2007年11月5日月曜日

筆談


ブラジルに来て七年目、1967年、私たちはサンパウロ市から東へ約80キロ程のビリチーバミリンという所に念願の自分たちの土地を買い求め農業に従事していた。 日系人の多く住むモジダスクルーゼスの町から20キロ程のカルモ植民地といって日系が10家族ほど住んでいた小さな集落。ブラジルの町の名前は原住民の言葉であるツピ-グアラニー語から来た地名も多くビリチーバミリンはBiriという低地に咲く花が沢山ある小さな所という意味だそうでまたモジダスクルーゼス市のモジは蛇の川という意味。即ちこの地方を蛇のように曲がりくねって流れるチエテ川のことを指している。このチエテ川、ビリチーバミリンの先のサレゾポリスを源としサンパウロ市を通り抜けサンパウロ州を突っ切りパラナ川へと注ぐ。やがてこの川がラプラタ川となりアルゼンチンで大西洋へと注ぐ。チエテ川と呼ばれるところだけでも約1100km。サレゾポリスの奥、海岸から約22kmのところに落ちた雨水ははるばる数千キロの旅をして海水となる。これはブラジルの海岸に沿って山脈が走り大陸の中に行くに従って低くなっているためである。

私達の土地はチエテ川に注ぐ支流が境界線となっていた。当時ビリチーバミリンの町は小さく何をするにもモジダスクルーゼスの町まで行かなければならなかった。モジ(略して)は日本人の多い町で日系の銀行がニ、三行、農業組合が三つ、あと数多くの日系人経営の商店があり日本語だけで用がたりた。

ある日私は組合に用事があって朝でかけ夕方帰りのバスにのった。窓際の席に座りここで発行されている日本語新聞をとりだして読み始めた。誰かが横に座ったような気がした。どうせ外は見慣れた風景、一応新聞を読み終え、たたんで隣を見た。若い日系人?一応ポルトガル語で挨拶 「ボア タルデ(こんにちは)」、むこうも「ボア タルデ」、 あれっ、日本からの人かな? 耳がすばやくキャッチ。 日本語で「どこに住んでおられるのですか?」、 意外にも頭を横にふっている、そしてたどたどしくポルトガル語で「ノン、エンテンド (わかりません)」、 おたがいのたどたどしいポルトガル語のやりとりでどうやら最近台湾から来た人でチエテ川沿いに住んでいるということはわかった。

ええい、めんどくさい。私はいつもポケットに入れている手帳をとりだし漢字で書き出した。名前はこういうもので、どこに住んで、家族はこうで、ああで、こうで、、、、、。彼に手帳を渡すと漢字で答えが返ってきた。台湾のどこ出身で、家族はどうのこうの、、、、、、。手帳は二人の間を渡り歩きやがてチエテ川に架かる橋が見えてきた。あっ、次のバス停だ。私は次で降りると書いて手帳をポケットにしまった。荷物を左手にそして右手を差し出して言った 「再見(ツァイチェン)」、 そして彼も私の手を握りしめ「再見」。 しかしその後彼を再び見ることはなかった。
上の写真は1973年サレゾポリスのチエテ川源流近く、弟たちと魚とりにいったときのものです。大漁でした。

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