do Grupo especial do Rio que é composto por 12 escolas de samba é rebaixado para o Grupo de acesso e o primeiro do Grupo de acesso é promovido para o Especial para desfilar no ano seguinte. Em São Paulo as duas escolas de samba dentre as 14 do Grupo especial são trocadas. O desfile do Carnaval é promovido em qualquer cidade do Brasil variando de seu tamanho. O desfile do Carnaval em Vitória também está ficando cada ano maior.
Em Mogi das Cruzes, onde a presença dos nipo-brasileiros é marcante, todas as escolas de samba desfilaram com o enredo de imigração japonesa. O prefeito atual de Mogi das Cruzes é o nipo-brasileiro Junji Abe.
Foram 100 anos da imigração japonesa, e sentimos que os brasileiros acolheram os nipo-brasileiros com carinho e hoje consideram como parte do Brasil. Fiquei emocionado e digo “Obrigado o Brasil”
A Quaresma, o período que se inicia na quarta-feira de cinza e termina no domingo de Páscoa, como sendo de penitência e meditação, as atividades serão moderadas inclusive as refeições privadas de carne. O rigor da tradição parece estar perdendo pouco a pouco exceto para a sexta-feira de Paixão, quando não se come a carne mesmo, assim aumenta a procura de peixe, conseqüentemente aumenta o preço de peixe. Nós, japoneses, budistas, também respeitando a tradição, não comemos carne nesse dia. A Ilha de Páscoa que pertence ao Chile no Pacífico sul foi assim denominado no dia 5 de maio de 1722, no dia da Páscoa.
O Carnaval deste ano ficou inesquecível para nós, nipo-brasileiros, porque a “Porto da Pedra”, uma das escolas de samba do Grupo especial do Rio adotou como o enredo “O centenário da imigração japonesa”, foi assim fez a “Unidos de Vila Maria”, uma das escolas de samba do Grupo especial de São Paulo. O Carnaval do Rio é conhecido como o maior show do mundo. Porém, o desfile de São Paulo está fazendo bonito e ficando cada vez maior. Hoje em dia tanto no Rio como em São Paulo, cada escola de samba está composta de mais de 4 mil pessoas com as fantasias deslumbrantes (ou pouquíssimas vestimentas) acompanhadas de enormes carros alegóricos com cheio de tecnologia de ponta (?).
O último lugar do Grupo especial do Rio que é composto por 12 escolas de samba é rebaixado para o Grupo de acesso e o primeiro do Grupo de acesso é promovido para o Especial para desfilar no ano seguinte. Em São Paulo as duas escolas de samba dentre as 14 do Grupo especial são trocadas. O desfile do Carnaval é promovido em qualquer cidade do Brasil variando de seu tamanho. O desfile do Carnaval em Vitória também está ficando cada ano maior.
Em Mogi das Cruzes, onde a presença dos nipo-brasileiros é marcante, todas as escolas de samba desfilaram com o enredo de imigração japonesa. O prefeito atual de Mogi das Cruzes é o nipo-brasileiro Junji Abe.
Foram 100 anos da imigração japonesa, e sentimos que os brasileiros acolheram os nipo-brasileiros com carinho e hoje consideram como parte do Brasil. Fiquei emocionado e digo “Obrigado o Brasil”
ブラジルありがとう!!
カーニバルも終わりブラジルも本格的な2008年の活動が始まりました。クリスマスが終わると新年そして待っているのがカーニバル。この間ブラジルは落ち着きません。カーニバルは謝肉祭などと日本語に訳されていますが実はこれ立派なキリスト教に基づいた日なのです。キリスト教にとって一番大事な日はイースター(復活祭)です。この日は3月21日(も含み)以降の満月の後の第一日曜日となっています。その二日前がキリストがはりつけにあった受難の日。イースターから逆算して40日目(日曜日を除いて)が灰の水曜日となりその前日がカーニバルです。今年は2月5日。例年にない早いカーニバルとなりました。というのは満月が3月21日の金曜日でイースターが23日となっているからです。こんなに早いカーニバルとなったのは40年振りらしいです。カーニバルの後の40日は肉などを食べず慎み深い日を過ごすということになっていますがそれもすこしずつ薄れてきているようです。しかしキリスト受難の日は肉を食べません。仏教徒である私たちもこれは守っています。イースターで終わる週は聖週間と呼ばれキリスト教徒たちは肉を食べず魚介類を求めるので魚の値段がはねあがり魚好きの私達を困らせます。南太平洋のチリに属するモアイで有名なイースター島。1722年の4月5日イースターの日に名づけられた事に由来します。
さてカーニバルに戻りましょう。今年のカーニバルは私達ブラジルに住む日系人にとって記念すべき年となりました。リオ・デ・ジャネイロのスペシアル・グループのひとつ“ポルト・ダ・ペドラ”とサンパウロのスペシアル・グループの一つ“ウニドス・デ・ヴィラ・マリアが日本移民百周年をテーマにしてパレードを行ったからです。リオ・デ・ジャネイロのカーニバルは世界最大のショーと呼ばれていますが最近はサンパウロも負けていません。それぞれのサンバ・スクールが4千人以上で華やかな衣装をまとい(わずかしか着けていない人達もいますが)巨大な数台の山車と共にパレードを繰り広げます。リオのスペシアル・グループは12チームから成り最下位は翌年スペシアル・グループの下のグループのトップと入れ替わります。サンパウロのスペシアル・グループは14チーム、2チームが翌年入れ替わります。このパレード大なり小なりブラジルのどの町でもみられます。ヴィトリア市のパレードも最近賑やかになってきています。日系人の多いモジ・ダス・クルーゼス市では全てのサンバ・スクールが日本移民百周年をテーマにしてパレードを行ったそうです。モジの市長は日系の安部順二氏です。日本移民が始まって百年。ブラジルの一員として暖かい目で見ていてくれているのだなーと感激しました。ブラジルありがとう!!
