2011年2月23日水曜日

夏時間が終わって

去年の十月に始まった夏時間が終わり今週から標準時間。夏時間が始まるときにブログにも書いたが今年は夏時間中も時計を1時間進めずに標準時間で過ごした。いつもの年よりもストレスが少なかったような気がする。夏時間が終わってもそのままでいいので楽だ。つい先ごろのニュースでロシアが夏時間・冬時間というのを止め、一年中一つの時間帯に統一するというのを聞いた。やはりストレスとかを理由にしていたような気がする。
インターネットに入ってみた。夏時間についての意見のアンケートがあった。私はストレスなど健康に良くないから反対という欄にクリックした。約14%。賛成が50%ほどあった。理由は夏時間だと時間を有効に使えるからだとか。有効というのは仕事が終わって家に帰ってもまだ陽が高いからそれから海に行ったりレジャーを楽しむことが出来るからだという。ここヴィトリアやセーハは海辺の町、夕方は結構にぎわっていた。
本当は反対だが政府が言うような電力の節約になるのなら、まあいいだろうと愛国心をみせるのは約36%。
さすが開放的なブラジル、夏時間を待ち望んでいる人達が多い。

2011年2月20日日曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その7 終わり Fim

空港の待合室で2時間たっても発着パネルの私達の飛行機の時間には何の変更もない。3時間たっても何のアナウンスもない。他の乗客たちは段々と手荷物を持って飛行機に乗るべくゲートに消えていく。夜の9時になって周りの人達は即席ラーメンやうどんを買って食べている。私と連れのアメリカ人もこう腹が減ってはたまらない、パンとコーヒーで済ます。どうやら待っているのは私達のフライトの人達だけらしい。夜10時突然アナウンス、やっと乗れるらしい。やれやれと機上の人となる。やがて到着時間も近いなと窓の外を見る。なにか稲光が前方に見える。すると機内アナウンス。上海の上空はただいま雷雨が激しく着陸出来ませんので武漢に引き返しますと。えっ、燃料は大丈夫なのか?武漢に戻ってきたのは夜中の1時を過ぎていた。空港はもう電気が消されていた。荷物置き場に行きわずかな明かりで手探りで自分の荷物を見つけ出す。そこに住んでいる人達は荷物を引きずって家路についている。空港を出るとき今日の午後1時に上海向けに特別便が出るので遅れないようにとの伝言があった。空港の外に出ると、あたりは薄暗く、ずっと先のほうで車が行ききしている。さて、どうしよう。連れのアメリカ人と相談する。どちらかがあそこまで行ってタクシーを拾ってくるか。そうこうしている内に周りに5,6人、外国人ばかり集まってきた。その中に香港からの人で中国語と英語ができる人がいた。そこでその人がホテルを当たって皆の予約をしそしてタクシーを呼んでくれるようになった。2台のタクシーに分乗しホテルへと向かう。私は連れのアメリカ人と7階の部屋。それから会社に電話しそこから先に行っている技術者たちに連絡してもらうように頼む。窓の外は闇、カーテンを閉めて寝る。
翌朝、目を覚ましカーテンを開ける。なんと眼下には昨日一目でも見たいと思っていて実現しなかったあの揚子江が穏やかに横たわっているではないか。しばし眺めを楽しむ。ホテルの周りを歩いたあと朝食をとり再び空港へと。荷物を預け空港の発着パネルを見るが私達の飛行機は見つからない。聞くと特別便なので載せてないという。今度は時間どうりに乗り込み無事上海に着くことが出来た。私達の連れの中国の女性が迎えに来てくれていた。

私はそれまでは飛行機が時間通りに発って時間通りに着くのは当たり前のことだと思っていたがそれからはそれはとても運のいいことなのだと思うようになった。
私のこのマーフィの法則、長い間営業部の語り草となった。いやいまだに、まだ言ってる人もいる。

