2010年12月24日金曜日

Brigiteville ブリジッテヴィレ


「ともだち」の発表会の次の夜は娘婿ロドリゴの両親の所へあいさつにでかけた。家には隅々にまでクリスマスの飾りつけがなされてある。応接間の隅のほうにある緑豊かな小さな町にはあちらこちらと灯がともりサンタのおじさんが喜んで降りて行きそうな雰囲気がかもし出されている。この家の主婦ブリジッテはドイツ系。ヨーロッパの伝統がそのまま受けつがれている。「この町は私の町よ」とブリジッテ。彼女の町は娘たちがなにか珍しいものを見つけるたびにプレゼントとして持ってくるので年々大きなってきている。もう一方の隅にはチャペルと家が二つ三つ、見ていたら主人のカルロスが来てこれが私の町だそうだと。ちょっと寂しい。どうやら彼の町はぜんぜん大きくなってないらしい。なにはともあれ年の終わりクリスマスには全員集まって和やかな雰囲気で家族の絆を確かめ合う。古き良き伝統だ。

2010年12月23日木曜日

「東洋文化センターともだち」の発表会

クリチーバに住む娘の「東洋文化センターともだち」の発表会はショッピング・センター内の300人強収容の劇場で行われたが満席となった。これは「ともだち」とカンフーアカデミー「SENDA」との共催でそれぞれの父兄や友達などでショッピング内には早くから列ができたので早めに開場となったそうだ。
「SENDA」の生徒たちは日頃の練習の成果を規律正しくしかも迫力ある動きで観客を魅了。あるときは棒、そして剣、またあるときは扇子を使っての舞、女の子も男子に負けてはいない。ペアでの中国の獅子舞も披露された。「SENDA」を経営するジョルジェ氏もほとんどの番組に出演、さすが先生、若い者をしのぐ滑らかな動作には感心した。確認を要するがなんでも60歳くらいだろうとのことだ。「SENDA」の番組の紹介と説明は娘婿のロドリゴで、彼のカンフー歴も長く今は先生代理を務めているらしい。
「ともだち」の招待でクリチーバ民謡会から三人来られて歌われたが皆さんとても上手でその内の一人佐藤さんは今年の全伯民謡大会で優勝され最近日本に行かれて帰ってこられたばかりとのことだった。民謡の伴奏の尺八を吹いたのが娘婿のロドリゴ。そして三味線は「ともだち」の若い先生のヴィニシウス。彼は音感がよく、尺八でも一度きいたらそのあとすぐ再奏(?)できるそうだ(娘の説)。
クリチーバ日系協会の太鼓グループ「若葉」の特別参加。整ったしかも力強い太鼓の響きが場内一杯に広がった。ブラジルでトップクラスの太鼓グループだそうだ。
すばらしいショーを見せてくれたのが韓国POPグループの「Brisque」。十数人の若さあふれる男女混合のグループ。軽快でしかも迫力あるおどり。つい観客もリズムをとる。終わるとあちこちから「きゃー、きゃー」と歓声、熱烈なファンがいるらしい。
「ともだち」からは生徒と先生で東洋哲学、仏教、中国の故事などから成る四つのコントが演じられた。惜しいかなマイクを使わずに演じたので後ろの席までは声が届かなかっただろう。しかし前のほうの席にいた人達は微妙な解釈の劇に笑ったりしていたので私の方がそれに感心。
私はといえば、発表会の前日にクリチーバに着き、早速娘が明日の打ち合わせや生徒のリハーサルがあるので「ともだち」に行くというので付き合わされる。そこで明日劇場でビデオをとる人と会う。娘がこの人は明日は重要な用事があるのでパパイ代わりに撮ってくれということになった。一応どのボタンを押せばどうなるとの説明をうける。さて当日ビデオカメラを三脚につけ横の通路に設置。テープは一時間半、発表会は2時間。テープを交換しなければならない。さてどうやって取り替えるのだろう。全部調べたがさっぱりわからない。どうせテープをもう一本買わなければならないのでテープを売っている所へ行けば教えてくれるだろう。若い女の子に聞くと、ビデオカメラは扱ったことがないが、ショッピング内にビデオカメラを売ってる店があると言う。さっそく飛んでいく。ソニーから派遣されて来ているというかわいい金髪の女の子。「三脚に取り付けるこの台座を取らないとテープを取り替えることはできません。」ドライバーか何かいるなと思っていたところ、彼女ポケットに手を入れ50セント硬貨を取り出しそれでクルリッとねじを回して台座を取りはずした。 「ねっ、金髪といってもばかではないでしょう。」 ブラジルではやっかみからか金髪の女の子は馬鹿だという題の笑い話がよく作られる。「いやー、あなたはとてもインテリですよ」と私。これだと90分以上のビデオは途中で三脚から取りはずしてテープを交換しなければならない。その間のシーンは撮りそこなうということか。私はてっきり横か上から取り外すものとばかり思っていたので下からなんて考えもしなかった。それをさっしたのか彼女「いまのはHD搭載で、連続で何時間も撮れるようになっていますからこういうことはおこりません。」
さてその魔の90分目、暗い中での取替えでもたついてしまった。そして三脚にも取り付けることもできずそれからは手で持ってでの撮影となった。韓国語を教えているブラジル人の先生がキーボードをたたきながら「冬のソナタ」を歌った。さいごは「とだち」のミレナが日本語訳まじりのブラジルの歌を披露そして彼女の歌う「となりのトトロ」で「ともだち」の出演者皆が輪になっての行進でしめくくった。
観衆からもすごい拍手。私もすごいショーを観たような気に浸された。

2010年12月21日火曜日

クリチーバは真夏でも冬?

クリチーバに住む娘から「東洋文化センターともだち」の今年度の総仕上げとして父兄および関係者に集まってもらって発表会を催すと先週連絡がありどんなものをやるのか気になるのであわただしく飛行機の切符を手配しての来クリチーバとなった。最近は小さな航空会社も参入し選択肢が増えている。幸いその中の一社にタイミングおよび値段でこちらの希望にマッチするのがあり早速チケットを購入。
いままでクリチーバ行きはサンパウロかベロ・オリゾンテの飛行場に寄っていたので今回はどこかなと思っていたら直行便だった。一時間四十分、早いものだ。ヴィトリアを発ったときは気温は約30度。皆半そでシャツの軽装。機が巡航態勢に入ると機長のアナウンス「ただいまクリチーバは小雨が降っており気温は10度台です。」はっきりわからないので幅をもたせて十何度か。まあ、18度位だろう。そして、そろそろクリチーバかなと思っていた頃またアナウンス「クリチーバの気温はただいま11度」えっ、するとさきほどの10度台というのは10点何度ということだったのか。私の頭はいまどきそんな気温がブラジルにあるなんて受け付けないので10度台というのは十がつく19までの気温と思っていた。今年の6月12日のブログにも書いたがヴィトリアは今年最低気温を更新したばかりで、14,2度しかも58何年ぶりに。機内にざわめきが広まりあちこちで鼻をすすったりせきをするのが聞こえる。私は手に持っていたジャンパーをはおった。私がいらないといったのを妻が強引に押し付けたものだ。妻は先月こちらに来ている。飛行機から降りて荷物を待つ間も誰も上着をかけていない。この人達トランクの中にはちゃんと厚い上着が入っているのだろうかと心配になってきた。
到着ロビーで待っていた娘もコートを着ている。そして夏にこんなに寒いのはめったにないのだと言っていた。夜、家に電話をいれると、なんでもニュースでクリチーバは7年ぶりの夏の寒さになったと報じていたそうだ。

