2011年1月30日日曜日

お別れの言葉

今日こちらの日本語新聞の電子版を見ていたら「お別れの言葉」なるものが目に入った。癌で79歳で亡くなられたアマゾン州マナウス市に住んでおられた女性が生前したためたもので、やりたいことは沢山あったが病魔との闘いに負けたこと、癌の治療に対する不信、そして最後に何故癌になるのかその原因を突き止めることが治療への道だという提言。生前本人が書かれたものを死亡通知の欄で見るのは私個人の経験としては初めてである。その横には遺族のあいさつが載っている。
以前は会葬御礼という形で遺族が新聞に載せていた。いまこういう形に変わってきているのだろうか。これからちょっと気をつけて新聞を見てみよう。
これはその人を知っている人達にはあたかもまだその人が生きているような錯覚を覚えさせるのではないか。私には非常に新鮮なインパクトでこれもいいなあという気がしてきた。しかしいつこれを書いておくか、これが一番難しいような気がする。

2011年1月28日金曜日

浦島太郎の謎が解けた!

ある晩私はむっくり起きあがると横の妻をゆすり起こして言った。「おい、浦島太郎の謎が解けたぞ!」「こんな夜中にあなた何言ってんのよ」「浦島太郎が乙姫様からもらった玉手箱、あの底には鏡が張ってあったんだ。浦島太郎は人間だから年が経つにつれて老けていったんだ。しかし自分の顔を見たことがなかったので気がつかなかっただけなんだよ。それで現実に戻すために底に鏡を張った箱をもたされ、それを開けたトタン老いた自分の顔を見てがっくりきたというわけさ」「あなた、それイグノーベル賞ものね」世紀の大発見と意気込んでいた私、馬鹿にされたのか褒められたのかわからず首をかしげる。

2011年1月21日金曜日

Onde está o anel da princesa do Caurel ?

上のタイトル別にポルトガル語で書いたわけではないがポルトガル語そのものでどこも間違っていない。今年の初め、家に来た娘の友達でスペインのガリシア地方Vigoの町に住むAlmudenaがDVDに吹き込んだ13 曲の歌のうちの一つA princesa do Caurelの一節である。彼女は幼稚園から小学校まである学校の先生でガリシア地方に伝わる民話を歌にしてガリシア語で吹き込みをするというプロジェクトをレコード会社に持ち込みDVDとCDをだした。ガリシア地方の言葉をGalego というがどのくらい話されているのかは聞きそびれた。スペインはそれぞれの言葉や文化面での地方色が強く、北のバスク、東のカタルーニャ、それに北西部のガリシア、ピレネーのフランスとの国境近くにも何かあったような気がする。 彼女がDVDの中で歌うA princesa do Caurel (Caurelのお姫様)は下のような歌詞である。

これをMicrosoft Office Word のポルトガル語のチェック機能をかけてみた。間違いが指摘されたのはわずか7語。それらも辞書の助けを借りなくても意味がわかる。カッコ内はポルトガル語。 Caurel(土地の名) gardar(guardar)cum (com), pillou (pilhou)、can(cão)、auga(água)、tiña(tinha発音同じ) チェック機能にひっかからなくて意味上辞書が必要だったのは2行目のpega. これはツグミに似た鳥だそうだ。もしこれをスペイン語のチェック機能にかけるとすると全部の行で間違いがでることは確かだ。ポルトガル語とスペインのガリシア語はよく似ている。Almudenaも何の不自由を感じることなくブラジル旅行を楽しんで帰っていった。

 A princesa do Caurel の話はこうだ。Caurel のお姫様が指輪を布にくくりつけた。その布を鳥がくわえて行ってしまった。猫がその鳥を襲った。犬が猫にかみついた。棒が犬をたたいた。火がその棒を焼いた。水が火をけした。山羊が水を飲んだ。山羊が子を産んだとき、子山羊はお姫様の指輪を持っていた。そのあいだあいだに、さあ、お姫様の指輪はどこにあるのでしょうという問いかけが入る。今11ヶ月目の孫のIsabelle 恵美、 いつもあやすのに大変なのだが不思議とAlmudenaの歌を聞いている時はおとなしくしている。

