2012年12月31日月曜日

猛暑の紅白歌合戦

12月31日は紅白歌合戦から始まる。日本は夜の7時15分からだが時差12時間のブラジルでは朝の7時15分(夏時間で8時15分)。我が家では録画機能のあるプレーヤーのあるところでは時計は夏時間に合わせてない。毎年録画していて今年も予約録画に昨日仕掛けておいた。しかし時間通りにかかるか、途中問題ないかと心配なのでやはり初めから終わりまで見る。年を締めくくる歌と踊りの祭典というNHKのふれこみ。今年はいつもより洗練されていて楽しめた。若い人たちの歌はその場で楽しむだけだが、知っている馴染みの歌手が出てきて歌うとああこの歌は誰とどこで聞いたなどとその時の情景が浮かび上がってきたりする。白組の司会「嵐」が昨年と一昨年歌い、今年も特別企画で歌った「ふるさと」。「あなたにとってふるさととは?」。さて、私にとってふるさととは? 16歳までいた日本では考えることもなかった。ブラジルに来てからはふるさとは日本であった。しかしこちらに長く住んでいるとそれはブラジルになり、それも最初はサンパウロのモジ・ダス・クルーゼスそして今は35年住むここエスピリトサント州の大ヴィトリア圏内のセーハ市。なんだこれでは「住めば都」ではなく「住めばふるさと」ではないか。そうか、都とはふるさとのことだったのか。不覚を取った。
紅白歌合戦はコロニアでも人気のある番組でサンパウロのモジにいたころは町で週に二日、日本映画を通していた映画館で紅白歌合戦の何か月後にスクリーンの映像で見ていた。80年代は日本からこちらに仕事で来ていた人から日本に帰国後録画テープを送ってもらっていた。いつもありがとうございました。NHKがこちらで見れるようになってからはテープに録画、そして今はHD内臓のプレーヤーで編集してDVDに録画。我が家の紅白歌合戦の歴史を懐かしく思い出す。
朝7時10分、日が照っていたので外に温度計を持って出て直射日光で測ってみると34度あった。ここ1週間雨も降らず暑さが続いていて昨日は真昼に測ってみると46度あった。夜はエアコンかけてこれから寝ようと思っていたら停電。2時間ほどの停電はもう何年も経験してない。日焼け止めをつける習慣のない私もここ数日出かける時はスプレーをかけている。今日も暑くなると覚悟していたら昼から曇ってきたので温度計で測るのはやめにした。
日本は記録的な猛寒(?)。地球は狂ってきているのか。

2012年12月24日月曜日

コリンチャンス クラブ選手権その2

家に住んでいると、時々リフォームや水、電気関係のトラブル解決に左官屋を呼ぶことがよくある。家ではここ10年以上使っている左官屋がいる。2ヶ月前に家の外壁を塗らした時に仕事シャツを忘れていったので妻が洗濯して今年中に返しておこうと電話で昨日連絡して今日の朝取りに来てもらうようにした。門から入ってきた彼の顔が少し赤い、どうやら昨日のよるから仲間で飲んでいたようだ。今日はクリスマスイブでもあるのでケーキとシャンパンに似た飲み物を一本妻がシャツと一緒に渡していたので私が「ドナ・イウダ(彼の母親)におこしをもたしたらよろこぶんじゃないか」と言ったら、「そうね、ビンにいっぱいあるからすぐ出来る、ちょっと待たしといて」と言って妻は台所に向かった。私が「おこし」と言ったのは正式には「干し飯(ご飯を水であらって天日で干したもの)を油であげカラメルでかためて四角く切った物」である。ここエスピリト・サント州では日差しが強いので天気のいい日、ご飯は1日で干しあがる。この「おこし」、意外とブラジル人に大人気。古いつきあいの知人「誕生日、クリスマス、イースター祭、すべてプレゼントはこれで良い」との通達(?)を受けている程である。さて妻が作っている間私達はサッカー談義。コリンチャンスのクラブ世界一の話しに当然なる。何でも彼らのところは町内で賭けをしたそうだ。しかしなんと彼はコリンチャンスが3対1で負けると賭けたそうだ。ブラジル中がコリンチャンスに応援していたのにどうしてと聞くと「弟がコリンチャンスの熱狂フアンでいつもうんざりしていたのでこれで負けたらあれも大きな顔は出来ないしこっちの気分も良くなる」とのこと???
20分ほどで妻が大きな箱に「おこし」をいっぱい入れて持ってきた。彼は「これでお母さんへのクリスマスプレゼントができた」と意気揚々と自転車を飛ばして帰った。

発展への雄たけび


昨日スーパーからの帰り、新しい近道ができているのに気づきこれを使えばかなり距離、時間的にも短縮できると思い入ってみた。道幅も広く舗装はされているがまだ照明もなく交通標識もない。この辺の地理に詳しい人しか使っていないようだ。道に入ってすぐに迫力のある光景が目に入ったきた。パワーシャベルの群れである。巨大な鳥たちがより高く競うように雄たけびをあげているような。このブログでも何回か書いているがこれ皆韓国のHUNDAI製。スマートテレビ、スマートフォン、乗用車以外でも韓国企業は激しく攻勢をかけてきているようだ。

2012年12月16日日曜日

コリンチャンス、おめでとう!!!


今、横浜で行われていたクラブW杯が終わりコリンチャンスが1対0でチェルシーを破りクラブ世界一となった。始まって2,3分、コリンチャンスの動きが準決勝戦の時より良い。しかしチェルシーの攻めはすばやく再三ゴールのチャンスをうかがうがゴールキーパーのCassioが防ぐ。ゴールへのシュート数ではコリンチャンスはチェルシーの半分。今回の最優秀選手にCassioが選ばれたのは当然のことである。
試合中、絶えなかった4万人以上の観衆の大部分を占めたコリンチャンス・サポーターの応援。地球の裏まで高い旅費および宿泊費などの諸々の経費にも関わらず応援に駆け付けた熱烈なサポーター達、アナウンサーもまるでブラジルのホームで戦っているようだと言っていた。彼らのことだからおそらく借金までして行っているサポーターも中にはいるのではないか。
時差の関係でこちらでは午前中に試合は終わった。暑いので冷やしておいたビールを開けた。今夜は友人の孫の一歳の誕生祝に招かれている。またコリンチャンスの話が出るだろうからこのポストを閉めるのはそれからにしようとノートブックを閉じた。

「不思議な国のアリス」の挿絵が入った招待状には午後6時からと書いてあった。7時頃出かけようと思っていたら息子夫婦が子供のパーティはあまり遅れないよと言ったのでそれでは6時頃出るかと決めた。着くまでには30分ほどかかる。ブラジルでは時間どおりに始まる集まりはない。ところが行く先に着いたと思っていたらそこは彼らが昨年まで住んでいた所で新しい住所は招待状に書いてあったと妻は言う。彼らこの4年で4回引っ越ししている。息子のケータイに電話して聞くと3つ先の通りだという。それでもまだ迷ってそれやこれやで着いたのは7時。ブラジルのマンションでは共同で使用できるサロン・デ・フェスタと称する大広間がある。そこで家族のお祝いや気の合った友達で集まりバーベキューパーティーを開いたりすることが出来る。事前に予約が必要である。場所はそこと書いてあったがまだ人はあまり集まっていない。小さい子供たちが集まるというので小型トランポリンや滑り台なども用意してある。友人は孫と写真をとってもらっていた。だんだん人が集まってきてそれぞれ4-6人用のテーブルに着く。あちこちで話がはずんでいる。やがて私も友人のいるテーブルの輪の中にはいる。なんとコリンチアノが二人いてその一人が友人自身。何万人のサポーターが行って、どのくらい金を使ったの、日本の領事館はビザを出すのに苦労したろうとか、しかし最後は英雄、キーパーのCassioの話になる。
やがて皆が広間の隅のケーキが置いてある所に集まるとハッピー・バースデイの合唱。曲はアメリカと同じだがブラジルでは誕生日という歌詞は入らず「おめでとう、あなた,この素晴らしい日…」という歌詞から始まる。二度みんなで歌い終わった時友人の奥さんがまた始めようと歌いだしたがだれもあとに続かなかった。みんなは「不思議な国のアリス」の絵が入っているお菓子などに飛びついて行ったが私のそばを友人の奥さんがぶつぶつ言って通っている、よく聞いていると「私は‘おめでとう、コリンチャンス‘と替え歌で皆で祝おうと思っていたのに誰もついてこないんだから…」
妻の話だと彼女も熱烈なコリンチャンスのサポーターとのこと。

火曜日は凱旋帰国(?)、さぞサンパウロではすごいお祭り騒ぎになるだろう。
コリンチャンス、おめでとう!!!