さてカーニバルに戻りましょう。今年のカーニバルは私達ブラジルに住む日系人にとって記念すべき年となりました。リオ・デ・ジャネイロのスペシアル・グループのひとつ“ポルト・ダ・ペドラ”とサンパウロのスペシアル・グループの一つ“ウニドス・デ・ヴィラ・マリアが日本移民百周年をテーマにしてパレードを行ったからです。リオ・デ・ジャネイロのカーニバルは世界最大のショーと呼ばれていますが最近はサンパウロも負けていません。それぞれのサンバ・スクールが4千人以上で華やかな衣装をまとい(わずかしか着けていない人達もいますが)巨大な数台の山車と共にパレードを繰り広げます。リオのスペシアル・グループは12チームから成り最下位は翌年スペシアル・グループの下のグループのトップと入れ替わります。サンパウロのスペシアル・グループは14チーム、2チームが翌年入れ替わります。このパレード大なり小なりブラジルのどの町でもみられます。ヴィトリア市のパレードも最近賑やかになってきています。日系人の多いモジ・ダス・クルーゼス市では全てのサンバ・スクールが日本移民百周年をテーマにしてパレードを行ったそうです。モジの市長は日系の安部順二氏です。日本移民が始まって百年。ブラジルの一員として暖かい目で見ていてくれているのだなーと感激しました。ブラジルありがとう!!
スターフルーツ - Carambola
2008年2月18日月曜日
Banana - バナナ
今日はバナナを一房収穫しました。146本ありました。後ろに見えるのがその木です。収穫した後切り倒せば2,3本芽が出て又バナナの木に成長します。熟す前にスライスして揚げればバナナチップスになりポテトチップスより爽やかな香りがします。バナナが多く獲れる所ではそれを名物としている所もあります。私たちが初めて見たのはアマゾン川中流のマナウス市でした。ブラジルではバナナはどこでもできその種類は10を越すでしょう。小さいのはモンキーバナナから大きいのは料理用の大バナナまで味、香り、色それぞれです。切り倒せばすぐ芽がでて1年後にはまた見事なバナナの収穫となるのです。一年中収穫出来るのでバナナに占領されないように間引きをしています。ブラジルではなんでも安いということを'バナナの価格だ'と言います。ちなみに今バナナの値段は1ダース80円程度です。バナナとマンジョカはブラジル全国自生しているので飢え死にする人はいないといわれています。先日長距離トラックの運転手と話をしていたら彼はなんとブラジル各地に家族を持っていて本妻を含め誰も相手の存在を知らないと言って自慢げに笑っていました。”この無責任野郎” と非難とからかいの混じった複雑な調子でいうとむこうも察したのか ”いや、そんな事言わないでくれ俺は俺なりに真面目に最善を尽くしているのだ。そう、この前の最後の仕事で途中に寄った家でさ息子が病気だったので有り金を全部はたいてそこにおいてきたんだ。ポケットには燃料カード一枚だけになったけど、道端にあったバナナを二房積み込みそれで飢えを凌いで四千キロを無事家(本宅)へとたどり着いたんだ。どうだ、こういう芸当、猿でも真似できめえ” ”はあ?”