A princesa do Caurel para gardar o seu anel ata o pano cum cordel. A pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? O gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? O can mordeu o gato, o gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? O pau bateu no can, o can mordeu o gato, o gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? O lume queimou o pau, o pau bateu no can, o can mordeu o gato, o gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? A auga apagou o lume, o lume queimou o pau, o pau bateu no can, o can mordeu o gato, o gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? A cabra bebeu a auga, a auga apagou o lume, o lume queimou o pau, o pau bateu no can, o can mordeu o gato, o gato que pillou a pega, a pega levou o pano da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? A cabra pariu um chibo, o chibo tiña o anel da princesa do Caurel. Onde está o anel da princesa do Caurel ? Onde está o anel da princesa do Caurel ?


2011年1月13日木曜日

この門をくぐる者は一切の恥を捨てよ!


今回の娘のスペインの友達の訪問で娘がスペインで入院していた時のことを思い出した。2005年2月私は約28年働いた会社を定年退職、「これからは少しゆっくりできるかな」と思っていた矢先3月の始めスペインで勉強中の娘から電話があった。「息が苦しくて寝ておれず座ったようにして寝ていて少し血を吐いた」という。症状からして素人の私には結核ではないかと思われた。すぐさま病院に行くように指示した。翌日スペインのお母さんから娘が入院したというメールが入った。ブラジルでそれまで大学で教えていた娘は何を思いたったか個人でBioéticaの博士課程の勉強をしにスペインに行くと言い出した。学費や生活費で金がかかるので行く前に「日本語教えます」とスペインのインターネットサイトに出したところ申し込みが2,3ありアルバイトで生活費くらいは稼げるようになると見込んで約一年半前に出かけていた。その初めの生徒は日本に行ったことのあるキューバ出身でスペインに長く住む年配の人。今度は観光ではなく俳句修行に日本に2,3ヶ月滞在したいと言っているという親日・知日家でその人の奥さんとも娘は 仲良くなり、ある時もし自分たちに子供がいたらこんな娘になっていただろうなと二人で話していたのを耳にした娘は勝手にスペインのお父さん、お母さんと呼ぶようになったらしい。彼も日本については博識で娘もだいぶ学ぶところがあったという。娘は一年ちょっとスペインにいてその後ブラジルに一時帰国そしてその年の初めに再度スペインに渡ったばかりだった。
後で娘から聞いた話だがようやくのことで病院にたどり着き医者に症状を話したところ医者も結核の疑いもあるからとレントゲンを撮ったところ肥大した心臓が写っており心不全と診断されその場で入院となった。
メールではスペインのお母さんは一日二回病院に通っているとのこと。その次の日は生徒の一人からのメールが入り集中治療室にいるが落ち着いているのであまり心配しないようにと書いてあった。スペイン行きのチケットの手配をしようとしたが全てずっと先のしかない。その時はっと思い出した。一年前娘を訪ねて妻と観光を兼ね、パリ、バルセロナ、マドリッドと回ったときブラジルへの帰りの便で隣同士になり偶然私たちの住んでる近くで旅行社をやっていると言っていた人を。その後も何度か会い電話番号もひかえてある。早速行って事情を話すとあちこち連絡してくれ二日後のキャンセルの席を見つけてくれた。そうして私がスペインに渡り電話で病院に連絡した時に出迎えてくれたのが下の1月7日のブログに書いたアルムデナであった。それから娘のスペインのお母さんとも出会い三人で娘がいる集中治療室へ向かった。