2010年12月2日木曜日

2018年サッカーW杯はロシアそして2022年はカタール

今日スイスの国際サッカー連盟(FIFA)本部で2018年と2022年のワールドカップ開催地を決める理事会の投票があり、18年大会はロシア、22年大会はカタールで行われることになった。日本は22年大会に立候補したが落選した。ロシアとカタールは,いずれも初めてのW杯開催で東欧と中東で開かれるのも初めてとなる。日本の理事も今まで開催されたことのない所は強いとのコメントをだしていた。ブラジルの理事は18年に関してはポルトガル・スペイン共催に投票すると言っていたが22年については何も言ってなかった。この投票に先立ち英紙『サンデー・タイムズ』が、ワールドカップ本大会開催国決定の投票権を持つ二名のFIFA役員に関するスキャンダルを報じたがこの報道自体も批判の対象となり前評判の高かった英国での開催に不利に働いたようだ。カタール招致の大使としてアピールしてきた元フランス代表のジダン氏はこれはカタールだけにとどまらないアラブ世界の勝利であるとインタビューで答えていた。
このFIFA、加盟国は208ヶ国で国際的な組織としては国連、国際オリンピック連盟より多い。ブラジルでは4年に一回のワールドカップは国民総参加型のお祭りでオリンピックよりはるかににぎわう。FIFAの前会長はブラジルのジョン・アベランジ氏で1974年から1998年までの24年間FIFAのトップにありサーカーの普及に努めた。彼が後任として推したのがスイスのブラッター現会長である。
実は何もこんなことを書きたくて今日ノートブックに向かっているわけではない。私の心配はここブラジルで2014年に開催されるワールドカップ。スタジアムは順調に建設されているのだろうか、交通、宿泊施設は?? 先週、開幕はどのスタジアムでやるのかまだ決まってないという新聞記事を見かけたような気がした。
世界に誇れるようなワールドカップ、お願いします。

2010年11月25日木曜日

雑学迷博士お呼びなし

「雑学迷博士」とは私がうちの長男に付けたニックネームである。これは当人も知らず私と妻とがたまに使ってきたものである。彼は小さい時から本好きでなかなか家の外には出ないので何かちょっと悪いことをしたと私達が判断した時(たいてい弟とのけんかの両成敗)は外で遊んでこいというのがおしおきで、それでもすぐに入っていいかと聞きに来るしまつ。そしてその後すぐに母親に手紙を書いて渡す。「自分はなにも悪くない。悪いのは弟で自分は不当に罰せられた」と。7,8歳頃のことである。
学校の宿題でいろいろ調べることがあるので百科事典を買ってほしいと言ってきたので後々まで使えるようにとブリタニカ百科事典を無理して買った。ところが学校の宿題とは関係なくいつもみている。特にナポレオンに感銘し彼のことならなんでも知っていた。私たちも面白半分に試してみたが全部当たる。その事典あまり使いすぎて表紙の金色の字が見えなくなってしまったので私と妻とで表紙を付け替えマジックインクで書き直すはめとなった。ナポレオンから発展し彼はついにフランスファンへと。ブラジルとフランスとのサッカー試合でフランスが負けて泣いたのはブラジル広と言えでも彼だけだったのではないか。やがてフランス学院でフランス語を学ぶ。しかし皮肉にも彼のフランス熱が冷めたのはフランスに旅行してからのことだった。どうやら思ったほどやさしくされなかったらしい。それからはワールドカップでブラジルがフランスに負けるとじだんだ踏んで悔しがる普通のブラジル人となった。
彼の知識の領域は広い。たとえば1954年のハンガリーのワールドカップのメンバーはと聞くとすらすら出てくる。色々なことの裏話まで知っている。私と末の息子と議論して食い違いが出てくると「それではリオの長男に電話して解決しよう」ということになっていた。しかし時々詳細で微妙な日付の疑問などが出てきて「えーと、あれは8月9日だったかな9月8日だったかな?」という迷い、それで名博士ならぬ迷博士となったわけである。
しかし今はインターネット時代。手軽に色々なことを詳しく調べることができる。かくして我が家の雑学迷博士にお呼びがかからなくなった次第である。
彼、おそらく今頃仕事先の病院でさかんにくしゃみをしていることだろう。

2010年11月16日火曜日

50年の歩み -1960年11月18日サントス着あふりか丸同船者会

50年といえば半世紀、何か歴史を感じさせる響きだ。一昨年日本移民百周年がマスコミにも注目され大々的に祝われた。私達あふりか丸同船者もほぼその半分を一緒に歩いてきたわけだ。今回サンパウロ近郊のスザノ、オウロ・フィ-ノの桑原氏宅で移住50周年を記念しあふりか丸同船者会が開かれるということで懐かしさに駆られて私も初めて参加することにした。それでもエスピリト・サント州からスザノまでは遠い、一応出席のつもりではいたが決めかねていた所、飛行機で来られるなら飛行場まで迎えに行きますというメールが入りすぐさま出席確認の通知をいれた。
14日の日曜日に開かれるので前日の13日にサンパウロ、グアルーリョス空港に着き出迎えに来ておられた桑原氏の車で会場へ。桑原氏はカラオケの先生をやっておられるとのことで家にはカラオケの専用機器が揃っていた。夕食時からお互いの苦労話に花が咲き気がついたらもう寝る時間、スザノはヴィトリアより寒いがよく眠れた。
さて当日、だんだんと人が集まってきた。「浦口さんという人が電車の駅で待っておられるので迎えに行ってこい」という声が聞こえたので「私知ってますよ」というと「一緒に行って下さい」ということになった。始めの5年ほどは一緒のところで農業で頑張っていたもののその後お互い45年ほど会っていない。心配していたが昔の面影が少し残っておられたので私のほうはすぐにわかったが彼女はわからない様子なので自己紹介で確認。車中お互いその後の情報を交換。31歳で来られたので今81歳。とてもお元気な様子だ。
次々に着かれる人達を桑原氏から紹介してもらう。なんでも同船者会と名を付けた集まりは着伯翌年からスザノに住んでいて偶然出会った同船の4家族が催したのが始まりだそうでその後近辺の連絡をとれた同船者も加えて今まで続けてきたという話だ。しかし今回は50年の節目ということで日本語新聞に記事を掲載してもらい全伯に呼びかけそれに応じたのが私を含め4家族。今新聞離れで日本語新聞をとっていない人も多い、私も偶然インターネット版で見つけた。

それでも今まで続けてこられた人達は家族ぐるみの参加で今は当時の子供たちも大きくなってその家族も加わっての大人数となっている。今回80人分の席が用意されたが一杯になった。なつかしい臼と杵での餅つきも賑わった。ごちそうが並んだ会場に入る前に記念写真をとった。上の写真は当時あふりか丸に乗船していた人たちです。会は当時家長で来られた桑原さん谷川さん両長老の音頭の乾杯で始まり50周年の記念ケーキのカットの時には皆で「ハッピーバースデイ」を合唱。ごちそうを前に話が弾む。和やかな雰囲気のなか会は終了。その後は女性はビンゴ男性はカラオケと余興を楽しむ。だんだんと日が暮れていく。名残惜しげそれぞれまた来年の再会を約して別れて行く。
私はその夜はサン・ジョゼーの平山氏宅にお世話になることとなって、桑原氏のご家族に挨拶して別れを惜しむ。平山氏がカフェランジャの平野植民地に入られたとの話しを聞いた時すぐに私の脳裏に50年前の思い出がよみがえった。船でよくカフェランジャに行くのだと私ともよく話していた当時小学5,6年生の活発な少年、それが彼だった。そしてその後もカフェランジャの話が出るたびに彼は今頃どうしているかなーと気にかかっていたことも。なんでもサン・ジョゼーに40年ほど前から住み鐘紡、パナソニックと勤められたそうだ。
平山氏宅で今回の世話役で文集が載った移住50周年記念誌「あふりか丸」を編集された中村氏も近所だということでいっしょに軽いソーメンを頂いた。中村氏は工業移民でこられ自動車関係の仕事に携わられて今は定年退職の身、あちこちのカラオケ会に席を置いているので年の暮れは忙しいと話されていた。
翌朝こんがり焼けた昨日ついた餅がでてきた。元気のいい男たちがついた餅、さすがにおいしい。平山氏はエスピリト・サント州に友人がおられるとのこと、ぜひ我が家にもという招待を応諾、再会を約した。車でサン・ジョゼー市内を一回りして空港へ。
成功のレシピなんてあるわけがない、ましてこの知らない土地ブラジル。今回同船者の人たちと会い皆が試行錯誤でつらくて苦しい道を乗り越え今はブラジルの社会で家族と和やかに且つたくましく生きておられる様子に接し、私もまた一所懸命生きなければと決意を新たにしたところです。
まずは健康第一、また機会があったらお会いしましょう。