2012年12月12日水曜日

クラブW杯準決勝、コリンチャンス 1対0で勝つ


今ハラハラのセカンドハーフが終わった。南米チャンピオン、ブラジルのコリンチャンスとアフリカ代表のアルアハリ(エジプト)とのサッカー世界選手権大会の準決勝戦でコリンチャンスがかろうじて前半の1点を守りきり日曜日16日の決勝戦に進んだ。後半はアルアハリの見事なパス回しと再三のゴールを狙ってのシュートでコリンチャンスのサポーターのみならずブラジル中が手に汗を握った。実況していたブラジルのテレビグローボ社のアナウンサーも試合後視聴者に落ち着いてまずは上がった血圧を下げましょうと言う始末。こんな調子で明日のもう一つの準決勝戦ヨーロッパ代表イギリスのチェルシーと中北米代表のメキシコのモンテレイとの勝者との決勝戦は大丈夫かなと不安が残った。しかしカチカチのサポーターは「なーに、これも監督の作戦さ、ここで手の内を見せたらまずいものな」とコメントしていた。
今日の豊田スタジアム、ほとんどがコリンチャンスのサポーターだったように見えた。コリンチャンスのサポータの数はフラメンゴのサポーターの数とどちらがブラジルで一番多いかと問われるとそれぞれ自分の方だと後に引かない。コリンチャンスのサポーターのチームへの忠誠は堅い。ただのサポーターとは言わずに「忠実なコリンチャンスのサポーター」あるいはそれを略しての「忠実(Fiel)」といえば彼らを意味する。また彼らの応援も息が合って高まりたまには暴力的なまでに発展したりする。こちら発行ののニッケイ新聞も彼らが日本で問題を起こさなければよいがと心配していた。また日系人のサポーターも多い、サンパウロの三人の甥たちもたしか「Corintiano(コリンチャンスのサポータ)
Corinthians, 日曜日は美味しいビールを飲まさせてくれ!!

2012年12月11日火曜日

日本よ、どこへ行く


最近こちらの新聞に私が前から思っていたことをコラムニストが書いていたので下に訳してみた。新聞といってもエスピリトサント州発行の地方紙で土・日だけ購読している。ブラジルに日本のような全国紙はなく紙数の多いのはサンパウロとかリオとかの大都会の新聞である。そこから地方の系列会社に記事を廻しているところもあるようだ。

"日本は何十年という長い間エレクトロニクス王国として知られてきた。良いエレクトロニクス製品は日本製だと聞いて私たちは育ってきた。‘日本製(メイド・イン・ジャパン)‘、これが誰もがお気に入りの登録商標でそれだけで十分、他になにもいう必要もなかった。しかしこれがスイッチを入れるか入れないかのタイミングで一変した。
シャープ、ソニー、パナソニック、富士通などは4年も前から赤字に陥っていて2012年は今までで最悪の結果となるかもしれない。日本製は良い製品ではなくなったのだろうか? いや、違う、相変わらず最高の製品だ。しかし日本の会社はマーケットの焦点を見失ってしまい、もうすでに消費者の関心が薄れてしまっている分野の革新に力を入れるようになってしまった。
新しいテレビの代わりにマーケットはスマートフォンに向かった。日本の会社はそれに速く気づかなかった。ケータイについては日本の会社は90年代の初めから積極的に参加してきた。ソニーはEricsson と組んで成功しシャープはカメラ付きのケータイを最初に出した。しかしそれも2000年代の初めまででそこで止まってしまった。
もうこれ以上あまり新しいものは出ないだろうと思っていた。しかし2007年アメリカ、アップル社からiPhoneが出て革命が始まった。韓国のSamsungも参入し2社でマーケットシェアー54%,日本はわずか8%。日本国内でさえアップルとSamsungに負けてしまった。これはかの有名な熟社ともいうべき現象なのだろうか。即ち、居心地のいいゾーンに居座り、バックミラーに眼を向けなかったため追い抜かれてしまったということなのか。"

PS: 実は家でも3台ある薄型LEDテレビはSamsung と LG、スマートフォン然り。トヨタのETIOS(インドで売られていたのを改良)がこちらで発売された時はデザインが悪いとインターネットで批評されていた。ブラジル人は自分の車を自慢しあってデザインにはうるさい。こういうことをマーケティングの時点でつかんでいなかったのだろうか。その点、韓国車はアグレッシブなデザインでせまってくるしCost-Benefit も良いので街でよく見かける。

2012年12月7日金曜日

さようなら、オスカール ニーマイヤー

一昨日5日ブラジルが世界に誇る建築界の巨匠オスカール ニーマイヤーが104歳の生涯を閉じた。つい最近までニュースなどにも元気な姿で事務所で打ち合わせをしている様子が写しだされていたのでそのバイタリティに感嘆したものだった。

彼は曲線の魔術師として知られている。下は彼の言葉である。                          
私を引き付けるのは硬く曲がらない人間によって作られた直角や直線ではなく、自由で魅惑的な曲線であり、それらは私の国の山々に見られるような、まがりくねった川れ流れのような、海の波のようなそして好きな女性の体のような曲線である。
宇宙全てのものは曲線でできている、アインシュタインの曲がった宇宙も。」

私も彼の建造物をいくつか訪れた。このブログを書き出してからは娘の住むクリチーバにありその形から「目」の愛称で知られている「オスカール ニーマイヤー博物館」。息子の住むリオの隣ニテロイにある「近代美術館」と海から望んだ「ニーマイヤーの道」と呼ばれるたたずまい。

そしてずっと昔にさかのぼるが仕事で首都ブラジリアに行ったときに見た彼が設計した種々の官庁や大聖堂。それらの建造物でブラジリアは世界遺産に登録されている。

これも出張先ミナス州の州都ベロ・オリゾンテで見たパンプーリャ湖畔にひっそりとたたずむ「サンフランシスコ礼拝堂」。

最初によく見ていて当時は彼が設計したのだとは知らなかったサンパウロの曲がりくねった「コパンビル」、サンパウロの象徴でもある。

オスカール ニーマイヤー、ありがとう!

2012年11月25日日曜日

Black Friday


一昨日23日の金曜日はBlack Friday ということでインターネットを通して商品を売っている店のメールが一杯入っていた。これはアメリカで始まったもので11月の第4木曜日のThanksgiving Day 翌日にクリスマス商戦を前に在庫の整理をするとの名目で大安売りをするのだとはIT関係の会社に勤めている末の息子の話である。なんでもブラジルでは2010に始まったそうで今年は3年目、参加商店も300を超えたそうだ。しかしブラジルではまだインターネットを通しての取引だけだがアメリカでは広く普通の店でも安売り合戦が繰り広げられ前日から列をなしているところもあるとか。テレビのニュースでも流していたが、インタビューされていた人は仕事の休暇をとって並んでいるのだとか。

さてこのBlackとは何を意味するのだろうかとは去年から疑問に思っていたがWikipediaで調べてみると縁起が悪いどころか黒字を意味する黒で店の成績がこの日から黒字に転じるのだとか。

ブラジルでは10月12日の子供の日からクリスマスまでは販売をアピールし売上を伸ばすキャッチフレーズがない。店によっては子供の日(親はプレゼントを買う)が過ぎると10月の後半にはもうクリスマスツリーを飾りクリスマス用品を並べているところもある。しかしそれでは2か月以上も先のことであまりにも盛り上がりに欠ける。そこでこのBlack Friday に飛びついた。私もいろいろなサイトに入ってみたがこれと気を引く品物で大きな割引をしている商品はない。大部分が売れ残りをはかそうと企んでいる。それでも何か一つくらい買っておくかと(まんまと引っかかり)ブルーレイ3Dプレーヤーを買うことにした。少しは売り上げに貢献したか。これからが本格的なクリスマス商戦、土日を返上してのしれつな戦いが始まる。 

2012年11月19日月曜日

万ション


最近この近辺でも都市開発が進み半径2キロ以内の建設ラッシュはすさまじい。私の家の前にもマンション群が建設中(上の写真は今日現在、下は2年後の完成予定図)、そのほかにも何千戸の新マンションが売り出し中。野次馬根性でモデルルームを見たが部屋の面積も狭くなってきている。はたしてこれだけの需要があるのだろうか、どうもバブルのような気がする。ヨーロッパユーロ圏の崩壊が毎日のように報じられている。私が当時スペインで勉強していた娘を訪れた2004年と2005年、活気が溢れていて地価も高騰していた。娘が気に入られて勝手にスペインのお父さん、お母さんと呼んでいた所で聞いた話では自分たちのこのマンション今の値段では買うことはできないと言っておられた。それからわずか数年で経済不況。一寸先は闇(?)、先を読むのは非常に難しい、我々素人には不可能。ただあまり大きな怪我をしないように気をつけておきたい。
これはどうやら多かれ少なかれブラジル全国の傾向のようだ。建設ラッシュではなくても2014年にワールドカップ、2016年にオリンピックの開催が決まっているリオデジャネイロの不動産の高騰も異常だ。リオに住む息子の中古マンションも4年前に買った時から倍以上になっている。今では買えない。堅調に伸びているかのようにみえるブラジル経済、10年先のジグソーパズルを組める人がいたら教えてもらいたいものだ

