2015年12月24日木曜日

ブラジルとF1

ブラジルからこれまで3人のF1チャンピオンが出ている、Emerson Fittipaldi、Nelson Piquet そしてAyrton Senna.

田舎に住んでいた時は忙しくてゆっくりする暇がなくスポーツ番組といえばサンパウロのサッカーを時々見ていたくらいだ。ある時弟が近所から借りてきた日本の少年雑誌でブラジルからF1チャンピオンが出たことを知った。1972年のことである。このときエメルソン・フィッチパルジは25歳でそれまでのチャンピオンとしては一番若く、この記録は30年以上破られなくて2005年スペインのFernando Alonsoがこれを破った。

エメルソンは2年後の1974年にもチャンピオンになった。そのころからテレビでF1レースを見るようになった。1975年ブラジルで初めてのF1チームが結成された。Copersucar-Fittipaldi である。エメルソンは兄のWilson と一緒にこのチームに移ったがその後チャンピオンになることはなく1980年アメリカのロングビーチレースの3位を最後に引退した。Copersucar-Fittipaldiは資金面、技術面などでほかのチームに追いつかなかった。 

そしてこの時のレースに優勝したのがネルソン・ピケで彼は翌年のチャンピオンになり、その後1985年と87年も制した。

そしてブラジルを始め世界を熱狂させたのがアイルトン・セナ。彼が初めてチャンピオンになったのが1988年。この頃ブラジルのサッカーは不振で国民の期待はセナに託された。彼はみんなの希望の星だった。セナもそれを感じ国民の士気を上げようと勝てば国旗をひるがえして観客に応えた。セナは国民のヒーロー的存在になった。

ブラジルのサッカーは1970年にワールドカップ3回目の優勝を決め当時のトロフィー、Jules Romet 杯の永遠の所持者になった。しかしそれからは優勝から遠ざかりようやく1994年のアメリカ大会で優勝。この間に人気が出てきたのがF1 レース。老若男女を問わずテレビに見入った。

そのころから私たちの住んでいる所は土地開発が進み、毎日曜日必ずF1レースの日に停電していた。何とかF1レースを見ようと車のバッテリーを使って見れる小さいテレビを買った。白黒だったのでなかなか車の色の識別が難しく、よくわからないうちにレースは終わってしまう。

次の日曜日、工事をやってない所に住んでいる友達に電話をかけた「家は停電でF1レースが見れないんで、そちらに見に行っていいかい?」OKの返事がでた。昼食後、車で繰り出した。
セナのハンドルさばきにはいつもハラハラさせられた。時々テレビに向かって指示を出すが言うことを聞かない、最後は投げ出す。

彼は1988年、90年、91年と3回チャンピオンになった。
1994年5月、イタリアのサンマリノのレースを見ていた。セナがカーブを切り損ねて車がコンクリートの壁に当たって跳ね返ってきた。セナは車の中。私は「これくらいだと大丈夫だろう。もうすぐ車から出てくるだろう」と待っていても出てこない。「えっ、まさか?」。彼は帰らぬ人となった。

彼の葬儀は国葬というよりも国民葬となった。消防車を先頭に墓地に行く街道の両側に別れを惜しむ人々の波が揺れていた。「アイルトン、ありがとう」と。




  

2015年12月21日月曜日

サーフィン2年連続世界一

明るいニュースを一つ。
これについては去年書こうと思っていたのだが怠けてしまった。 今年は同じことだがもっと良く、2年連続という言葉が入った。去年のサーフィン世界一が最後のハワイで決まる時応援団がブラジルからハワイに渡った。ブラジルの Medina を応援するためである。期待に応え彼はブラジルで初のサーフィン世界チャンピオンになった。それまではアメリカとオーストラリアしか優勝したことはない。
今年はブラジルのMineirinho (これは通称で本名はAdriano de Souza)が優勝、その時はブラジルからの応援団は水に入り彼を肩にのせて浜にあがった。去年の覇者Medina は3位となった。下の写真は優勝トロフィーがMedina からMineirinhoに手渡される瞬間をとらえている。
右がMineirinhoだが彼はミナス州ではなくサンパウロ生まれだ。彼は標高800メートルのサンパウロ市から海岸に降りたところのサントスに近いGuarujá に住んでいる。 明日火曜日彼が帰ってくる時は町をあげてのお祭り騒ぎになりそうだ。
 

