2008年4月27日日曜日

さらば日本

100年前の4月28日第一回移民船笠戸丸が神戸を発った。どんな気持ちで人々はたったのだろう。私の古い本箱から虫にくわれかけたノートがでてきた。私たちが日本を発ったときの様子が記してある。当時私は高校二年中退の16歳。忘れかけたものがよみがえってきた。

1960年9月30日 金曜日  曇天
神戸の斡旋所にいるのもあと二日。今日午後6時から演芸会があった。道夫も出た。どうなるかと思ったがどうにかこうにか歌った。行雄の作文も発表されたが、僕が思っている以上に成長しているのにいささか驚いた。我等新天地を求めて郷里を出発したもののやはりさびしい感じがする。山田高校のみんなはどうしているだろう。さぞ勉強にはげんでいるに違いない。楽しく過ごした日々が僕の頭に再現される。それとともに未来の僕等の姿がぼんやりと浮かぶ。これから先の希望、不安が僕の頭で交錯する。夜、屋上に出てみた。夜の神戸が一望される。さすが六大都市のひとつ、さまざまなネオンがついては消え、消えてはつく。しばらく時を忘れて見入る。小学六年の時の担任の村次先生から電報がきていた。
キミノソウトヲシュクシ、ケンコウトセイコウヲイノル。

10月1日 土曜日 曇天
今日から10月。衣替えの日である。暇な時、神戸の町を歩いてみても学生は全て黒服。なんとなくしっとりした感じで寒さを感じさせる。

10月2日 日曜日 晴天
昨日まで曇っていた空が今日はからりと晴れてまるで僕達の門出を祝福してるよう。午後1時頃斡旋所をバスで出て一路第四突堤に向かった。第四突堤にはあふりか丸がその偉容を堂々と神戸港に浮かばせていた。割り当てのベッドに寝てゆっくりと手足を伸ばした(すこしせますぎるが)。ジャンジャンジャンジャンとドラが鳴ると色とりどりのテープが船から桟橋へ、桟橋から船へと投げられる。タラップが上げられてやがて午後四時。ボー、船は岸を静かに離れていく。大声で泣き叫ぶ者、静かに別れを惜しむ者、悲喜こもごもの思いをのせて船は静かに静かに。始めの頃は内海で波は低く船の揺れも少なくてこれは快適な旅だなと思っていたが、しばらくすると波も高くなってきた。
夜ちょっと気分が悪くなったので甲板に出た。陸づたいに行っているので海岸の家の灯りが夜目に美しく見えた。

10月3日 月曜日 晴天
朝起きた時から気持ちが悪い。どうも酔ったらしい。今まで乗物に酔ったことはなかったのだが予想以上に揺れるのですっかりまいってしまった。朝食も食べる気にならない。ようやく起きて顔だけ洗った。それだけでもうフラフラしている。ようやくのことで床に入った。こんな事でこれから先どうなるかと自分ながら情けなくなる。
横浜港に午後四時着くはずだったが海が荒れて六時間も遅くついた。こんな事は五十三年振りだという話を耳にした。

10月4日 火曜日 
十時頃明治鉱業の人達と会って壮行会なるものが開かれた。三時頃、小学五年の時の担任で今は東京に住んでおられる野見山先生が見送りにこられた。色々と話し合って名残を惜しんだ。やがて四時、ドラの音が高らかに鳴りわたり、消防隊の演奏する 「出船」 と共に船は次第に岸壁を離れてゆく。僕と野見山先生を結んでいたテープも無情にも切られてゆく。これで日本ともお別れかと思うと僕の胸に何かこらえきれないものが襲ってきて涙がおちた。

2008年4月22日火曜日

日本語の おもしろさ と むつかしさ (III)

Lina のTomodachi のみなさん、おげんきですか。こちらはまだ暑い日がつづいています。
Match-kun, はるみさん、Rennanさん、会縁出理さん、メールありがとう。
これからも日本語のべんきょうをつづけてください。なにかわからないことがあったらメールください。