2012年11月15日木曜日

バナナ


塀際に植わっていたバナナも塀の高さをはるかに超えバナナの房を塀の外に垂らすのでこれも道を通る人のアドレナリンをくすぐる。30株ほどあったバナナも全部切ったがすぐ切り口から新しい芽を出すのででうっかりしているとまたすぐ塀の上に頭をのぞかせる。切っても切っても芽をだすので絶やすのは大変。バナナはブラジルでは安い、自分のところで植えるのはばかばかしくなった。スーパーで買うと1キログラムあたり約50円で一年中ある。ブラジルでは値段の安いことを「これはバナナの値段」だという言いまわしさえある。
家の裏のほうに植えていたバナナはあまり邪魔にならないのでそのままにしていたら写真のようなバナナがなっていたので手押し車をもって採りに行った。全部で227本、しかも一本一本が大きい。測ると55キロあった。まだ青いがガスを使わずに自然に熟れるのを待つと長持ちする。

マンゴーの木(?)


私たちも最近は身体が思うように動かないし精神的にも体力的にも力がなくなってきたので土地に植えた木を大分処分することにした。マンゴーの木は大きくなりすぎ道路に面した塀際に植わっていたので実が熟れるころは通りかかった学校帰りの子供達や果ては仕事帰りの大人まで石を投げるや棒でつつくやらでうるさい。木が大きくなると石の飛距離も伸びてきてこちらの身が危うい。棒も10m以上の竹竿の先に空き缶をくくりつけそれでつつく。門を開けて外に出ると蜘蛛の子を散らすように逃げる。門の横に取り付けてあるドアベルを鳴らして呼んだら家にあるのを分けてあげると言ってあるのだがそれでも隠れてとる。どうやらアドレナリンを求めているらしい。私も元気のいい頃は梯子をかけて登り竿の先に布袋をつけて実がいたまないように採っていたのだが木があまりにも高くなるやら私も椎間板ヘルニアを患うやらで2年ほど採らずにいたら高い所になっているので自然に落ちた実は潰れてしまいジュースにもならない。それにもう一つ、横に張っている根がだんだん盛り上がってきて塀を崩す恐れもある。ついに切ることを決断した。自分では切れないのでチェーンソーを持っている業者を雇ってマンゴーの木を二本、ついでにやはり塀際にあって大きくなっていたGraviolaの木を二本切った。ブラジルでもこの辺は日照時間が長いので植物の成長が速い。うかうかしていると手に負えないほど伸びている。直径はどのくらいあったのだろうと今測りに行ってきた。直径75cm、後利用できるように平らに切ってもらいその上に丸い石を置いてテーブルとして使えるようにしている(写真上)。切った枝は50-60cmの長さに切り、菜園の周りに置いていたらこの辺に自生しているキノコがはえてきて(写真下)それを私の好きな煮しめにいれたり炊き込みご飯に入れたりして大分長い間たしなんでいる。



2012年10月17日水曜日

Digital Baby



上の写真は今2歳8ヶ月の孫娘恵美がいつものように妻のNetbookYoutubeのアニメを見ながらまぐろの角切りのさしみを食べているところを撮ったものである。週末よく家に来る恵美と土曜の朝市に行く。私と恵美がサトウキビの絞りジュースを買いに行っている間に妻は刺身になる魚を物色する。たいていは3キロから5キロのまぐろ(刺身にすると約半分)を買うが時々は息子と嫁が好きなふぐ(とらふぐではない)を買う。嫁は魚嫌いだがふぐだけは息子と一緒に食べる。恵美は刺身はなんでもござれで妻が魚をさばいている横で注文する。おかわりまでするので一度に2百グラムくらいは平らげる。そして妻が作る豆腐が好きでこれで昼ごはんは終わってしまう。やはり日本人の血が流れているのだなと感心したりする。
自分でも馬鹿げていると思っているのだが人の表情は環境によって変わるのではないかということ。妻が以前私に言った「恵美は来た日は西洋人の顔をしているが家に2,3日居ると日本人の顔になるね」「何を言っているのだそんな馬鹿なことを言うんじゃないよ、人に笑われるよ」とぜんぜん相手にしなかった。しかし最近よく観察すると確かに家に居る間に顔が引き締まり眼もキリっとしてくる。妻の暗示にかかった気のせいかとも思うのだが・・・・・。

2012年10月16日火曜日

ブラジル 4 x 0 日本


先ほどポーランドで日本とブラジル代表とのサッカー親善試合が行われ、ブラジルとしては上出来の4対0での勝利。久しぶりに安心して見れた試合で、テレビでの観戦中に大きな声をださずにすんだ。何しろブラジルには国民の数ほどのサポーターどころか監督がいる。成績が悪いと選手でも監督でもブーイングを受ける。代表監督も例外ではなく先月だったと思うが試合中に次の監督の名前を大合唱するブーイング。次の監督として観客が選んでいたのは2002年に日本・韓国共催のワールドカップでの優勝監督のルイス・フィリッペ・スコラリ(愛称フェリポン)、しかし皮肉なことに彼が率いるチームはいま2部リーグに降格される危機にある。

今まで不安定な成績でマノ・メネーゼス代表監督の去就まで取りざたされていたがこれで首がつながったのではないか。代表から遠ざかっていたカカが前のイラク戦から復帰し6対0そして今回の4対0、二人のボランテの起用もあたりこれでようやく代表が進むべき道が見つかったとコメントしていた。しかしブラジルのこの好成績は相手が日本でのFair playの結果でもある。試合の終りごろだったが反則の数が日本7ブラジル9、そして前半は45分で終了、ブラジルのリーグ戦や南米の国とのチーム相手では絶対にない数字である。日本の代表チームも攻撃がうまく構成されていて結果ほどの実力差はなかった。
来年はブラジルでコンフェデレイション・カップ、そして2014年はワールドカップ。世界に恥じない大会運営をやってほしい。この言葉なんど書いたことだろう。

2012年10月12日金曜日

父とピタンガの木とその多くの実


昨日11日はクリチに住む娘理奈の誕生日なので電話を入れたところ以前彼女が小新聞「眩暈」に載せたピタンガの話(2011年11月5日のポスト)を日本語に訳したので見てほしいと言ってきた。娘が経営する東洋文化センター「トモダチ」で日本語の先生をしていて昨年まで日本で仕事をしていた日系のマヤラさんが翻訳したのに事情を知っている私が少し手を加えて下の文となった。
父とピタンガの木とその多くの実
2007年、クリチバで日本語を教えはじめた頃、生徒達によくこの話をしていた。
私が日本語教師になったきっかけはシヴィック・センターのサイクリングロードの横、ポーランド移民記念広場のあたりに立っているピタンガの木だと言う話。私にとってとても大切なこの話も長いこと語らないでいたので、新聞「メマイ」に記録しておく事にた。
2006年、クリチバへ移り住んで何ヶ月かした頃、両親がエスピリトサントから様子を見に来てくれた時の事である。当時私はシヴィック・センターに住んでいて、広場からも近かったことから、二人は毎朝広場周辺を散歩する事を習慣づけた。ある朝、散歩から帰ってきた父は真剣な顔付きで、市役所へ手紙を出すと言った。治安やインフラに関して主張するのだろうと思ったその手紙は、全く違うものだった。父は、次のように書き始めるつもりだと語り始めた:
「拝啓、
私はポーランド移民記念広場の近くの自転車専用道路の横に植えられたピタンガの木です。寒さのあまり、凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里に帰して下さい。」
細いピタンガの木を目にした父が、その植物の苦しみ説明する姿を見て、私は微笑まずにはいられなかった。「やっぱりお父さんね」の様な事しか言わなかったような気がする。私にとってこの話が面白く素敵なは、両親の純真で思いやりを感じさせられるところにある。私も同じ道を何度も往復したが、自分の目では一度もそんな角度で見たことはなかった。それが出来るほど、私は目を(そしてそれ以外の何かをも)開けていなかったのだと思う。いつも自分の考え問題のみに気をとられていたのかもしれない。いつも急いでいたのかもしれない。そこまで思いやりを持てる程、まだ苦していなかったかもしれない。
「我が...」と父は言った。昭和19年日本で生まれた父は、16歳の若さで家族と戦後の景気後退から逃げるようにブラジルへ移民して来た。昭和35年に、祖父・祖母そしてその子供4人でアフリカ丸に乗船してだ。言葉では言い表せない程辛く、苦しい時代だったと言う。何年か前、両親と兄弟達と田舎に遊びに行った時、土壁に少しのレンガを合わせて作り上げられた家を見かけた。父からブラジルでの最初の数年間は似たような家に住んでいた聞いた。が沈むと、壁に開いた沢山の隙間から入ってくる風はとても冷たく、寒さを運んできたと。信じがたかった。定年退職し、いつも穏やかで物静かな私父が、50年もしない昔にそんな暮らしをしていたなんて。
「凍えて死んでしまいそうです。どうか、我が里へ帰らせて下さい」。何度のを乗り越えて来たのだろうか。何回日本へ帰りたいと思ったのだろうか。
自分は幸いそういう生活を知らずに育った。全ての命に対する思いやりに隠された強さや決意、それは仏教の大事な心意であって、「私はピタンガの木」のような小さな言葉に現れる。自身の肌で感じた寒さと故郷を離れる悲しみがあったうえでの思いやりが。今でも、この話に感動する父に言うと、「バカじゃないか」と言ってう。
これが授業と何の関係があるのかと言うと、より多くの人に、こういった話や物語を聞いた時、言葉の裏側に潜む価値観や困難を発見してもらえたらと思ってこの話をしてい。自分の文化に潜む力を発見してもらいた。家族内での小言や、いつもよりちょっと甘かったり辛かったりした食事、親からのあたたかい視線に潜む美しさを発見してほし
本当は、この話を聞いた事で、もっと多くの人に微笑んでほしかっただけだと思う。自分もピタンガの木であるのかもしれない、と気づいた優しい目をして。
P.S. この記事を書いた後、写真を入れても良いかを訊くために父にメールを送った。返信された答えは「リナ、写真は使っても問題無いよ。昨日、写真を何枚か探しながらアルバムを漁っていて、昔の事を思い出していたんだ。君らの小さい時の事も。ユーカリや竹、わらぶきや土で作った、夢も絶望も沢山詰まったあの家の写真ももちろん見付けた。でも、それをも優しく思い出させてくれる為に、「時」は昔の苦しみや辛まで懐かしさに変えてくれた」と書かれていた。