2011年2月19日土曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その6

このブログを読んでいた妻、急に「そうだわこの時だわ会社から電話があったの、ご主人はニューヨークで身動きがとれなくなっていますが会社から特別ミッションを出してでも必ず救い出して連れて帰りますからと。」それまで何も知らなかった妻、急に不安になって何か高いビルからロープで吊られている私を想像したそうだ。誰だ、そんなに大げさに騒いだのは?
ようやく私は日本に着いた。遠い遠い日本だった。
早速北海道のお客さんを訪問していた会社の技術者と連絡する。会議が終わったのでこれから飛行場に向かうから、あと4時間ほどで羽田に着くという。彼らのフライト番号、時間を確認して荷物を成田空港のロッカーに預ける。成田から羽田まで電車を乗り継いでいく。彼らの到着時間が近づくと案内所に行って私が到着ロビーで待っていることをアナウンスしてもらうように頼んだ。やがて彼らが出てきた。日本の商社の人達と挨拶を交わしそこで別れ私たち3人は成田に向かいそれから中国へと発った。

10年ぶりの日本。しかしわずか数時間の滞在だった。誰にも連絡するひまもなかった。

中国は当時はまだ現在の近代化の前。北京の空港からホテルまでの道も曲がりくねって暗かったのを覚えている。ビルもあちこちにしか電気がついていない。節電でもしているのかなと思った。その夜、ホテルの私の部屋に3人集まって会社に日本のお客さん訪問のレポートを書いた。その書き出しは「マーフィの法則が適用された」 だった。
翌日からお客さんをまわったり政府の鉄鋼関係の窓口の人達とあったりしてそれから武漢へと発った。武漢では製鉄所のゲストハウスにお世話になった。しかし部屋は暖房がきいてなくて同行していたアメリカの商社の人はIceboxと名付けていた。そこでの仕事が終わり私達5人(3人+中国の鉄鋼購買の係りの女性+アメリカの商社の人)は会社で都合してもらった車に分乗して空港に向かうこととなった。たしか揚子江がこの近くを流れているはずだ、私は会社の人に空港に行く途中に見れないかと尋ねた。実は反対方向なので飛行機の時間もあまり余裕がないので今回は難しいとの返事。上海に向かうべく私たちは空港へと直行。
空港で連れの中国の女性が全員のパスポートと航空券とを持ってチェックインしてくるとカウンターの方へ行ったのでその間雑談していた私たちに彼女が急ぎ足で戻ってきた。「実は政府の要人が乗るので私たちは3人しか乗れません。」それでは技術的な話を先にやってもらおうと技術者を先にやることにして私とアメリカの商社の人とは3時間あとの飛行機に乗ることとなった。

2011年2月18日金曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その5

さて次の日、朝早く起きるべく目覚ましを4時にセット。飛行機は10時だが天気になりそうなので混雑するだろうと思ったからだ。荷物をまとめエレベーターの前へ。もう10人ほどが待っている、しかも荷物一杯で。最初のエレベーターが降りてきた。満員だ。次も一杯。次々と降りてくるのが一杯で皆にあせりが。「いったい、いつになったら降りれるのだ。同じ階のほかのお客さんも周りに集まってくる。10台以上やり過ごした後やっとのことで割り込んだ。しかし降りたはいいが今度はチェックアウトの列の長いこと! うねりにうねって少しずつしか進まない。やっとチェックアウトが終えたのは8時。ホテルの前で空港までのシャトルバスを待って乗り込む。街に積まれていた雪が溶け出してスーツケースを引っ張っている人たちは歩きにくそうだ。空港の周辺の道は車で一杯、ものすごい渋滞。短い距離だが1時間半かかる。すぐにチェックインの列に入る。まだ受け付けている。全ての便に遅れがでているのでなんとか席をとれた。ようやくサン・フランシスコ向けの飛行機に乗る。機内で配られている新聞を見ると「Century Storm」(世紀の嵐)というセンセーショナルな記事が目に飛び込んできた。アメリカの東海岸の州を襲い死者114人とでていた。これには雪かきで心臓発作で亡くなった人もふくまれているとあった。いまCentury Storm とグーグルで検索すると下の記事がでてきた。

Some called it the Superstorm; others, the Storm of the Century. Both names were well- earned. When three independent weather patterns converged in the Gulf of Mexico in March of 1993, the resulting storm system caused three days of crippling snow, whirling seas, coastal flooding, blizzards, tornadoes and bone-chilling cold. The amount of snow and rain that fell during the storm was almost biblical -- 44 million acre-feet -- "comparable to 40 days flow on the Mississippi River at New Orleans," according to a National Climatic Data Center report.

