2007年11月13日火曜日

世代間ギャップ?

日本の方から “つまらないものですけど”にコメント頂きました。 
私も同じような考えです。日本で生まれ戦後育ちで一応分別のついた高校生の頃ブラジルに来たせいでしょうか。ここ150年の日本の歴史の中で日本を大きく変えたと言える事が二つあったと私は思っています。一つは明治維新、そしてもう一つは第二次世界大戦。前者は封建社会から近代社会へ、そして後者はうまく言い表せませんが、私の解釈では機会偏重社会から機会均等社会へと変わったとでも言えるのでしょうか。

この機会偏重社会では伝統、風習とかいったものが重んじられ人々はその価値観に基づいて生活していました。天皇を敬い、長男が家を継ぎ、そして謙遜が美徳であって、etc...。私たち一家がブラジルに来た頃は日系人の大多数が農業に従事し、いなかに住み日本人会とか青年会とかのサークルの中で活動し日本との交流もそれほど活発ではなかった時代です。日本とは違った独特の文化のなかで生活していました。その中に新しく入って来た私たちは戦後移民ということで新移民と呼ばれていました。当時、近所の家にいってもよく天皇陛下の写真が飾ってありました。戦後育ちの私はとまどいを感じることが多々ありました。その頃日本から評論家の大宅壮一氏がブラジルを訪れ ”明治の日本を見たければブラジルへ行け” と彼らしい辛辣な言葉を吐いたとか。

しかしそれは上っ面を眺めてのことで、その奥には人をおもいやり謙虚に生きるブラジル日系人の姿がありました。私が書いた “つまらないものですけど” もその当時の話です。皆が相手の心を思いやれば謙遜の言葉は誰にとっても当たり前のように自然にわいてきて又自然に受け入れられるものなのでしょう。日本の戦後は精神的な価値観も大きく変わり個人の意思が尊重され自由が謳歌されました。自然な流れの中で生まれたのではなくアメリカの干渉があってプロセスが短縮されました。日本人の多くはそこで価値観を巧みに切り替えました。いくらかの歪はでてきたでしょう。時代がゆっくり流れていたブラジル日系社会そこで戦後日本とのギャップが出来ました。

それでも最近は出稼ぎ現象とか以前では想像も出来なかったような事も起き日本との交流も深まり将来の予測などとてもおぼつかないような時代になってきました。社会の急激な変化による歪、世代のギャップなどできるだけ少なくして世の中がもっと穏やかに流れるように願っています。どうも人類、あまり先を急ぎすぎて大事なものが取り残されていっているような気がしてなりません。

なにか思いついたことをただ並べてしまいましたが、さてこれからが本題です。私の妻のおじいさんは東京で酒屋を営んでいました。おばあさんは長野の旧家の出。関東大震災で被害をうけブラジルに移住してきました。そんなおばあちゃんに日本式に育てられた妻、いまだに日本の旧習が抜けません。ちなみに私は九州福岡県の出身です。彼女、「つまらないものですけど」、に始まって、百円ショップ (こちらでは1.99レアルショップ、為替相場は今1ドルが1.8レアル) で買ったと思われるプレゼントを貰っても 「とても貴重な物を頂いて」、などなど。私が 「相手が誤解をしてその気になるから止めなさい」、と言っても 「私はこういう風に育ったのだからこれ以外のことは考えられません「、と言って聞きません。

20代で私と結婚した彼女当時50代の私の母との間にも世代間ギャップがありました。妻が腕をふるっての夕食。「ああ、今日はおいしいものを沢山食べた。ご馳走さん」と母、「おそまつさま」、と妻。すると部屋に行きかけた母くるりと振り返り、「あんた、たまには私にいいもの食べさして」、しかも本気で。これには妻もぎゃふん。母は戦後みごとに頭を切り替えた人。それと明治生まれのおばあちゃんに育てられた妻。今、妻50代、母80代、世代間のギャップはまだ埋まっていません。あまり私が口を出すと最近妻は私に 「私たちはハビビではないの?」、と言い出す始末。私は沈黙を決めこみます。日本流で言えば “沈黙は金なり” 西洋風で言えば “閉じた口に蝿は入ってこない”。