佐伯リナは、トモダチ文化センター学長、日本語教師、人権法マスターである。

2012年10月7日日曜日

ブラジルの地方選


ブラジルは26の州と首都である特別連邦区Brasiliaから構成され,各州はMunicípio と呼ばれる行政地区に分けられている。今日ブラジル26州の5568のムニシピオで行政地区の長Prefeitoとその議会議員Vereadorを選ぶ選挙が行われた。全国の選挙人口は138.544.348人、私もその中の一人である。

朝テレビのニュースを見ていると投票所である学校には列を成しているところもある。もう少し後で行ったほうが良さそうだ。週末には家に来ている孫娘の恵美を連れて12時過ぎに妻と近くの学校に出かける。各教室が選挙区のセクションになっているので私の選挙手帳のセクションを確認して教室に行くと、列もなくすぐに入れた。写真つきの身分証明書と選挙手帳を係りの人に渡し確認が済むと囲いのある投票箱に。ブラジルは随分前から電子投票となっていてVereador候補とPrefeito候補の選挙番号を打つと顔写真がでるので確認してConfirmのボタンを押す、一分以内で投票が終わる。結果はその日の内にわかる。11時のニュースでは全国26州の結果を報じていた。過半数の票を取った州都のPrefeito候補は9人選出された。あとの17州都と選挙人口20万人以上のMunicipioで過半数獲得の候補者がいない33のMunicipioでは上位2者での決選投票が10月28日に行われる。エスピリト・サント州の州都ヴィトリアもその一つである。

ブラジルの選挙のたびに思うのは先進国と呼ばれるアメリカやその他の国はなぜ電子投票に踏み切らないのだろうかということである。思い出すのはブッシュとゴア候補の大統領選、何か割り切れないものが残った。

選挙の正当な結果とその遂行、それは民主主義の大原則。軍事政権時代を経験した私たちの世代はそれがいかに大事なことか、そしてそれが当たり前の今の有難さをかみしめる。もう一つ完全な民主主義にはもう一歩、それは任意投票だと最近の新聞のどこかで読んだ。ブラジルでは投票は義務となっている。ブラジルの国民性を考えると

これを任意とすると投票率は大分下がってしまう可能性がある。果たしてそれが民意を反映した結果となるのだろうか、疑問に思っているところである。

2012年9月28日金曜日

南風が吹くと寒い


もうすぐ夏時間が始まるというのに、ここ2,3日朝晩冷たい風が吹き寒い(?)日が続いている。今朝はエスピリト・サント州の山間の町でドイツ人が開いたDomingos Martins では霜が降ったそうで土地の人がテレビ局に送った写真が映しだされていた。家の次男の嫁さんはここ出身である。一昨日の夜は南のサンタ・カタリナ州とリオ・グランデ・ド・スール州の山間の町に雪が降って偶然当地を旅行していた観光客が雪が見れたと大喜びしている様子が夜のニュースに入ったので早速娘に電話した。娘の住むパラナ州のクリチーバは標高900mを越す。今朝は9度で寒かったが「だからクリチーバが好きなんだ」というツイッターに多くの人が賛同していたと言っていた。家の温度計を今外に置いてみた、18度、寒く感じるはずだ。ここヴィトリア大都市圏では冬(?)一番寒くても15度くらい。それでも日中は25度以上になるので7月の冬休みには海に接していない隣のミナス州からの家族連れでけっこうここらの海辺の町は賑わう。


南からの寒冷前線が上がってくると気温が下がり天気が悪くなる。家の上を飛行機が通ると寒くなるなと分かる。というのは飛行機は風に向け離陸・着陸し家は飛行場のすぐ北に位置するからである。離陸はすぐ高度が上がるが着陸はゆっくりと低いので電話をしていて上を飛行機が通るときは聞き取りにくくなる。ブラジルの公共事業は賄賂や水増し勘定問題等で工事がストップされる。ヴィトリア空港もその一つで、もう数年ストップしている。増える利用客に対処するため建屋を少し拡張したりして一時しのぎをしているが一日も早くプロジェクトどおりの大きく立派な空港が完成してほしい。ブラジルが一等国の仲間入りをするにはただ経済的に成長するだけではなくもっとモラルの向上が要求されるだろう。

2012年9月5日水曜日

処女神話

今ここの深夜テレビドラマでブラジル北東部バイーア州の作家Jorge Amado(ジョルジェ・アマード 1912-2001)が書いた「Gabriela (ガブリエラ)」が放映されている。バイーア州の奥地から当時(1920年代)カカオの生産が盛んだったIlheusの町に出てきて自由(自然?)奔放に生きる主人公「Gabriela」の話である。1920年代の生活様式、慣習なども知ることができる。1958年に出版されたこの本はベストセラーになり1999年まで版を重ね第80版を数えるにいたった。テレビドラマ化は1960年にJanette Vollu 主演、 そして1975年にはSonia Braga主演で大人気を博した。1983年には同じくSonia Braga主演で映画化され、さらに今回Juliana Paes 主演で再テレビドラマ化となった。


さて昨夜は不義の妻とそしてベッドに一緒にいた愛人を射殺したCoronel (当時の有力者は名前の前に大佐を意味するこの尊称を付けて呼ばれていた)が若い娘と再婚し最初の夜を迎えるシーンから始まった。彼は結婚前に彼女に確かめていた「お前は確かに処女だろうな?、もしそうでなかったらお前を殺す」彼女の顔は一瞬青ざめたが、気を取り直しCoronelに向かい平気を装い「もちろんですとも、私は処女ですよ。」しかし彼女は経済的な理由で父親がこの結婚を決めた時、恋人と思い出を作ろうと一夜を共にしていた。彼女は母親にこのことを相談した。二人で花嫁衣裳を作ってもらっているおばさんに何かいい知恵はないかと相談すると「自分がなんとかしてあげるよ。」という返事。

やがて当夜、彼女が小さな箱を手に持っているのにCoronelが気がついた。「お祈りをするのです」と小さい十字架の首飾りを取り出した。しかし彼がむこうを向いた時その下から小さな赤い色の子袋を取り出し手の中に隠した。翌朝Coronelが目をさましシーツを見ると赤いしみがついていた。それに気がついた彼女「すぐ洗いますわ」「いや、洗わなくて良い、2階の窓からその血痕が見えるようにしてたらしておけ」これを聞いた彼女ほくそ笑んでシーツをベッドからはいで道を通る人が見えるように窓にかけた。