2010年11月2日火曜日

ブラジル初の女性大統領誕生

10月30日に行われた決選投票で労働者党のジウマ・ロウセフ候補が有効投票の56%を獲得し民主社会党のジョゼ・セーラ候補を破り来年1月大統領に就任する事となった。これはルラ現大統領をはじめとする労働者党の強力な後押しの賜物である。サンパウロの有力紙はルラ大統領の勝利とまで報じた。確かにここ8年間のルラ大統領の任期中の彼の人気はすさまじいとも言える。就任以来今まで80%の支持率を維持している。別に操作されている数字ではない。こういう政治家かが世界のどこにいるだろう。まったくの驚きである。この人気の秘訣は彼の下層階級に厚い政策にある。ブラジルは所得格差が大きく貧困層の占める割合が大きい。最近歴代の政権の悲願は最低給料を100ドルに上げることだった。ルラ大統領は就任以来最低給料を常にインフレ率以上に修正し今は300ドル強である。貧困層が少なくとも食べていけるような政策もとっている。これに国民が反応しないわけはない。選挙の後半セーラ候補もこれに気づき最低給料を労働者党以上に上げると約束していたが後の祭り国民もそう簡単には信じない。しかし心配はこの支持率の高さである。少々の政治腐敗や失政はみのがされてしまう。国の発展のためには国民もエンゲル係数(この言葉何十年もきいてない)が低くなるともう少し大きな視野で情勢を判断する力が求められてくるだろう。

2010年10月24日日曜日

夏時間

一時間時計の針を早める夏時間が始まって一週間。いつもこの期間は一時間損しているような気がするので今年はそのままで生活することにした。定年退職者で別に時間にとらわれているわけでもない。家に数個ある時計のうちひとつだけ夏時間に合わせてある。外との約束の時に見るようにしている。今までの時間で暮らしているので気持ちに余裕がある。去年までは始まる前日にすべての時計を合わせて準備万端で夏時間を迎えていた。そして時間に追われるように暮らしていた。今のところ快適である。もう少し日が長くなるとまたその時にどうするか考えよう。

2010年10月17日日曜日

Follow me

Enquanto esperava o vôo 1234 do Rio para Vitória na sala de espera, tinha uma menina de 5 a 6 anos de idade toda elétrica e curiosa correndo pelo saguão fingindo que é avião. Ela seguiu um grupo de idosos estrangeiros com guia e voltou para a mãe gritando “O que é foloume, mamãe ?” “É siga-me em inglês, filha” “E ueiteplese, mamãe” “É aguarde um momento por favor, filha” “Oba! então quando for para restaurante você fala isso no lugar de Espera filha para ninguém ficar olhando para mim, é mico, assim só eu vou entender” “Será que você vai entender mesmo ?” “Sim mamãe, vai repetindo que vou saber”

リオ発ヴィトリア行き1234便を待っていた時のことです。5,6歳の女の子がブンブンブン飛行機だと両手を広げてかけまわっていてガイドが外国人の団体をひきつれて通りかかると目を輝かせてついて行き「おかあさん、フォロウメ ってなあに」と叫びながら帰ってきた。「英語で 私について来てください ということよ」「そして ウエイテプリゼ は?」「しょうしょうお待ちください よ」「それではお母さん今度レストランで‘ちょっと待ちなさい‘ と言うかわりにその言葉を使ってちょうだい、だって私にだけしかわからないから恥ずかしい思いをしないですむもの」「本当にあなたにわかるの?」「繰り返して言ってくれれば必ずわかるから」

2010年10月13日水曜日

チリ落盤事故奇跡の救出劇

チリのアタカマ砂漠の中にある鉱山で落盤事故があり33人が地下700mの坑道に閉じ込められて70日、今日全員が無事救出された。生存が確認されたのが事故が起こってから17日目それから掘削機械を使って三箇所から穴を掘り始めて最初はクリスマスイブに救出が予定されていたのが約40日早まった。アメリカのNASAからの協力もありFENIXと命名された一人ずつ吊り上げるカプセルはNASAの設計でチリ海軍により製作された。世界中のテレビ局も救出の模様を放映、奇跡の救出劇に世界中が感動した。世界のマスコミが見守る中大統領みずから陣頭指揮に立ち国の威信をかけての救出劇だった。17日目に生存が確認されてからは食料の他にビデオカメラも10cmの管を通して下ろされ中の皆の元気な様子に家族も安堵。約2ヶ月のテント生活での救出待ちとなった。この救出劇はアメリカの支援などの最新の技術という裏方なしでは成功しなかっただろう。今この救出劇から色々な教訓を得ようとしているようだ。極限の状況に置かれた際の危機管理、そして成功に導くリーダーシップの重要さ、グループの結束、などなど.
チリは世界の銅の35%を産出する。この事故で銅の生産が落ち価格が高騰するので建築業界をはじめ色々な所に影響を及ぼすのではないかと先ほどテレビがニュースで報じていた。

2010年10月3日日曜日

ブラジルの大統領選挙

今日大統領、各州二人の上院議員、連邦議員および州議員の選挙が行われた。大統領選は選挙戦が始まった頃は民主社会党のジョゼ・セーラ氏が優勢であったがその後は現職で同党のルラ大統領の推す労働者党のジウマ・ロウセフ女史が押しあげ投票前日の予想では過半数の票を獲得し一次選挙で決着がつきそうな勢いだった。しかしふたを開けてみると彼女の得票は47.6%、ジョゼ・セーラ氏が33.1%、そして緑の党のマリーナ・シウヴァ女史が予想を大きく上回る健闘の19.6%の得票。その結果、今月31日にジョゼ・セーラ氏とジウマ・ロウセフ女史との決戦投票が行われる。それと州知事選で過半数をとれなかった州の決選投票も行われる。ここエスピリト・サント州ではカザ・グランデ氏が82.3%の得票で圧倒的な勝利を収め次期州知事となった。
州都ヴィトリアでは大統領候補の得票順位はブラジル全体の逆となってマリーナ・シウヴァ女史が1位で5市からなる大ヴィトリア圏でもマリーナ・シウヴァ女史、ジウマ・ロウセフ女史、ジョゼ・セーラ氏の順となった。これは何を意味するのだろう。ちょっと興味深い。ヴィトリアの市長は労働者党である。
ブラジルは早くから電子投票を取り入れ今回の総選挙も当日に全部の結果が出た。アメリカの選挙の模様が時々テレビで映しだされるがまだ旧式の機械型だ。時々ある地区の投票箱がなくなって計算されなかったとか言っている。技術の先端を行くアメリカがなぜ電子投票を採用しないのか不思議でならない。
ブラジルの選挙人口は現在1億3580万人、今回の投票者は1億1119万人。82%の投票率。ブラジルでは投票は権利ではなく義務となっていて投票しない場合は正当な理由を証明しないと以後官庁、公営の会社への就職、公式の書類申請などに支障をきたす。ブラジル全国には40万の投票所(教室数)があって、この辺りでは大抵学校のなかに設けれれている。当日投票所で働く人は選挙裁判所から選ばれる。私も一度手伝いをさせられたが事前に説明会があって一投票所に4人位のチームを組んで投票手帳のチェック、台帳との照らし合わせ、サイン、投票券の手渡し、投票証明書の手渡しなどを行い、その他投票所での秩序が守られるようにする。ブラジルの選挙は非常に民主的でスムースにとり行われる。これは世界に誇ってもよいのではないかと思う。