ちょうど昼食後の面会時、一時間で付き添い二人入れるという。一人は私でもう一人を順番にしようということになった。私を入れて十人くらい集中治療室の前にいる。若い娘さんが多い。なんでも娘の生徒達で、愛知万博のスペイン館で働くようになっているコンパニオンの人達だという。よくも短期間でこんなに友達を作ったものだと感心したりあきれたり。中に入るとあちこちチューブにつながって薬を打ちこまれている娘がいた。それでも案外元気な声で言い出した「不公平だわこういう状況は。私は全部脱がされてこの薄いシーツをかけられているだけ、おまけにへんな袋まで横にぶら下げてあるし。恥ずかしいたらありゃしないわ。病人を精神的に圧迫しないように来る人も同じ条件におくべきよ、それで病室に入る時には着物を全部脱ぎシーツに身をくるんで来るのが本当よ。そしてドアの上には「この門をくぐるものは一切の恥を捨てよ」と書いておくべきだわ。」
この言葉はイタリアの古典ダンテの「神曲」地獄篇で「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と地獄の門に書かれているのをもじったものらしかった。恥ずかしながら私はこの本の名前は知っているが読んだことはない。まあこんなことが頭に浮かぶくらいなら娘の気持ちもしっかりしていると一安心したのを覚えている。

上の写真は娘のスペインのお母さんと撮ったもの。なぜかしらいつも母子の雰囲気がでていた。私も病院で寝たり、また夫婦で住んでおられるマンションでお世話になったりした。彼女は2008年ブラジルの出版社との会合でサンパウロに来られた時ヴィトリアまで足を運んでもらい再会を果たすことができた。

娘は40日ほど入院していて集中治療室から色々な装置のついた一人部屋そして三人部屋へと移動していった。相変わらず、病室には見舞いがひっきりなし。その間私は退院後娘が病院へ治療にかようことができるようにマドリッドで小さなマンションを借りた。退院の時担当の医者と話し合った時定期的に通院して様子を見るが悪くなれば心臓移植が必要になるがその場合はここスペインのほうが日本よりずっといいと言った。どうやら私たちを日本から来たと思ったらしい、そしてスペインでは心臓移植は進んでいて列も少ないらしい。
幸い娘は少しずつ快方に向かっていきそのときはスペインに着いていた娘の友人で我が家の金髪の長男(?)に後を頼んで退院後二十日くらいして私は帰伯した。彼は仕事の三ヶ月の休暇を取り看病に出向いてくれていた。

ブラジルも心臓移植の手術は進んでいる。私達のかかりつけの心臓専門の医師やリオの研究所で働いている医者の息子とも相談して旅行が出来る状態になったらブラジルに呼び戻すことにした。心不全にヨーロッパで使われてなくアメリカで使われているのにいい薬があり、ブラジルでもそれは使われているというのも判断の材料になり、なにより身近で見守れるというのが一番安心だ。数ヵ月後娘は帰伯。その後サンパウロの専門医に診てもらい今も定期的に通っている。もちろん薬はずっと飲み続けなければならない。

しかしこのスペインでの経験が娘の人生を変えた。連邦大学の法学部をでて修士課程を終えスペインでBioeticaの博士課程を勉強していたのだがそれを全部捨てなんと今は「東洋文化センターともだち」なるものを経営している。スペインでアルバイトで日本語を教え、その時出会った人達のすばらしさに胸をうたれたと言う。自分は夢を追い感動する毎日を送りたいそれが出来るならばいつ死のうと自分は幸せだと言う。
娘の幸せを願わない親はいなく後押しをするしかない。ヨーロッパの雰囲気を漂わせるクリチーバの土地柄、人柄(?)が幸いしてその結果が12月23日のブログとなった。