そのシーンが終わった時、突然妻が「思い出したわ、もう30年前くらいになるかしら、ほら家の前に住んでいたジョンとマリルダ夫婦。これと似た話を私にしたのよ。彼女はミナス州出身で、あの州は古い伝統を守ることで知られているからあの頃まであったのね。彼女が結婚式をあげて初夜を過ごした翌日の朝、ジョンのおばあちゃんが「コツコツ」とドアをたたいて言ったそうよ「後でシーツをドアのノブに掛けておきなさい窓に掛けるから」と。それを聞いたジョン、シーツをめくってみたの、真っ白。彼の顔はそれより真っ白になっていたそうよ。「おい、お前、用意はしてきたのだろうな」「用意ってなに?」「ほら、あの鶏の血を入れた小さい風船の袋だよ」「私たちはずっと付き合っていたからみんな知っているものと思ってあれ家に置いてきたわ。」花嫁衣裳を頼むと、衣裳のほかに花束とその鶏の血が入った小袋がセットとして届けられていたそうよ。「どうしよう、シーツに血のしみをつけなくてはいけない」妻の実家まで取りにいくわけにはいかない。ジョンは机の引き出しをあけ中からナイフを取り出して「これでちょっと指を切って血でこのシーツにシミをつけるか」「それしかないわね」ジョンはおそるおそる指にナイフを当て顔をそむけて切った。「イタッ」と彼が大きな声をあげると、傷から血が流れてシーツを染めていく。しかしなかなか血がとまらない。「ジョン、しっかり指を押さえていなさい。私は下に行って包帯をもらってくるから」と彼女はあわただしく階段を降りてテーブルを囲んでいたジョンの家族たちに言った「ジョンがけがをしたので包帯をください。」それを聞いてみんな心配顔になった。治療をして二人で下に降りると包帯をした指を見て、みんなニヤニヤした。ただひとりおばあちゃんだけはため息をつきシュンとなった。

こちらの日本語新聞で、私はインターネット版で購読している ニッケイ新聞( http://www.nikkeyshimbun.com.br ) でも今「ガブリエラ」の連載があっている。佐東三枝 訳で今339回目である。


 

2012年9月2日日曜日

勝ち組、負け組 その2


戦中および戦後の初めにブラジルの日系人の間に何かあったのではないかということはブラジルに関心をもつ日本人や一般ブラジル人の間でもわかっていたのではないかと思う。私が見た範囲でもノンフィクション作家の角田房子が書き毎日新聞社から1966年に発行された『アマゾンの歌』(こちらの日本語新聞に連載され毎日、新聞が来るのが待ち遠しかったのを思い出す)が同名の映画「アマゾンの歌」(仲代達也主演でアマゾンのパラー州に入植した日本移民の話)として製作され後にNHKで見たように記憶しているがその中でも出ていたように思う。
そしてNHK「放送80周年記念」として豪華キャスト(森光子、野際陽子、米倉涼子、仲間由紀恵、等々)で製作しここブラジルでは2008年に日本移民百周年記念の一環としてNHKから放映された「ハルとナツ  届かなかった手紙」の中でも日本人同士の抗争を垣間見ることができた。
ブラジルのテレビ業界NO1で特にドラマ制作では世界中に販売網を広げているグローボ社が製作したドラマにも戦後のイタリア移民の話の中にも適性国移民の苦悩のエピソードの一つとして日本人移民同士の争いが扱われていた。
戦中、戦後の日本移民を語るには避けて通れない事件ではあるが日系コロニアとしては腫れ物を触るように取り扱ってきたように思う。今回のブラジル映画のCorações sujos (汚れた心)はそれを真正面から見すえた映画としてみんなの心に残るのではないかと思う。
先週の日本語新聞にはドイツ移民の多いブラジルの南部の州に海外最大のナチスの結社があったと伝えていた。
クリチーバの娘婿の両親の家に挨拶に行った時、私が映画を見てきたと話をし戦中戦後の日本移民の話をすると自分たちもだと当時の苦労話を語りだした。クリチーバのイタリア会館は没収され戦後もかなり経って返還されたとか、「私たちはナチス、ナチスと言われたけどナチスじゃなかったのよ」とか当時のエピソードが随分出てきて話に花が咲いた。ちなみに婿の父親はイタリア系、母親はドイツ系私は帰化ブラジル人で日本生まれ。最後に婿の父親が「まるでこれでは「枢軸国間の密談」のようだな」と言ったのでみんなで大笑いとなった。

2012年8月30日木曜日

とうふ


最近近くのスーパーに火曜の夕方日本食品それもごぼう、しいたけ、とうふが並んでいると聞いて早速火曜日の午後出かけることにした。しかしどこにもそれらしきものは見当たらない。近くに商品を整理していた店員に妻が聞いた。「ここにQueijo de soja (豆腐の色、形がチーズに似ているところからここブラジルでは豆腐は大豆のチーズと呼ばれている)があると聞いたのですがどこですか?」「奥さん、Queijo de soja ではありません、それはトウフというものです」と彼女得意げに答えた。分かりやすいようにわざわざQueijo de sojaと言ってやったのにとちょっと頭にきた妻、日本語で「わかりました、ありますか?」と言った、とたんに彼女バツが悪そうに肩をすくめ下向きになり「今トラックが着く時間なので確かめてきます」と小走りに走り去ろうとした時、ちょうど横に居た食品コーナーの責任者、皮肉をこめて「みろ、誰がえらそうな口をきけといった」

このスーパー、最近こちらに進出してきたばかりなのだがお客さんの対応が良いと評判で上のような妻の皮肉も通る。以前大きな楕円形の6キロはあろうかというMortadela(モルタデラハム)を見かけたのでそれを2キロくれと頼んだとき、店員は端から2キロ見当切って私に渡そうとした。これじゃ端っこを少し犬にでもやるかと思って受け取ろうとしたとき傍にいた恰幅のいい責任者私に向って「お客さん少々お待ちいただけますか」といって私が持っているものを取り上げた。そして店員に「真ん中から切って、そこから2キロ取りなさい」と指図した。「しかしそれでは最後に両端が残りますが。私は店のことを思ってお客さんに端から切って売っているのです」「そうか、そしてあんたが自分のために買う時はどうして貰いたいかね?」「それはもちろん真ん中のほうがいいに決まっています」「それじゃそのようにお客さんにしてあげなさい、ここにある全ての物、もし自分が買う時にして貰いたいようにしてお客さんに渡しなさい。」「わかりました」これを聞いて感心した。一般にブラジルでは「売ってやる」という態度が感じられる時が多い。私たちはすっかりこのスーパーのファンになった。特に金曜の夕方から土曜の夕方まではお客さんで一杯で入ろうと思うと車の列ができている。仕方がないからやりすごすこともある。最近開けたばかりだがなんでも今度は家の近くにもう一店開けるとのうわさがたっている。このチェーン、アラブ系の家族がやっている。

2012年8月27日月曜日

勝ち組、負け組



先週クリチーバに居たときCorações Sujos ( www.coracoessujos.com.br )(汚れた心)という映画を観た。第二次世界大戦直後ブラジルの日系コロニア(社会)で起きた悲しい出来事を取り上げておりコロニアの恥部としてその後はあまり公には語られてこなかったような気がする。日本においてでさえ国民には神国日本の敗北を受け入れるのは難しかったのではないか。当時の大本営発表の「敵の被害は甚大で我が方の被害は軽微」(父からよく聞いていた)のニュースを聞かされていた人達にとっては。しかし敵機の襲来、爆撃、そしてそれを迎え撃つすべが無いことを思い知らされた人達には日本が敗北に向かっていたことは分かっていただろう, 口に出さずとも。しかし情報が閉ざされ、しかも当時は多くが農業に従事していたブラジルに住む日本人にとっては日本は神国であり絶対に不滅であると教えられてきた。そこで日本は戦争に勝ったのだと説く「勝ち組」の狂走(この言葉は自作語で広辞苑には載っていませんでした)に巻き込まれてしまい、ブラジルの社会との接触があり日本は負けたのだと思うようになった「負け組」との間で抗争があった。勝ち組の組織「臣道連盟」による暗殺が横行しこれにはブラジル官憲も関与するところとなった。映画の題名のCorações Sujosというのは勝ち組の人が負け組の人に「お前は汚れた心を持った国賊だ」というところから来ている。勝ち組の組織「臣道連盟」(この漢字でGoogleで検索するとWikipidiaで上に書いたようなことが書いてあるので私の説明はここらで止めておく)の話は私が来た1960年ごろはまだ当時の事件に詳しい人達もおられたので時々聞いていた。
しかしこの映画に注目すべきはこれはブラジルのジャーナリストFernando Moraisによって書かれた本を基にしてブラジル人のプロデューサーJoão Daniel,  監督Vicente Amorim によって製作されたということである。配役も日本とブラジルの第一線で活躍し世界的な賞を受けた俳優たちが出演している豪華キャスト。日本では7月に公開されブラジルは8月となった。
日系コロニアでタブーとされてきたこのテーマにあえて取り組んできたことについての監督のコメント「映画で描いたテーマは普遍的なものであり、ブラジルの日系コロニアで起きた話ではあるが世界中で問題になっていることでもある。」
我々も教訓としてこの話を風化させてはならない。映画に携わった人達、ありがとう!
東洋文化センター「トモダチ」を営む娘は関係者から招待券を貰っていたので私もそのおこぼれにあずかった。娘に原作の本のことを聞くと彼女「何言ってるのパパイ、私が読んで良かったのでパパイにも買って送ったじゃない」「えっ、いつのこと?まだ着いてないのかな?」「いつって?もう、何年も前のことよ」「覚えない」。
今本棚をあちこち探している最中である。