2010年9月4日土曜日

猛暑生き残り作戦 

インターネットで日本のニュースを見るのが日課となっている。テレビもNHKの衛星放送(放映)とこちらのブラジルのテレビ番組を半々の割合で観ている。便利な時代になったものだ。
日本の連日の猛暑、熱帯夜ともに記録を更新している様子で、もうすぐ来るブラジルの夏どうなるのだろうと今から心配だ。もっともこちらは夜は少しは温度が下がるので熱帯夜がそんなに長く続くことはないと思うが。1981年から約二年間私たち家族が日本に住んでいた時、日本の夏には閉口した。当時幼かった子供たち三人とも熱中症にかかり夜は扇風機をかけても熱い風がまうばかりリモコン付のエアコンをすぐさま買いに行くはめとなった。ブラジルでは扇風機だけでエアコンなしで過ごしていた。
昨日下記のニュースを読んだ時ちょっと意外な気がした。天下の大新聞がこんなことを書いていいものだろうか。これだとまるでエアコンがなかったから亡くなったみたいではないか。それでハッと思い出した。これは私の2009年2月12日のブログ「リオの猛暑」の朝市で聞いた会話と同じだ。私は面白半分で書いたものだがこれが真面目に書かれるとは。現実化しているということなのだろう。
今度の夏に備えての生き残り作戦として早速エアコンを設置しよう。

エアコン設置せず…自宅で熱中症、男性2人死亡
 埼玉県桶川市とさいたま市で3日、男性2人が自宅で熱中症で死亡した いずれもエアコンは設置していなかったという。 県警の発表などによると、同日午後6時25分頃、桶川市川田谷、清掃作業員須田享文さん(63)が6畳間でぐったりしているのを、兄(67)が発見。須田さんは約1時間後に死亡した。須田さんはこの日、昼頃に仕事から帰っていたという。 さいたま市では午後6時半頃、同市北区盆栽町、無職剣持菊男さん(78)が寝室で死亡しているのが見つかった。熊谷地方気象台によると、3日のさいたま市の最高気温は37・2度だった。
(2010年9月4日10時16分 読売新聞)

2010年8月31日火曜日

正しい者が損をする 

妻が友達の家に届け物があって立ち寄った時2008年11月2日のブログ「私を見殺しにしないで!」で紹介した彼女の妹で交通係の婦警さん今度は事務にまわされたよとそのいきさつを語ってくれたそうだ。
彼女いつものように駐車違反の取締りに見廻り中一台の車が歩道に乗り上げているのを発見。早速駐車違反の伝票に書きとめその車に貼り付けた。そこへあわてふためいて駆けつけた紳士、彼女に向かって「君は何をしているのかね私が誰だか知っているだろう、すぐさまこの駐車違反を取り消しなさい」と言って貼ってあった紙をくるくるっと丸めて捨てた。「私は私に課せられた仕事をしただけです市長様、その紙をお捨てになってもコピーが台帳に残っていますからこの違反は支払い後でないと消えません」「君は何をしたのか知っているのかね、私は君の大ボスで君の給料は私が払っているのだよ」「いえ、市長様それは違います、私の給料は納税者が払っていると思いますが」

2010年8月30日月曜日

Hexamesversário - 6ヶ月目の誕生祝い?


息子からイザベレの一年目の誕生日が待ちきれずちょうど半分過ぎたので内輪だけで六ヶ月目の誕生祝いをするからと電話がかかってきたのでプレゼントを持って行くことにした。それはそうだろう今までそんな話は聞いたことがない。他の人を呼んだら親ばかと笑いものになる。そこでお祝いの封筒にどう書こうかと頭をひねった。前から月の誕生日と言って息子が月を意味するMêsをとってMesversário という言葉を使っていたので(誕生日は年を意味するAnoからAniversárioという)六回目を意味するギリシャ語に由来する接頭辞のHexaというのを頭につけてHexamesversário という言葉を作って「おめでとう Hexamesversário」と封筒に書いてイザベレの手に握らせた。息子もこの言葉を気に入って早速 www.saheki.com のブログに私より先にこの言葉で写真をだしていた。このHexaという言葉はワールドカップアフリカ大会の前からブラジルではHexacampeãoという形でテレビなどでいやというほど聞かされたいた言葉であった。ワールドカップ最多の5回の優勝をほこるブラジルとしては待ち望まれていた言葉で国中をあげての応援もむなしく結果は準々決勝での敗退となった。夜ちょっと興味が湧いてきてGoogleでこの言葉を検索してみたらアクセントのつくポルトガル語のHexamesversárioは私と息子の文しかのっていなかったがアクセントのつかないスペイン語でのHexamesversarioという言葉が2007年に一件のっていた。なんでもそっちの方は恋愛6ヶ月目の熱々の様子だった。

2010年8月9日月曜日

チンゲン菜


最近たまに土曜の朝市でチンゲン菜を見かける。有機栽培の農家があけているボックスでワラビやニラそれに日本ほうれんそうも出ている時がある。チンゲン菜もいつもあるわけではないので聞いてみると「いつも持ってきているけど朝早く売り切れてしまうよ」「それじゃこんどから朝8時にこよう」「いや、それでも遅い、彼らは朝7時に私達がここを開けるときにはもう横で待っていて箱ごと買っていくよ、たしかあんたと同じ国の人だよ」それを横で聞いていた年老いた彼の父親「いや、同国人じゃない。連れと話している時には何やらわからない言葉で話していたがあんたよりもっと鋭くてエネルギッシュだよ」 私達の横にいたいつもここに野菜を買いに来るおばあちゃん「なにいってんのさ、わからない言葉はあんたたちも同じだろ、二人でよくなにかわからない言葉でやりあっているじゃないか」ここではドイツ系の農家も多い。妻は話が変な方向に行きそうなのであわてて「なに、それじゃ私はどう見えるの」「まあ怒らない怒らない、本当のことを言ったまでさ」それを聞いていたおばあさん横で「なお悪い」。妻もあきらめてひとりごと「鶏屋との11時の約束のほうが大事でそれで10時過ぎにこちらに来ているのでチンゲン菜のほうは残り物であきらめるか」

夢を追って

コロニアの日本語新聞も生き残りをかけて模索中である。今までの最大の購読者であった一世は年をおう毎に確実に減っている。そこで購読者層の拡大を図ろうと日本語の話せる二世三世層を対象にルビをふる試みにふみきった。確かに日本語を話せるほどに読めない書けないという人たちはコロニアにはかなりいる。そういう人たちはふりがながふってあれば理解できる。私の親しい若いブラジル人も日本語に興味をもって独学で学んでいるが以前から新聞にかながふってあれば辞書で意味がわかるのだがと前から言っていた。なぜ新聞かというと古い日本語の本にはかながふってあるが自分は今の生きた日本語を覚えたいそして新聞だとニュース自体にも興味があるし入りやすいとも言っていた。NHKの視聴者でもある彼は「のどじまん」の名審査員で鐘がいくつなるかは全部当てると自慢していた。日本へ出稼ぎに行って帰ってきた人たちもかなりの数に上るのではないか。購読者が増え日本語新聞が長続きすることを願う。
もうひとつの試みとして「ニッケイ新聞」もインターネット版で売り出しを始めた。サンパウロから遠いここエスピリト・サント州でその日の日本語新聞が読めるのはありがたい。以前は飛行機で着きそれから配送業者の手で家まで届けられていた。三日分が一度に届くということもしばしばで新聞ではなく旧聞になっていた。インターネット版を知り早速購読の申し込みをした。紙面そのもののコピーである。購読料も半額というのが助かる。ある日その新聞を見ていたら「1960年あふりか丸」という字が目に入った。今年の11月で移住50年になるので同船者会を催すという記事で文集も編纂したいのでお寄せ下さいとあった。サンパウロにいた時から11月頃になるといつも日本語新聞に気をつけていたが私たちの船の前後の同航会はあっても私たちのは誰も発起人はいないのか見たことはなかった。そして今回の50周年私たちも移住半世紀。椎間板ヘルニアと相談してのことだが調子がよければ出席したいと思っている。
長く書けばきりがない、夢を追ってブラジルに来、それを追い続けた人生、短くまとめて下記の文を世話役の中村さんあてにしたためた。



