2010年11月16日火曜日

50年の歩み -1960年11月18日サントス着あふりか丸同船者会

50年といえば半世紀、何か歴史を感じさせる響きだ。一昨年日本移民百周年がマスコミにも注目され大々的に祝われた。私達あふりか丸同船者もほぼその半分を一緒に歩いてきたわけだ。今回サンパウロ近郊のスザノ、オウロ・フィ-ノの桑原氏宅で移住50周年を記念しあふりか丸同船者会が開かれるということで懐かしさに駆られて私も初めて参加することにした。それでもエスピリト・サント州からスザノまでは遠い、一応出席のつもりではいたが決めかねていた所、飛行機で来られるなら飛行場まで迎えに行きますというメールが入りすぐさま出席確認の通知をいれた。
14日の日曜日に開かれるので前日の13日にサンパウロ、グアルーリョス空港に着き出迎えに来ておられた桑原氏の車で会場へ。桑原氏はカラオケの先生をやっておられるとのことで家にはカラオケの専用機器が揃っていた。夕食時からお互いの苦労話に花が咲き気がついたらもう寝る時間、スザノはヴィトリアより寒いがよく眠れた。
さて当日、だんだんと人が集まってきた。「浦口さんという人が電車の駅で待っておられるので迎えに行ってこい」という声が聞こえたので「私知ってますよ」というと「一緒に行って下さい」ということになった。始めの5年ほどは一緒のところで農業で頑張っていたもののその後お互い45年ほど会っていない。心配していたが昔の面影が少し残っておられたので私のほうはすぐにわかったが彼女はわからない様子なので自己紹介で確認。車中お互いその後の情報を交換。31歳で来られたので今81歳。とてもお元気な様子だ。
次々に着かれる人達を桑原氏から紹介してもらう。なんでも同船者会と名を付けた集まりは着伯翌年からスザノに住んでいて偶然出会った同船の4家族が催したのが始まりだそうでその後近辺の連絡をとれた同船者も加えて今まで続けてきたという話だ。しかし今回は50年の節目ということで日本語新聞に記事を掲載してもらい全伯に呼びかけそれに応じたのが私を含め4家族。今新聞離れで日本語新聞をとっていない人も多い、私も偶然インターネット版で見つけた。

それでも今まで続けてこられた人達は家族ぐるみの参加で今は当時の子供たちも大きくなってその家族も加わっての大人数となっている。今回80人分の席が用意されたが一杯になった。なつかしい臼と杵での餅つきも賑わった。ごちそうが並んだ会場に入る前に記念写真をとった。上の写真は当時あふりか丸に乗船していた人たちです。会は当時家長で来られた桑原さん谷川さん両長老の音頭の乾杯で始まり50周年の記念ケーキのカットの時には皆で「ハッピーバースデイ」を合唱。ごちそうを前に話が弾む。和やかな雰囲気のなか会は終了。その後は女性はビンゴ男性はカラオケと余興を楽しむ。だんだんと日が暮れていく。名残惜しげそれぞれまた来年の再会を約して別れて行く。
私はその夜はサン・ジョゼーの平山氏宅にお世話になることとなって、桑原氏のご家族に挨拶して別れを惜しむ。平山氏がカフェランジャの平野植民地に入られたとの話しを聞いた時すぐに私の脳裏に50年前の思い出がよみがえった。船でよくカフェランジャに行くのだと私ともよく話していた当時小学5,6年生の活発な少年、それが彼だった。そしてその後もカフェランジャの話が出るたびに彼は今頃どうしているかなーと気にかかっていたことも。なんでもサン・ジョゼーに40年ほど前から住み鐘紡、パナソニックと勤められたそうだ。
平山氏宅で今回の世話役で文集が載った移住50周年記念誌「あふりか丸」を編集された中村氏も近所だということでいっしょに軽いソーメンを頂いた。中村氏は工業移民でこられ自動車関係の仕事に携わられて今は定年退職の身、あちこちのカラオケ会に席を置いているので年の暮れは忙しいと話されていた。
翌朝こんがり焼けた昨日ついた餅がでてきた。元気のいい男たちがついた餅、さすがにおいしい。平山氏はエスピリト・サント州に友人がおられるとのこと、ぜひ我が家にもという招待を応諾、再会を約した。車でサン・ジョゼー市内を一回りして空港へ。
成功のレシピなんてあるわけがない、ましてこの知らない土地ブラジル。今回同船者の人たちと会い皆が試行錯誤でつらくて苦しい道を乗り越え今はブラジルの社会で家族と和やかに且つたくましく生きておられる様子に接し、私もまた一所懸命生きなければと決意を新たにしたところです。
まずは健康第一、また機会があったらお会いしましょう。

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