日本語がほかのことばと大きくちがうのは じょし(助詞)のはたらきでしょう。
西洋のことばは文字のいち(位置=posição)でそのやくめ(役目=função)がきまりますが日本語は助詞がその役目をきめます。れい(例=exemplo)でせつめいしたほうが わかりやすいでしょう。
Eu falo japonês.
Eu が しゅご(主語=sujeito) で falo が どうし(動詞=verbo)で japonês が もくてきご(目的語=objeto)となります。これらのことばはならびかたでそれぞれの役目がきまっています。ラテン語(=Latim)からきた げんご(言語=língua)や えいご(英語=inglês)など アングロサクソン系の言語もそうです。
しかし日本語のばあいは助詞がその役目をきめます。うえ(上)の文を日本語で書いてみましょう。
わたし  にほんご  はなします。
ポルトガル語の文とくらべて(比べて=comparar) みましょう。
Eu=わたし、falo=はなします、japonês=にほんご となります。
まず じゅんじょ(順序=ordem)がちがいますね。
そしてなにか あまっています。 と  ですね。これが助詞(palavra auxiliar)です。は [わ と はつおん(発音=pronúncia)します]がついていることばが 主語となり を[ と はつおん(発音=pronúncia)します]がついているのが目的語となります。助詞はほかにもあるのでまとめてみます。
 - 主語
 - ちょくせつ(直接=direto)目的語
 - かんせつ(間接=indireto)目的語
順序は主語、間接目的語、直接目的語、動詞 あるいは
主語、直接目的語、間接目的語、動詞 となります。このばあい動詞にちかいほうのことばがきょうちょう(強調=ênfase)されます。
また  は直接目的語を強調(=ênfase)するときにも使われます。

私はマリアに本(ほん)を貸しました。(Eu emprestei o livro a Maria )
    (本にênfase があります。)
私は本をマリアに貸しました。(マリアにênfase があります。)
わたしは本がほしい。(Eu quero o livro)

とうよう(東洋=oriente)の言語ではちゅうごくご(中国語=chinês)は文字
のならびできまりますがかんこくご(韓国語=coreano)は 日本語とおなじように助詞を使います。

日本語の おもしろさ と むつかしさ (II)

きのう(昨日=ontem)のブログはほかのことを かく(書く=escrever)つもりでした。
日本語のだいめいし(代名詞=pronome)はたくさん(沢山=muito)あるということ知っていますか。
まずじぶんのことをいうときは わたくし/わたし(私)を使いますが かいわ(会話=conversação)では ぼく、おれ、わし、うち、あたし、etc.,
はなす(話す=falar)あいてをさすときは あなた をはじめ きみ、おまえ、きさま、etc.。
会話をしているひと(人)いがいの人をさすときは かれ、かのじょ そして たいていは その人のなまえ(名前=nome)を使います。また その ちほう(地方=região)だけに使われるものもあるし、じだい(時代=época)によっても ちがいます。
日本語では だんせい(男性=sexo masculino)が使う代名詞とじょせい(女性=sexo feminino)が使う代名詞、あるねんだいの人によく使われる代名詞などもあります。
せいべつ(性別=diferença de sexo)にかんけいなく使われる わたくし/わたし、あなた、そして 男性に使われる かれ(彼=ele)、女性に使われる かのじょ(彼女=ela)は せいよう(西洋=ocidente)のえいきょうをうけた めいじ(明治)いこうに作られたのではないかと思います。
おれ とか ぼく とかはおとこ(男=homem)の人が使い、うち とか あたい とかは おんな(女=mulher)の人が使います。ふくざつ ですが べんり なときもあります。

よく西洋の本にすうにんの会話がのるとき、―――とだれが言ったとか、―――とマリアが言ったとか説明をつけねばなりません。しかし日本語のばあいは、男か女か、こども(子供=criança)か せいねん(青年=jovem)か ろうじん(老人=idoso)か、とかい(都会=cidade)にすんでいるのか いなか(田舎=roça)の人か などがわかっているとあとはせつめいが いりません。それぞれの人が使う代名詞やごび(語尾=sufixo)でだれが言っているのかわかるからです。語尾に わ をつけるのは女性です。女性らしさもあらわせます。

ある ねんだい(年代=faixa de idade)の人によく使われる代名詞についての私のはなしです。
私はずっと子供のころから自分のことを ぼく といっていました。ブラジルにきたのが16歳のときでその時もまだ ぼく でした。ずっとかぞく(家族=família)で田舎にすんでいたので 27さいまで ぼく でとおしていました。そのごまちにでて日本のかいしゃにはたらいているひとたちと話す機会が増えてその時ある会社をたずねたとき二世(nissei)の青年が自分のことを わたし と言っているのをきいておとなっぽく見えてかっこういいなと思ったのです。それから わたし を使い始めました。田舎にいたとはいえ まったく恥ずかしいかぎりです。
自分のことをどう言っているか こんど日本人と話す きかい(機会=oportunidade)があったら気をつけていてください。
ではまた!