ブラジルでは時々、伝統のないスポーツで個人の才能と努力で世界一に登り詰める人が現れる。
去年のMedinaがそうだと思っていた。しかし調べてみるとサーフィンは案外層が厚くこれからも別のチャンピオンが出てくる可能性がある。
 
ブラジルは昔は団体スポーツのサッカーだけだった。ボール一つで貧富の差なく遊べて能力が認められれば多額の給料が手に入る。人気プロサッカープレイヤーになることがブラジルの子供たちの夢となりブラジルの国技と言われるまでになった。ということでブラジルのサッカーの層は厚い。それがほかのスポーツの伸びを妨げていたともいえた。

今は時代が変りブラジルも色々なスポーツに目覚めた。柔道の普及には日本移民の貢献があった。オリンピックでも必ずメダルをとっている。団体ではバレーボールの普及が目覚ましく女子、男子とも金メダルを取っている。特に今は女子の全盛期か。そういえばビーチバレーもすごい。ここエスピリトサントからも世界チャンピオンがでる。

ブラジルが初めてテニスの4大大会の一つフランスRoland-Garro 1997年の大会で優勝した時のことは良く覚えている。私は家の居間でテレビを見ていた。突然画面が変わったそして「今ブラジルのGustavo Kuerten (グスタヴォ キールテン)がテニスフランス大会の決勝を戦っています」と告げ実況に入った。ブラジルのテレビ局もまさか20歳のほとんど無名のテニスプレイヤーが世界の4大大会に優勝するなんて思っても見なかっただろう。それで番組に予定されてもいなかった。やせた子供っぽい青年がラケットを持って巧みにボールをさばいている。人懐っこいその姿にブラジルの視聴者が釘付けになった。そしてその時Gugaという愛称で呼ばれる新しいヒーローが生まれた。
その後彼は2000年、2001年とフランス大会を制し、2000年の12月4日からの43週間世界ランキング1位のトッププレイヤーとなった。不思議なことに彼がタイトルを取ったのはフランス大会だけなので砂コートの王様とも呼ばれていた。1995年プロになり2008年に引退いつも朗らかで今でもブラジルのアイドル的存在だ。

長くなりそうなので、「F1 レーサー」は次にまわそう。







2015年12月20日日曜日

褐色の津波






上のタイトルはフランスの新聞が11月5日、ブラジルミナス州のマリアナ市で起きたサマルコ鉱山会社の鉱滓ダム決壊によって引き起こされた鉱物廃棄物と泥水の流れが家を押しつぶし、部落を破壊し、16日かかって650キロ先の海に到達した様子を津波に例えて報じたものである。津波は海から陸だがこの場合は陸から海への侵略(?)か。

鉱滓ダムが決壊して泥流が下流のベント・ロドリゲス地区を破壊した。その被害の様子は下のサイトをクリックするとそのなまなしい爪痕が映しだされる。住民への連絡が遅れてこの被害で死者、行方不明者が20人程度だとの発表だがちょっと?だ。これはテレビ社のヘリコプターが鉱滓泥水の爪跡を追って映像を撮ったものである。

http://g1.globo.com/minas-gerais/videos/v/distrito-de-bento-rodrigues-fica-destruido-apos-rompimento-de-barragem-em-mariana/4588887/

