2008年6月23日月曜日

ニテロイ現代美術館-Museu de Arte Contemporânea de Niteroi


先週リオに行った折グアナバラ湾をはさんだ対岸のまちニテロイ市に足をのばした。世界三大美港の一つである(あとの二つはシドニーとナポリ)このリオ港は移住してきた時船からの眺めの美しさに目をうばわれた。陸からではその美しさは満喫できまい。Rio-Niteroi 間は1974年に完成した全長13,29kmの橋で結ばれているが今回は便利のいいフェリーで渡った。20分程でリオの中心街からニテロイの中心街についた。目指すはOscar Niemayerが設計した現代美術館。海辺の小高い所に1996年に建てられたもので対岸のリオの風景を遮らないようにそして美術館からは周りの景色が360度見渡せるようになっている。こじんまりとした円形状の美術館で二階にわたって作品が展示されていた。地階は感じのいいレストランになっていて海のほうは崖になっているのでここからも窓からリオの景色が見渡せる。オスカール・ニーマイヤーは今年100歳。1960年ブラジルが新しい首都を内陸部のBrasilia に移転させた時の斬新なデザインの建物で世界の注目を浴びた。その年いままで首都であったリオ市がGuanabara州となりここニテロイ市はリオ州の州都となった。1974年にGuanabara州がなくなりリオ市がリオ州の州都となったといういきさつがある。ふつうリオと行っているが正式な名前はリオ・デ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)。一月の川という意味である。ポルトガル人がここを1502年1月1日に発見して命名したもので湾を川と間違えたという説と当時は海以外の水であればRioと呼んでいたという説がありどうやら後者が正らしい。今は湾岸道路からリオ・ニテロイ橋へ直接入れるが私達がヴィトリアに行ってまもないころはニテロイのまちの中を通ってリオ・ニテロイ橋へと出てリオに入りサンパウロまで車で行っていたものである。小さい子供達をつれての約一千キロ、まだ若くて元気の良かった頃の話で今回は色々な事が思い出される旅ともなった。

ブラジル流れ者


1960年代私達の周りには単身で移住してきた青年たちが土地を借りて農業を営んでいた。身の軽さからかうまくいかないとすぐ引っ越す人もいた。そんな時モジの日本語のラジオ放送から「東京流れ者」という歌が聞こえてきた。私達も当時は借地農で不安定な生活。自然と替え歌が浮かんできた。今も風呂につかった時など思い出しては歌っている。イペーはブラジルの国花。

ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルを 今日はパラナかサンパウロ
黄色いイペーの花が咲く 道は遥かにまだ遠い
ああ、ブラジル流れ者

流れ流れてブラジルの 空を見上げりゃ十字星
遠いふるさと思い出し 広い大地に夢はせる
ああ、ブラジル流れ者

2008年6月21日土曜日

ブラジルに第一歩を刻む

毎日テレビではサンパウロのSambodromo (カーニバルのサンバスクールパレード用に作られた会場)で行われている百周年の様子がテレビニュースで映しだされている。パラナ州のロンドリーナで盛大に行われているのも流していた。今日リオから帰ってきて予約録画していたNHKの『その時歴史が動いた』の水野龍の第一回ブラジル移民にまつわる話を観た。その番組のはじめに「Japonês Garantido」と書いた紙がでてきてそれが『日本人は信用できる』という意味だと説明していた。あれっ、私のブログのタイトルと同じだ! NHKの明日の番組表をみると『地球アゴラ』で午前3時10分から6時まで南米特集と書いてある。こんなに早くからは起きれない。またタイマーで録画しよう。

1960年11月19日 曇り時々雷雨
僕達は目的港のサントスに11月18日の午後4時頃着いた。それから色々な入港手続や入国手続と荷物の陸揚げでその日は終了。翌19日の朝早く僕達は50日近く乗ったアフリカ丸を降りてサントス税関所に入った。僕の家は4人中に入って仕事をした。沢山積んである荷物の中から自分の荷を見つけてポーターを呼んで運んでもらう。やがて一箇所に荷物を集めると税関吏を呼んで検査をうける。ポーターも税関吏も通訳も皆良くて僕の家の荷は無税で通った。荷はトラックに積み僕達は自動車に乗って一路サンパウロ市近郊のイタケーラに向かった。サントス・サンパウロ間の道路は非常に整備されていた。途中吉岡さんの所で一寸止まって僕達のパトロン(雇用主)斉藤さんの所に着いたのは夜も遅く11時近くだった。バナナや桃をいただいた。そして奥さんはご飯を作って下さったが腹がいっぱいであまりいけなかった。一時する内にトラックが来て僕達にあてられた家に荷を降ろし風呂に入って寝た時はもう時計の針は午前2時を指していた。