2008年4月21日月曜日

日本語の おもしろさ と むつかしさ (I)

リナのともだちのみなさんへ
にほんご(日本語)はかんじ(漢字)をつかう(使う)ことはしって(知って)いますね。せいよう(西洋)では日本語のひらがな あるいは カタカナ と おなじ(同じ)おと(音)をあらわす にじゅうすうこ(二十数個)の アルファベット を 使います。

日本語はそのほかに しんぶんが よめるようになるには あのむつかしい 漢字を にせんじ(二千字) ほど おぼえなければ ならないので たいへん(大変)です。そのほとんどの漢字はすくなくとも ふたとおり(二通り)のよみかた(読み方)があります。それは日本が ちゅうごく(中国)の漢字をじぶんたちの もじ(文字) として使おうとしたとき その漢字と同じいみ(意味)の日本語で読むようにしたからです。たとえば 犬 という漢字、 中国では日本で いぬ とよんでいる どうぶつ(動物) に 使っているので この漢字の読み方は いぬ となりました。この漢字は中国では quan と はつおん(発音)されています。もうひとつの日本語での読み方は ケン です。
この文字に意味があるというのはいちど(一度)おぼえるとべんりです。というのは みた(見た)だけで意味がわかるのでさっと め(目)を とおす(通す)だけで だいたいなにが かいて(書いて)あるのかわかります。

3月29日の日本語のblog に書いているのですが わたし(私)の みょうじ(名字)の 佐伯(さえき)という漢字。 佐 は たすける(助ける)を意味し 伯 はブラジルを意味します。
すなわち ブラジルを助ける という意味だといっても だれもしん(信)じません。
あなたは信じますか?
ではまた。 
(日伯 とかいて(書いて)Japão-Brasil という意味です。)

Obrigado o Espírito Santo!

As comemorações do Centenário da imigração japonesa estão se desenrolando em vários lugares do Brasil e o Espírito Santo não fica por trás. No dia 10 de abril, houve a homenagem aos japoneses pioneiros e àqueles da área político-econômica que contribuíram para a vinda de japoneses ao estado. Os japoneses com mais de 72 anos de idade também receberam o diploma e buquê de flores, dentre eles, minha mãe de 86 anos e a sogra de 75 anos. A cerimônia teve lugar na Assembléia Legislativa por iniciativa da própria casa e se reuniram muitos japoneses e autoridades locais. Na ocasião, soube que moram em torno de 1000 nikkeis (japoneses e seus descendentes) no estado.
Obrigado o Espírito Santo! por nos receber com carinho.

Nós mudamos para o Espírito Santo há quase 31 anos. Na época havia poucos japoneses. Quando a gente andava na rua com a filha de 1 ano no colo, as pessoas paravam para ver e tocar e falavam “Parece que é uma boneca de porcelana”. Durante 10 anos seguidos da mudança para o estado, uma ou duas vezes por ano íamos ao São Paulo para ver os parentes nas férias. Mas ninguém olhava para a gente mesmo com as crianças no colo. Aí a saudade de ser paparicado batia e queria voltar para casa quanto antes. Bons tempos!

O pessoal de São Paulo está acostumado com japoneses, mas aqui é raro se encontrar com japoneses na rua. Portanto, ainda nos perguntam com ar de curiosidade “Vocês são japoneses?” Eu respondo “Nasci no Japão, mas sou Brasileiro porque me naturalizei”. Mas minha mulher, que nasceu no Rio, que já se declara japonesa, dependendo do humor do dia, retruca “Nasci aqui, mas você me chama de japonesa? Então, quem são os brasileiros? só os índios” Aí, a pessoa fica sem jeito.

O Brasil é o país de miscigenação. Desde o descobrimento em 1500 por portugueses, o Brasil é o palco de mistura de raças e nacionalidades. Japoneses só tem 100 anos da imigração e além do mais, as diferenças de raça, língua , religião e costume atrasaram a integração à sociedade brasileira. E o mais importante, a cara de japonês, o inegável traço, provoca a curiosidade com esse tipo de pergunta acima. Os nikkeis são chamados de japoneses aqui no Brasil e os que moram no Japão (dekaseguis) vivem como brasileiros na consciência.