夢を追って
佐伯尚芳 (さえき ひさよし)

1960年11月18日不安と希望を抱いてブラジルの土を踏んではや50年。今回あふりか丸50周年同航会が11月に開かれるという記事をニッケイ新聞で知り記憶の断片を拾い集めて少しここに書いてみようと思いたちました。
当時の私達の家族構成は父実(40歳)、母マツエ(38歳)、私(16歳)は高校二年、弟行雄(14歳)中学二年、弟道夫(11歳)小学五年、そして末の弟正美(9歳)小学三年生。男の子四人働き手として当てに出来るというのもブラジル移住を決意した理由の一つであったことでしょう。私は理工系大学を志望して受験勉強に励んでいました。渡伯直後は経験のない農業で失敗、落ちる所まで落ち、果ては明日の米を買う金もない程の貧しさも味わいました。最初はサンパウロ近郊のイタケーラそれからモジ・ダス・クルーゼス、ビリチーバ・ミリンと移り、渡伯後六年目私達は大きな賭けをして土地を買いました。というのは手元に四年払いの入金分しか持っていなかったのです。もう後はない、無我夢中で皆星から星まで働きました(ブラジル語のde sol a sol をもじったもの)。毎晩12時までの荷詰めも苦になりませんでした。幸い最初の作付けがうまくいき、その後蔬菜から果樹へとより安定した農業へと移行していくことが出来ました。しかし私の大学に行きたいという夢は心の底にいつも消えずに残っていました。一応生活が軌道に乗った1971年私は夢の実現の第一歩を踏み出すためにサンパウロに出て働きながら予備校に通うことにしました。学校にも行かず高卒検定試験を受けて通っただけの私はブラジル語を覚えることも大仕事でした。1972年ついにサンパウロ大学工学部に入学、76年末無事卒業することが出来ました。その後弟達三人も大学をでましたが医者の道夫は病気で、末の機械技師の正美は交通事故で亡くなりました。サンパウロ市内で歯科医を開業していた行雄は今は定年退職して郊外のバルジェン・グランデで暮らしています。父は2003年83歳で他界。母は現在88歳私達と暮らしています。
私は大学卒業後モジ出身の二世の妻と長女を連れて1977年にエスピリト・サント州に移り製鉄所勤務となりました。こちらで長男と次男が生まれ今は子供達皆それぞれクリチーバ、リオ、ヴィトリアで家庭を持っています。今年は孫も生まれました。こちらに来て33年、私達もすっかりCapixaba (エスピリト・サント州人)になりました。私も28年勤めた製鉄所を2005年に定年退職。記憶のあるうちになにか少し書き残しておこうとブログを始めました。2008年の日本移民百周年の時は神戸の移住斡旋所のこと、その後の船中生活そして日本語とブラジル語が織り成すユーモア等を書き綴っています。よろしかったらご覧ください。
ブログへのアクセスは http://tomobe.blogspot.com です。
ブラジルに来ていろいろな人との出会い。その時その時に良い人と出会い世話になり今の私達があります。夢を追い続けた人生、何事も出来ると信じていた頃をなつかしく思い出します。
私の現住所は下記の通りです。
Hisayoshi Saheki
Rua Manoel Bandeira, 649
Jardim Limoeiro
Serra - ES
CEP 29164-060
電話:27-32282134 携帯:27-88216555
e-mail: hisaheki@gmail.com
それでは皆さんとお会いできる日を楽しみにしています。

2010年8月3日火曜日

イザベレは人気者


孫娘イザベレは五ヶ月を過ぎ二本目の歯がのぞき始めているのが今日小児麻痺予防のワクチンを受けに行ってわかった。帰りにフランス系のスーパー、カルフールに入って買物をしていたら「まあ、なんと末恐ろしい子なのでしょう」と言う声に、「えっ?」ずいぶん失礼な人だなあと思って振り向くと老婦人がにっこり笑って「どれだけの若者の心を悩ませるのでしょう」とイザベレのほほをつついて言った。日系の赤ちゃんが珍しいのか近くにいた人達にも「かわいい、かわいい」と言われて久しぶりに娘の理奈の小さいころを思いだした。

2010年7月11日日曜日

W杯2014はブラジルで

ワールドカップも今日で終わり。決勝はオランダとスペインの間で戦われた。どちらが勝っても初優勝、試合内容はヨーロッパ風のファールの少ない試合の予想に反し主審泣かせの決勝戦記録更新のイエローカード連発の必死の熱戦が展開された。精度の高いスペインのパスを止めるためにオランダ側はファールで応じ、オランダも素早いカウンター攻撃でスペインを脅かす。お互いに2,3回のゴールのチャンスがあったがゴールキーパーに阻まれた。試合は延長戦に、その終盤にスペインのIniesta のゴールでスペインが念願の初優勝を遂げた。スペインは(タコの占いを信じ?)前もって表彰式用に準備していた赤の公式ユニフォームに着替え、その胸には優勝チームだけに許される星のマークがすでに付けられていた。ワールドカップのMVPには4位ウルグアイのForlanが選ばれた。
次は2014年ブラジルでのワールドカップ開催。サーカー王国の名に恥じない立派な競技場、インフラ、完璧な運営、そして一番大事なことは世界一のチームをつくること。必ず実現してほしい。

2010年7月9日金曜日

タコの声は神の声?!

今回のワールドカップ一番の人気者はなんといっても独西部オーバーハウゼン水族館のタコ「パウル君」。スペインとの準決勝での敗退を含めたドイツの試合をみな当てたそうでドイツ国民からは嫌われスペイン料理の「パエリャ」にして食べろとかその他果ては「スシ」にしろとか水族館に怒りのメールが届いているとニュースが伝えている。そして今度は全世界が注目する(水)中、ウルグアイードイツの3位決定戦そしてスペインーオランダの決勝の結果を占いドイツの三位、スペインの優勝とでたそうだ。このニュースを伝えるこちらのテレビ局のコメントに耳がピピッと反応した。なに!「タコの声は神の声」?。タコはポルトガル語ではPolvoそして民衆はPovo、Lの発音はほとんど聞こえないのでうっかりしていると同音に聞こえる。なぜこういう使い方をしたかというとよく選挙の時などに一票の重み、デモクラシーの大切さを訴えるためによく引用されるラテン語の「Vox populi, vox dei」(民の声は神の声)これをポルトガル語になおすと「A voz do povo é a voz de Deus」。このpovoをpolvoに入れ替えて使ったわけです。
このあとアナウンサー、「こうなるとこのタコ君どこかに隠さないといけないですね(ポルトガル語で (sumiço)) 」。これを台所で聞いていた妻「私なら酢味噌にするわ」。どっちにしてもこの「パウル君」命が危ない。
私が心配するのはW杯決勝の予想が当たるとこの「パウル君」ますますひっぱりダコになってやがては人類の命運まで占わさせられるのでは???