泥水は低い所へと流れやがて川の水に合流してミナス州からエスピリトサント州までにまたがるドセ川に入っていった。流域の町では飲料水の確保に頭を痛め、漁で生計を立てる人たちは魚が死んでしまって収入がなくなった。魚が全滅するので数十隻の小舟で網漁が始まり魚を近くの池などに移した。この地方だけにしかいない魚もいるらしく「ノアの箱舟作戦」が実行された。 

                       

上はドセ川流域のエスピリトサント州最後の町Linharesである。この橋の長さは約200m、私たちも車で何回か通った。

この災害に対するブラジル政府の対応の遅れや不透明さに国連は調査委員会を派遣した。泥流で家を失った296世帯にはサマルコ社が別の所に新しい家を建てると言っているがまだ何も進んでいないらしい。

今連邦裁判所が被害を受けたミナス州、エスピリトサント州の人達への補償金をサマルコ社の共同経営者であるブラジルのVale do Rio Doce 社とオーストラリアのBHP Billiton 社に請求している。



2015年12月17日木曜日

ブラジルよどこへ行く?

毎日必ず見るのが夕食時8時半に始まるニュ-ス。

しかしこのところ毎日同じニュースばかり。、ブラジルの石油公社「ペトロブラス」を舞台に繰り広げられる政治汚職。今年の初め頃からやっているのではないかと思うが、火は鎮まるどころかあちらこちらに飛び火してますます広がるばかり。今や大統領退任の決議案を承認するかどうかという所まで来ている。

大臣、下院議長、議員、上院議長、議員、その他政界、財界の大物の名前が毎日のように出てくる。月に一度は大統領退任の旗を掲げる民衆デモがブラジル全国に繰り広げられる。この政界の不安定さ、いつ何が起きるか先が見えない。
この政界不安定さが経済の足を引っ張っている。国の信用の格付けは下がる一方。これでは外国からの支援、投資は難しい。インフレも年10%を超す。街に出ても活気がない。
不動産バブル期の建設ラッシュの名残のマンションは解約が増えている。

ブラジルだけではない、世界経済も下向きになっているのに政治家たちは自分の身を守ることに必死で周りのことには見向きもしない。国民はどうなるのか?

ブラジルよ、どこへ行く。


2015年12月13日日曜日

南国の夏(?)と卒園式


日本から帰ってきた時(11月12日のブラジルの春(?))に実をつけていたブドウが熟れたので2回目の収穫をした。今年は去年より少ないがこれだと今週には終わってしまう。正月には家の前のブドウは無くなるが家の裏のがこれから熟れ出すので少しはテーブルにのる。これは剪定の時期がずれたからだ。

ブラジルの学校は年の終わりに学年が終わり年が明けると新しい学期が始まる。
木曜日、幼稚園に通う孫の恵美の卒園式と園児によるショー(?)があった。市営の大きな幼稚園で午前と午後に分かれているからかなりのクラス数がある。午後組の2クラスの卒業式で初めに子供たちが練習を重ねてきた「不思議の国のアリス」からとったミュージカル「詩の国のアリス」が演じられた。

それが済むと一人ひとり呼ばれて卒園証書とアルバムの代わりにCDが手わたされた。



蜂の衣装で踊る

恵美の応援に集まった親戚
左は恵美のいとこのDaniel,その横は父親のDaniloと奥さんのJamile、息子正人と嫁さんのBianca、清子の横が嫁の父親Alfredoと奥さんのFátima

卒園式での生徒たちのミュージカルは https://youtu.be/UE2kmJXD0ME  にある。

卒園式の衣装のまま家に来て、きょう日曜日親と一緒に帰る時、また蜂の衣装に着替えて帰った。













2015年12月4日金曜日

美は足元に

今回の旅行で私は上ばかり見て歩いた。涙がこぼれないようにするためだけではなく、美を求めて。歴史的に由緒ある建物や近代的デザインのビルやそびえ立つタワー、そしてそれ以上に少しずつ赤みがかってくる山々の紅葉を探して。しかし一人だけ下にも美を求めていたのがいた。娘の理奈である。彼女は行った先々でその土地の特徴を表したかわいいデザインのマンホールがあるとカメラに収めた。私のブログに写真を借りるために彼女が撮った写真集を見ているとよく出てくる。
少し紹介しよう。