Fomos assim quando morávamos no Japão há vinte e tantos anos atrás, como representante da firma brasileira no Japão. Na época só poucos brasileiros moravam no Japão e a minha esposa andava sempre a bandeira brasileira nas costas, claro no sentido figurado. Quando alguém falava mal do Brasil, ela defendia com unhas e dentes e se emocionava ao ouvir o hino nacional. Vendo isso, a vizinha comentou, “O Brasil deve ser um país maravilhoso, porque aqui no Japão não existe nenhuma patriota como você”. E aqui no Brasil? Ela fica nervosa quando alguém fala mal do Japão e canta Kimigayo (hino nacional japonesa) do fundo de coração.

Agora estamos na era da globalização. As mercadorias e as pessoas se movem independente de nacionalidade em busca de novos mercados, empregos e lugares para morar. Será que algum dia podemos dizer “Somos terráqueos”? Espero que não acabe em sonho.

Depois de aposentado, para exercitar os movimentos de dedos, estou aprendendo a tocar violão. Às vezes, os dedos não obedecem o comando do cérebro. Estou apaixonado com a musica “Imagine” de John Lennon.

2008年4月20日日曜日

エスピリトサント州ありがとう!

ブラジルへの日本移民が始まって百年ということで各地で色々な記念式典が催されているようです。ここヴィトリアでは4月10日エスピリトサント州の日本移民の先駆者や州の政財界で日系人の州への導入に貢献のあった人達が表彰されました。それと同時に州内の72歳以上の日系人も表彰状と花束を受け取りました。86歳の私の母そして75歳の姑も頂きました。州議会の発案ということで会議場は多くの日系人および関係者で埋まりました。州内の日系人は約千人ということでした。エスピリトサント州ありがとう。私達を暖かく迎えてくれて。

私たちがサンパウロ州からこちらに越してきたのは31年前。当時日系人は数えるほど。街を歩いていても、一歳になったばかりの娘を抱いているとちょっと触らせてくれと人が立ち止まり瀬戸物の人形のようだと珍しがられました。こちらに来てから10年ほどは毎年のように休暇にはサンパウロに行っていましたが子供を連れていても誰も振りかえってくれず妻と二人でここは張り合いがないなと愚痴って早くヴィトリアに帰ろうといっていたものです。

サンパウロではブラジル人も日系人に慣れていますがこちらでは今もってよく”あなたは日本人ですか”と聞かれます。私は”日本で生まれたけど帰化したからブラジル人だよ” と返事をしますが、自称日本人でリオ生まれの妻は時々虫の居所が悪いと”ここで生まれた私が日本人ならいったい誰がブラジル人なの? インヂオだけ?" と反論するとバツの悪そうな顔をします。なにしろブラジルは混血の国。西暦1500年ポルトガル人によって発見され、それ以来色々な人種、国籍の人たちが混じっています。日本人はまだ百年と移民の歴史も浅く人種、言葉、宗教、習慣の違いなどでブラジルに同化したのも遅くそしてこの顔ですからいつまでもこういうことが起きるのだと思います。

日系人たちはブラジルでは日本人かと言われ、日本へ行けばブラジル人という意識で生活します。私達がそうでした。二十数年前私たちが日本でブラジルからの駐在員として住んでいた時、周りにブラジル人はいなく妻はいつもブラジルの旗を掲げて生活していたと言っています。ブラジルの悪口を言われると憤慨しブラジルの国歌を聞くと涙ぐんでいました。それを見て近所の奥さんたちは”ブラジルはきっと素晴らしい国に違いない、なぜならば日本国中探してもあなたのような愛国者はどこにもいないから”と言われたそうです。逆に彼女ここブラジルで日本の悪口を言われると憤慨して 君が代 を聞くと感激します。州議会での式典では両国歌が歌われました。

今はグロバリゼーションの時代。品物や人が国籍を問わず新しい市場、職、生活の場を求めて移動しています。将来、国籍など関係なく地球人として通る日が来るでしょうか?

定年退職して指の運動にと今ギターを習っています。よく指が脳の指令を無視します。ジョンレノンのIMAGINE、良い曲ですね。

2008年4月8日火曜日

Mãe Coragem

No Brasil a cada esquina tem um carrinho de churrasco. Perto de casa também tem, um que oferece espetinhos com tempero especial. Às vezes, quando volto para casa bem de tardezinha, aquele cheirinho é uma tentação. Acabo pegando para janta 4 espetos de boi, 3 de frango, 2 de coração e 2 de lingüiça. Sempre o marido fica na brasa e a mulher atendendo a freguesia. Esta é a história que a mulher contou para minha esposa.

