2017年3月8日水曜日

新しい年度

日本には年度という慣習があって4月から翌年の3月までの期間に使われているようだ。
西洋にはどうもないようだがブラジルには年の始まりのほかに国全体が本格的に動き出す時がある。
先日知り合いが来て今年のカーニバルはバイア州の州都サルバドールに恋人と一緒に行ってきたと話した。小学校の先生だがカーニバル休みの5日間は踊りまくり授業が始まるので仕方なく帰ってきたとのこと。そして最後に「カーニバルが終わるといよいよ年が始まるね。」
そう、ブラジルではクリスマスからカーニバルまでの期間はあらゆるところで100パーセント機能しているとは言えなく、本格的に仕事に取り組むのはカーニバル以降となる。それで新しい年の始まり、いや年度の始まりはカーニバルの次の週からとなる。

ブラジルでも4月からの年度のシステムを使い始めたのではないかと感じたのはブラジル最大の民間テレビ局のグローボ社、日本にも駐在員を置いていて、アジアのニュースを発信している。ここのテレビの番組の強さは連続ドラマ。毎日5,6本は通していてそれぞれ1時間。NHKの朝ドラを見ていると15分なのでブラジルのだとこれから配役が画面に流れるのだがと妻と共にうなづく。
最近どうやら大部分は3月に終わり4月に新しいドラマが始まっているような気がして、あれー、日本のように仕事の区切りを3月にしたのではと疑っている。

今年初めてのこのブログのポストが「どくろ検査官」となってちょっとまずいなーとタイトルが2017年になった時に気が付いた。実はこれ2016年の12月22日に書き出して途中で止めて下書きとしていたので載せるときはその日付になると勘違いしていた。

今年のカーニバルは週末から数えると2月25日から3月1日まででその次の週は日曜日の5日ということで今年度のブログを書き始めようと思ってブログを開けると去年のが残っていたのでそれを片付けてからと思ったら今年になった。そういういきさつで「どくろ」から
始まってしまったが今年の正月、我が家には正月の雰囲気はなかった。

去年の12月20日妻は左ひざを手術。22日ごろから経過が思わしくなく足全体が腫れだしひどい痛みを感じたので救急車を呼び痛み止め熱冷ましなどの応急手当てを受けたがますます膝が腫れてきた。家に帰ってきてソファーに座ろうとしたら手術の縫い合わせの所から膿が飛び散った。これはただ事ではない、すぐ医者に連絡、見てもらったら院内感染でバクテリアが入っているというのでそのまま入院、そして妻はその場で再び手術室に運ばれた

去年の初めに妻は右ひざを同じ医者同じ病院で手術、経過も良好だった。10月ごろ今度は左ひざが思わしくないのでMRIを取ると靭帯がきれて昔の骨のかけらなどがあると分かったので12月に手術をすることにした。その昔のかけらには覚えがありその時は少女時代で一週間昏睡状態になったそうだ。今まで何回も手術したが回復は非常に速かったので手術で治り何も危なくないというのが私たちの頭にあった。たまに院内感染という言葉を聞いたがそれがどういうものか深くどころか浅くも知ろうとしなかった。
今回妻がかかりいかに怖いものか身に染みて分かった。妻にはこれからの手術は禁止と言い渡し絶対に無理をしないようにとも言い渡した。

クリスマスイブとクリスマスは西洋のしきたりでは大事な日だ、ましてブラジルはカトリック大国、家族皆一緒に過ごす。長男夫婦と娘夫婦の場合、嫁、婿はそれぞれの家族とクリスマスを過ごし、年末年始を我が家で過ごすのが我が家のしきたりとなり12月26日彼らは来た。
しかしその時すでに妻は入院していたので会えなかった。始めの2週間は集中治療室なので面会は家族でも一日2回それも30分と制限されている。
私と長女が面会、しかし妻は手術室で膿の洗浄をしたり、痛みが激しいときはモルヒネをうたれたりしていたので面会と言っても初めの頃はただ顔を見るだけに終わった。抗生物質を使っているのだろうがなかなか容態は良くならない。長男はリオの国立伝染病の医師なので係の医者と相談し薬を変えた。それから少しづつ良くなっていくのがわかった。病人との面会で私達が手続きをして時間がくるまで待っている間も彼が医師証明書を窓口で見せるとフリーパスなので私達より先に行って係の医者と話たりしていた。

病院のすぐ横に私立の総合大学がありクリチーバに引っ越す前、娘はそこの法学部で教えていた。そのころの友達にメールで誰かここの病院の医者、看護婦を知らないかと聞くと医者一人、看護婦二人知っていると返事があったので友達を通じ娘の所に妻の容態についての知らせが入ってきていた。始めは重体で骨の奥まで達しているとのことだったが息子が薬を変えてからはだんだん明るい知らせとなってきた。

集中治療室の後は病室になったが一日24時間の付き添いとなっているので娘と24時間交代でやることにした。病院は膝の手術をした医者がベースにしている病院なのでそれまで使っていた病院と違い我が家からは車で約40分かかる。午後2時に病院で車のバトンタッチをする。病院ではブラジル食なのでなかなかのどに通らない妻に日本食を持って行っても薬のせいかあまり食がすすまない。40日の入院期間中12キロやせてしまった。