                      岡山

            
           姫路



     大阪




              丹波篠山    



         京都              祇園

                           嵐山

宇治


                      奈良

                      法隆寺



           名古屋


                   岡崎   葵のご紋

            東京
              
                   埼玉川口 

富士吉田










2015年12月1日火曜日

ブラジルに帰って

9月19日にブラジルを発って10月20日に帰ってきた。こんなに長い旅をしたのは初めてだ。

それからサンパウロ近郊の親戚を回ったり, お墓参りをしたり、妻の姪の結婚式に出席したり、姑を預けていた妻の弟の所のリフォームを監督したり、結構忙しく過ごし我が家に帰ってきたのは11月4日。それから45日の間にたまっていた用事を片付けた後、記憶がまだ新しいうちにとブログに旅行記を書き始めた。

今まで海外旅行をしたときはノートパソコンを持って行っていたので大抵その日のうちに出来事を書いていた。まだ頭も体も今よりは良く働いていた。今回は夜は次の日のスケジュールをたてるのに当て、ノートパソコンは持って行ったがインターネット・バンキングなどに使った。便利が良くなった、地球の反対側からでも銀行やカードの支払いなどが出来るので人に頼まないでもよい。

旅行記を書くにあたりまずパソコンに写真を整理することから始めた。それを日付順に整理しその中からそれぞれ訪れたところから数枚ずつ選びだし記憶をたどって書き出した。何もメモしていなかったので思い出すのに時間がかかったり思い出せなかったりした。

今回日本に行って親戚、友人、知人、学友に世話になった。どこでも最大のもてなしを受けた。何十年経っても変わらぬ人と人との絆、あたたかい気持ちを感じた。日本にいつまでもいたいという気持ちまでふつふつと湧き上がってきた。日本の洗練された懐石料理を行く先々でご馳走になった。実を言うと懐石料理をそれまで頂いた記憶がない。34年前はまだ子供たちが小さかったのでゆっくり味わっていただくことなど出来なかった。今は定年退職の身、そして迎えて頂いたところも時間に余裕があってゆっくりした時を過ごすことが出来た。ありがとう。

和食、日本伝統の食べ物だがまた和やかな食べ物でもある。すしのおいしかったこと。そして色々なその土地の料理の繊細な味。一つ困ったことが出来てしまった。ブラジルに帰って来て以前のように食べ物がそんなに美味しく感じられないようになったこと。時間が解決してくれるだろうか?

頭の中からは細かい記憶がどんどん去っていく。書いておけばその状況は蘇る。そう思ってこのブログは今私の日記帳になっている。これをたどればまたいつでもその場面が再生される。
いつでも皆さんに会いたいと思えばこれをめくればよい。
私の人生で最高の思い出をありがとう。



埼玉2題 その2 さらば、Nippon !

日本を発つ前、最後の二日はブラジルで私達の近くに住んでいた伊藤さんの娘さんの所で世話になった。彼女は結婚して今は埼玉の吉川市に住んでいる。娘さんといってもお孫さんまでいる、そして今そこには私達の旅行中にブラジルから来た母親も一緒に住んでおられる。ご主人の真栄城さんは日本に帰化して腰を据えている。今はマラソンに夢中になっているみたいだ。

田んぼが周りにある静かな所だが筑波エクスプレスで私たちが宿をとっていた秋葉原からまっすぐ来れるので交通の便もいい。近くには新潟直送の魚を売る市場やスーパーなどがあり便利だ。