この “ハビビ” 今我が家の流行語です。アラブ語で家族,一族あるいは仲間という意味らしいのですが私達は “心が通じ合える仲” という意味で使っています。そこで毎日のようにあの人とはハビビだとかハビビでないとか話のなかに出てきます。使ってみると便利で愛用(?)しています。このHabib ブラジル中にあるアラブ風軽食チェーンの名前でもあります。
今日は考えがまとまらずだらだらと長くなって自分でも何を言っているのか解らなくなってしまいました。ああ、またひとつ思い出しました。ある文豪の話だったと思いますが、友人のもとに届いた彼の手紙はこう終わっていました。 “今日は時間がないのでこの手紙長くなりました”。確かに読み直しているうちに段々短くなるものですね。私の場合長いままなのはまとめる力がないせいですが。

Conversa à escrita

1967, 7 anos após a chegada ao Brasil, nossa família trabalhava na lavoura no sítio de nossa propriedade no município de Biritiba Mirim, cerca de 80km ao leste de São Paulo e 20 km da cidade de Mogi das Cruzes (ou Moji como já escrevi antes), onde a presença de japoneses era significativa. Nosso sítio se situava no meio da pequena comunidade japonesa chamada Carmo, onde moravam cerca de 10 famílias japonesas. Comprar um sítio era o primeiro objetivo, ou quase um sonho, para imigrantes japoneses naquela época e conseguimos realizá-lo com muito esforço trabalhando de estrela à estrela longe da civilização (sem luz elétrica e água encanada).

No Brasil, muitos nomes das cidades tem origem Tupi-Guarani. Por exemplo, Biritiba Mirim significa lugar pequeno onde tem muitos biris (flores que nascem no lugar alagado) e Mogi (na verdade as palavras de origem Tupi-Guarani deveriam ser escritas com “j” conforme a ortografia, mas na prática “g” é mais usado até pelas prefeituras como Mogi das Cruzes, Mogi Mirim, Mogi Guaçu, etc.) significa “Rio das Cobras” que se refere ao Rio Tietê que cruza o município de forma sinuosa como cobras. O Rio Tietê nasce no município de Salesópolis, o vizinho de Biritiba Mirim, e passa pela cidade de São Paulo e atravessa o todo Estado de São Paulo e deságua no Rio Paraná, cujo trajeto final recebe o nome de Rio da Prata e termina no Oceano Atlântico. Só o trecho do Rio Tietê tem cerca de 1100km. As gotas de chuva que caem a 22 km do mar viajam milhares de quilômetros e se tornam a água do mar. Isso se deve à Serra do Mar que acompanha a costa brasileira, o que faz baixar o nível do terreno à medida que avança para o interior do Continente. O Nosso sítio fazia a divisa com o afluente do Rio Tietê. Naquela época a cidade de Biritiba Mirim era pequena e a gente tinha que ir a Moji das Cruzes para qualquer coisa. A cidade de Moji (de forma abreviada) tinha muitos japoneses, 2 bancos, 3 cooperativas agrícolas e muitos outros estabelecimentos administrados por japoneses. Até não sentia necessidade do português, pois tudo podia ser resolvido em japonês, o que dificultou a aprendizagem da língua portuguesa.