2012年8月20日月曜日

冬のクリチーバ


昨日まで5日間娘理奈の住むクリチーバにいた。一週間後にスペインに用事で旅行する娘に手渡すものもあってのことだ。時々ブラジルで1、2を競う航空会社が格安航空券を出す。今回は帰りの券は39レアイス(約20ドル)ということでサイトに入って探したがいつでもというわけにはいかない。20日ほど先の往復切符で320レアイスであったので買い求めていた。ヴィトリアークリチーバ間直線距離で1082キロある、途中サンパウロで乗り換える。娘はクリチーバでトモダチ文化センター ( www.tomodachi.com.br )を開いている。そこでは日本語、韓国語、中国語、マンガのコースの他に生け花、折り紙などのワークショップなどもある、最近は韓国語を学ぶ人たちが増え他の場所でもう一教室開けたのでそこに置くプリンターの据付などの手伝いをした。先生は韓国系の人ではなく韓国に仕事で8年ほど住んだエンジニアで2011年12月のトモダチの発表会では「冬のソナタ」をキーボードで弾き歌った。中国企業の進出などで中国語を今では個人ではなく会社で教えて欲しいとのことで今までの中国人の先生はそちら専門でトモダチではその一番弟子だった若いブラジル人が教えていてビデオなどの補助教材を駆使し中国語を教え人気があるようだ。日本の夏休みを利用しての日本の会話学校との短期交換ホームステイプログラムを組みちょうど日本から来ていた生徒さんともあった。そして今やクリチーバの観光コースの一つでクリチーバが全貌できる高さ110mのコンクリート製の電話会社のタワーで偶然昨年のホームステイで日本に行った若い生徒が日本からホームステイに来た人を案内しているところにでくわした。どんどん交流が広まり日本でブラジル通が増えることを願ってやまない。


タワーから眺めたクリチーバは大きなビルが周囲に広がったような気がした。以前来た時と同じ場所が撮れているか確認して比べてみようと思っている。

さてここクリチーバでは2014年のワールドカップの予選リーグ4試合が行われる(7月16日、20日、23日、26日)。期待していたのに予選リーグだけとはと当地の新聞はぼやいていた。
昨日帰ってきたのだがクリチーバを出たときは15度、サンパウロは17度そしてヴィトリアは27度。迎えに来ているはずの息子の顔が見えない。何でも10キロレースに夫婦で参加して暑さにやられ脱水状態で、ばてているので行けないとの連絡があったそうで妻と孫娘が迎えに来ていた。

2012年8月12日日曜日

ロンドンからリオへ


今日ロンドンオリンピックが終わった。

最終日の今日、期待の男子バレーは惜しくも銀。第3セットで2回もゴールデン・ポイントを逃がし、結局は2対2、そしてタイブレイクで負けてしまい、金メダルはロシアにさらわれてしまった。女子バレーの仇をとられた。最終日恒例の男子マラソンは、やはりアフリカ勢にメダルをもっていかれた。金メダルはケニアでもエチオピアでもなくウガンダ、層が厚い。長距離は当分この傾向が続くのではないだろうか。ずっと4位で走っていたブラジルは最後にアメリカに抜かれ5位そしてその後に日本の選手が入ったのを見た。
ブラジルは金3、銀5、銅9の合計17個で22位という成績だった。
閉会式で選手たちは緊張から解かれショーを楽しんでいた。最後にリオのサンバスクールが登場、2016年のリオ・オリンピックの開会式の雰囲気を伝えた。そしてオリンピック旗はロンドンからリオへと手渡され1453日のカウントダウンが始まった。リオ・オリンピックは2016年8月5日から21日まで。

2012年8月11日土曜日

ブラジル、今日は曇り後晴れ !!


今朝いつものように朝市に買い物に出かけようとしたら雨雲が近くの山Mestre Alvaroにかかっていた。雨が降るかなと思っていたら急に降りだして朝市に着く頃はもう止んでいた。この山に雲が7合目くらいまでかかると雨が降るとはVitoria大都市圏に住む人達が一番信用している天気予報である。ブラジルのテレビでの天気予報は大雑把である。NHK で日本の天気予報を見ていると羨ましい。時間ごとの雲の進み具合が示されわかりやすい。朝市に着き買い物を始める頃はもう熱い陽が照っていた。
いつものように魚を買った後、横にたこのいいのが1キロ20レアイス(10ドル)で売っていたので1キロ半買い求めた。家の庭で取れたサトウキビが3,4本あったので適当な長さに切り、よく洗って布に包んだのを持って来ていたのでサトウキビの絞り汁を売っている所で絞ってくれと頼むと快く引き受けてくれた。いつもここで恵美を連れて絞り汁を買っているので今はお得意さん。これまでも数回絞ってもらっている。今日は約4リットルほどの汁が採れた。売っている絞り汁のサトウキビは細くて白いが家のは太くて緑色。植えてあるサトウキビに水をやって大きくしては駄目だと言っていた。乾燥している土地のは甘いのだそうだ。
朝市から帰るとオリンピック・サッカー男子の決勝戦があっていた。ちょうどハーフタイムが終わったところで試合が再開した。スコアーを見ると0対1でブラジルが負けている。ブラジルは良いところなく1対2で負け。オリンピックでの念願の金メダルはまたお預けになった。オリンピック以外のサッカー男子の全てのタイトルを取っているブラジル、なぜかしらオリンピックは取れない。実況後のコメントでブラジルは攻めるほうにあまりに重きを置き相手をマークすることを忘れていると言っていた。2016年はリオ、これでとらないと暴動が起きるかも知れないと今から心配している。暗い雲がブラジルの上にかかっている。
その後女子バレーボールの実況があり途中から見た。第4セッが始まっていた。スコアーを見ると2対1でブラジルがリードしている。あと1セット取ると金メダル。ブラジルはのびのびとプレーしている。あれ、違うなと思った。一次リーグでアメリカ、韓国から負けた試合を見た。ブラジルは縮こまっていた。ミディアからもどうしたのだと疑問視されていた。ところが決勝リーグでの対ロシア戦、タイブレークで接戦、15で終わるところがブラジルがロシアのセットポイントを20までしのぎ初めての自チームのセットポイントで勝ち準々決勝をものにした。これにはブラジルサポーター達(応援団?)の功績があったともいえる。ブラジルが盛り返す度に「チャンピオンが帰って来たぞ」との声援、選手たちもこの勝利をサポーター達(応援団)に捧げていた。今まで散々ロシアに泣かされて度々準優勝に終わったブラジル。これで自分のペースを取り戻した。準決勝で日本、そして決勝でアメリカ有利を覆し第一セットは大差で取られたものの2,3,4セットと取り優勝。オリンピック2連覇は過去ソビエトとキューバしかなく歴史に残る結果となった。終わったとたん喜びが爆発した。コート上でみんなで抱き合いそして揃っての一回転、監督もこれは応援してくれたブラジル国民そして神のおかげとみんなで輪になって祈りを捧げた。カトリック国ブラジルではよく見かける光景である。表彰式もブラジル選手は儀式なんてなんのその自分たちの喜びを精一杯発散していた。ブラジルに住む我々は慣れっこでかえってほほえましい。これでさっきまでの暗い空は晴れて見慣れた青い青い気持ちの良い空に変わった。