雑誌や新聞を読みながら時々窓から外を眺める。アメリカの中部はすごい平原だ。ブラジルの景色を見慣れている私にも恵まれている国だなという印象を受ける。ロッキー山脈を越えるとすぐにサン・フランシスコ、ふと時計に目をやる。なにっ、乗り継ぎの飛行機が発つ30分前ではないか。そわそわしだす。着いたのは25分前。とっさに目当てのゲートに向かう。幸い荷物は成田直行で取らないでいい。ファイナル・コールがアナウンスされていた。脱兎のごとく乗り込む。さてこれで日本につけるか。疲れがどっと出てきた。

2011年2月17日木曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その4

リオーニューヨーク間は約8時間。着くに従って飛行機が段々高度を下げてくると雪が降っているのがわかる。もう三月の中旬、まさか雪が降るとは夢にも思っていなかった。飛行場のあちこちに雪が積んである。飛行機から降りてロビーへと向かっていると「ただいま、空港は閉鎖されました」とのアナウンス。荷物を引き取り航空会社のカウンターで翌日の朝の便に変更する。ホテルの宿泊券をもらい航空会社が仕立ててくれたバスで空港に近いホテルへと向かう。見るとヴィトリアで一緒に騒いでいた仲間(?)もいる。しかも上は長袖シャツ一枚だけで震えている。私は幸い少なくともジャンパーは着込んでいる。ホテルの一室を与えられ下に降り軽い食事をとる。会社に今の状況を説明すべく電話をいれる。一応もうじき日本に着く技術者二人に連絡しなければならないということで予約していた新宿のホテルにファクスを入れることにした。私の予約の取り消しと彼らがホテルに着いたら渡してほしいと別の紙に私の状況を説明し私し抜きで北海道のお客さんを尋ねるようにとしたためた。幸い日本の商社が中に入っている。一人は以前訪問したことのある会社だ。一息ついてさて外ははどうだろうとホテルの正面のドアを少し開けようとしたら凍えるような雪混じりの風が入ってきた。あわててドアを閉める。とてもホテルの外に出れたものではない。部屋に戻り新聞を読む。テレビの天気予報ではまだ雪が続きそうだ。
翌朝早く起きてホテルのロビーに掛けてある飛行機の発着パネルをみる。空港に隣接しているホテルなのでお客さんもほとんどが乗客だ。みんな見ている。私も後ろからのぞく。ずーと「Cancelled」が続いている掲示板に一つだけ「Confirmed」の便があるではないか。みると成田行きの私の便だ。あわてて荷物をまとめてタクシーで空港に向かう。空港はあまり人はいない。それもそうだろうこれ一便だけだものな。チェックインの列にならびいよいよ私の番。荷物を出しチェックインが終わり「Boarding Card」を受け取る。そのとき場内アナウンス「ただいま空港は閉鎖となりました。」私のスーツケースはまだベルトの上を走っている。係員はあわててベルトの上をはしり私のスーツケースを持ってきた。さてチケットの変更をしなければならない。しかし今閉鎖されたばかりでまだ誰も変更はしてないからどんな席でも選べるだろう。「明日のこの便に変えたい」といったところ、もうないという。そうか明日は明日でもう一杯になっていたのか。「なんでもいい、とにかく明日東京に行く便をさがしてください。」いっときして、「サン・フランシスコで乗り換え東京行きなら取れます。」「それにしてください」ターミナルを出て気がついた。ホテルはチェックアウトしてきたのでホテルを探さなければ。また出てきたホテルに事情を話し部屋を確保した。こんな寒いときに路頭に迷っては生死にかかわる。またタクシーでホテルにもどる。

2011年2月15日火曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その3

ヴィトリアーリオ間は飛行機で約50分。私は機内で配られた新聞を読んでいた手を休め時計を見た。既に1時間を過ぎていた。そういえば着陸態勢に入ったとのアナウンスもなかったことに気がついた。「どうしたのだろう」少し不安になってきた時、機内アナウンス「ただいまリオは集中豪雨で着陸できませんのでこのままサンパウロの空港に向かいます。」サンパウロに着くとあらかじめそこで降りるようにしていた人たちは手荷物を下ろし去っていった。飛行機は約2時間後リオ向けに発った。既に会社の同僚二人はロス経由東京行きの飛行機で発っていた。私はすぐさま航空会社のカウンターに走った。「なんでもいい、東京行きの飛行機はありませんか?」係員はコンピュータをさかんに打っている。「あった、ありました。ニューヨーク経由東京行き。これに乗りますと、ちょっと待てよ、あなたの友達が乗ったロス経由より乗り継ぎのタイミングがよく彼らより1時間前に東京に着きます。「神様ありがとうございます!」
すぐに搭乗手続を済ませ、私はニューヨーク行きの飛行機の中へ。座席にすわりベルトをしめると飛行機はゆっくりと離陸。私の顔に微笑が。成田で彼らを待ちうけよう。彼らのびっくりする顔が目にみえるようだ。「どうしてお前ここにいるのだ?」「なに、スーパーマンが助けてくれたのさ」もう、答えまで用意できていた。