帰る日は成田まで送ってもらった。


真栄城さんの家で



ANAのパイロットのいとこの長男と成田で。ブラジルでの再会を約す。

右から2番目は成田まで送ってもらった伊藤さん。となりに姉。
彼は富士山の裾野、河口湖の近くに住んでいる。






蕨の思い出

当時蕨市は日本で人口密度が一番高い市だった。東京にもすぐ行けて通勤にはもってこいの場所だ。日本に着いたすぐは赤羽に住んでおられた妻の祖母の妹さんの所で世話になった。貸家の専門誌を見たり街角の不動産屋を訪ねて探したりで4日目くらいに西川口駅の横の不動産屋で駅から歩いて近いマンションを借りた。住所は蕨市だが川口市との境だ。

着いたのは3月で新学期が始まる。とりあえず理奈を幼稚園に入れる手続きをとった。入園式の日、妻が並んでいると横で「今年は外国からの生徒が来るそうよ」と話してあたりをきょろきょろ見回している。外国人=金髪の西洋人となっているのだろう。謎は解けたのだろうか?

理奈は毎日弁当を持って楽しそうに通っていた。3か月ほど経った頃幼稚園から妻に電話が入った。「佐伯さん、おめでとうございます。今日理奈ちゃんが初めて"はい"と返事されましたよ」と。なんでも出席を取るときに初めて返事をしたらしい。それまでは幼稚園に行っても遊んではいたが何も話さなかったと言う。私達は日本語の生活をしていたので理奈が日本語を話せないというのを忘れていた。しかしそれからは日本語を覚えるのは速かった。その年の8月私の両親が来た時は日本の子供のように話していたので両親もびっくりしていた。

それからは友達も出来、子供を通して私達の近所づきあいも広くなっていった。幼稚園での色々な催し物、誕生日会に呼ばれたり呼んだり。理奈はすっかり溶け込んで日本での生活を満喫(?)した。その時近所の親しくしていた友達を今回の訪日で訪ねた。事前にブラジルを発つ前から連絡は取っていた。

駅を降りると周りはずいぶん変わっていて2年間毎日通った道さえわからない。とにかく線路に沿って行けば何か思い出すだろうと歩くうちに見慣れたところに出てマンションを見つけた。私たちが住んでいたマンションは健在だった。

それから理奈の友達の家、近かったはずだけどわからない。探しているうちに「セブンイレブン」から出てきた女の人が「あら、佐伯さん!」と叫んだ。理奈の友達の妹さんで一緒に遊んだ仲間だ。「皆待っているよ」と家に連れて行ってもらった。わからなかったはずだ。前は一軒家だったのが2階建てのマンション式になっている。

昔の写真を持ち出したりお互いの現況を取り交わしたりで時間があっという間に去ってしまった。
理奈は年月を超え友達がまた友達になった。
昔通った幼稚園は無くなっていた。

3階の2軒目に住んでいた

昔のアルバムが仲をとりもつ

妹さんの子と童心に戻って







埼玉2題 その1 蕨の思い出

1981年3月から1983年1月まで私はブラジルの会社の駐在員として日本で働くこととなった。埼玉県蕨市にマンションを借り私たち家族の新しい生活が始まった。妻は日本語が出来るから問題はなかったが子供たちは全然日本語がわからなかった。私が思うところあって子供たちに日本語を教えていなかったからだ。私と妻の間は日本語そして子供たちとの間はブラジル語とした。一番上の娘の名前はリナ、そして日本語名は自分たちの間だけで「理奈」という漢字を付けた。漢字は日本人の血を引いているということで日本語で書くときに使っている。正式な出生証明書には LINA SAHEKI となっている。Lina と書くとアルファベットを使う国の人は日本人には「りな」と聞こえる発音で呼んでくれる。それで「リナ」はこれだけで日本語とブラジル語共通の名前となっている。Lina という名前はブラジル人にもいる。