2010年7月3日土曜日

ドイツ 4x0 アルゼンチン

準々決勝第三戦目は注目のドイツ対アルゼンチン、両チームとも今大会調子がいい。ドイツは若い選手を起用してのスピードサッカー、そしてアルゼンチンは世界一に選ばれたメッシを中心にチャンスを作る。しかし誰も予想しなかった大差の4対0でドイツが勝った。アルゼンチンは歯車がかみ合っていなかった。ドイツが点を入れる度に近所で花火が上がった。ブラジルにはドイツ移民も多い。近所にドイツ系の知人もいる。ハーフタイムにはサンタ・カタリーナ州Blumenau市でドイツの民族衣装を着た若者達が踊っている様子がテレビに映しだされる。いや待てよ、これはひょっとしたらライバル意識の強いブラジルとアルゼンチンのこと、ライバルの不幸はわが喜びで花火を揚げているのではと気づいた。おまけに昨日はブラジルが負けたので揚げ損ねた花火が沢山残っている。この時とばかり利用しているらしい。この両国サッカーをのぞいた他の事では仲がいい。
準々決勝第四戦目はスペインとパラグアイ。中盤までは互角に渡り合っていたが終盤にスペインが1点いれて勝ち、60年ぶりの準決勝入りをはたした。スペインはまだワールドカップで優勝したことがない。
あと残り4試合(三位決定戦も入れ)、いよいよ試合ごとにますます佳境に入っていく。

2010年7月2日金曜日

ブラジル 1x2 オランダ

準々決勝の第一戦、ブラジルはオランダに2対1で負けた。誰のせいか、などと馬鹿げたアンケートを取っている新聞のサイトもあるがここまでくると実力の差というより時の運が大いに作用する。ブラジルのオウンゴール、なんでもこれまで一回も欠かさず19回参加して初めてだと新聞は書いていた。前半はブラジルのペースで1点、しかし後半はまたもやワールドカップのブラジルにつきまとうあの魔のコーナーキックで2点を取られ逆転された。テレビ中継が終わっても花火は上がらず用事で銀行まで行ってみたが皆ようやく普通の生活リズムに戻っていた。
家に帰るとウルグアイ対ガーナの試合が始まったので観戦。1対1で延長戦にもつれこんだ。手に汗を握る白熱戦。終了間際ガーナのゴールへの連発に耐え切れずウルグアイの攻撃陣のSuárez選手があたかもバスケットボールを戻すように両手でボールをはねかえしてしまった。レッドカードをくらって即退場。それがなければもちろんガーナはゴールで1点追加で勝っていたところだ。当然ガーナのペナルティキック。けるのは今大会ですでにペナルティキックで2点を挙げているガーナの得点王Gyan選手、しかし彼の蹴った球は無情にもゴールバーにあたり上に跳ねた。涙を流して退場していたSuárez選手はそれを見て今度は飛び跳ねて大喜び。そしてついにPK戦に突入。初め二人ずつ無事けこみ2x2.3人目ウルグアイは1点、しかしガーナの3人目はウルグアイのゴールキーパーMusleraがキヤッチ。ウルグアイの4人目、ボールはゴールバーのはるか上を飛んでいった。ガーナの4人目もこれまたゴールキーパーに阻まれた。さてウルグアイの5人目はAbreu、ゴールにけこめばウルグアイの勝ち。彼はブラジル、リオの伝統チームBotafogoでプレイしていてニックネームはEl Loco (きちがい)。彼がボールをセットし距離をはかりボールをけるために動き出した時、アナウンサーがちょっと驚いたように言った「まさかここでCavadinhaをやるような気違いじゃないだろうな」彼はゆっくりとボールに近づきボールの下側をポンと軽くけった。ガーナのゴールキーパーはすばやく横に跳んだ。ボールは半円を描き倒れているゴールキーパーの上をゆっくりとゴールの中央に吸い込まれていった。その瞬間皆がAbreuに走りより抱きつく。こんな場合普通は殊勲のゴールキーパーがヒーローなのだが拍子抜けのゴールに皆があっけにとられ今までの緊張が一気に解け歓喜がAbreuを中心にウルグアイ選手団に爆発した。
実は彼、今年のリオ州選手権の決定戦の時もペナルティキックをこのCavadinha で決めFlamengoを2対1で破りチームを優勝に導いたといういきさつがある。その時もこのゴールは話題になった。アナウンサーもその時のことを覚えていてのコメントとなったのだ。さすがニックネームLocoのことだけはある。
こうしてスポーツドラマは幕を下ろした。

2010年7月1日木曜日

ワールドカップの主役

 

今回のワールドカップの主役はなんといってもあのうるさい音をだすブブゼラ。試合の間中鳴り響いている。よくあんな騒音の中で試合が出来るものだと感心するが慣れると気にならないとは南アフリカの監督を務めたParreira氏がブラジルのインタビューに答えていた。こんな応援風景になるなーとは一年前南アフリカであったコンフェデレーションカップの時にすでに予想していたがテレビを見ていてもいつも頭の上で蜂の大群が舞っているような気がしてつい上を向いてしまう。何回も試合に通っている人は耳に障害がでるのではとこちらの新聞も心配していた。このブブゼラ、ワールドカップ前はどの店にもあったのであまり気にかけなかったがいざ始まって買おうと思って出かけたがどこにもない。ようやく一次リーグが終わった頃ある店で見つけたがあいにくと黄色と緑のブラジルの色がなくただひとつこれだけが残っていたので買い求めた。音を出すのはなかなか難しいが、ほっぺをふくらまして一気に吹くとうまく音がでたる。

2010年6月30日水曜日

日本PK戦に散る

8強を決める決勝トーナメントで昨日、日本はパラグアイと0対0の延長のすえ今回初めてのPK戦にもつれこみ惜しくも3対5で敗れた。その健闘をたたえる声があちこちで聞こえた。今回は南米勢の活躍が目覚しく8強にブラジルとその隣国、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイと四カ国が入った。他にヨーロッパから三カ国、ドイツ、オランダとスペイン、そしてアフリカからガーナ。日本戦の後こちらのテレビ局がパラグアイの様子を映していたが威勢よく「パラグアイ、チャンピオン」とサポーター達が叫んでいた。明後日からいよいよ準々決勝、ワールドカップもあと7試合。ブラジルの応援にも熱が入ってくる。ブラジル戦の時街の道路は無人化する。皆、家やバールやあちこちに設けられた大スクリーンの前に集まって応援する。一昨日ブラジル戦のハーフタイムの時、妻が角のパン屋にパンを買いに行ったが閉まっていた。帰ってきた妻が言うことには犬たちもバールの人ごみのなかでテレビを見ていたそうだ。そしてブラジルのゴールが入るたびにあちこちで花火(爆竹)があがるので遠くにいてもすぐわかる。しかし早とちりするのがいてゴールに球を蹴り込む瞬間にあげる者がいて計算が合わなくなることもある。勝利で終わった後はお祭り騒ぎ。テレビで各地の中継があるがまるで即席カーニバル、そして祭りは夜までつづく。昨日医院の待合室で医者達の会話を耳にした。「準々決勝は金曜日の11時、準決勝は火曜日の午後三時半、決勝は日曜日だから問題ない」なんとその時間帯には診察の予約は入れないように気をつけておけという事らしかった。ご心配なく、そんな馬鹿な患者はどこにもいませんよ。

2010年6月24日木曜日

日本3x1デンマーク

今日の日本対デンマークの試合は素晴らしかった。日本は引き分けか勝ちで決勝トーナメント進出が決まる、日本は最初動きがかみ合っていなかったがすぐに積極的に攻めあがっていった。本田選手と遠藤選手のセットプレーで前半2点。これで試合が決まったとデンマークの監督が後でコメントしていた。後半はお互い1点を入れ日本が3対1で勝った。ブラジルの生中継のアナウンサーも日本もなかなかやるなー決勝トーナメントの相手のパラグアイも気をつけないととコメントして前回の日本代表監督Zicoは当時日本はセットプレーのうまい選手が必要だと言っていたので今回それが実ったとも言っていた。夜インターネットのスポーツ欄で今日のヒーローを選んで下さいとあったので本田選手に投票したらそれまでの結果が出ていて、本田選手69%、スロバキアのVittek 選手21%、オランダのRobben選手7%そしてパラグアイのSanta Cruz選手3%となっていた。