Lei de Murphy – マーフィの法則 その2

「リストラ」と日本で使われている言葉、英語の「Restructure」から来ていると思うのだがどうやら職を失うという「首切り」という意味で使われているみたいだ。本来は新しい状況に対応するために再編するという意味で、首切りも選択肢の一つではあるが全てではない。
1990年代の初めブラジルでは国営企業の官営から民営への移行が行われた。私が働いていた製鉄所も例外ではなく民営化にあたりRestructureが行われ、当然希望退職という形で人員削減がおこなわれた。私は所属していたMarketing課がなくなりその仕事は営業部に吸収されたので営業に配属となった。最初の仕事はアジア向、主に韓国、中国、台湾などへの製品の販売だった。日本へは鋼塊をごくわずか売っていた。 
中国への販売が伸びていたので技術面から製品の品質の聞き取りや新しい需要の可能性などを調べる必要もありCustomer Service部から二人そして営業部から私と、三人でアジアの顧客まわりをするということで私にとっては初めての海外出張となった。
さて当日,午後2時半の飛行機に乗るべく1時間前の1時半にヴィトリア空港に到着。
技術者たち二人はすでにチェックインを済ましていた。ちょっと立ち話をしてチェックインの列に入った。列は進み私の3人前になった時「チェックイン終了」と係員が叫んだ。急にあたりは騒然となる。一応出発時30分前にチェックインの手続きは終了という規則になっている。しかしまだ2時前10分。私もカウンターの係員にエアーチケットを見せて国際線の乗り継ぎがあることを知らせどうしても乗る必要があることを説明する。ほかにも同じ国際線の乗客が数人いる。係員の説明では前の空港で決勝戦に向かう予定外のサッカーチームを乗せなければならなかったので席が埋まってしまったという。その航空会社はその後の便はなかったが他の航空会社の便で5時半のがあり国際線乗り継ぎの乗客に限りその航空会社にかけあいなんとか席を確保してくれた。まあその便でも充分間に合う。ほっと胸をなでおろした。問題の飛行機は満席になっていたので予定時間より15分も早く発ってしまった。

2011年2月13日日曜日

Lei de Murphy – マーフィの法則 その1

マーフィの法則、一昔前まではよく耳にした言葉である。何も科学的に証明され客観的に実証できる法則ではなく主観的要素が濃厚な法則である。それはこうである「あることに運の悪いことが起きる可能性があればそれは必ず最悪の場合に起き、しかもあなたの身に」。この頃この言葉が聞かれなくなってきたのはこの法則が適用されないような工夫がされるようになってきているからである。一例を挙げよう、依然良く見られた銀行やスーパーのレジの列。「今日は人との約束があるので早く帰らなければならない、あっ、この列が少なくていいな。」と思ってその列に入る。あと二人と思っていたら前の人何やらカバンから書類の束をだしたり、またはなにか問題があってレジの人と言い争っていたり・・・。ほかの列はと見るとスムースに流れていて、もしあの時あの列に入っていたら、もうとっくに終わっていたのに。いまさらほかの列に入りなおすわけにはいかない。後ろを見ると誰もいない、皆すばやく列をかわっている。あとの約束が心配で気が気でない。10年ほど前からは銀行や役所の列は曲がりくねった一列になって空いた窓口に順番に応対されるようになってきた。平均待ち時間は同じだが自分だけが運が悪いという思いをしないで済むようになってきた。しかし家の中ではまだまだこの法則は生きている。趣味の日曜大工(毎日、日曜みたいなものだが?)ねじを締めるのにドライバーのはいった箱の中を探す、穴があう肝心のドライバーだけがない。思い当たるところを全部時間をかけて探すがみつからない。えいっ、これでは近くの店に行って買ってきたほうが早い。ドライバーを買ってきて袋から取り出しふと窓をのぞく、なんとそこにあるではないか。「またマーフィにやられたか。」