2008年5月28日水曜日

アボカド or アボガド ?  Abacate!


今日はアボカドの収穫をしました。ブラジル語でAbacateといいます。
右うしろに見えるのがその木です。家の門のすぐ横で普通はあまりとれないのですが今年は二本ある木が良く実をつけました。アボカドの実は熟れてくると中で種が実から離れてきて振ってみるとコトコトと音がします。種がかなり大きいので実を半分に切って種をとったあとに砂糖をいれて一緒に食べます。田舎にいたときは大きな木で沢山なっていたので父は醤油をかけておかずとして食べていました。マグロのさしみに似た味がします(種類によりますが)。今から40年ほど前の話です。

今日は沢山取れたので刺身風に食べれそうです。アボカドは栄養価が高いのでダイエット全盛時代はちょっと見放されていましたが最近では身体にいいとかで見直されています。写真の妻の左は妻の母です。右は来月の25日に80歳になられる伊藤さん。古い付き合いで私たちの結婚式の仲人をしてもらいました。彼は自然農法の研究家で土着菌をもとにした肥料などを自宅で作っておられます。私の所の庭が格好の実験場になっていて、いろいろな果樹や野菜の成績のいいのはそのおかげと感謝しています。

またその土着菌の培養液を生ごみにかけておくと腐らないで発酵するので何日たってもいやなにおいがせず後は有機肥料として利用できます。最近水道局から水のタンクの底にたまる泥の臭いが消せないかと相談があったそうです。あくまでもマイペースで毎日自宅で研究を続けておられます。

2008年5月22日木曜日

二つの「故郷(ふるさと)」の歌

私には忘れられない「故郷」の歌が二つある。一つはブラジルに来る時アフリカ丸の船上で赤道祭の終わりに皆で歌った涙の大合唱のあの「うさぎおいし・・・・」で始まる誰もが知っている文部省唱歌の「故郷」。いつ帰れるかわからない故郷への思いとまだ見ぬブラジルへの不安が交錯しての荘厳とも言える涙の大合唱となった。いまでも光景が焼きついている。

もう一つは慣れないブラジル生活で味わった失意や絶望を乗り越え進学の夢が断ち切れず、自分たちの土地を買い家の状態が落ち着いた移住10年後、高卒認定試験をパスしサンパウロ大学の工学部に入った。それでも週末には消毒、収穫、荷づめの手助けにとビリチーバ・ミリンの家に帰っていた頃小高い家の窓から土地を眺めていてモジの日本語のラジオ放送から耳に入ってきた五木ひろしの「まつりもちかいと・・・・」で始まる「故郷」の歌。その時「ああ、ここが僕の故郷になったんだなあー」としみじみ思ったこと。その時の光景今も忘れていない。

大学生活ではいつもジーパンをはいていた。うまくブラジル語を操れない私をみんな快く受け入れてくれた。初めて参加した去年の同窓会でも同じように感じた。ブラジルは州立、国立大学は授業料をとらない。日系の多くもその恩恵をうけた。私は大学を卒業する前に帰化した。ブラジルに世話になったと思ったからだ。当時兄弟四人とも大学に通っていて皆帰化した。帰化の証明書を受け取る簡単な式のその席上、証明書を手渡す判事のあいさつがあった。「君たちが本当のブラジル人といえる。それは君たちが自分の意思でこの国を選んだからだ。私たちはたまたまこの国に生まれてきたにすぎない」感動した。彼の席上での決まり文句かも知れないが。式の終わりにブラジル国歌の斉唱。これが長い。一番でも満足に歌えればそれこそ大満足。当時は一所懸命二番まで覚えたのだが今では一番でもやっと人の後について歌っている。日本の「君が代」は短くて羨ましい。
今年の日本移民百年祭には日本からはるばる五木ひろしが来て歌うようになっている。生で「故郷」の歌を聴きたいものだ。

2008年5月21日水曜日

移住航海記


100年前笠戸丸は今航海中。笠戸丸はアフリカの先端喜望峰をまわっての西回りだが我々のあふりか丸はパナマ運河通過の東回り。東回り西回りは当時交互に出ていたように覚えているのだが。東回りは45日西回りの笠戸丸は52日かかった。
日本を出てからブラジルに着くまでのことは数行のメモとあとは次ぎのようなまとめが書き留めてあった。
上のは日本を出たときのパスポート。