2008年2月16日土曜日
Mandioca - ブラジル原産のいも
上の写真はブラジル原産のいも”マンジョカ”です。一株からほりあげたものです。もっとも浅いところにはいるので茎を引っ張りあげると土のやわらかいところは茎と一緒についてきますが。茎を20センチくらいにきって土にいけると芽を出して2mほどの高さになります。一本掘りあげると何十本もの苗ができるということになります。これは今もブラジル原住民の主食で煮たり澱粉を採って粉にして料理に使ったりします。家では食べやすい大きさに切って煮たり又揚げたりしています。ポロポロした食感でおいしいです。1980年代ブラジルでアルコール車全盛時代は砂糖黍と共にアルコール生産の両翼を担いました。当時は生産される車の90%以上がアルコール車という年があったのではないでしょうか。しかし供給が不安定ということで段々アルコール車が少なくなってきて現在ではガソリン、アルコールいかなるミックスでも走れる車の生産が伸びてきています。アルコールの供給が不安定というのは砂糖黍生産者たちが砂糖とアルコールの値段を比べて利益の上がるほうにまわしているからです。当時は今ほど環境対策など騒がれていませんでしたがある時車の生産と大気汚染のグラフを見たら生産は増えているのに大気汚染は下がっていました。もう少ししっかりした政策をとっていればブラジルはアルコール車生産のノウハウにおいて世界に冠たる国となり大気汚染の問題にも貢献出来たのではないかと思います。今またエタノールと名前を変えて環境対策にクローズアップされて来てますが。アメリカではとうもろこしを使うということで鶏の飼料の高騰を招いているようです。さて21世紀はいかにして環境問題に取り組むかが問われる世紀になりそうです。一番簡単な解決策はマンジョカを植えることです。これはどんなやせた所でも出来るし手入れも要らないで収穫量が多い。まずこれで人類を飢餓から救い残りはアルコールで車にまわす。どうでしょうか?
Viva o Centenário da Imigração Japonesa !
Este ano comemora-se o centenánio da imigração japonesa no Brasil. Muitas cerimônias comemorativas e eventos alusivos ao centenário estão previstos em vários locais onde a imigração japonesa marcou a presença. Da parte do Japão, espera-se a visita do Príncipe herdeiro e virão também muitos representantes governamentais, culturais e da área econômica. A primeira vinda oficial dos imigrantes japoneses aconteceu no dia 18 de junho de 1908 com a chegada do navio Kasato-maru ao porto de Santos trazendo a bordo 781 imigrantes de 165 famílias. Foi uma longa viagem de 52 dias desde a saída do porto de Kobe em 28 de abril. Desde então mais de 240 mil imigrantes japoneses (em torno de 190 mil antes da Segunda Guerra Mundial e mais de 50 mil após) pisaram o solo brasileiro. Agora a população nipo-brasileira no Brasil estima-se em cerca de 1,5 milhão atuando quase em todos os setores. Mas, desde há 20 anos para cá, observa-se o fluxo contrário do Brasil ao Japão de japoneses e seus descendentes denominados “dekaseguis”, o que ninguém podia imaginar antes. Calcula-se que no Japão estão em torno de 300 mil nipo-brasileiros. Que tipo de cenário o século 21 está nos reservando ?
A população nipo-brasileira representa menos de 1% da população brasileira e ocupa uma parte da classe média, fruto de esforço dedicado à educação e trabalho, o conceito reconhecido pelos brasileiros. Por curiosidade, folheei a lista de ex-alunos da minha turma editada na ocasião da festa do encontro ocorrido em 20 de maio do ano passado conforme o blog. Eram 23 nipo-brasileiros dentre 225 pessoas, 10%. Foi uma surpresa que na época nunca tinha reparado. Agora entendo a razão da perigosa frase da época que dizia “Se quiser entrar na faculdade, mate um japonês”, de tom de brincadeira. A colônia japonesa que ostenta essa alta escolaridade carece de uma atuação e contribuição na sociedade brasileira. Certamente isso seria a missão da colônia japonesa daqui em diante.
Viva o Centenário da Imigração Japonesa !!
A população nipo-brasileira representa menos de 1% da população brasileira e ocupa uma parte da classe média, fruto de esforço dedicado à educação e trabalho, o conceito reconhecido pelos brasileiros. Por curiosidade, folheei a lista de ex-alunos da minha turma editada na ocasião da festa do encontro ocorrido em 20 de maio do ano passado conforme o blog. Eram 23 nipo-brasileiros dentre 225 pessoas, 10%. Foi uma surpresa que na época nunca tinha reparado. Agora entendo a razão da perigosa frase da época que dizia “Se quiser entrar na faculdade, mate um japonês”, de tom de brincadeira. A colônia japonesa que ostenta essa alta escolaridade carece de uma atuação e contribuição na sociedade brasileira. Certamente isso seria a missão da colônia japonesa daqui em diante.
Viva o Centenário da Imigração Japonesa !!
2008年2月6日水曜日
日本移民百周年万歳!