2010年6月20日日曜日

父の日のプレゼント

今日はワールドカップ第二戦目、ブラジルの相手はコートジボアール。初戦の時より動きもよく3対1で勝ちブラジル中に歓声が沸きあがった。Luis Fabiano と Elano の見事なシュート、思わず手をパチパチとたたいた。今日は家でビールと妻の手造り料理、味も格別。Luis Fabiano はゴールの後左手の指五本と右手の指一本で六という数字を示した。彼の娘の六歳の誕生日へのプレゼントだと実況アナウンサーが説明した。その後続けて今日南アフリカは父の日でこのゴールは彼の父親にも最高のプレゼントになったはずだと息を弾ませて言った。そういえば日本も六月の第三日曜日が父の日と聞いた。ここブラジルは八月の第二日曜日となっている。母の日が五月の第二日曜日と統一されているのにこの父の日調べてみると国によって違っている、しかも歴史が浅い。悲しいかなこの父の日、母の日に比べてどうも重みに欠けているような気がする。

ワールドカップ - テレビの販売合戦

ブラジル人のワールドカップにかける意気込みはすごい。できるだけいい映像で見ようとテレビを買い替える。昨日はこういうコマーシャルをテレビでみた。「32インチの地上デジタル液晶テレビをお買い上げのお客様にはブラジルがワールドカップで優勝した場合は同じ型のテレビをもう一台無償でさしあげます」というのだ。値段はと見ると一台でもかなり魅力的で私もワールドカップ前に買っていなければ早速買いに行くところだが涙をのんであきらめた。ブラジルの場合多くの人が優勝確実と信じている(私もその一人である)ので店は大入りだろうがリスクも大きい。さてこの賭けどうでるか店の収益にも影響するのでかなり勇気がいる。
この地上デジタル放送、欧米諸国参加の入札からブラジルは日本方式を採用した。現在のところこの方式を採用しているのは日本以外は南米八カ国と今回の中米のコスタリカ。これにはブラジルの決定が大いに影響しているのではないかと思う。

2010年6月16日水曜日

ワールドカップの放映合戦

さすがサッカー王国ブラジル、ワールドカップの試合は地上デジタル放送で全試合観れる。今の予選は毎日3試合。こちらの時間で午前8時半と11時それに午後3時半。ブラジル最大の民放グローボ社は200人以上のスタッフを南アフリカに送り込んで特設スタジオからの放映となっている。スポーツ担当をはじめ朝、昼、夜のニュース担当のキャスター達も現地から中継している。他の民放も放映している。14日の日本xカメルーンも観戦できた。実況しているのはアナウンサー、ワールドカップ経験のある選手それに主審経験者からなるチームだ。日本戦では相手の攻撃を封じる日本の作戦をほめていた。ブラジルの場合は華麗な勝利でないと国民が納得しないので、2x1の対北朝鮮戦は勝つには勝ったが満足していないと言う批評も聞かれた。
ワールドカップ初回からの毎回出場、優勝5回を誇るサーカー王国ブラジル。選手、監督、関係者のストレスは高まるばかり。

ブラジル2x1北朝鮮


昨日15日待望のブラジルの試合がはじまった。私と妻は息子のマンションの小さなプールサイドでのバーベキュー観戦となった。3時半の試合開始なので私達は2時ごろ家を出たが着いた時には3時になっていた。普通は遅くても30分で着くのだが、今日は皆が2時ごろ一斉に仕事を終えテレビでの試合観戦に帰路につくので交通渋滞を引き起こしてしまったのだ。あまりイライラすることもなく親戚の集まっているプールサイドに着き挨拶を交わしているうちに肉が焼きあがってきた。肉にはブラジル人はうるさいので嫁の父親にまかせてある。私達は持ち寄りの果実ジュースや鶏肉そしてケーキと次々とテーブルの上に並べていく。試合が始まる前に一応腹ごしらえをしておこうと皆食べ始めている。そのうち試合の予想スコアーの表が回ってきた。私は2x0と書いたが他に同じスコアーが3人いたので3x1と書きなおした。見ると4x0から1x0までいろいろ、しかしさすがブラジルが負けると書いたのはいない。やがてキックオフ。前半はブラジルは動きが鈍い。昨日の天気予報だと気温は3度で風が強くもっと寒く感じるだろうと言っていた。期待は後半にかかる。待ちに待った初ゴール喜びが爆発する。ゴールポストとキーパーのわずかな隙間をついた難しいMaicon のゴール。ホッと胸をなでおろす。2ゴール目は元サントスで一緒にプレイしていたRobinho とElano との息の合ったコンビネーションからうまれた。しかし北朝鮮もブラジルの守備陣を突破しての鮮やかなゴール。
このスコアーを当てたのは写真の左端の女性。

2010年6月13日日曜日

恋人の日

今日は6月13日。縁結びの聖人として信仰のあつい聖アントニオの日である。聖アントニオを祭っている教会では良縁を願う若い未婚の女性達のお祈りの列ができる。そのイブの日がブラジルでは恋人の日とされ昨日の12日はテレビでショッピングセンターやレストランなど若いカップルでにぎわっている様子が映されていた。尋ねられると「永遠の恋人同士だよ」と答えていた既婚のカップルも見かけられた。アメリカやそれを取り入れた日本での2月14日のバレンタインデーに相当するがチョコレートを送るとか特に決まってはなくお互いに何かの形で祝ったりプレゼントを送ったり交換したりしている。何事も自然に自分達に似合った形で祝っているのを見るのが一番ほほえましい。

2010年6月12日土曜日

ヴィトリアの最低気温は14度?


ここ数日少し涼しいかなと思っていたらなんと58年ぶりに最低気温を記録したそうだ。それがなんと14,2度。ちょっと意外な気がした。自分ではもっと寒い日があったような気がしたからだ。娘の住んでいるCuritibaは何日か前3度とテレビにでていた。去年娘が7月スペインにいた頃の友達をブラジルに遊びに来ないかと誘ったところ「こちらは暑くて気候がいいのに私はわざわざ南極なんかにはいかないわ」と断られたといういきさつがあった。ブラジルは暑い所だとは一概に言えない。
私はほかの人にここEspirito Santo州の気候を説明するとき「ここは四季の変化はないが南風と北(東)風の気候がある」と言っている。南風のときは寒く(涼しく)て北風のときは暑い。これは年中を通じていえる。冬(暦のうえで)北風が吹けば暖かいし夏に南風が吹けば寒く感じる。30年前日本に仕事で住んでいた時よく日本の方から言われたのは「日本は四季があっていいでしょう」私も負けずに「そうですね。しかし一年中春とか秋の天気だったらどうでしょう」

2010年6月11日金曜日

南アフリカ ワールドカップ 


4年に一度のワールドカップが今日から南アフリカで始まった。決勝は7月11日、1ヶ月の熱き戦いである。常勝を義務づけられているブラジル代表カナリヤ軍団(黄色のユニフォームからこう名づけられている)、勝って当たり前で責任は重い。監督はかって日本でプレーしたことのあるDunga. 果たして6回目の優勝はなるか、この期間中ブラジル国民はテレビの前に釘付けになる。これに先立ちテレビや新聞ではテレビの販売合戦があった。ワールドカップ観戦をぜひ映像の鮮明な地デジでと言うのだ。ワールドカップの前月はいつもテレビの売り上げが伸びるのだが今年は80%の売り上げ増だったそうだ。私も宣伝文句に乗せられて液晶テレビを二台も買ってしまった。今日開幕戦の南アフリカ対メキシコの試合を見たが期待どうりの鮮明さで応援にもつい熱がはいってしまった。南アフリカの監督はブラジルのParreiraで多くのブラジル人はそうだったのではないか。さすが移民の国ブラジル、ハーフタイムには各地に住んでいるメキシコ人と南アフリカ人の応援の様子が映されていた。日本戦の時はサンパウロのLiberdade街からの中継となるのだろう。各チームが南アフリカに到着すると大型バスに乗り込む姿が映されていた。このバスの車体にそれぞれの国の希望のフレーズが書かれている。ブラジルのには「このバスは満杯です、ブラジル全部がこの中に詰まっています」というのだ。的を得た文だ。この期間中ブラジル全国民がコーチになる。また全国民がテレビでブラジル戦を観戦できる取り計らいがなされる。例えばブラジルの試合が午後3時だとすると多くの事務系社員は1時に勤務を終え家に帰ることができる。どうしても会社にいなければならないところでは試合の時間中は会社での観戦が許可される。もちろん機械を止めることができないところは別である。早引きした時間はのちに土曜出勤、あるいはすでに年初の勤務時間表に一日何分の時間外勤務とかに組み入れてある。15日のブラジルの北朝鮮との初戦は息子のマンションのプールサイドでのバーベキューで応援観戦となっていて持ち寄りで招待されている。
ブラジルの勝利またその先の優勝を願う。
上の写真は新聞のテレビの広告。現在為替レートは1ドル1.8レアルである。

2010年6月8日火曜日

雨が降っても天気いい(?)