1960年10月4日故国日本を離れ世界一の大洋を一路東へ東へと進むこと16日にして米国太平洋岸第一の都市ロスアンジェルスに着いた。さすがアメリカだけあって道路には多くの車が行き交い家々の庭はきれいに手入れされていた。90人の人達がこの地に降りた。

それから船は方向を南に変えた。段々暑くなってきて寝台の上に寝ていても汗でびっしょりになる。時々大陸がその片鱗を我々に見せる。イルカの大群に時々出会ったり亀や海蛇にも時々お目にかかる。やがてパナマ近くになると島々がはっきりと見えだしパナマ運河入口の近くには数隻の貨物船らしきものが停泊していた。

僕達の船が運河にさしかかると南米大陸と北米大陸とを結ぶ橋が回転して多くの車が停車する。第一の門を目の前にしてこれからどうなるのかと思っているうちに下から水が上がってきて次の水の高さと同じになった時、門が開いて船は次に進む。そういう事を何回か繰り返して掘割に入った。運河の両側は岩石のがけがそそりたち当時の工事の困難さが知られた。それからガツン湖に入り始めと同じような事(違うのは船が下がる)を繰り返して第二の大洋大西洋に入った。

大西洋は非常に穏やかで海の水は油のようでちょっと気味が悪かった。パナマ運河を通ってすぐクリストバルに入港した。上陸したが町は非常に汚くて変な臭いがしていた。市場に行ってバナナを35セント分買った。これは安くて10本が10セント位だった。それからコーヒーと砂糖を買って帰船した。11月3日はヴェネズエラのラガイラに寄港した。ここは物価が非常に高いので何も買わずただ見物してまわった。たいして見るべきものはなかった。5日は油を積むために後戻りしてキュラソー島に向かった。小さい島だけど道はよく整備され家々はきれいだった。

キュラソーを出て船内で盆踊り、映画と催しは色々あった。11月12日午前1時50分船は赤道を通った。その日は赤道祭。劇や踊りや仮装行列、時を忘れて大いに楽しんだ。次の日はサヨナラ演芸会。いよいよ下船も間近になってきた。長い船旅とももうお別れ。前途にはどんな苦労が待ち受けているか知らないけどとにかく力いっぱいやるつもりだ。

2008年5月17日土曜日

Japonês é garantido!

Na semana passada, levei a minha mãe à casa do meu irmão em Vargem Grande-SP que fica logo depois de Cotia. Na volta à São Paulo, quando o ônibus passou perto da Estação Clínicas, desci para pegar o metrô. Logo de entrada me deparei com os painéis enormes desenhados na parede do corredor da estação, alusivos ao Centenário da Imigração japonesa. Aí tinha apresentado a história da imigração japonesa em 7 painéis com fotos da época separados em 6 fases, desde o Kasato-maru até os Dekaseguis. A saga dos imigrantes japoneses, da esperança à dura realidade ainda no país estrangeiro, vítimas de moléstias como febre amarela e malária, perseguição sofrida durante a segunda guerra mundial, conflito dentro da colônia japonesa entre Kachigumi (aqueles que acreditaram na vitória do Japão) e Makegumi (aqueles que aceitaram a derrota do Japão). Foi longo caminho até aqui, e agora a colônia japonesa festeja o Centenário.
“Japonês é garantido” . Esta é a palavra que representou os japoneses no Brasil até agora. No Brasil são freqüentes as pessoas receberem cheques sem fundo e para se prevenir do prejuízo os comerciantes só vendem em dinheiro para os desconhecidos. Logo depois que mudei para o Espírito Santo, fui visitar um amigo no município vizinho. Na volta passei em frente a um açougue e vi um pedaço de carne bonito no balcão. Resolvi comprar 3 quilos. Na hora de pagar, enfiei a mão no bolso, mas nada de dinheiro vivo e só achei um talão de cheque. Em tom de desculpa eu disse“ Só tem cheque”. O dono do açougue até abriu um sorriso e disse “Não tem problema, aqui não tem luxo de recusar o cheque do japonês” Obrigado os pioneiros que estabeleceram esta fama. Daqui em diante qual adjetivo será que os japoneses vão ganhar ? Certamente a colônia japonesa vai se integrar mais na sociedade brasileira num mundo de mudança acentuada. Gostaria de acompanhar o trajeto com esperança.
Anotei alguns números interessantes do painel. Nos 3 anos entre 1932 e 34, chegaram aqui mais de 60 mil imigrantes japoneses devido à Recessão mundial e ao grande terremoto de Kantou (região de Tokyo). Em 1937, conforme a pesquisa , 85 % dos imigrantes tinham intenção de voltar para o Japão em vez de fixar moradia aqui. A população rural dos imigrantes representava 58% em 1958 e caiu drasticamente para 19% em 1978. Uma decisão dos japoneses contribuiu para esse êxodo rural. Essa época os japoneses perceberam que o sonho brasileiro é mais fácil realizar com a educação e mandaram seus filhos para ensino superior sacrificando suas vidas. Foi uma incansável perseguição ao sonho no meio de desespero e miséria, e deu certo.
No Japão agora estão em torno de 300 mil nikkeis, maioria nascidos no Brasil e o número de naturalizados estão aumentando. Peço ao Japão que receba os nikkeis com mesmo carinho que o Brasil recebeu os japoneses, e que eles sintam felizes vivendo no Japão. Estamos na era da globalização e o Japão precisa de imigrantes. O Japão sabe se comportar como adulto na economia mundial e agora a vez de mostrar uma solução no aspecto social e o mundo está observando com que habilidade o Japão resolve este problema.