今年はブラジルへの日本移民が始まって百年目、各地で記念式典や色々な催し物が予定されており百周年を祝う行事が今年は話題になりそうです。日本からも皇太子が来られるようになっています。その他政財界からも多数来伯が予定されています。
1908年6月18日に第一回移民165家族781人が笠戸丸でサントス港に到着、4月28日に神戸港を出航して52日の航海でした。それ以来24万人以上(戦前約19万人、戦後5万人以上)の日本移民がブラジルの地を踏みました。いまやブラジル日系人の人口は約150万人と言われています。そして20年ほど前までは考えられなかったような現象「デカセギ」と言われるブラジルから日本へ職を求めて働きに行っている日系人が約30万人います。21世紀どういう展開が待っているのでしょうか。
ブラジル全人口の1%弱の日系人ですが一応中流生活者と位置づけされておりそれも教育と勤勉のたまものとブラジル人たちも認めています。昨年の5月20日のブログの同窓会名簿をめくってみました。225人のうち日系人は23人、なんと10%。驚きました。当時は大学に入りたければ日系人を殺せなどと危なげな冗談が聞かれていたのももっともです。これだけの高い教育レベルを持っている日系人、まだブラジル社会への参加、進出にものたりなさを感じます。このへんがこれからの日系社会の課題でしょうか。
日本移民百周年万歳!
1908年6月18日に第一回移民165家族781人が笠戸丸でサントス港に到着、4月28日に神戸港を出航して52日の航海でした。それ以来24万人以上(戦前約19万人、戦後5万人以上)の日本移民がブラジルの地を踏みました。いまやブラジル日系人の人口は約150万人と言われています。そして20年ほど前までは考えられなかったような現象「デカセギ」と言われるブラジルから日本へ職を求めて働きに行っている日系人が約30万人います。21世紀どういう展開が待っているのでしょうか。
ブラジル全人口の1%弱の日系人ですが一応中流生活者と位置づけされておりそれも教育と勤勉のたまものとブラジル人たちも認めています。昨年の5月20日のブログの同窓会名簿をめくってみました。225人のうち日系人は23人、なんと10%。驚きました。当時は大学に入りたければ日系人を殺せなどと危なげな冗談が聞かれていたのももっともです。これだけの高い教育レベルを持っている日系人、まだブラジル社会への参加、進出にものたりなさを感じます。このへんがこれからの日系社会の課題でしょうか。
日本移民百周年万歳!
2008年1月28日月曜日
Sabe o nome desta fruta ? この果物の名前知りませんか?
マンゴージャム
もうすぐマンゴーの季節が終わります。今年はマンゴーが大豊作。年によっては花が咲く時期に長い雨が降ると実のつきが悪くなる時があります。沢山取れた時は少しでも長く味わおうとジャムを作ります。マンゴーの木の下にある野外バーべキュコーナーで妻が精を出しています。このコーナーの屋根一昨年までは焼いた瓦ではってありましたがマンゴーが落ちる時に大分壊れるので去年ゴムに取替えました。14日と今日のマンゴーは木に登って取りました。長いさおの先に袋をつけて取ります。道にはみ出しているマンゴーは近所の子供たちが石や棒を投げて落とそうとします。たまには石が飛んでくることがあるので欲しい時は呼び鈴を鳴らせと言っています。あまりやると癖になるのでなかなか管理が大変です。来年はもう少し楽に取れる方法はないか考えてみようと思っています。
2008年1月14日月曜日
Feliz Ano Novo !
明けましておめでとうございます
明けましておめでとうございます。今年は家の果物が大豊作(?)で良い年の始まりを象徴しているようです。写真の果物はマンゴーで後ろに見えるのが我が家に一本ある木です。一年に一回12月の末から一月にかけてなります。その上の写真はブドウです。やはり一本の木で2階のベランダで夕日よけの緑のカーテンとして夏の強いひざしを遮ってくれています。12月から6月頃まで3回収穫できます。剪定すると実をつけ暑い気候も相俟ってすぐ大きくなります。そのほか、アボガド、グイアバ、バナナ、ココナツ、グラヴィオラ、コンデ、ピタンガ、ビワ、スターフルーツ、アセローラ、クワ、アラサウーナ、キンカン、ジャボチカーバ、イチジク、カジャ、ザクロ、パームがそれぞれ一本ずつあって季節になるとそのまま実を食べたり、ジュースにしたり、それでも手に負えないときはジャムにしたりしています。日本のみなさんは名前さえ聞いたことがない果物があるのではないでしょうか。一度ブラジルに来て味わって下さい。これから近所に写真のマンゴーを配ってきます。
2008年が皆様にとって素晴らしい年でありますように。
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