2008年6月18日水曜日

ブラジル銀行日本移民百周年記念展


今日リオのブラジル銀行カルチャーセンターで開かれている日本移民百周年記念展をみてきた。日本の歴史、伝統、文化そしてアニメ、コスプレ、ジャパンポップに到るまで二階三階で見事に展示されていた。こんなにていねいに日本を紹介してあるのを見たのは記憶にないような気がする。

サンパウロには長いこと行ってないのでちょっと点が甘くなっているかもしれないが。
一階では技術の先端を駆使したロボットのデモンストレーションに若い人達の輪が広がっていた。百年前の今日6月18日第一回移民781人から始まった日本とブラジルとの関係、百年たった今円熟の関係にはいってきたと言えるのだろうか。上の写真は会場に展示されていた十二単の前で撮ったもの。

先ほど末の息子から電話がかかってきて今日会社の同僚たちから移民百周年おめでとうと握手ぜめにあったそうだ。今回の百周年、私達が戸惑うほどブラジルマスコミが好意的にとりあげてくれている。ブラジルが日本移民にたいして抱いている正直・勤勉というイメージそれにもとづいた信頼。それを裏切ってはならないという責任の重大さを痛感させられた。

今日サンパウロでは皇太子殿下を迎えての式典が大々的に催されたようだ。ルラ大統領との交歓の様子もテレビで放映されていた。日本からも数多くの県知事等の來伯があったようだ。
日伯関係、これから日本に住む日系人を含めての大人のつきあい、問題解決を模索していかねばならないだろう。

追記:25日には皇太子殿下のリオブラジル銀行カルチャーセンターへのご来館が予定されている。

2008年6月13日金曜日

百の遺産 - 100 legados


今年は日本移民百周年ということでブラジルのマスコミもよく日本特集をくんでいます。こちらで最大の発行部数をほこる週刊誌『VEJA』も去年の12月12日号では笠戸丸からの百年の歴史を追っての特集、そして先週の6月4日号では日本移民がブラジルにもたらしたものを百の遺産というタイトルで紹介しているので列記しました。いかに日本がブラジルの日々の生活の中に溶け込んでいるか改めて思い知らされました。

Este ano celebra-se o Centenário da Imigração japonesa no Brasil. As mídias estão trazendo as reportagens especiais tanto na imprensa como na televisão. A revista semanal “veja”, que ostenta a maior tiragem no Brasil, mostrou na edição de 12/12/2007 cem anos de história dos imigrantes japoneses desde o primeiro navio “Kasato-maru”. E agora na edição de 04/06/2008 apresentou 100 legados japoneses. Ficamos surpresos como o Japão está presente no dia-a-dia do Brasil.