2012年8月9日木曜日

Touro Moreno – 褐色の闘牛  Yamaguchi その2


前回ポストのYamaguchi Falcão Florentino の名前のいきさつが意外な所でわかった。椎間板ヘルニアのリハビリに今一週間に3回通っている。私のことではなく今回は妻がMRI でヘルニアとわかりその治療に以前私が通ったところに連れて行っている。彼女が治療している間私はいつもは待合室でタブレットでメールのチェックをするのだが今日入ったときテレビでブラジルの旗を掲げた消防車でのパレードが映されていた。見ているうちに体操個人種目別の吊り輪で金メダルを取ったArthur Zanetti 選手が彼の住んでいる町に帰ってきて彼の栄誉を讃えての市役所および市民をあげての歓迎パレードであった。待合室にいた70歳代の男の人が言った。「彼は不可能を可能にした男だよ」さらに「ブラジルのように政府のサポートがない所で全然誰も見向きもしないスポーツで金メダルなんてまさに奇跡だよ」私も相づちをうった。そこに若い女性の理学療法士が通りがかりテレビを見て何事かと聞いたので「金メダルのパレードだよ」と私が答えると彼女「メダルと言えばカピシャーバが二人ボクシングで少なくとも銅メダルが約束されているわね。」「Yamaguchi Esquiva兄弟だろう」と男の人「彼らの父親はTouro Moreno(本名Adegard Camara Florentino)といってボクサーで彼が息子たちをボクサーに仕立て上げたのさ。彼が家の庭に植えているバナナの幹を打たせて鍛えたそうだ。彼は今75歳だが先年彼より32歳若いボクサーと戦って勝ったのだ私も見に行ったよ」「ところでどうしてYamaguchiと子供に名をつけたのですか?」と聞くと横に居た理学療法士がすかさず「Touro Moreno と同じヴィトリアで柔道を教えていた山口さんとは仲がよかったのよ。」
私の推察が当たっていた。
先ほど男子ビーチバレーの決勝戦があった。ドイツとブラジル。タイブレークで惜しくもブラジルは銀。ブラジルの選手の一人Alisonは2mを越す長身。あだ名は「マンモス」なんでも彼のコーチが彼の動きの鈍さにかんしゃくを起こし『お前はマンモス以外何者でもない』と言われてそのマンモスとはどんなものかと「アニメ映画」を見に行って何か共感するものがあると感じそれからは自分から広めているといるとインタビューで見たと妻が教えてくれた。彼もカピシャーバ。ビーチバレーの応援席を見ているとブラジルの旗のほかに大きなエスピリト・サント州の旗も振られていた。小さな州ゆえに思いがなお強いのかも知れない。妻も他の州に行くといつも自分はカピシャーバだと言いふらしている。

2012年8月5日日曜日

Yamaguchi Falcão Florentino


昨日オリンピックのボクシングを見ていたらブラジルの選手が81キロまでのクラスで勝ち準々決勝に進んだ。実況で盛んにヤマグチ、ヤマグチと言っている。日系人かと見ていたらどうも違うみたいだ。名前を見るとYamaguchi Falcão Florentino と出ている。どういういきさつでこういう名前がついたのか興味深いので今日の新聞に何か載っていないかと思って開けたら何と彼はCapixaba(カピシャーバ=エスピリト・サント州出身)で今はサンパウロ州に住んでいるという。ヴィトリアに山口という人が柔道を教えていると聞いていたが何か関係があるとすればここらあたりしかない。後でよく調べてみよう。
このことで思い出したのが家の近くの建築材料店の若い従業員。最近家のリフォームをしたので度々寄って顔見知りになった。いつも伝票を見ながら何か口の中で、もぞもぞ言っている。ある日私に聞いた。私の名前はどう発音するのかと。「ヒサヨシ・サエキ」だと言ったら、初めのは4シラブルで難しいが後のほうは3シラブルで簡単で気に入ったと言う。何を言っているのかとわけを聞いたら自分の子供にはありきたりの名前は付けたくない、あんたのその「サエキ」は気に入った自分の子供の名前につけると言ったので、もしお前がその名前をつけるなら出産祝いに良いプレゼントを持って行くよと冗談に笑いながら言った。それから何回か彼に会うたびに「おい、サエキは生まれたか?」と呼びかけている。しかし聞くところによると彼はまだ独身、いい加減な冗談は言うなと馬鹿にしていた。
しかしである、今日のこのことからひょっとしたらいつかどこかで「サエキ」と言う名のぜんぜん日本人とは関係のないブラジル人が現れないこともないなという気がしてきた。

2012年8月3日金曜日

体操の内村選手と佐々木選手


28年ぶりに内村航平選手が体操の個人総合で日本に金メダルをもたらした。これは世界選手権で3連覇していたことから予想されていたことであり賭け好きのロンドンっ子の間でも最も確率が高いほうに入っていたようだ。
個人総合でブラジルからは日系の佐々木選手が10位に入った。体操の伝統のないブラジルとしては個人総合のタイトル戦に出れるだけでも快挙なのに10位とはブラジル体操界の歴史に刻まれる結果を残すこととなった。
今日はなでしこジャパンとブラジルとの試合があった。妻が椎間板ヘルニアを患い今、週に三回ヴィトリアにリハビリに通っている。今日は午後一時頃早めに家を出て息子の所に寄ったのでリハビリに着いたときは後半戦が始まっていた。2対0で日本が勝っている。なでしこのマークは厳しくブラジルも思ったような試合運びができない。実況していたアナウンサーもブラジルはもっと組織だった戦いをしなければならない、名のある選手をそろえても全員サッカーにはかなわない、4年後のリオ・オリンピックまでの課題だとコメントしていた。
ブラジルでのオリンピックの放映権はRede Recordがとりチャンネルをまわすとブラジルの試合はいつも実況で見れるのでありがたい。ブラジルとイギリスとの時差は通常3時間、イギリスがサマータイムの時は4時間となるのであまり問題なくテレビでの観戦を楽しめる。

2012年7月28日土曜日

女子柔道でブラジル金メダル


競技第一日目の今日女子柔道でSarah Menezes がブラジル女子柔道初の金メダルを取った。今日は男子柔道もFelipe Kitadaiの銅メダルそして競泳400メートル個人メドレーでThiago Pereiraが念願の銀メダルを取った。彼は2007年私も見に行ったリオで開催された第15回パンアメリカン競技大会(2007年8月26日のポスト)の競泳で6個の金それに銀と銅それぞれ1個でトータル8個さらにそれと同じ成績を昨年のメキシコのグアダラハラで行われたパンアメリカン大会であげたが世界選手権やオリンピックでは4位どまり、インタビューしたアナウンサーが「金の価値がある銀でしたね」と喜んでいた。2位に入った時私も思わず手をたたいていた。
柔道はこれでブラジルが今までオリンピックでとったメダル数で種目別1位となった。この結果をもたらしたブラジルでの柔道普及には少なからず日本移民の貢献があったといえる。ブラジル国民が期待するサッカーでは残念ながらまだ金メダルをとっていない。今回やってくれそうな気がするのだが。

ロンドン・オリンピック


昨日ロンドン・オリンピックが開幕した。開幕ショーは近代史の主役はイギリスだという誇りがうかがえた。奇抜な発想もなく大人の雰囲気をかもし出していた。3D で放映されるといっていたので今年買ったSamsungの3D対応のテレビで見ようとしたがどうもうまくいかないので普通のに切り替えた。我が家のテレビで最近買ったのは皆LGSamsungだ。新しい技術が搭載され価格設定もよい。ブラジルにおいてのPCモニター、ノートブック、テレビ、スマートフォンなどの市場では韓国企業の占める割合は高い。以前はエレクトロニクス分野では日本企業の製品がほとんどだったのだが最近は韓国のに取って代わられている。
参加国の入場行進ではカラフルな民族衣装をまとっての行進は見ていても楽しいしまたそれぞれの国民性もうかがえる。ブラジル選手団の行進は明るくてにぎやか(?)だ。そして思うのは確かにこれは平和の祭典だということ。テロや内戦はあるものの世界規模の戦争はここ数十年起こっていない。平和な時代に生まれたありがたさをかみしめる。
開会式を待たずにサッカーの試合はもう始まっている。ブラジルと日本どちらとも男女初戦は勝ち点3。今日からいよいよ本番,楽しみだ。

2012年7月1日日曜日

リオ、世界遺産に登録される




先ほどテレビを見ていたらリオデジャネイロ市が世界遺産に登録されたとニュースを流していた。文化および都市遺産という格付けでこれは初めてらしい。息子がリオに住むようになってもう10回以上行っているが確かに風光明媚、国際都市の雰囲気を備えている。気候も似ている隣の州に住んでいる私たちにはどちらも海に面している街ということもありどこへでもポロシャツと短パンで行けるので非常に親しみやすい。以前、新世界の七不思議のひとつにコルコヴァド岩山の上のキリスト像が選ばれたがこれはインターネットの投票で選ばれたものだった。

今回は正式のユネスコの世界遺産の登録を受けたことでこれはリオ市民の誇りとなろう。しかしこれからが問題だ。これを保存し訪れる観光客を快く迎えることが出来るのか。よくミディアで報じられる治安の悪さをどう解決するのか。それは2014年のブラジルでのワールドカップ開催さらに2016年のリオのオリンピックにも当てはまる。官民を挙げての努力が求められる。

上の写真は世界三大美港のひとつとされるリオのGuanabara湾に船で入る時すぐに目に付く小高い岩山のポン・デ・アスーカル(砂糖パン)にロープウエーで上りコパカバナ海岸を望んだもの。下はリオ市内の中ほどのコルコヴァド岩山からリオを祝福するキリスト像。色々な記念日、祝祭日にはライトアップされる。母の日の夜には赤いライトの心臓が動悸を打っていた。記念写真を撮っている人混みの中にうちの Chasconaがいます、わかりますか?