今年は寒さが少し早い、六月の初めのCorpus Christi (聖体祭)の休日を利用してサンパウロから妻の一番下の弟夫婦が一人息子Bryanをつれてこちらに遊びに来たが四日間の滞在中あいにく天気は悪く雨が降り続きおまけに寒かった。南から来た寒冷前線が上空に停滞していたせいだ。最後の四日目わずかながら陽がのぞいた。まだ海を見たことがないもうじき六歳になるBryanの夢をかなえるべく近くの海へのりだした。私達大人には少し冷たいがさすが風の子(いや海の子?)Bryanは大はしゃぎで海から出ようとしない。二時間後帰路についたがまたもや曇ってきて少し寒くなってきた。
夕食時テレビの天気予報を見ていたら明日はサンパウロは天気でこちらは雨とでていた。すると義弟が言った。「僕たちは明日雨でも天気いい」とニヤニヤしている。私がキョトンとしていると妻もニヤリ。はっと私も気がついてあいづち。「そうだね」
天気いいをブラジル語のTem que ir (行かなければならない)と語呂あわせをしたのに気づいたからだ。 

2010年4月23日金曜日

ブラジリア遷都50年

1960年4月21日にそれまでのリオ・デ・ジャネイロから首都がブラジリアに移されてから50年になるのを記念してブラジリアでは歌手たちのShowを始め色々な催し物で一昨日は百万人の人出で賑わった。私達がブラジルに来たのが1960年11月18日。来る前にニュースでそのことを知った時とてつもない事をやらかす国だなあと驚いたことを思い出す。ブラジルの長年の夢であった内陸部の発展を目指してJuscelino Kubitschek 大統領時代に4年で出来上がった。この都市計画および建造物の設計にはLucio Costa、Oscar Niemeyer が活躍、世界にその名をはせた。Brasilia は飛行機の翼の形をして機能ごとに分けられている。1980年代まだ製鉄会社が国営企業だった頃何度かBrasilia の鉄鋼公社での会議に行ったことがあるが整然とした道の広い街だなという印象が残っている。1960年に14万人の人口が今では260万人。計画されていた以上に人口が増え数々の問題も抱えているがブラジルで一番所得の高い所となっている。最近では知事の汚職でブラジル中の非難を浴びたのも記憶に新しい。ブラジルは26州とBrasilia連邦区からなる。ブラジルの心臓としてここから飛躍するブラジルの力強い希望を全土に送ってほしい。

2010年2月23日火曜日

Primeiro e-mail da neta Isabelle - 孫娘イザベレの初メール


Queridos Tios e Tias,
Sou Isabelle que veio ao mundo às 20:58 do dia 22/2/2010, no Japão
seria 22/2/22 (do ano Heisei). Tenho 3020g de peso e 46cm de altura.
Eu prometo que obedecerei aos meus pais e vovós e permito que me
espiarem no anexo.
Até a primeira vista,
Isabelle

次男の正人のところに長女イザベレが生まれ私達も病院に付き添いで行ったので生まれてすぐの写真を何枚かとった。家にかえり早速イザベレのおじさん、おばさんに彼女の名前でメールを送っておいた。

敬愛するおじさま、おばさま、
私は2010年2月22日20時58分にこの世に生を受けたイザベレです。日本式にいえば平成22年2月22日となります。体重は3020グラム身長は46センチです。
両親と祖父母の言うことを良く聞くことを約束し、そして添付の私の写真を覗き見することを許可します。
初めてお目にかかる日まで。
イザベレ

P.S.: As demais fotos estão no site www.saheki.com
その他の写真はwww.saheki.com に載っています。 

2010年2月21日日曜日

地球の悲鳴

昨日で夏時間が終わったので今朝は家中の時計、腕時計から壁掛け時計、DVD レコーダーに至るまで10個ほどの時計や機器の時間を一時間遅らせた。去年の10月18日から始まったこの夏時間の期間中ブラジルいやこの地球は異常天候にみまわれた。北半球は大雪が降りその後ヨーロッパでは豪雨、南半球では何十年に一度という豪雨。サンパウロでは46日連続して雨が降りチエテ川の増水で多くの家屋が浸水で被害を蒙った。
ブラジルの場合は天災半分人災半分というところか。急な斜面や川の側の低い所に市役所の許可なく家を建てたりしている。また街の中ではごみが収集されてなくそれらが下水の口をふさいでしまう。毎日のようにテレビから流れてくるブラジル南部、南東部の洪水の被害のニュースを見ながらエスピリト・サント州に住む私達は猛暑と日照りにみまわれた。天候の異変、これからはどうなるのだろうか。予想もしないことが起こるような気がする。つづく・・・(環境汚染、地球温暖化、、、)

2010年1月31日日曜日

ハイチの大地震

今月12日、中米カリブ海の島国ハイチでマグニチュード7の大地震があった。死者は20万人以上と報じられている。ハイチは島国といっても同じイスパニョーラ島をドミニカと分け合っている。面積は約四国位とか。被災者は100万人を越えるともいわれている。各国から救援隊が派遣されガレキの下から一人助かる毎に大々的に報道されている。今国連主導で救済治安維持部隊派遣の増員が決定されたようで日本からもPKO部隊の参加があるらしい。
ラテンアメリカ最初の独立国であり最貧国でもあるハイチは近年内乱が続きその治安維持に国連が平和維持部隊を派遣し地震当時ブラジルは最多の1600人以上が駐屯していて20人以上の兵士が犠牲になった。今アメリカも部隊を派遣し国連部隊の主導権をどちらが取るか話題になっている。この地震でブラジルの民間人の犠牲者もでた。Pastoral da Criança 創設者のZilda Arns 女史。小児科医で公共衛生の専門家でもある彼女は教会からの依頼でPastoral da Criança を創設その後献身的な努力でブラジルの乳幼児の死亡の減少に尽くしハイチではその活動を貧しい国々に広げるため教会で講演を終えた直後のことだったという。最近ではその活動を老人救護にも手を広げブラジルで最も尊敬されている人の一人でもあった。本来は政府のやるべき仕事を博愛精神(今はやりの民主党の鳩山総理の方は友愛ですが)でやり遂げたことは人々の感動・感嘆を呼んだ。彼女がテレビに出て話すのを聞いているだけで穏やかな気分になれるのは不思議だった。
ブラジルには地震がない。北伯の小さな町で時々壁にひびが入るほどの地震があったとニュースになるが地震と呼べるのかどうか。ブラジル人と政治の腐敗とか国の発展とかの話になると自嘲的なジョークで終わることがよくある。「神様がこの世をお造りになり、まず色々な土地に分けられた。その後そこにどんな人達をおくかをお決めになっていた。さあいよいよブラジルの番になって神様は頭をひねられた。ここには天然資源を豊富にくばり地震、台風もない、まあ人間はこの位でいいか」しかし今ブラジル人に自信が起きてきた。永遠の明日の大国から永遠の字が消えつつある。
ちなみに私はハイチと南太平洋の島国タヒチとをよく取り違える。偶然両国ともフランスに関係のある国である。今回の地震の時もまたインドネシアの近くかと勘違いしていた。地震が起きたときハイチの大臣級の人だったと思うがこんなコメントをしていた。「これでハイチが全世界に知られるようになった」その後この大臣どうなったかは知らない。