2011年1月7日金曜日

Almudena




昨年の末から今年の始めにかけてスペインからお客さんがあった。娘がスペインで博士課程の勉強をしていた時に知りあった友人で名はAlmudena. スペインの首都マドリッドの守り神である Nossa Senhora de Almudena とは色々な名で呼ばれている聖母マリアのことである。さて彼女はガリシア地方で学校の先生をしていてクリスマス休暇を利用しての観光を兼ねたブラジル訪問となった。サンパウロには娘の友人、そしてクリチーバには娘、リオには息子がいるしヴィトリアには私達がいるということで15日間で四州都を訪問というスケジュールとなった。
娘がサンパウロの飛行場で出迎え一緒に回って昨日彼女はヴィトリアからスペインに発った。何でもヨーロッパは厳寒で、来る前日彼女と話した時は気温は零度だと言っていた。いまブラジルは真夏。それでも曇りが続いたので肌はわずかに焼けた程度ですんだ。もともと暑さが大好きとのことでこちらのアドベンチャーを楽しんだ。
その一例が上の写真のAsa Delta (日本語でなんというのか面倒なので調べないが(三角翼?))でリオの町を空から眺める飛行。これはリオの息子が研究所に外国から来る人達に人気があるといって予約していたもの。私たちの周りの知り合いに聞いてみても誰も乗ったことがない。彼女が発つ前に予約していたものだが心配になって問題ないかと聞いてみると楽しみにしているとの返事。それもそのはず娘が彼女と知り合ったのはスペインにいたとき40日間のサハラ・モロッコ旅行をともにした時のことだった。娘からよく道中のアドベンチャーのエピソードを聞かされていたものだった。旅行後は姉妹としてのつきあいになり娘がスペインで心不全で入院していたときは仕事の休暇をとりガリシアからマドリッドまで出向き私がスペインに着くまで病院で付き添ってくれていた。何度も訪伯を勧めていたのだが都合がつかず今回となった。
リオのこのAsa Deltaで岩山を駆け下りるとき彼女は「神様ありがとうございます」と叫んだそうだ。そのあと天候が変わりAsa Delta での飛行は中断されたようだ。今回の旅行、彼女には運がつきまとった。天気だけではなく私たちでもめったに会えない人たち(Artistas)に会えたり本当によかった。各地で人のぬくもりを感じ普段めったに泣かないのだが涙がでてしょうがなかったと帰るときに話したがそう言いながらまたポロリ。
下の写真はヴィトリアのナンバーワンの観光名所岩山の上に建つConvento da Penha (修道院)で俗称「第三の橋」をバックに撮ったものである。写真を撮るときに必ず目をつむるくせのある妻もサングラスのおかげでわからず取り直しなし。
我が家では庭に植えてある野菜や果樹の名前をメモしたり写真を撮ったり。なんでもスペインの友達にメールしたらそんなに同じ所で収穫できるわけがないと返事がきたので証拠を揃えなければということらしかった。豊富なトロピカル・フルーツ、ジュースを満喫して「スペインに帰ったらこれなしで生きていかなければならないなんて悲しい」と冗談まじり(なかば本気で)私たちに漏らした。
無事旅行を終えて家に帰った彼女、今頃はどんな夢をみて寝ているのだろうか。

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。
新世紀に入って早十年、歳をとってくると一年が過ぎるのがますますはやく感じられる。去年の前半は椎間板ヘルニアに苦しんだが最近はようやく近距離の旅行くらいはできるようになってきた。不思議なもので私の身体が私を動けるようにしてくれている。背骨のヘルニアの辺りに少し隆起ができて座るときそこを押し付けているとかなり長く座っていることができる。色々な椅子を試したが一番安い折りたたみ式の鉄のがいいことがわかって家のあちこちに配置してある。今年の願いは痛みなしで過ごすこと。この前NHKを見ていたら耳がよく聞こえない人が使っていた言葉がひっかかった。普通に耳が聞こえる人のことを「健聴者」といっていた。普通に暮らせることがいかにありがたいことか、あちこちに不自由を感じないとそれがわからない。昔私が会社の同僚がサラリーが上がらないとぼやいていた時になぐさめ(?)に使っていた言葉がある。「君は健康というだけで今の何倍の給料を貰っていると同じことなんだよ。考えてもみな、病気になったらどれだけの金がいることか。」ききめがあったかどうかは定かでない。
「普通に生活すること」これが今年の目標。今までで最低のレベルだが最高に難しいと思っている。