どうして「Rina」でなくて「Lina」かというとブラジルでは語頭の R は日本語の H のように発音され 「ヒナ」と呼ばれるからである。語頭のRのほかに語中にRが二つ並んだ場合にもそう発音される。その発音は巻き舌のRで発音してもいいが私達には難しい。ブラジルに来た初めのころは巻き舌のRの練習をよくしたもので当時はアナウンサー達もよく巻き舌で発音していた。しかし今はほとんどの人が簡単な H の発音を使っているようだ。
私達が住んでる大ヴィトリア都市圏内のSERRA市。日本語の発音で「セーハ」と言っている。

日本語の佐伯が SAHEKI  となったのは私の父が戸籍謄本のカタカナでのふりがなが「サヘキ」となっているので「さへき」と読めるようにしないといけないと変な理屈を持ち出して、いくら私が今の「佐伯」という漢字のふりがなは「さえき」だから SAEKI  としなければ 「さへきさん」と呼ばれるよと言っても聞かない。私は当時は高校2年、英語の試験の時は名前をHisayoshi Saeki と書いていた。父にも昔は「てふてふ」と仮名で書いて「ちょうちょう」と読んでいて、それが今は「ちょうちょう」というふりがなになっているんだ、とか言ってもがんこで絶対に引かないのでしょうがない Saheki がブラジルにおける我が家の姓になった。ただ救われたのはラテン系の言語ブラジル語(ポルトガル語)、スペイン語、イタリア語、フランス語などは H は発音しないのでSaheki と書こうがSaeki と書こうが発音は「さえき」となるので問題はない。ただ仕事で英語圏のお客さんなどからは「ミスター サヘキ」と呼ばれる。

このことを子供たちに話すと「おじいちゃん、でかした!」と言う。書くときにSaeki より Saheki の方がバランスが取れて良いというのである。もう、あきらめた。

外国で日本語の名前を付けるには苦労する。まず誰もが正しく簡単に発音できるような名前が望ましい。長男は私の名前から一字取って漢字で「尚人」としてNaotoと読むようにした。Naoto と書くと誰が読んでも「なおと」と発音する。この字をHisato (ひさと)と読ませようとしても誰も呼んでくれない。第一にHは発音しないしSが母音に挟まれると濁るので「いざと」という発音になる。
出生証明書には Mauricio Naoto Saheki と書いてある。日系だと今は大抵ブラジル語と日本語の名前をつけている。人によってはMauricio と呼ぶしまたNaotoと呼ぶ人もいる。
 
次男には当時亡くなった私の末の弟の名前「正美(まさみ)」から一字「正」を取り「正人(まさと)」とした。しかしこれを「まさと」と呼んでもらうためブラジル語での出生証明書には Massato とした。なぜならSが一字だとで母音にはさまれて濁るので「まざと」と呼ばれてしまうからである。
それで出生証明書には Ronaldo Massato Saheki となっている。ブラジル語ではSが二つあってもつまった発音はしない。

ちなみに私の名前は見ただけで難しいという。まず第一にHi-sa-yo-shi とシラブルが四つある。サンパウロなど日系人が多い所はブラジル人も慣れているので大抵「ひさよし」と呼んでくれる。しかしここエスピリトサント州は日系が少ないどころかほとんど出会わない。3シラブルの名前だと何とか呼ぶが4シラブルだと半分以上はあきらめる。近い所にいると私を見て「セニョール」と呼んだり遠いと私のところまで歩いてきて「セニョール」と呼ぶ。英語の知識がある人は冒険して私の名前を呼んで近寄ると発音は正しかったかと聞く。ブラジル式で冒険すると「いざよし」となるのでそれでも立ち上がっていく。それで子供たちのは3シラブルで正しい呼び方が出来るようにした。

もう一つラテン語系の言語で語尾に「O(お)」がつくと大抵男性名詞でそれが人にも使われるので日本人の女子の名前の「――子」の場合日本人と全然接触のないブラジル人だと男性だと思って「セニョール --コ」と呼びだしたりする。だから最近の日系の女の子には日本語の場合「――子」という名前は少なくなっている。

とんでもない方向に話が行ったので今日のタイトルの話は明日にしよう。