2012年6月17日日曜日

ブラジルの父の日


実は今日六月の第三日曜日ではない。北・中南米のほとんどの国が今日なのだがなぜかブラジルだけは八月の第二日曜日を父の日としている。調べてみると、もともと父の日はなかったのだが1953年ミディアの提案で8月14日家族の守り神であるSan Joaquim (聖ジョアキン)の日を父の日にしようとの商業的な呼びかけがありこれが第一回目の父の日となった。しかしこの日は週日だとプレゼントを贈り家族で集まって祝う習慣のあるブラジルではせっかくの商業的な目的が達成できないというので母の日と同じように日曜日にしようということで八月の第二日曜日となったといういきさつがある。これは制定された祝祭日ではない。現役サラリーマン時代、年の初めにカレンダーをもらうとまず休みとなる祝祭日を確認する。気がつくのは7月と8月は赤のマークの週日はゼロ。ためいきをつく。8月にこの父の日を持ってきたのは少しでも活気付けようとする試みだったのか(?)母の日にははるかに及ばないがショッピングセンター等ではプレゼントを買う人達がテレビで映し出される。目的は少しは達成できたか。
去年はこの時期ロンドンに居たのだがショーウインドーにチョコレート製のドリルの写真がありブラジルでは見かけたない広告なので文化の違いだなと変なところで感心した。

2012年6月8日金曜日

一週間遅れの母の日


この写真は母の日の一週間後に撮ったものである。
ちょうど母の日は息子のマンションのプール脇で嫁ビアンカの誕生日を私達と彼女の友達とで祝い一応「母の日おめでとう」と挨拶は交わしたのだがどうも母の日の影が薄かったので一週間後にやり直すことにした。というのも実は今はやりの共同購入のクーポンで200個のSalgadinho を買っていてそれが母の日に間に合うようにと電話をかけていたのだがその週は混んでいて取れず結局は一週間後ならOKということになっていたのでそれを利用すれば妻にあまり手をかけずに家族パーティが一週間後に出来ると考えたからである。
前日Salgadinhoを取りに行った。手渡されたときあまりの袋の小ささに驚いた。家で作るSalgadinho は親指と中指の先を合わせたときに出来る楕円形の大きさはある。それが開けてびっくり親指の先の節くらいの大きさしかない。そして割ってまたびっくり中にはオリーブの実とかソーセージの切ったのしか入っていない。これではお客さんにだせない。結局は妻が大急ぎで得意の中華まんとフェイジョアーダ で何とか乗り切った。
これは私の失敗だったが親しくしている友達の家族を呼び楽しいひと時を過ごせたことはお手柄か。

2012年6月6日水曜日

Exame de sangue


Exame de sangue

Toda vez que a netinha Emi vai para a feira tem que tomar o caldo de cana e comprar milho verde. Na barraquinha do caldo,  ela já ficou famosa como “a japonesinha”.  E o rapaz que mói a cana perguntou se toda a criança japonesa é tão bonitinha assim. Aí minha mulher respondeu  “Ela tem 50% sangue alemão”. O rapaz olhou bem para Emi e falou “Só se isso aparecer no exame de sangue”.  As moças que atendem na barraca caíram na gargalhada falando “Tu é(s) bobo memo (mesmo), vê se essa coisa sai no exame de sangue”

血液検査
うちの孫娘恵美は朝市に行くと必ずサトウキビの絞り汁を飲みゆでとうもろこしを買うと決めているようだ。絞り汁を売っている所では恵美は「ジャポネジンニャ」と呼ばれる人気者である。サトウキビをいつもそこで絞っている青年が妻に「日本人の子供はみんなこんなに可愛いの?」と聞いた。「この子は50%ドイツ人の血よ」と妻。すると彼は疑い深そうにじっと恵美を見て「そうと血液検査にでればね」とつぶやいた。そこでお客さんを応対していた娘さんたちはどっと笑い出して「あんたって馬鹿ね!そんなことが血液検査にでるとでも思っているの」






こんにゃくの花

上の写真はこんにゃくの花である。庭にある鉢に植えたこんにゃく芋からでたもので私ははじめて見た。サンパウロに住んでいたとき私の家ではこんにゃくは日本食料品店で買っていたが妻の実家では2-3年かかって大きくしたものをサンパウロの中央市場に出荷していた。そして自家製のこんにゃくを料理に使っていたそうだ。そういうこともあって35年前エスピリト・サント州に移って来てからも妻はサンパウロから買ってきたこんにゃく芋の小さいのを植えては大きくしてこんにゃくを作り私の好物の煮しめに入れたりしていた。それは今でも続いている。

今回こんにゃく芋から花が出た。妻の話によると千個植えて一つ咲くくらいのものだそうだ。約一ヶ月咲いて枯れそのあと下のような普通の芽が出るらしい。道理で私にもこれが最初のはずだ。
下のは同じ日に植えたこんにゃく芋でこれは見慣れているこんにゃくの葉だ。

私たちはサンパウロに居たときも近所でこんにゃく芋を植えている人はいなくあの食べているこんにゃくが芋からできているなんて知らなかった。初めて妻の家に行って畑を見てこんにゃくの葉とは知らず何か椰子の苗とはこんなものなのだろうかと聞くのも恥ずかしいのでそう一人合点していた。日本食が手に入りにくいここエスピリト・サント州でいつでも好きなときにこんにゃくを食べれるのは有難い(あえて漢字にしました。)

2012年5月16日水曜日

ブラジル梅


移民の郷愁は土地・人にとどまらず日常の生活の衣食住にまで及ぶ。特に食に関しては知恵をこらしての努力で似たものを追求する。

ブラジルは国土が広い。アマゾンに入った日本人移民、北東伯、南東伯、また南伯(伯はブラジルを意味する)に入った人達はそれぞれの地方で手に入るもので工夫する。例えば巻き寿司に入るかんぴょうの代用品では夕顔がない時はアマゾンの日本人会の婦人部が日本からのお客さんをもてなす食事の準備で使っておられたのはChuchu (はやとうり?)の細切りを干したもの。もうずいぶん昔NHKで見た話ではあるが。サンパウロでも同じものを使っていたように思う。最近、家ではかんぴょうの代用品としてKuruá(2008年7月9日のポスト)をあおいときにとって薄くむいて干せば夕顔のとまったく変わりないことを発見しこれを使っている。

なんといっても食べ物の郷愁のトップは「梅」か。これの代用品をブラジルの日本人は見つけた。上の写真は我が家では「ブラジル梅」と呼んで梅の代用として重宝しているものである。これを漬けておくと梅干と変わりない味がするので移住当時からは「うめ」と言えば私たちにとってはこの植物のことだった。

しかし最近は台湾の人が持ち込んだ台湾梅の栽培が広まりサンパウロ州では値段も手頃になってきているのではないかと思う。これをここヴィトリアでも植えてみたが木は大きくなっても実がつかないので切ってしまった。寒さが少し必要か。この台湾梅を広めた台湾移民の方、ブラジル日系コロニアが農業に貢献した人に与える賞をもらわれたように記憶している。

1990年代から大分輸入税が低くなりサンパウロの東洋街にも日本製品が所狭しと並ぶようになってきた。昔は高くて手が届かなかった梅も今は手に入る。さらにもっと最近は中国産のが安く出回っている。中国人の店はサンパウロはもちろん娘の住むクリチーバそして息子の住むリオにもある。彼らがこちらに来るとき聞いてくるのが「パパイ、何か日本の物で買っていくものない?」「中国梅のパックとわさびそれぞれ半ダース」

近所に妹が40年前日本人と結婚した日本人と関係の深いブラジル人がいてミナス州に農場を持っている。「お前のところうめ植えているか?」「いや、ないよ」「それじゃこんどミナスに行った時帰りに苗を数本持ってきてやるよ」。まあ、もう一回試してみるか。数日して彼が我が家に来て「うめの苗もってきたよ」「なんだ、ブラジル梅か」「えっ、このほかに梅の木があるのか?」。彼は妹の旦那とは20年以上会っていないので最近の梅事情にはくわしくなかったのである。