リオに住む息子は仕事の都合でどうしても長くはおれないので妻の入院中3回のリオ―ヴィトリア往復となり抗生物質の効き目をフォローした。
娘夫婦は1月6日に帰るようにしていたが自分が経営している学校は夏休み、教えている大学の授業も休みなので帰りを29日まで延ばした。

ヴィトリアでIT関係の会社に勤めていた次男は去年の4月に娘が住んでいるパラナ州の先のサンタカタリナ州に移りやはりIT関係の会社に勤めていてまだ1年にならないので休暇が取れず6歳の孫娘恵美が一人で来た(航空会社で料金を払ってのエスコートサービスがある。)彼女がこちらに着いた当時、妻は入院していて私たちも世話できなかったのでここで一緒に通った幼稚園の友達の家で2週間ほど世話になった。その後入院中の妻に会うことができ、おじさんおばさんからはスーツケースに入らないほどのお土産をもらいよろこんで帰っていった。帰りは娘(おばさん)がサンタカタリナ州まで同行。娘はそこに迎えに来ていた旦那の車で帰路についた。他州までなのでおまけにバカンスの終わりときて道路はすごく混雑していて普通は5時間弱でいけるのに8時間くらいかかったそうだ。

今回の経験で家族の大切さを身に染みて感じた。献身的なサポートなんて家族でないとできないしこちらも安心して身をまかせられないと思った。私達年寄り二人が家族が一人もいない所で暮らすのは彼らに大きな負担をかけるのではないかとも。
元気で世話にならない老後の生活、それは幻想に過ぎないと知った。
これからの生活を模索して結論を出そうとしている今日この頃である。

妻はまだ一人では歩けない。近くのスーパーには車で行きあとは車いすで私が押して回っている。普通の生活への復帰が遅いのでまた膝のMRIをとった。明日医者と話し合う。

2017年3月6日月曜日

髑髏(どくろ)検査官

実はこの話は運転免許の話が出るたびに妻から今まで何回も聞いた話で、いつかブログに書いておこうと思いながら長い年月が過ぎとうとう今日になってしまった。

妻は17歳の時に父親をなくしそれからは近所に用がある場合などは祖父や祖母を車に乗せて連れて行っていた。田舎道でそのころは車もあまり通っていなかった。

18歳で成人になり真っ先に必要なのは運転免許証、家で採れた野菜や育てた鶏などを約15キロ先のモジ(Mogi das Cruzes)の町の市営市場まで運ばなければならない。そのうち田舎道は約3キロ、そこから町までの12キロは舗装されていて途中に小学校、中学校があるので警察が毎日見張っている。免許証なしでは通れない。

運転免許証を取るにはAuto Escola (自動車教習所)で規則と運転を学び試験を受けるようになっている。運転練習の最低時間数は決まっているので、いくらハンドルに慣れて運転がうまくてもそれをクリアーしなければならない。

筆記試験を無事通り、いよいよ今日は技能検査。
今日は野菜の出荷日で忙しい日だ。早く来たつもりだが前にもう20人ほどいる。車に乗り込む検査官たちが集まっているがまだ始まらない、やがて古い型のスポーツ車をバリバリーと音をたてて来て検査官たちの中に入った人が来たと思ったら皆こちらに向ってきた。

そして最後に来た検査官らしい人が言った「誰か俺と一緒に回らないか?」誰もウンともスンとも言わない。早く家に帰って荷造りをしないと間に合わない、私は手を上!げて聞いた「誰でもいいのですか?」「ああ誰でもいいよ」「私行きます」その時教習所の教官が頭を抱えて座り込むのを見た。

慣れた町の中をハンドルを切って進む。モジの町でも名の知れたけわしい坂の道をのぼる途中で「ストップ!!」検査官がどなった。いつも練習してきた時と同じようにクラッチとアクセルだけをコントロールしてエンジンが切れないように車を止めた。「ちょっとここで待っておれ、下の店でたばこを買ってくる。」検査官はそう言って車を降りゆっくりと坂の下の店に向った。私は車をアクセルとクラッチだけでコントロールしていた。いつまでたっても検査官は帰ってこない足がくたびれてきた。ふっと、バックミラーを見た。なんと検査官は煙草をふかしながらこちらを見ている。あっ、クラッチのコントロールがおかしくなりエンジンが止まりそうだ、とっさにブレーキを踏んでしまった。

「あっ、後ろのブレーキの灯がついたな。何か手がないかなあ」私はゆっくりと車を下に転がし検査官の横に付けて言った。さも迎えに来たように「検査官、遅れますよ。」彼は黙って車に乗り込んだ。駐車試験や右、左と角を曲ったりした後、出発点に戻ってくると周りにいた人たちがドッと車を囲んだ。そして誰かが聞いた「彼女は通りましたか?」「ああ、こいつは通ったよ」周りで「おおー!!!」というどよめきがあがった。

教習所の教官が飛んで来て言った。「馬鹿だなー、なんでCaveira(髑髏)を選んだんだよ」
「えっ、何ですかそれ?」「彼は検査官たちのチーフであだ名は髑髏、彼の手にかかっていまだに合格者は出たことがないんだよ。技能検査がある日に来て一人だけ検査し、そしてあの古いスポーツカーを吹かせて事務所に帰るんだ。」「だって、誰も私に教えてくれなかったもの」「今日はお前が20番くらいのところにいたので安心していたんだよ。そこでお前が手を上げただろう、もう終わりだと思ったんだ。しかし何も知らないということは恐ろしいものだな。おそらくお前が最初で最後になるかもしれないなー」