日本人は信用できる!


Cotia の先のVargem Grande に引っ越した弟の所に母を送って行っての帰りSão Paulo 市内で地下鉄に乗ろうとクリニカス駅に入った時改札口まで続く通路の壁に描かれている大きなパネルが目に入りました。日本移民百周年行事の一環としての日本移民の百年の歴史が紹介してありました。

笠戸丸から出稼ぎまで当時の写真を含めて六つの時代に分けて説明してありました。話に聞いていたのとは違う慣れない土地での、しかも外国での厳しい現実。黄熱病やマラリアに倒れていった幾多の同胞、第二次世界大戦中に受けた迫害、コロニア内での勝ち組と負け組の争いなど, ここまでの道は遠かった。今それらをかえりみて祝う余裕がでてきたコロニア。

『日本人は信用できる!』。これが今まで日本人がブラジルに刻み込んできた言葉です。ブラジルでは小切手の不渡りがよくあるので見知らぬ人には現金払いということになります。エスピリトサント州に来て間もない頃となり町に知人を訪ねての帰りきれいな牛肉をみかけたので店に入り3キロほどもとめました。いざ払おうとポケットに手を突っ込んでも金はない。小切手帳しかない。そこでおそるおそる「あの今小切手しか持っていないんですが」というと「ああ、いいよ、日本人の小切手を断るなんてそんな馬鹿はいないよ」。先人たちよありがとう!これからはどんな代名詞が日系人につくのか? ブラジルの一部として溶け込んでいく コロニア、これから先だんだん変わっていくでしょう。希望をもって見守りたい。

パネルを読んでいて少し書きとめました。世界大恐慌と関東大震災のあおりで1932年から34年の3年間で6万人以上の移民がブラジルの土地を踏んだこと、1937年の調査では85%の移民がここは永住地ではなく日本にやがて帰ることを希望していたこと、1958年には57%が農業に従事していたのが1978年には19%に減っていたこと、などなど。

日系の農村人口が減ったのはブラジルで夢をかなえるには教育しかないと悟り、自分たちの苦しい生活の中から子供たちを大学までやった結果ということが書かれていました。賢い決断だったといえるでしょう。

いま日本に約30万人のブラジルからの日系人が生活し最近は永住者も増えているようです。ブラジルが差別なく私達を暖かく迎え入れてくれたように日本も暖かく迎え入れてほしい。日本に来てよかったと思えるようになってほしい。これからの移り変わる時代に経済的に大人になった日本が社会的にどう大人としての対応ができるのか日本の力量が試される時でしょう。