Certo dia, saí cedo de casa para ir a Moji e, após resolver as coisas na Cooperativa, à tarde peguei um ônibus que ia para Salesópolis. Sentei no lado da janela e abri o jornal japonês editado no Brasil e comecei a ler. Senti que alguém sentou ao lado mas continuei a ler. O ônibus partiu, mas nem tirei olhos do jornal, pois a paisagem era toda conhecida. Ao terminar a leitura dobrei o jornal e olhei ao lado. Parecia ser um japonês. Por precaução cumprimentei em português “Boa Tarde”. Ele me devolveu “Boa Tarde”. Soou um pouco estranho no meu ouvido. Será que é japonês recém-chegado ? Não hesitei, agora em japonês “Onde o senhor mora ?” Mas para minha surpresa ele balançou a cabeça com gesto de não e respondeu em português titubeando “Não entendo”. Após a troca de vocabulário pobre, soube que ele era recém-chegado de Taiwan e morava perto do Rio Tietê. Vamos ser práticos, peguei a caderneta que sempre carregava no bolso e escrevi em kanji (caracteres chineses) meu nome, onde moro, composição da família, etc. etc. Passando a caderneta para ele, a resposta e outras informações vieram em kanji, onde morava em Taiwan, informações da família, etc. etc. Não sei quantas vezes a caderneta passou de mão para mão. Quando avistei a ponte que atravessa o Rio Tietê escrevi que tinha que descer no próximo ponto e guardei a caderneta no bolso. Peguei o pacote de compras na mão esquerda e estendi a mão direita e disse em chinês “Até a vista”. Segurando forte minha mão ele retribuiu em chinês “Até a vista”. Mas nunca mais o vi.
A foto abaixo tirada em 1973 quando fomos pescar em Salesópolis perto da nascente do Rio Tietê com meus irmãos.

2007年11月5日月曜日

筆談


ブラジルに来て七年目、1967年、私たちはサンパウロ市から東へ約80キロ程のビリチーバミリンという所に念願の自分たちの土地を買い求め農業に従事していた。 日系人の多く住むモジダスクルーゼスの町から20キロ程のカルモ植民地といって日系が10家族ほど住んでいた小さな集落。ブラジルの町の名前は原住民の言葉であるツピ-グアラニー語から来た地名も多くビリチーバミリンはBiriという低地に咲く花が沢山ある小さな所という意味だそうでまたモジダスクルーゼス市のモジは蛇の川という意味。即ちこの地方を蛇のように曲がりくねって流れるチエテ川のことを指している。このチエテ川、ビリチーバミリンの先のサレゾポリスを源としサンパウロ市を通り抜けサンパウロ州を突っ切りパラナ川へと注ぐ。やがてこの川がラプラタ川となりアルゼンチンで大西洋へと注ぐ。チエテ川と呼ばれるところだけでも約1100km。サレゾポリスの奥、海岸から約22kmのところに落ちた雨水ははるばる数千キロの旅をして海水となる。これはブラジルの海岸に沿って山脈が走り大陸の中に行くに従って低くなっているためである。

私達の土地はチエテ川に注ぐ支流が境界線となっていた。当時ビリチーバミリンの町は小さく何をするにもモジダスクルーゼスの町まで行かなければならなかった。モジ(略して)は日本人の多い町で日系の銀行がニ、三行、農業組合が三つ、あと数多くの日系人経営の商店があり日本語だけで用がたりた。

ある日私は組合に用事があって朝でかけ夕方帰りのバスにのった。窓際の席に座りここで発行されている日本語新聞をとりだして読み始めた。誰かが横に座ったような気がした。どうせ外は見慣れた風景、一応新聞を読み終え、たたんで隣を見た。若い日系人?一応ポルトガル語で挨拶 「ボア タルデ(こんにちは)」、むこうも「ボア タルデ」、 あれっ、日本からの人かな? 耳がすばやくキャッチ。 日本語で「どこに住んでおられるのですか?」、 意外にも頭を横にふっている、そしてたどたどしくポルトガル語で「ノン、エンテンド (わかりません)」、 おたがいのたどたどしいポルトガル語のやりとりでどうやら最近台湾から来た人でチエテ川沿いに住んでいるということはわかった。

ええい、めんどくさい。私はいつもポケットに入れている手帳をとりだし漢字で書き出した。名前はこういうもので、どこに住んで、家族はこうで、ああで、こうで、、、、、。彼に手帳を渡すと漢字で答えが返ってきた。台湾のどこ出身で、家族はどうのこうの、、、、、、。手帳は二人の間を渡り歩きやがてチエテ川に架かる橋が見えてきた。あっ、次のバス停だ。私は次で降りると書いて手帳をポケットにしまった。荷物を左手にそして右手を差し出して言った 「再見(ツァイチェン)」、 そして彼も私の手を握りしめ「再見」。 しかしその後彼を再び見ることはなかった。
上の写真は1973年サレゾポリスのチエテ川源流近く、弟たちと魚とりにいったときのものです。大漁でした。