1.Acupuntura (medicina, tratamento)   1.針治療(はりちりょう)
2.Aji-no-moto (tempero) 2.味の素 (あじのもと)
3.Ala japonesa da Escola de samba Barroca Zona Sul  3.日系のサンバスクール(1991解散)
4.Alunos aplicados   4.優秀な生徒(ゆうしゅうなせいと) 
5.Amendoim japonês   5.しょうゆ味落花生のおつまみ
6.Animê (desenhos animados)   6.アニメ
7.Assaí (cidade em Paraná)   7.パラナ州アサイ市(朝日植民地から始まる)
8.Bairro da Liberdade (Cidade de São Paulo)   8.サンパウロ市リベルダデ区(東洋街)
9.Bambu (planta)   9.竹(竹細工) {たけ(たけざいく)}
10.Banco América do Sul   10.南米銀行(1944-1998)
11.Bardana (planta)   11.ごぼう
12.Bares que guardam uísque com o nome do dono  12.ウイスキーのボトルキープ制
13.Bastos(SP), a maior produtora de ovos do Brasil  13.サンパウロ州バストス市(卵生産一番)
14.Beisebol (esporte)   14.野球 (やきゅう)
15.Bomsai (árvores em miniatura)   15.盆栽 (ぼんさい)
16.Brincadeira de “Pedra-Papel-Tesoura”   16.じゃんけん
17.Broto de feijão   17.もやし
18.Budismo (religião)   18.仏教 (ぶっきょう)
19.Cabochá (Abóbora japonesa)   19.かぼちゃ
20.Caqui doce (fruta)   20.甘柿 (あまがき)
21.Cão da raça Akita   21.秋田犬 (あきたいぬ)
22.Carpa (peixe)   22.鯉(こい)
23.Cerejeira (flor)   23.桜(さくら)
24.Cerâmica japonesa   24.陶磁器(とうじき)
25.Chá verde   25.緑茶(りょくちゃ)
26.Chinelo de dedo   26.ぞうり
27.Cinturão verde de São Paulo   27.サンパウロの近郊農業
28.Cooperativa de Cotia   28.コチア産業組合 (1927-1994)
29.Cosplay (vestindo como personagens das histórias)   29.コスプレ(costume play)
30.Crisântemo (flor)   30.菊(きく)
31.Daruma (boneco vermelho e redondo)   31.だるま
32.Doce de feijão (Manju)   32.まんじゅう
33.Desemvolvimento do Cerrado   33.セハード開発(かいはつ)
34.2,7 bilhões de Dólares   34.27億ドル、出稼ぎ日系人の年間送金額
35.Flores de lótus   35.蓮の花(はすのはな)
36.Futon (edredom grosso)   36.蒲団 (ふとん)
37.Gaijin, o filme   37.(映画)ガイジン 山崎ちずか監督
38.Gateball (jogo, esporte)   38.ゲートボール
39.Haikai (poesia de três versos)   39.俳諧(はいかい)
40.Hashi (palitinhos)   40.箸(はし)
41.Hashi enfeitando o cabelo   41.髪飾り(留め)に使う箸
42.Hospital Santa Cruz (São Paulo)   42.サンタクルス病院(びょういん)
43.Ikebana (arranjo floral)   43.生け花 (いけばな)
44.Junco (planta)   44.いぐさ
45.Kanjis (caracteres chineses)   45.漢字 (かんじ)
46.Karaokê   46.からおけ
47.Karatê   47.空手(からて)
48.Kinkakuji (templo dourado)   48.金閣寺(きんかくじ)
49.Kotsu anzenn omamori    49.交通安全お守り
50.Luminária de papel   50.提灯(ちょうちん)
51.Maçã Fuji   51.りんご - ふじ
52.Manabu Mabe (pintor)   52.間部 学 (画家){がか}
53.Maneki-neko(o gatinho da sorte)    53.招き猫 (まねきねこ)
54.Mangá (histórias em quadrinhos)   54.漫画(まんが)
55.Máquina colhedora de café   55.コーヒー収穫機(西村俊二)
56.Matsu (árvore、pinheiro japonês)   56.松(まつ)
57.Mestiços    57.混血
58.Método Kumon (ensino)   58.公文式授業
59.Miss Nikkei (Concurso)   59.ミス・日系 コンクール
60.Monumento aos imigrantes japoneses   60.日本移民モニュメント
61.National Kid   61.ナショナルキッド(1960,70年代)
62.Neusinha (personagem de Mauricio de Sousa)   62.ネウジンニャ(漫画の中の日系の子)
63.Ofurô (banheira japonesa )   63.お風呂(おふろ)
64.Origami   64.折り紙(おりがみ)
65.Pasta de soja   65.味噌(みそ)→ みそしる
66.Pastel de feira   66.揚げパイ
67.Pavilhão japonês do Parque Ibirapuera   67.イビラプエラ公園内の日本館
68.Pepino japonês   68.日本(にほん)きゅうり
69.Pimenta-do-reino   69.こしょう
70.Plantio de hortaliças em estufa   70.ハウス栽培(さいばい)
71.Poncã   71.ポンカン
72.Programa Imagens do Japão   72.ブラジルの日本語テレビ番組(1970-2005)
73.Rabanete   73.二十日大根(はつかだいこん)
74.Rádio Taissô (ginástica acompanhando a rádio)   74.ラジオ体操(たいそう)
75.Raiz-forte (pasta verde que acompanha peixe cru)   75.わさび
76.Rámen (Miojo)   76.明星(みょうじょう)ラーメン
77.Sabrina Sato   77.佐藤サブリナ(テレビタレント)
78.Saquê   78.酒(さけ)
79.Sashimi(peixe cru)  79.刺身(さしみ)
80.São Paulo Shimbun (jornal da comunidade nipo-brasileira)   80.サンパウロ新聞(日語新聞)
81.Seicho-no-ie (religião)   81.生長の家
82.Shiatsu (massagem que usa pressão dos dedos)   82.指圧(しあつ)
83.Shoyu (molho de soja)   83.醤油(しょうゆ)
84.Soja   84.大豆(だいず)
85.Sushi    85.寿司(すし)
86.Sushiman   86.寿司職人(すししゅくにん)
87.Sukiyaki (prato japonês, cozido)   87.すきやき
88.Sumiê (pintura com tinta monocromática)   88.墨絵(すみえ)
89.Sumô (esporte)   89.相撲(すもう)
90.Tabi (meia de dedinhos)   90.足袋(たび)
91.Tatami (piso japonês feito de junco)   91.畳(たたみ)
92.Temaqueria   92.手巻き寿司屋 
93.Tofu (queijo de soja)   93.豆腐(とうふ)
94.Tomie Ohtake (artista plástica)  94.大竹富江 (画家、モニュメント制作)
95.Uva Rubi   95.ぶどうルビ-種
96.1,3 milhão   96.130万人、ブラジル日系人口
97.Urashima Tarô (personagem do comercial da Varig)  97.浦島太郎(うらしまたろう)
98.Yakult   98.ヤクルト
99.Yakisoba   99.やきそば
100.Zen   100.禅(ぜん)