Há mais de 10 anos atrás, um dia, o marido chegou em casa mancando, entregou um punhadinho de dinheiro e disse “Este é o último dinheiro, pois torci o pé e fui despedido do serviço de ajudante de pedreiro”. A mulher contou o dinheiro e viu que só dava para comprar um pacote de arroz, feijão, óleo, açúcar e mais um punhado de coisas. E depois? O que vamos comer? Dois filhos pequenos para criar... Pensou, pensou e criou a coragem e foi para o supermercado perto de casa. Comprou um maço de espetos, um pacote de carvão, algumas cervejas e o resto em carne. Preparou a carne em espetos e à tarde já estava na esquina assando carninhas numa churrasqueira improvisada de lata de óleo de 18 litros, catada na rua.

Os peões que estavam voltando para casa pararam atraídos pelo cheiro. Aí ela disse “Vem cá, a carne daqui é especial, pode pegar que aqui não tem miséria não, estão bem apertadinhas que você nem vê o espeto e tem ainda farinha à vontade”. “Então vamos”. A turma gostou e foram ajuntando as pessoas e nem precisou acender a lâmpada quando percebeu que não tinha mais espeto para vender. Voltou para casa e viu que o dinheiro dava para comprar a comida que precisava e ainda sobrou o suficiente para preparar espetinhos. E foi assim dia após dia crescendo a renda.

Hoje, ela não está mais na esquina. Comprou a casa onde antes mal conseguia pagar o aluguel. De dia, o marido usando a experiência anterior de ajudante de pedreiro fez a obra reformando a casa e mais 2 casas para alugar nos fundos e um ponto de comércio para servir os espetinhos na frente. Outro dia ela estava fazendo propaganda de que vai ter frangos na brasa aos domingos e comentou que não se faz espetinho como antigamente. As coisas estão ficando mais difíceis e sempre tentando oferecer mais para sobreviver. “Tudo bem, se faltar mais, vai ter café da manhã e marmita no almoço também. Não tenho preguiça para trabalhar”.
Viva mãe coragem !!

2008年4月4日金曜日

肝っ玉母さん

ブラジルではよく街角に屋台がでています。うちの近くにもおいしいバーベキューの串刺しを出している屋台があります。夕暮れ、用事で遅くなったときそこを通りかかると牛肉4本、鶏肉3本、鶏の心臓2本、ひき肉の腸詰2本など持ち帰り夕食とします。旦那は焼き方専門、奥さんはお客さんの応対と夫婦で仲良くやっています。この話はそこの奥さんが妻に語った話です。

十数年前のある日、左官の見習いをしていた旦那がトボトボと家に帰り着き奥さんに言いました。「今日足をくじいて仕事が出来なくなって首になったよ」と奥さんに僅かな金を渡しました。数えてみると明日の米と豆、それとおかずを買う金しかない。これを全部使ったらそのあと食べていけない。まだ小さい子供が二人いる。奥さんじっと考えこんだかと思うと近くのスーパーに駆け込みました。有り金はたいて肉、炭一袋、串一束それにビールを数缶買いました。早速家に帰り肉を切り串に刺し18リットルの油の古缶を拾ってきてそれに炭をおこしました。「あなた何ぐずぐずしているの早くこれを通りの角まで持って行って私は肉を持っていくから」。丁度仕事帰りの男たちが匂いに惹かれて立ち止まりました。「おや、おいしそうな肉だな」「私が一番いい肉をよってきたんだよ、それにけちっちゃないよ、ほらこの通り串に隙間なく刺してあるのでお客さんにひもじい思いはさせないって」「おいみんな、それじゃここで晩飯とするか」慣れない手付きで忙しく応対しているうちに気が付いたら全部売り切れていました。家に帰って売り上げを数えてみると明日の家族の食料と肉や炭が今日より買える金が残っていました。翌日早速スーパーに行きその日の食料、それから肉、炭、串そしてビールを1ダース買って帰りました。その日も全部売り切れ。

おいしくて他より肉が多いと評判になり今でも仕事帰りの人たちが結構座っています。旦那にも左官の仕事はやめてもらい手伝ってもらうようにしました。ようやくのことで家賃を払っていたのがいまはそこの家を買い取り建て増しして借家を2軒つくりいまや家主さんです。建て増しには旦那の以前の左官の腕が役に立ちほとんど自分一人で仕上げました。先月から自宅を改良して街角はやめてそこでお客さんに出せるようにしましたが売り上げは競争も激しくなってちょっと減ってきたといっていました。「なあに、そうなれば弁当でも朝のコーヒーでもなんでもだすよ。私は怠けることがだいっ嫌いなのでね」
肝っ玉母さんがんばれ!!