2008年6月8日日曜日

忠四郎氏の二人の息子

忠四郎氏には二人の息子がいます。上の息子は日本を出た時は七歳。東京に住んでいて近くに男爵の親戚がありその家は子供がいないので忠四郎氏の息子を自分の子のように可愛がっていつも自分の家へ連れて行っていました。外国暮らしが長かった男爵は当時としてはめずらしいパンやミルクを近所の「ベーカリー」なる所から取り寄せ身体が弱い子供のために「牛乳がゆ」などを作ってやっていました。そのおかげでか身体も大きくなり後に大人になった時には1メートル八十を越す背丈となりました。

ブラジルへ来てからはサンパウロの奥地の植民地を親とともに移動するうちに段々大きくなり家では日本語を両親から仕込まれ植民地内の日本語学校では日本語を学び毎日が日本語での生活でした。ほとんどの戦前の移民の家がそのようではなかったかと思います。一旗あげて日本に帰る気でいたので子供たちはブラジル語は必要ないと学校には入れず、それに家計の苦しい当時の移民の家では子供達は貴重な労働力で学校どころではなかったという事情もありました。私達もブラジルに来て10年くらいはそんな生活でした。何度ブラジルに来なければよかったと思ったことか。5月22日のブログのあの故郷(ふるさと)の歌の「志を果たしていつの日にか帰らん・・・」と聴く度に故郷がいかに遠く感じられたことか!5月17日のブログにあるように戦前は85%の移民がやがては日本に帰ることを夢見ていました。

忠四郎氏一家がブラジルにきて八年目に二番目の男子が誕生。戦時中、当時日本は敵対国ということで日本移民の家へは警察が家捜しをしてめぼしいものを没収という形でもっていってしまいました。そして戦後。ほとんどの移民がこの地に居着くことを決心しました。そのうちに少しずつ経済的にも余裕がでてきて忠四郎氏のところは小型トラックを買い求め自分で市場に荷をもっていくようになりました。。上の息子は農作業で日雇い労働者を使ったりトラックを運転して町へ出かけて用をたしたりでもっとブラジル語をうまくしゃべれるようになりたいと思っていました。そこで思いついたのが近くの集落にあるバール(注:2007年1月20日のブログ喧嘩を止めた一言)。仕事を終えた近所の労働者たちが集まって話がはずんでいる。知っている顔もある。アルコール類は一切飲めないのでミルクを注文する、それを手にして話の輪の中に入っていく。努力の甲斐あって(?)何ヶ月か通ううち彼のブラジル語はめきめきと上達していきました。

話ははずれますが彼のアルコールアレルギーの逸話のなかのトップ。これはずっと後の話ですが親戚の家で昼食をごちそうになり皆がいざ帰ろうとしても彼は酔ったのか顔が真っ赤になりそのうち気分が悪いと横になってしまった。席には何も酒は出ていなかったし誰も心当たりがない。料理を作った奥さんさかんに首をひねっていたが「はっ」と思いついた。フルーツサラダの中に味付けにほんのちょっとぶどう酒をたらしたのを。原因がわかって皆一安心。3時間くらい休んで彼の運転で帰りの途につきました。当時田舎のバールに入ってアルコールを一滴も飲まなかったのはブラジル広しと言えども彼くらいのものでしょう。こうして彼は日伯両語に通じるようになりました。

さて下の息子はというと親がブラジルに住むにはブラジルの教育を受けさせなくてはならないと決心しその町でも一番の上流社会の子供たちが通う学校の寄宿舎に入れさせられました。小学校の時から一日中ブラジル語づけ。週末に家に帰って来た時だけ両親と短い日本語での会話。その学校には日系人は彼一人。そんなブラジル人ばかりのところで、なおさら自分は日系人だということを強く意識しだし時間があれば兄が昔習っていた日本語の本や漫画などをとりだしてはむさぼり読んでいました。彼は日本語をだれに習うでもなく独学で覚え今でも私と話すときは流暢な日本語です。

さていよいよ大学受験。苦労した親にあまり負担をかけないようにと軍警の士官学校に入学しました。彼が少佐の時、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下がブラジルを訪問された際その護衛の任に当たり、殿下が『ご両親は息災でおられますか』とお声をかけられた時、「はい、ありがとうございます。元気にしております」と答え敬礼とともに靴のかかとがカチッとなった時は一瞬日本の近衛兵になったような錯覚を覚えたと語ってくれました。